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第一章 (1)

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 その日、田野田天美は、泊まっている宿に設置された電話で通話をしていた。
 身長百五十九センチ、体重四十キロ代後半。ショートでウルフカットの黒髪。一見、日本人に見えるが、天美は南米の一国、セラスタ生まれの日系人で、正式名は、アマミ・ボネッカ・カスタノーダである。日本では、田野田天美と名乗っていた。
 通話先は、色々と世話になったカスタノーダ家で、相手はザニエルという男性であった。
 その男、ザニエル・カスタノーダは年令は七十八才、表向きは、セラスタで民営カジノの経営をしていたのだが、裏では別の顔を持っていた。反政府者たちに援助をしている、レジスタンスの顔役であったのだ。
 その裏の力で、天美は、国籍や住民登録を得ることができたのであった。
 彼女は、このザニエルのもとにいたとき、何度も、ザニエルと協力して、犯罪組織や非人権的で無茶な政策をする政府などと対決をしていた。
 だが、その行動も行き過ぎ、彼女はセラスタにいられなくなった。その結果、ザニエルは資金を出して、天美を日本に住まわすこと(追いやったともいう)にしたのである。
 そのような、いきさつ等で、天美は、おりをみては、ザニエルと連絡を取り合っていた。
  二人とも、懐かしさで興奮していたらしく、その会話は盛り上がっていた。
 だが、突然、ザニエルのトーンが下がった。
「ところで、これはな、前から、俺が何度も言っていた話だけどな、正式に住むところは、すでに決めたのか?」
「それ、まだなの。なんか探すの面倒だから。どこでも泊まるとこ、あるし」
 天美は面倒くさげであった。助詞が言葉足らずなのは、まだ、しっかりと、語学を会得してないからだ。
「だけど、これからも、ずっと、そんなわけにはいかないぞ。日本は物価が高いらしいし、俺が与えた小遣いでは、いつまでも持たないぞ」
「でも、借りるには、いろいろ手続きあるし」
「手続きか、そうだな」
 ザニエルは復唱をして考えていたが、力強い口調で声を出した。
「それは、こっちに任せろ。まずは、住むところを見つけるんだ!」
「そういうことなら、探してもいいけど、でも、どういうとこ、いいかなあ」
「そのことについてだが、どうせなら、高くてもいいから、新築で海が見える、いかにも日本らしい高級感がある場所がいいな。そういう場所を見つけてくれ」
「えっ!」
 天美は思わぬ発言に驚いた。
「どうした、不満なのか?」
「そうじゃないけど、また、どうして?」
「実はミレッタの提案なんだ」
 ザニエルは答えながら、バツが悪そうであった。ミレッタというのは、年は二十三才、天美がセラスタに住んでいたとき、彼女の教育係をしていたザニエルの孫娘の名前だ。
 ミレッタの両親、つまり、ザニエルの息子夫婦は、彼女が生まれてすぐに、犯罪事件に巻き込まれて事故死していた。そのため、ザニエルは、その孫娘を、かなり、甘やかせて育てていたのであった。
「確かに、ミレッタの言いそうな言葉」
 天美は、いやみっぽく答えた。彼女も、このミレッタのミエや上昇志向の考え方のおかげで、何度も、おかしな事に巻き込まれ、ひどい目にあい、へきえきしていたからだ。
「だけど、わったし、高級なとこ趣味じゃないし」
「しかしなあ、ミレッタが頼むのだよ。あいつは、『日本に行ったとき、ホテル代わりに泊まりたい』と、言っているからな」
「ということは、い、いずれ、こ、こっち来るの?」
 天美は言葉をふるわせていた。以前、セラスタ時代のように、面倒なことになるかもしれないという、怯えのためである。
「仕方がないじゃないか。俺の言うことを聞いてくれ。金はいくらでも用意するから」
「いくら、お金出すと言われたって」
 天美は、ちゅうちょしていたが、ザニエルは、なおも自分のペースで言葉を続けた。
「とにかく、早く決めた方がいいぞ。前も言ったように、お前からばかりではなく、俺からも連絡を取りたいからな。今の場所ではダメだ」
「でも、そんなミレッタの希望通りのとこ、簡単に見つかるかなあ」
「できるだけ探してくれ、援助は惜しまんからな」
「一応、探してみる」
 天美は承知し、その通話を終えたのである。

  その二日後、警視庁、京港署内で、
「後(うしろ)、佑藤(うとう)両巡査。ちょっと、ここに来なさい!」
 女性の声がした。声を出していたのは、京港署、少年係長の藤原珪子警部補である。目が大きく、仕事に厳しい顔つきをしていた。
「翔子。また藤ばばが呼んでいるよ」
 そう後翔子に声をかけたのは同僚の佑藤恭子である。
「はあーい」
「今、行きまーす」
 二人は、上司の藤原警部補のところに向かった。
 彼女たちは、二人とも二十三才独身、寮も同室で署では悠々コンビと呼んでいた。二人とも、仕事は真面目にやらないし、ローマ字の頭文字がUで始まるからだ。
 また、二人は、よく似た顔つきの上、いつも同じような髪型と化粧をしていた。そのため、ベテラン刑事でさえも、ときには、どっちがどっちかわからなくなるのだ。
 双子は、ある程度の年になると、お互いに同じ格好をするのを、いやがることもあるのだが、その点、仲のよくなった友だちは、徹底的に、お互い同じ格好にしようとするので、かえって似るのである。
  とまあ、彼女たちは、そんな感じの二人組であった。
 二人が席に近づくと、藤原警部補は怒っていた。そして、厳しい口調で注意を始めた。
「あなたたち、このごろ、補導を真面目にやっているの。誰も連れてこないわね!」。
「そんなことを言われても、相手が大勢いて、なかなか、思うようにいかないのです」
「本当に、だらしない子たちね。あたしたちが若かったころは、もっと、仕事を真面目にやったものよ。そのころは・・」
〈また、藤ばばの小言が始まった、たぶん、次に出る言葉は〉
 ここで、翔子は思った。
〈きっと、あの下上っていう、昔いた警部補のことに決まっているわ〉
  恭子も同様に思っていた。
 藤原警部補の話は、やっぱり、その下上警部補の話であった。よほど、懐かしい話なのか、いつも、その昔話ばっかりなのであった。
  その小言は数十分以上続いた。ようやく小言から解放され、自分の席に戻った翔子は、
「やっぱり、また、あの下上っていう警部補の話だったね。もう、そんな昔の人のことを、とやかく言うのはやめて欲しいわ」
 ふてくされた顔をしながら、恭子に話しかけた。
「まあまあ、翔子、愚痴っぽくなったら、あの人と同じだよ。下上、確か彼女、結婚してからは、朱雀っていう名字になったのだけど、彼女に、あこがれていたのは、何も藤ばばだけじゃないのよ。警視庁の同年代の人は、みんな、あこがれていたらしいわよ」
 恭子はにこやかな顔をしていた。
「でも聞いた話だと、十五年前に、ブラジルで公務中に殺されたのでしょ」
「そうそう、ある時から、急に連絡が取れなくなったのだって、向こうで危険なことに首を突っ込んでいたらしいから、死体が見つからなかったけど、亡くなられたのは確実ね。当時本庁では、かなり、衝撃的な出来事だったらしいわ」
 話に出てきた、下上、朱雀警部補というのは、実は天美の母親、朱雀愛美のことである。
 彼女は当時、日本の捜査官で、ブラジルと日本の間で起きた国際的汚職事件のため、ブラジルで身分を偽って極秘捜査をしていた。
 その愛美の任務中、夫の朱雀煬介と乗っていたブラジル国内便の飛行機が、他国、セラスタのゲリラにハイジャックされたのだ。
 犯人の指示により、飛行機は、ブラジルから、そのセラスタに向かうことになった。
 だが、セラスタ政府との交渉は行き詰まり、その結果、飛行機は、セラスタのジャングルに墜落をし、彼女の両親はそれっきり、この世から消息を絶ったのであった。
 セラスタ政府は、墜落場所が密林地帯のために、これ以上の捜査は不可能であると捜索をせず、その代わりに、ブラジルに多額の謝意金を支払って事件を収束させた。
  朱雀夫妻は愛美の潜入捜査のため、本名を搭乗名簿に書き込んでいなかった。その仮の名前も、警察、上層部にすら知らされてなかったので、この発生したハイジャック事件と、朱雀夫妻を結びつけるものは誰一人いなかった。
 だが、不自然な失踪をしたのは事実である。日本の警察は、それをブラジルで捜査中、犯罪組織に殺害され、その後、死体を処理されたのに違いない、と判断したのであった。

「でもねえ、やっぱり、昔のことなのに」
 翔子は納得できない様子であったが、そのまま恭子は言葉を続けた。
「それぐらい、すごい人だったことは確かだわ。短大出なのだけど、オリンピックの射撃競技で、二大会連続金メダルの評価を買われて、二十四才で警部補昇進。その後、SPを経験して、次は海外派遣捜査官、これ以上、言うことないわ。だから、今でも、藤ばばたちはあこがれているのよ」
「でも、彼女は結婚したのでしょ。だけど、どうして、藤ばばは独身なわけ?」
 翔子は不思議そうな顔をして尋ねた。
「そんなこと、わたしでもわからないわ、なぜなのか」
「事情通の恭子でも、わからないことがあるわけね」
「あなたたち、無駄話なんか、いつまでしているの! 早く見回りに行って来なさい」
  藤原警部補のかみなりが落ちた。
「はーい」
「行って来まーす」
 そして、二人はパトロールに出かけたのであった。


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