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プロローグ
猫は人差し指を無視できない
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猫は人差し指を無視できない。そう教えてくれたのもまた夕声だった。
「いいか? 猫ってのはさ、こうやって人差し指を向けられると……」
商店街の裏手にある駐車場で、彼女はたむろしていた猫たちを相手に僕にそれを実演して見せた。
夕声は右の五指を丸めたあとで、人差し指だけをピンと立てて振った。それから彼女は砂利の地面にしゃがみ込んで、真っ直ぐに伸ばした指をゆっくりと猫の前へと持っていく。
鼻面に指を突き付けられたサバシロ猫(魚の鯖みたいなカラーリングの猫を総じてサバシロと呼ぶのだということも、そういえば彼女から聞いたのだった)は、怪訝そうな顔で少しだけ後ずさりした。
「……なんか、警戒されてない?」
「いいや、ここまでは首尾良くいってる。本当に警戒されてたらもう逃げられてるよ」
サバシロ猫はそのまましばし彼女の指を観察していた。まばたきもせずに凝視し、様々な角度からその匂いを嗅いだ。
それから、おずおずとではあるけれど、指に顔を擦り付けてきた。顎のあたりを。
「よし、挨拶完了。こうなったらもう問題なく撫でさせてもらえるよ」
猫のすりすりが指から手のひらの方にまで広がった後で、夕声はサバシロの頭を撫ではじめる。おでこのあたりから頭の裏あたりまでを、さすっ、さすっと。
猫は逃げなかった。逃げずに、彼女に撫でられるに任せている。
「すごい」僕は思わず声をあげた。「どうなってるんだ。だって、野良猫だよ?」
まさか超自然の神通力か?
そう言った僕に対して、夕声は呆れたように「ばーか」と言った。
「そんなんじゃないよ。あたしはただきちんとこいつらの流儀で挨拶しただけだ」
「あいさつ?」
そ、挨拶、と夕声。
「こうやって指を突き出されるのって、こいつらにとっては別の猫から鼻を突き出されるのと同じなんだよ。で、それってこいつら猫たちの挨拶だからさ。もしも無視した日には一触即発の喧嘩になっちまう」
「だから猫は人さし指を無視できない?」
「そ。だから猫は人さし指を無視できない」
サバシロくんの(あるいはサバシロちゃんの。猫の雌雄を見分けることが僕にはできない。彼女と違って)頭を撫でながら夕声は言った。
それから、夕声は不意に顔を上げた。僕の方を見る。
とびきりの笑顔と出会った。得意げな色を少しも隠そうとしない、裏表のない笑顔に。
その笑顔に、不覚にも僕は見惚れてしまう。いつものように。
「ん? どうした?」
「べ、別になんでもない」
僕の内心を目敏く読み取ったらしい夕声が、勝ち誇ったような顔でこちらの顔を覗き込んでくる。
その表情が可愛いやらムカつくやら、僕はなんとか誤魔化そうとする。
「え、ええと……いまのやつ、僕にもできるかな?」
苦し紛れに口をついたのはそんな言葉だった。
夕声は少しだけ考えた後で、人生はチャレンジだ、やってみろよ、と言った。それが年上に対する口の利き方かよとか、そんな文句はもう口にする気にもならなかった。
結果から話すと、僕のチャレンジはスタートラインにつく前に終わった。
軽トラの影にいた三毛猫をターゲットに定めて僕が二、三歩近づいたところで、駐車場の猫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
僕が呆然と立ち尽くしていると、夕声が腹を抱えて笑い出す。
大口を開けて、白い歯をむき出しにして、はしたなくも楽しそうに。
悔しいけど、この笑顔も好きだった。
これは、僕が茨城県龍ケ崎市で出会った一人の女の子のお話だ。
彼女のチャーミングな部分はいくつもあげられる。無類の猫好きで、いまどきめずらしくご飯を美味しそうに食べて(インスタ映え? なんだそりゃ)、それにとにかく笑顔が素敵で。
あと、これはそこまで重要ではないかもしれないけど。
彼女は、純粋な人間ではなかった。
「やっぱり、あんたといると楽しいな。なあ、あんたもあたしといると楽しいだろ?」
「……まあ、うん」
彼女は僕がこれまで出会った中で一番スペシャルで、そしてたぶん、一等賞に魅力的な女の子だった。
……たぶん、おそらく……いや、まちがいなく。
でも、だからこそ厄介だった。
「だよなだよな。だったらさ――」
なにしろ、彼女は。
「なぁハチ。やっぱり、あんたはあたしを嫁にするべきだよ」
これは、僕といううだつの上がらない男が、スペシャルにチャーミングな彼女の魅力に抗おうと無駄な努力を重ねる物語であり。
そして、茨城県龍ケ崎市の女化神社界隈を舞台とした、現代の異類婚姻譚である。
「いいか? 猫ってのはさ、こうやって人差し指を向けられると……」
商店街の裏手にある駐車場で、彼女はたむろしていた猫たちを相手に僕にそれを実演して見せた。
夕声は右の五指を丸めたあとで、人差し指だけをピンと立てて振った。それから彼女は砂利の地面にしゃがみ込んで、真っ直ぐに伸ばした指をゆっくりと猫の前へと持っていく。
鼻面に指を突き付けられたサバシロ猫(魚の鯖みたいなカラーリングの猫を総じてサバシロと呼ぶのだということも、そういえば彼女から聞いたのだった)は、怪訝そうな顔で少しだけ後ずさりした。
「……なんか、警戒されてない?」
「いいや、ここまでは首尾良くいってる。本当に警戒されてたらもう逃げられてるよ」
サバシロ猫はそのまましばし彼女の指を観察していた。まばたきもせずに凝視し、様々な角度からその匂いを嗅いだ。
それから、おずおずとではあるけれど、指に顔を擦り付けてきた。顎のあたりを。
「よし、挨拶完了。こうなったらもう問題なく撫でさせてもらえるよ」
猫のすりすりが指から手のひらの方にまで広がった後で、夕声はサバシロの頭を撫ではじめる。おでこのあたりから頭の裏あたりまでを、さすっ、さすっと。
猫は逃げなかった。逃げずに、彼女に撫でられるに任せている。
「すごい」僕は思わず声をあげた。「どうなってるんだ。だって、野良猫だよ?」
まさか超自然の神通力か?
そう言った僕に対して、夕声は呆れたように「ばーか」と言った。
「そんなんじゃないよ。あたしはただきちんとこいつらの流儀で挨拶しただけだ」
「あいさつ?」
そ、挨拶、と夕声。
「こうやって指を突き出されるのって、こいつらにとっては別の猫から鼻を突き出されるのと同じなんだよ。で、それってこいつら猫たちの挨拶だからさ。もしも無視した日には一触即発の喧嘩になっちまう」
「だから猫は人さし指を無視できない?」
「そ。だから猫は人さし指を無視できない」
サバシロくんの(あるいはサバシロちゃんの。猫の雌雄を見分けることが僕にはできない。彼女と違って)頭を撫でながら夕声は言った。
それから、夕声は不意に顔を上げた。僕の方を見る。
とびきりの笑顔と出会った。得意げな色を少しも隠そうとしない、裏表のない笑顔に。
その笑顔に、不覚にも僕は見惚れてしまう。いつものように。
「ん? どうした?」
「べ、別になんでもない」
僕の内心を目敏く読み取ったらしい夕声が、勝ち誇ったような顔でこちらの顔を覗き込んでくる。
その表情が可愛いやらムカつくやら、僕はなんとか誤魔化そうとする。
「え、ええと……いまのやつ、僕にもできるかな?」
苦し紛れに口をついたのはそんな言葉だった。
夕声は少しだけ考えた後で、人生はチャレンジだ、やってみろよ、と言った。それが年上に対する口の利き方かよとか、そんな文句はもう口にする気にもならなかった。
結果から話すと、僕のチャレンジはスタートラインにつく前に終わった。
軽トラの影にいた三毛猫をターゲットに定めて僕が二、三歩近づいたところで、駐車場の猫たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出してしまった。
僕が呆然と立ち尽くしていると、夕声が腹を抱えて笑い出す。
大口を開けて、白い歯をむき出しにして、はしたなくも楽しそうに。
悔しいけど、この笑顔も好きだった。
これは、僕が茨城県龍ケ崎市で出会った一人の女の子のお話だ。
彼女のチャーミングな部分はいくつもあげられる。無類の猫好きで、いまどきめずらしくご飯を美味しそうに食べて(インスタ映え? なんだそりゃ)、それにとにかく笑顔が素敵で。
あと、これはそこまで重要ではないかもしれないけど。
彼女は、純粋な人間ではなかった。
「やっぱり、あんたといると楽しいな。なあ、あんたもあたしといると楽しいだろ?」
「……まあ、うん」
彼女は僕がこれまで出会った中で一番スペシャルで、そしてたぶん、一等賞に魅力的な女の子だった。
……たぶん、おそらく……いや、まちがいなく。
でも、だからこそ厄介だった。
「だよなだよな。だったらさ――」
なにしろ、彼女は。
「なぁハチ。やっぱり、あんたはあたしを嫁にするべきだよ」
これは、僕といううだつの上がらない男が、スペシャルにチャーミングな彼女の魅力に抗おうと無駄な努力を重ねる物語であり。
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