リコリスの花

山木楪

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8月のある真夏日のこと ①

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 「あーきーらーさん!」


 インターホンが部屋に鳴り響く。

 うるさい。


 「晶さんってばー、いるのは分かってるんですよー」

 「ちっ、しょうがない……。はー……いっ?!」

 「おはようございまーすっ!」


 まだお店も開いていないような時間帯から何度も何度も押される呼び鈴に根負けし、扉を開ければ案の定、峻が飛びついてきた。

 一応遠慮はしているのだろうが、運動不足のこの体には少し厳しいものがある。頼むからもうちょっと加減してくれ。


 「田中さんもどうぞ」

 「お邪魔致します」


 締まりのない顔でニコニコと笑いながら、餌を強請る猫のようにスリスリしている峻の頭を撫でながら、2人を招き入れる。

 玄関を閉めれば、文明の利器による天国のような聖域が再び出来上がった。


 「お茶をお入れ致します」


 綺麗な所作で台所へ向かう田中を見送り、峻と2人リビングでくつろぐことにする。

 予想はしていた。
 世間一般の小学生は夏休みに入っているのだから。来ない方がおかしい。

 いや、一般的には来る方がおかしいのだが、そこは『峻だから』で正当化されてしまう。少なくとも東雲家にとっては。
 天下の東雲様が黒と言ったら白は黒になるのだ、抗っても仕方がない。


 「また背が伸びたんじゃない?」

 「ほんとですか?!えへへ~」


 頭の位置が若干近づいた気がする。ぴょんぴょんと跳ねる毛先がこそばゆい。

 台所にいる田中の足元にある大きな荷物から察するに、今回も長期滞在のようだ。
 田中には悪いが、来るなら来るで事前の連絡を入れてほしかった。
 今日は一日なんの予定もなかったからよかったものの、もしこれが昨日や明日だったら、私は今の時間家にいなかったのだから。

 ……いや、待てよ。違う。

 たまたまいたと言うよりは、いると知っていてこの時間に来た、というのが正しいのかもしれない。

 城木家はともかく、峻でさえ見つけられたこの場所を、東雲家はあっという間に把握できるだろう。さらには先月のことがあって、現当主である峻の父親は私の現状把握を始めたのではないだろうか。

 人を雇えば私の決まりきった生活パターンを把握することはそう難しいことではない。交友関係も少なく、遊びに行く機会もあまりない。
 イレギュラーな予定など、私を見張っていれば友人たちとの会話で掴めるだろう。

 ……そう考え始めたら、それこそが真実のような気がしてきた。

 いやいや、さすがにそれはないだろう。いくらなんでも考えすぎだ、たぶん。


 「アイスティーをお持ち致しました」


 カラン、と涼し気な音を携えてテーブルに置かれたそれを有難くいただく。田中が私の顔を見て意味ありげに微笑んでいるのは見なかったことにしよう。

 あの顔は『お気づきになられましたか』と、出来の悪い生徒を見守るような生温い視線では決してない。決して。

 ……私の予定はきっちり、最初から最後まで把握されているとみて間違いないようだ。


 「晶さん、夏休み!」

 「はいはい、で?」

 「泊まりきたよ!!」

 「せめて連絡してください、田中さん」


 峻にぎゅうぎゅうに抱きしめられながら田中さんを見ると、意味ありげに微笑んでいた。


 「ねー、晶さん。遊びに行きましょ?」

 「やだよ、暑い」

 「そうだけど、僕宿題終わらせてきたからご褒美に! デートしたいです!」

 「デートって…」


 小学生を連れ回すのは、一歩間違えれば犯罪だ。道端で連呼させないように気を付けよう。
 女が年上の場合はある程度許容されるだろうが。

 臆面もなく真っ直ぐに言葉をぶつけてくる峻は、とても眩しい。目を輝かせて興奮からか頬が桃色になり、早く早くと急かすように熱いほどの両手を絡ませてきてーーーん?

 熱い?


 「わっ、晶さん?」

 「ちょっとじっとして」


 額に手を当ててみると、平熱よりも熱い。エアコンの効いた部屋にいるにしては、異常なほどに。


 「体温計持ってくるから、熱計りな」

 「えー、熱なんてないですよー」

 「だーめ。田中さん、熱あるのは確かだと思うから買い物お願い。近くにドラッグストアあるから」

 「かしこまりました」


 熱があると分かれば出掛けられないのが分かっている峻は、頑なに計ろうとしないが無理やりやらせる。抵抗する力がいつもより弱かった。

 田中にはドラッグストアに行かせたが、東雲の家が知ったら仰天するだろう。緊急事態なので一時だけ目を瞑ってもらおう。
 不満なら向こうから何かしら援助が来るだろう。シェフか食材か、両方の可能性もあるが。


 「で? 何度だった」

 「……」

 「峻」

 「むぅ……」


 真正面からじっと覗き込めば、諦めて体温計を渡してきた。

 唇を尖らせて、いじけている感じが可愛い。


 「38.6℃……」

 「元気だもん、体温計が間違ってるんだ!」

 「そんな訳あるか。今日は大人しく寝てなさい」

 「やだ! せっかく宿題終わらせたのに! 晶さんの所に泊まりに行っていいってやっと言ってもらえたのに!」


 いやいやと首を横にふりながら、涙目で訴えてくる。

 今日この日のために、彼は寝る間も惜しんで宿題をしたのだろう。
 夏休みに入ったのは半月程前だが、峻は確か夏休み直後から海外に短期留学していたはずだ。2年前から行っているそうで、持ち込んだ夏休みの宿題をやる余裕なんてないと言っていた。
 つまりは帰国して2、3日で終わらせたということだ。

 ……いや待て。小学生の夏休みの宿題ってそんなに少なかっただろうか?
 A4の厚みのあるテキストと、何かしらのポスターと何かしらの観察日記等があったはずだ。この辺の小学生は違うのか?
 だが峻の通う小学校は、私立の有名な進学校だ。宿題が少なすぎる、なんてことはないだろう。

 ……別にそれを知った所で私に関係はないのだ。考えるのは辞めよう。


 「でかけるのー、いくのー」

 「出かけません。楽しみにしてたのは分かったから、落ち着いて」


 鼻水を啜りながら涙でぐちゃぐちゃになっている峻を抱きしめてやる。泣いて悔しがるほど頑張ったんだ、少しくらいご褒美があってもいいだろう。
 これがご褒美になるのかは甚だ疑問だが、そこをつつくととんでもない事になる気がする。辞めておけと本能が警鐘をならすので死んでもやらんが。


 「やっと父さんと母さんがいいって言ったのに。すごく楽しみにしてたのに」

 「大丈夫。まだしばらくいるならいつでも出かけられるから」

 「晶さんの予定が空いてる日しばらくないって、田中が言ってたもん……」

 「ちっ」


 やはりスケジュールは把握されていたか。


「僕まだ子供だし、晶さんが大変な時に何も出来ないけど、でも晶さんのこと好きだし、だから一緒に居たいのに……」


 熱があることを自覚したせいか、体が辛くなってきたようだ。目の焦点がぼんやりとしてきて、体の力も抜けてきている。

 ここで改めて好きだと言われるとは思わなかった。


 「だから僕、頑張って頑張って、やっと晶さんの所に来られたのに、なんで……」

 「お疲れ様、峻は偉いな。何も今日だけじゃないんだ。今まで頑張った分休んで、熱が下がってから遊びに行こう。予定は合わせるから」

 「でも、それじゃあ晶さんに迷惑が……」

 「これくらい気にしない。大丈夫、迷惑じゃないから」


 甘えるようにグリグリと額を肩口に押し付けてくる峻を落ち着かせるように、とんとんとゆっくり背中を叩いてやる。

 いきなりお仕掛けてくるくせに、迷惑だなんだと考えるらしい。子どもらしく無邪気に突撃したりおねだりしたりしているようだが、実は気にしていたのか。
 それほど必死になっている、ということか。

 あまり適当に流しすぎてちゃいけないかもな。

 そろそろ田中が帰って来る頃だろうかと時計を確認した所で、腕の中の重さが増した。
 泣き疲れたのと熱が上がったのとで、眠りについたのであろう。

 私の腕力では到底ベッドまで運べないので、大人しく田中が帰宅するのを待とう。
 案外この体勢も悪くないかもしれないと思い始めた心には蓋をして。
 それは恐らく開け続けてはいけない箱だろうから。
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