私を陥れたヒロインに盛大なバッドエンドを

文野多咲

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女王の出立

執務室の扉を閉めると、ギョームは書類を抱えたまま振り返った。

銀色の形の良い眉が、驚きで跳ね上がる。

「クリスティーヌ。帝国へ行く、だと?」

「ええ。新王として挨拶しにいくわ。それが礼儀でしょ」

ギョームは机に書類を置き、深いため息をついた。

「礼など尽くしても無駄だ。あの皇帝は性格破綻者で、しかも好色家だ。何をされるかわかったものじゃない」

「叔父さま、心配しすぎよ」

クリスティーヌは淡々と答えた。

「魔石を使うのよ」

胸元の黒石にそっと触れる。

それは魔石である以上に、ダンとの約束の証――もう果たされることのない約束だった。

ギョームは表情を引き締め、宰相の顔になる。

「陛下、魔石のことは当面、公にはしないほうがいいでしょう。兵士にもかん口令を敷いています。魔石は今や我が国の防衛の要。それに利用価値も高い」

「利用?」

「それさえあれば王家の権威も維持できる」

「あら、叔父さまも意外と下種なのね。皇帝と同じことを考えるのね」

「……え?」

「皇帝も魔石を持っているのよ。自分の剣で魔獣を倒しているように見せかけているだけ」

「まさか」

「これを私にくれた人が、そう言ったのよ」

ギョームの目に、労りの色が浮かんだ。彼は知っている。クリスティーヌがダンを愛していたことを。そして、この黒石がダンから贈られたものだということも。

「皇帝は秘密を守るために、こちらの条件を飲むしかないわ。これで我がルロア王国の立場を、少しは引き上げられるでしょう」

ギョームは額を押さえた。

「毎度毎度、お前には舌を巻く。大した女王だよ。しかし、私で十分だ。私がお前の名代を務めよう」

「いいえ、私が行くわ」

「いや、駄目だ」

「叔父さまがいなくなれば、この国は回らないわ。新人の女王など何の役にも立ちませんもの」

クリスティーヌは静かに微笑んだ。ギョームはもう何も言えなかった。

***

旅支度をしているクリスティーヌの部屋で、侍女ジゼルは半泣きになっていた。

「だ、だめです姫さま! 帝国なんて……!」

クリスティーヌは手を止め、ジゼルを見た。

「ジゼル。あなたには本当のことを言うわ」

その声音に、ジゼルは息を呑む。

「ダンよ……」

ジゼルの目が大きく揺れた。しかし、きっぱりと言う。

「姫さま、エヴァンズさまのことはもうお忘れください」

「わかっているわ。そのためよ。彼の故郷を見てきたいの。彼が生まれた場所、育った場所を見て……そうしたら、ダンのことを忘れるわ」

ジゼルは唇を噛みしめ、涙をこぼした。

クリスティーヌが恋に落ちる過程を、最も近くで見てきたジゼルには、反対する言葉が見つからない。

クリスティーヌは苛烈な感情に捕らわれている。

(皇帝を殺してやる)

ダンの死を知った瞬間から、胸の奥に燃え続けている炎が。それは静かに、しかし確実にクリスティーヌを焦がしていた。

ダンは落ちぶれても村を襲ったりはしない。強く、才覚があった。すぐに立て直したはずだ。おそらくは皇帝に汚名を着せられ、そして、いわれなく殺された。

そして、忌まわしい体験。老皇帝の手が触れた記憶だけで、呼吸が乱れる。だが、恐怖よりも怒りが勝っている。

(老皇帝に死を)

女王として生きて迎えるハッピーエンドより、皇帝に一矢報いて滅ぶ方が、クリスティーヌには似つかわしい。

(ギョーム叔父さまがノエルを支えてくれるわ)

ノエル国王の誕生。ギョームは摂政となる。いつかの晩餐会で触れられた“物語”のように。

「お願い。最後の我がままよ。あなたはルロアで待ってて」

ジゼルは涙を拭いながら、クリスティーヌの言葉を遮った。

「私は姫さまから離れません! 絶対に!」

ジゼルは決してクリスティーヌから離れようとしない。それに関しては、クリスティーヌもあきらめるしかなかった。

エメラルドの瞳の奥で、炎が静かに揺れていた。

***

王都はまだ薄闇の中に沈んでいた。夜明け前の冷気が、石畳を白く曇らせている。

城門前には、最低限の護衛と馬車だけが並んでいた。女王の出立とは思えないほどの静けさだった。

クリスティーヌはゆっくりと階段を降りてきた。薄い灰色のマントが、朝の風に揺れる。

門のところにはギョームが待っていた。宰相としての冷静さと、叔父としての苦悩がその顔に同居している。

「……本当に行くのだな」

「ええ」

「大公閣下にでもついていってもらえれば安心なんだが」

「大公さまを便利に使っちゃ駄目ですわ」

大公とジャクリーヌは昨日、王都を発った。大公は騎士らとともに騎乗で、ジャクリーヌの馬車に寄り添っていた。

大公は将来的にノエルの脅威になりえる。たとえ本人にその気がなくとも。

ギョームはしばらく片眼鏡の奥から彼女を見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。

「これを持っていけ」

差し出されたのは、王家の紋章が刻まれた短剣だった。実戦用の、重みのある刃だ。

「国王の短剣だ。本当は持たせたくはない。ドレスに剣帯を締めるわけにもいかんしな」

クリスティーヌはマントの前を開いた。そこでギョームは呆気にとられた。

優雅さを遠ざける、戦支度の姿だった。グレーのドレスの上には薄手の胸甲が巻かれ、腰には剣帯が備わっている。

彼女は自分の短剣を外してギョームに返し、国王の短剣を差し直した。

(気持ちがしっかりするわ)

「ありがとう、叔父さま」

クリスティーヌがにこっと笑うと、顔を引きつらせていたギョームも釣られて笑った。そういえば、ほんの少し前まで、彼女はいつもこんな得意げな顔で馬に乗っていたものだ。

「心配しないで。大丈夫よ。私は、もう何度も死んでいるもの」

ギョームの表情が凍りついた。ギョームはその言葉を、冗談として受け取れなかった。

クリスティーヌは美麗に笑っている。得意げな顔の少女の面影は幻のように霧散し、そこには冷たい笑みを浮かべる女王がいた。

***

罪人を運ぶためだけに作られた無骨なかごに、マリアンナが押し込まれていた。

髪は乱れ、泥のついたドレスはほつれ、かつて“聖王女”と呼ばれた面影はどこにもない。

護送兵が無言でかごを馬車に固定する。鎖が軋む音が、朝の静けさに不気味に響いた。

マリアンナはかごの真ん中にひっそりと座し、ぶつぶつと何かを呟いているが、聞き取ることはできない。
民衆がざわめき始めた。

「……あれが、聖王女殿下……?」

「聖女さまが……罪人に……」

「魔獣を倒したのは陛下だっただ。それに、大公さまに、騎士さまだ。おら、見てただ」

「俺も見てた。聖女のくせに、何もできなかったんだぜ」

「嘘だ……そんなはず……」

ざわめきは波紋のように広がり、やがてひとつの視線へと収束していく。

馬が蹄を鳴らすたび、民衆のざわめきが自然と割れていく。

「陛下……!」

「なんて……なんてお美しい……」

クリスティーヌは誰にも視線を向けない。ただ前を見据え、帝国へ続く道の先だけを見ていた。

その横を、鉄格子のかごが軋みながら引かれていく。マリアンナはただ微動もせずに座していた。

***

帝都は、まだ初秋だというのに凍えていた。

皇宮では何もかもが以前と違っていた。人気はまばらで、女たちの嬌声は消え、代わりに宮廷人らしくもない荒々しい男たちばかりが出入りしている。

ルロア王国から、新国王が献上品を携えてやってくる――その報せが届いたとき、皇帝は低く笑った。否、皇帝としては当然と受け止めるべきか。

皇帝は黒い石を指先で転がした。魔石は、皇帝の権威の証である。

「献上品、ね……」

献上品は奴隷であることが多い。中には、麗しい者もいる。

しかし、皇帝として最も興味深いのは、新国王にほかならない。

「クリスティーヌ・ドラローシュ」

皇帝は、公女時代の絵姿を眺めた。赤い髪、エメラルドの目、きつい眼差し。

「待ちわびしいものだ……」

目を細めたその仕草は、好色極まりない。

皇帝は最も大きな黒石を一つ持ち上げ、唇を寄せた。

その唇の熱が、帝都の冷気をわずかに揺らした。

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