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生い立ち編

6・普通

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殴られなくなった。
食事を貰えるようになった。
風呂に入る許可が貰えた。
寝床を用意して貰えるようになった。


けれどゴミを見る目は未だ変わらず。
ただひたすらに、不気味で不安で恐ろしかった。


外に放り出される事がなくなった。
常に家族の誰かが監視していて、リコが一人で行動できる時間が激減した。
つまりレクスと会える時間が減った。


身綺麗である事を強制され、服を新調された。
言葉遣い、礼儀作法、いきなり完璧を求められた。

幸いにして、レクスと招き猫のヨツバ卿のお陰で既に基礎は習得済だったから、何事もなかったけれど。
普通はそれまで捨て子同然だった子供が突然、人並みの教養を獲得できるはずなんてないのに。
覚えていなかったらどんな目に遭っていた事か。


遠目のレクスは急に大事にされるようになった私に不安を抱いたようだった。
視線で一つ頷く事しか今は出来ない。

けれど詳細しょうさいめる隙が全く生まれない。
私は夜に家を出られず、レクスが忍ぶには家族の監視が異様に厳重。
私が窓を開けただけで私の部屋のドアが開かれ父なり兄なりが顔を覗かせる。
一寸の温かみも無い、家畜の脱走を阻止する目。
レクスは当然察知していて、部屋に入る事が出来やしない。


血の繋がった家族といつも一緒に居て、幼馴染のレクスとは一目がある時、適度な距離で。
まるで普通の年頃のお嬢さんみたいに。
これが正しい在るべき状態である筈なのに。
違和感だけが降り積もる。
小さな不穏が積み重なっていく。


レクスの綺麗な緑の瞳が日に日にかげる。
穏やかで、優しい色があせせていく。
不安にすさみ、希望に満ちてた光がよどむ。

言いようのない不安にリコも思わず縋るように視線を送る。
リコと視線が絡む刹那、やっと酸素を得た顔をする。
何の説明もない彼には訳が分からなかっただろう。


だからひっそり手紙を書いた。
兄が何処かへ送っている自薦の下書き用紙の裏に。
レクスの言う通りに字を習っていて良かった。
運び猫のフタバくんに配達を頼む。
存外素直に引き受けてくれたけれど、

『ふみゃあ? ふみゃふみゃあぁ?』

確実におやぁ? おやおやぁ? とニタついている。別に後ろ暗い事なんてない。無いったら無い。




こんな日々を何日か過ごし。
ある夕飯時、父が突然言い渡す。


「喜べ。これの出荷先が決まった」

「えっ、これ売れたの?」


父は基本的にリコを見ず、リコに声をかけたりはしない。名を呼ばない。
他の家族に話し掛けるていでリコの行き先を断定してしまう。
つられて他の家族も人のように扱わなくなっていった。


「ああ。若ければ若いほど良いらしい。これが適任だろう。こんなもんで若い乳牛を一頭貰えるらしい」

「凄いねパパ。流石さすが交渉力こうしょうりょく!」

「どこがこれ引き取ってくれるの?」

「村長さんだ。一人息子が死んだからな」

「お爺ちゃん必死ね~」

「ははーん成る程。跡取りいないと余所の家が村長になっちまうからなあ。手当たり次第って事かあ」


にたにたとした四対よんついの目がリコをいたぶる。
言いようのない恐怖が身を襲う。
分かるようで、分からない会話。
否、分かりたくない会話。


村長がリコを購入したとして、一人息子が死んでいるという事実と何故関連付けて話しているのか。
村長さんって息子さんが存命ならリコと同年代の孫がいるであろう老齢で。
白髪交じりのシワシワの。

一体、いったい、どういうことなの。


「これがはらめば村長夫人が育てるらしい」

妥当だとうだな」

「村長さん家の子生み下女げじょ。これ相応の末路だね」


家族がそろって下品にわらう。


私に相応しい末路、であるらしい。
お爺ちゃんの相手をしてその子を産んで。
下女扱い。


「何だその顔は。土下座で喜べ生意気な」

「これもあんたの為だよ。感謝なさいリコ」

「育ててもらった恩は返すもんだろ普通」

「普通、親の命令は絶対だよね」



「……ふつう?」


「ああ。そうだ」

「そうそうこれは普通の事なんだよリコ」

「女なら普通に誰もがやっている事さ。“普通”の務めを果たせよ異物」

「面倒言わないで。言う事聞くでしょ普通」

「これは命令だ。逆らう事は許さん」



若ければ若いほど良いって。
子を宿す可能性が増えるから。
まあ普通はそういう基準で選ぶだろうね。


これも普通。ふつう。ふつう。ふつう、なんだよね? 普通だから耐えなくちゃ……耐えて、村長さんの子を産むのが普通……? ふつうなんだよねきっと。ふつう。普通だから。これが普通。普通なんだって思わなきゃ。
普通だから、シワシワのお爺ちゃんの子生み装置になるのも普通……?


普通なら。普通だから。

でも。

普通って一体いつまで続くの?
いつまで普通って耐えなきゃダメなの?


普通だからって、お爺ちゃんのお嫁さん以下の何かにならなきゃだめなの?


おじいちゃんとキスをして。
おじいちゃんとそれ以上も?
なんども。なんども。
こどもをうむまで。

好きじゃない、のに。

ずっとずうっと、わたしがしぬまで。

……いやだ。




――リコ。


追い込まれた心に不意に、優しい声が差し込んだ。
実際に聞こえた訳ではない。
でも、真っ暗闇に差し込む一条の光のように、胸の内だけで彼の声が確かに聞こえた。
思い出された。


リコ。
私の名前を呼んで、ぱあっと弾ける笑顔が浮ぶ。
満面の笑みのレクスが浮ぶ。


私を見つめて優しく細まる新緑色の瞳。
ほんのりと紅潮した頰。
優しい優しい声で、大切そうに私の名を呼ぶ。
甘く低い声。
声変わり中もずっと一緒だった。辛そうな喉のために飴玉モドキだって作って一緒に食べた。
変わりゆく声で変わる事なく私の名を呼ぶ。


伸ばされる手。
初めはふっくりとして労働を知らなかった手が、力仕事に硬くなり、剣だこを何度も潰していったのを覚えている。薬草を摘み、何度も手製のハンドクリームを塗り込んだ彼の手。
節くれ立って、男らしい手になっていった。
もうずっと大切に触れてくれる大きな手。
獣から、魔物から、あらゆる恐怖から護ってくれた手。
手を取り合って、すがり合って、二人ぼっちで助け合って生きてきた片割れの手。


いつの間にか見上げるようになった笑顔。
美少女顔がもう結構格好良くなっていって。
それでも変わらぬ太陽みたいに明るい笑顔。
私に笑顔を教えてくれたレクスの笑顔。


思い出すだけで胸がほわりと温かくなる。
ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


生まれて初めてと言っても良いくらいの、断固とした激しい拒絶が、嫌悪が、胸に満ちる。



いやだ。いやだ。
お爺ちゃんなんて嫌だ。

レクスが良い。
レクスじゃなきゃ、いや。


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