ハリウッドドリーム

中野リナ

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ハリウッドドリーム

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 大手映画配給会社ワールドシネマのプロデューサー、ジョー・ハラーから『西部の風』という映画のガンマンを演じる役を電話でオファー受けたとき、テレビではハリウッドの財閥経営者ローリー・ロチェスターが心臓発作で亡くなったというニュースが速報で流れるのを、ショーンは見ていた。
 若者を中心としたベトナム反戦の世論に動かされるようにジョンソン大統領が北ベトナムの空爆停止を決定した、という報道をしている最中だった。
「もちろん、お受けします」
 電話の受話器を握りながら、ショーンは幾分抑えた声で応えた。
 1LDKのアパート窓からは、遠方にサンタモニカの白いビーチが垣間見えていた。
 それを見るともなく眺めながら、ショーンは躊躇するように、電話コードを指でいじった。
 以前ジョーとランチを共にしたことがあり次はぜひディナーを、と誘われていた。ジョーは男女構わず若手の俳優の卵に食指を伸ばす、と業界では有名だった。
 彼がこのオファーと引き換えにショーンに何を望んでいるかは察するものがあった。
『元来のウェスタンでは完全無欠のヒーローが悪を倒すのが定番だ。しかし、この映画では、ヒーローはさまざまに苦悩し、足掻き、時に悪事を犯す。しかしそれは映画が進むにつれ、主人公にとってどうしても必要だったとわかってくる。ラストのハッピーエンドは清々しい。ハッピーエンドは興行的成功作品になる確率が高い。君が出てくれたらきっといい作品になるよ』
 ジョーは熱烈に電話むこうで語ってきた。
 監督はあのピーター・ワイルドだという。監督としてはもうベテランの域で、昨年アカデミー賞にノミネートされて受賞を逃したのを、ショーンは覚えている。俳優仲間からも仕事の丁寧な……つまり神経質な……監督だと聞いている。大変な撮影現場になりそうだな、という気がした。
「ありがとうございます。そんな作品に誘っていただいて、とても光栄です」
 内心を押し隠して、ショーンは丁寧に言った。
『さすらいのガンマン、アルベルトを演じられるのは、君以外にいない。ぜひ、頼むよ。期待している』
「お応えできるように、精一杯がんばります」
 ショーンが応えると、間髪入れずにジョーは言葉をつないだ。
『一週間後に、スタッフとキャストを交えた顔合わせを予定している。そのあと、ディナーをご一緒いただきたいが、いかがかな?』
 一気にショーンの気分が重くなる。
 それでも、役を得るためなら、カラダを一晩預けることくらい、我慢してもいい。
「いいですよ」
 ショーンは、嫌悪が露わにならないように殊更気を付けて、軽い口調で応えた。
『楽しみにしているよ』
 好色な笑い声と共に電話向こうで響いた言葉に、ショーンは鳥肌がたつ。
『それでは、一週間後に』
「はい」
 通話が切れるのを待ってから、そっと受話器を置いて、ため息を深くつく。
 窓の外からは、ビーチにつながる通りの喧騒と車の行き交う音が聞こえてくる。
 物心ついたときから孤児院で育った。
 施設では、イースターのときだけ、みんなで連れたって映画を観に行けた。そのときに見たヒッチコックの『裏窓』やマリリン・モンローが存在感を放つ『ナイアガラ』はいつまでも忘れられず、ショーンが映画界で仕事をするきっかけになった。
 施設の援助をうけながらハイスクールを卒業し、アルバイトを掛け持ちしつつ、映画会社のスクリーンテストを受けた。俳優のスタンドインの仕事をしたり、ツテをつかって通行人やエキストラの役を紹介してもらったりした。
 あるとき、撮影本番前のスタジオでスタンドインの仕事をしていたところ、ジョーに声を掛けられた。彼にランチに誘われ、ある映画のちょっとした……でもひとつセリフのある役を紹介された。
 それを皮切りに、脇役ではあったが、ぞくぞくと映画のオファーがくるようになっていた。
 交通の便が悪く日当たり悪いアパートに住んでいたショーンに、ジョーはサンセットブールバードからほど近い1LDKのこのアパートを紹介してくれた。
 そのあたりから、ショーンはジョーがただの厚意であれこれしてくれているわけではない気配を薄々感じている。
 ショーンは、男にして、ひとがうらやむようなさらさらのブロンドヘアーと乳白色の肌、そしてロンドンブルートパーズのような少し陰のある青い目という美貌があった。目が少し陰影がかった青なのでただきれいなだけじゃなく憂いと雰囲気のある佳人として見られることが多かった。
 昔から男でも女でも、言い寄ってくる人間はそれなりにいた。
 それゆえに、この顔で利用できることなら、なんでもしてやろうと思っていた。
 その一方で、彼には、常に前向きに取り組むひたむきさと、努力を怠らない強さがあった。
 ショーンは孤児院にいて大勢の中で孤独に過ごすことが多かったため、自分が取り組んだ分だけ自分を信じられる、所詮頼れるのは自分しかいないということを悟るように確信していた。だから、何事に対しても全力で臨む傾向があった。
 だからこそ、今回の主役抜擢は、ショーンにとって逃したくないチャンスだったし、全力で取り組む価値のあるもののように感じられた。
 数日後、映画の台本が送られてきた。
『西部の風』はピューリッツァー賞を過去受賞したことのあるミカエル・コヌフロワが執筆していた。それは、マカロニウェスタンを端とするシューテムアップ(撃ちまくって観客のストレス発散を狙う映画)がちらほらみられるようになった昨今の西部劇にはまれな、人間ドラマとしてひとりの男の生き様が書かれた、王道でいて斬新な西部劇だった。
 台本を一通り読んでみて、これはすごい作品になるかもしれない、と実感した。音楽プロデューサーや舞台、衣装スタッフにもそうそうたる名前が並んでいる。多くは監督のピーター・ワイルドと共に仕事をしたことがある人たちだった。
 ショーンは台本を常に手元に置き、数日のうちにセリフを完璧にした。
 台本を読んでいて、よく状況がわからない部分、感情が理解できない部分、ト書きに疑問を覚える部分などを付箋してラインマーカーした。
 一週間後、ショーンは黒いティシャツにぼろぼろに破れたデニム、履き古したスニーカーで、ワールドシネマ社屋の会議室で行われる顔合わせに参加した。
 そこには何人か、顔見知りのキャストやスタッフがいて、打ち合わせが終わった後も、ショーンは近況や今度の撮影について話していた。
「ショーン、いいかな」
 声を掛けてきたのは、ワイルド監督だった。
 ショーンはにこりと笑顔で振り返る。
「なんですか?」
「君に紹介したい人間がいる」
 ショーンが視線をむけると、そこには彼より少し高い背丈の……白いワイシャツの上からもわかるくらいすらりと引き締まった身体つきの金髪の男がいた。
 彼の目はまるでバカンスシーズンのアドリア海みたいにきれいな明るい青色をしていた。
「今回、君が演じるアルベルトはとても難しいアクションが多い。そのスタントをやってくれるクリストファー・デニスだ。君と同じ、綺麗な金髪だろ。体形も細身でよく似ている。彼は様々なスタントをとてもうまくこなすんだ」
「よろしく、クリストファー」
 ショーンが微笑んで握手しようと手を差し出すと、彼は両掌を開いて広げ、拒絶を示した。
「握手はしない主義なんだ」
 ショーンは片眉を跳ね上げる。
 こいつ……!
 軽んじられた、と思った。
 いけすかない感がこみあげてくる。
 ワイルド監督は笑った。
「まぁ、ちょっと変わったやつだけど、よろしくね」
 そのとき、プロデューサーのジョーが傍にやって来て、ごく自然にショーンの腰に手をまわしてきた。
 その所作はひどく馴れ馴れしい。
「顔合わせは順調かな?」
「今、ショーンにクリスを紹介していたところです。アルベルト役のスタントをやります」
 ワイルド監督が言った。
 ジョーは上機嫌に頷いた。
「最高の作品を期待しているよ」
「もちろんです」
 ワイルド監督は笑って応え、打ち合わせがあるのか、クリスを促して他のスタッフの元へ行った。
 ショーンは去り際、一瞬クリスの目に蔑むような色が浮かんだのを見逃さなかった。
 彼は咄嗟の空気でショーンとジョーが抜き差しならぬ関係であることを察したらしかった。
 なぜだか、そんなんじゃない! と彼の背中に大声で言いたくなって、ショーンはそれを懸命に堪えた。
「ボロボロのデニムだね」
 ジョーは下肢に舐めるような視線を向けてくる。
「これしかなくて」
 ショーンはしれっと言ってのける。
 まさに破れかぶれ、これで、ディナーを断れればいいと思っていた。
 でも、そうはならなかった。
「私の手で、着替えさせてほしいのかい」
 ジョーは相好を崩してショーンの手を取る。
 ぞわ、としてショーンは静かにその手を外して、笑った。
「この業界、泣く子も黙るジョー・ハラーがホテルのドレスコードで負けるとは思えなくて。あなたの名前に挑むようにぼろぼろのデニムを穿いてきました。あなたの名前が勝つか、俺のぼろぼろデニムが勝つか、勝負ですね」
 ショーンが言うと、ジョーは声高く愉快そうに笑った。
 会議室にいた面々が何事かと振り向くほどだった。
「君にはかなわないな。そういうところが実にいい。少し早いが、ディナーのホテルへ行こう。エスコートするよ」
 ジョーに腕をとられて、ショーンはそのまま会議室を出た。
 出るとき、クリスの傍を通り抜け際、彼が鋭い一瞥を投げかけてきた。
 ショーンはその視線を遣る瀬無い憤慨と共に睨み返した。
 運転手の運転するロールスロイスの後部座席にジョーと並んで座って、メルローズアベニューにあるホテルへ到着した。車中で彼は、ショーンの膝頭を撫でながら今回の映画について話した。気持ち悪かったが、ジョーの今回の映画にかける熱意には動かされるものがあった。ジョーはワイルドにぜひともアカデミー賞をとってほしいのだ、と言っていた。ジョーはワイルドが助監督時代からの知り合いで、彼の監督作品は全てプロデュースしていた。ジョーのワイルドにかける意気込みは並々ならぬもののようだった。
 ロールスロイスからおりたショーンはジョーとつれたって、ホテルのドアマンがたたずむエントランスへ向かう。ちら、とドアマンがショーンの服装に目をやった。しかし何も言わずに通された。
 ホテルのロビーには、スーツ姿の紳士や淑女然とした夫人たちが話しに花を咲かせている。そこに入っていった白っちゃけたティシャツとダメージジーンズにスニーカーのショーンは変な目立ち方をした。
 そのまま、エントランスロビーを抜けて、エレベーターで最上階へ行く。エレベーター内のひとびとも、なんとなくショーンの格好を気にしている。ジョーはそれがおかしくて仕方ないらしい。にやにやしている。ショーンはむしろ不貞腐れて堂々としていた。
 レストランのレセプションへ行くと、コンシェルジュが素早くショーンの頭から爪先まで視線を流した。
「恐れ入りますが、ジャケットと革靴はお持ちですか」
「私の連れだよ」
 ジョーが一歩踏み出すと、コンシェルジュは背筋を伸ばした。
「これは、ハラー様。いつもありがとうございます。しかし、ドレスコードは他のお客様への礼儀にもあたります。もしジャケットをお持ちでなければ、お貸しいたしますがいかがでしょう」
 ジョーは、ちら、とショーンを見た。
「どうする?」
「負けるんですか?」
 ショーンは意味深に笑いながら挑むように質問した。ジョーは顎を引いて口元を引き締めると、コンシェルジュに向き直った。
「いらないよ」
 ジョーがはねつけるように言う。
 コンシェルジュは表情を変えずに、しばし黙り込んだ。
「私の名前に免じて、入れてもらえないかね」
 少し小声で、ジョーは身を寄せるようにして言った。コンシェルジュも形だけ身を傾けて聞き、軽く眉間を寄せて「しかし……」と言い淀んだ。
 ショーンはこのままレストランに断られればいいと思っている。このディナーがおじゃんになれば、カラダを売らなくて済むかもしれない。
「俺、この格好で入りたいです」
「この格好でなんとかならんかね」
 ジョーは少しいらついた様子でコンシェルジュに語気荒く言った。
 コンシェルジュは「少々お待ちください」とレストランの奥に入って行った。しばらくして、コンシェルジュを背後に従えてレストランの支配人が出てきた。
「ようこそ、ミスターハラー」
「やぁ。世話になるよ」
 ふたりは握手したあと、ショーンを見た。
「今度うちのスタジオでプロデュースする映画に出るショーン・ガーラントだ。スターになる」
 ジョーが言うと、支配人は少し意味がわかったような表情をした。しかしそれはあからさまに不躾な視線ではなかった。控えめに淡々として事物を捉えた様子だった。
「どうぞ以後お見知りおきを」
 支配人が握手を求めてきたので、ショーンは「よろしく」と握手した。
「ご案内します」
 意外にもすんなりと支配人自ら、ふたりをレストランの中へと招じ入れた。
 少し他の客から離れたところにあるハリウッドの夜景を一望できる窓際の席で、ジョーはボトルでシャンパンを頼んだ。
 すすめられて、ショーンもシャンパンを飲んだが、このあとのことを考えると、気持ち悪くて味もわからなかった。
 給仕が次々と皿を運んでは下げていく。
 普段食べることができないような、高価な料理の数々だったが、魅力的に映らなかった。「なんだか食が進まないみたいじゃないか」
 ジョーはショーンの様子を見てそう言った。
ショーンは上目遣いにジョーを見、申し訳なさそうに言った。
「少し気分が悪くて」
「それならいいものがある」
 ジョーは給仕を呼んで何事か囁く。しばらくこそこそとしたやりとりがあった。給仕がちらちらとショーンを見るのが気になった。そのあと給仕が去り、グラスをひとつ運んできた。
「薬みたいなカクテルだ。それを飲むと気分がよくなる。飲んでみなさい」
 ジョーは言った。
 見るとそれは、透明な、ジントニックみたいな液体だった。氷の上にミントの葉が添えられている。
 これなら飲めるかな、と思った。 
 疑いなくショーンがグラスに手を伸ばした時だ。
「失礼」
 大きくテーブルが揺れて、グラスが倒れた。中の液体がすべてこぼれる。
 テーブルクロスが濡れて、液体は床に滴った。
 ジョーの表情が異様なくらいにひきつった。
「な……なんてことを! この酒は……ショーンが飲むものだぞ!」
 動揺は尋常じゃなかった。
 ただグラスが倒れて、中の酒がこぼれただけなのに。
 給仕が来て後始末をすれば済む話なのに。
 おののきめいた様子がその表情に現れていた。
 ショーンはおかしいと思う。そして気付いた。多分、あのカクテルはふつうの酒じゃなかったのだ。
 ショーンに背後からぶつかってきた男……黒いジャケットでスーツを着ている……は悪びれた様子もなく口を開いた。
「あれ、プロデューサーと男優じゃないですか」
 素っ頓狂な声を彼はあげた。
 クリスだった。
 彼はにやついてテーブルに手をおき、ショーンをのぞき込みながら言ってきた。
「こんなところで枕営業か?」
 かちん、ときた。
 すっくとイスから立ち上がると、おもいっきりクリスの頬を引っ叩いた。
「失礼する」
 ショーンはジョーに言い放つと、すぐさまレストランを出て、足早にホテルの車寄せへ行きタクシーに乗った。
 もやもやした憤慨となぜか笑いだしたくなるような爽快感があった。
 それはクリスを殴ったことよりも、ジョーの誘いを断ったことだった

 

 ジョーの誘いを断ったことで、役をおろされるのではないかとか、またしつこく誘われるのではないか、とショーンは心配していたが、それは杞憂だった。
 ジョーからの連絡はその後何もなく、スタジオを使ってのリハーサルが始まった。
 ショーンはリハーサルのときから、真剣に演技をした。台本でわからないことは、すぐに質問し、ときに監督、脚本家、撮影監督とその他スタッフを交えて何時間も話し合うことがあった。それにより、プロップマスターに細かな小道具の指示を出すことになったり、美術監督にセットの細かな設定を頼むことになったりした。
 ワイルド監督指揮下のスタッフは、まったく嫌がることなく、ショーンを交えた話し合いに臨んだ。彼らは誰の意見にも存分に耳を傾け話し合った。
 現場の空気は程よく緊張し、連帯感が生まれ、最高の状況だった。
 撮影開始前から、ショーンは期待に胸がいっぱいだった。
 予感がした。
 とてつもなくいい映画になる。
 明後日からクランクイン、という日、スタジオ傍のカフェテラスでショーンはクリスを見つけた。
 ショーンは彼に浴びせられた暴言は許せないけれど、彼を殴ったことは謝ろうと思っていた。
 なによりも、撮影が始まるのに、わだかまりを残したままでいたくなかった。
 クリスは通り沿いのテーブルでエスプレッソを飲みながら新聞を読んでいた。
「ここの席、いいか」
 傍に立つと、クリスは眩しそうに青い目を細めて顔をあげた。
「ああ」
 彼は低く応えた。
 ショーンはイスを引いて座る。
 ボーイにコーヒーをオーダーする。ほどなくして、湯気立つそれが運ばれてきた。
 ショーンはすぐには口を開かずに、しばらくコーヒーを飲んで通りを見たり、辺りを見回したりしていた。
「リハ、よさそうじゃないか」
 クリスがエスプレッソのカップを口につけ、こっち見つめながら言った。
 彼の言葉に棘がなかったので、ちょっとほっとしながらショーンはうなずく。
 そのとき、ショーンの胸の内にはわずかな解放感があった。
 朗らかなハリウッドのこの晴天のせいだろうか。
 コーヒーが思いのほかおいしかったからだろうか。
 それとも、彼の声音が意外なほど優しかったからだろうか。
 緊張感から肩の荷を下ろすように急に心中を吐露したくなった。
 ここ数日の想いが一気にこみ上げてきた。
「そうなんだ。リハだけど、すごく手ごたえを感じてる。俺、今までずっと脇役ばっかりだったんだ。ほんと、とるに足らない役だらけだよ。でも、俺はどんな役も、自然に映画に溶け込めるように全力で演技してきた。今回、主役やるの初めてでさ。すごく緊張してたんだけど、リハやってみて、台本を一人で読んでいたとき以上にアルベルトって人間がわかってきた気がする。脚本もいいし、ワイルド監督も細やかだし、スタッフも気合が入ってるし、いいチームだ。すごい映画になりそうで嬉しいんだ」
 かなり本音が出た。少し熱くなった。ふとクリスを見たら、なんだか彼は微笑まし気に口元を緩めて自分を見つめていたので、どきりとした。
「ご、ごめん。変なこと言った」
 ショーンはちょっと慌てて困惑し、落ち着こうとコーヒーを飲んだ。
 クリスが金属製の時計をした片肘をテーブルについて頬をつきながら探るように目を細めて言った。
「で、この役を得るために、プロデューサーに股を開いたのか?」
 ショーンの動きが止まる。
 一気に頭に血が上った。
 さっきまでのほわほわした感覚が消し飛んだ。
 ダン、とテーブルを叩いて立ち上がる。
「ファック・ユー」
 殊更に口を大きく開けて、きれいな発音で中指を立てて叫ぶ。ぎりとクリスを睨みつけると、足早にその場を去った。
 背後で彼が苦笑いしている気配を感じながら、悔しいような残念なような思いに駆られた。 
 
 メキシコの国境近くにある屋外セットで撮影はクランクインした。
 スタントの撮影は第二班でチームが違うので、初期のスケジュールではわざわざ見に行くようなことがなければ、クリスとはほとんど顔をあわせることがない。
 それにほっとするようなわずかに落胆するような心持がした。いや、落胆なんてするはずがない。
 あんな嫌味な奴と一緒じゃなくてよかった! と考え直す。
 ジョーはときどき現場に顔を見せたが、以前のようにショーンへ異様な執心をみせることがなくなった。
 それに不思議なような気がしたが、思う存分、演技に集中できた。
 ワイルド監督は、何をするにも緻密さを求めた。セットや衣装に関しても、それが時代考証に合っているのか、ふとしたときに思いついたように専門家を呼んで意見を求めた。撮影がそれで数日とどまることがしばしばあった。
 美術スタッフや衣装スタッフはそのことで少なからず困惑を隠しきれず、不満めいた空気が漂い始めていた。
 あるとき、ケータリングのランチを食べていて、ワイルド監督とテーブルが一緒になった。ワイルド監督はさりげなくショーンに衣装について意見を求めてきた。
 ショーンはおもむろに煙草を咥え、火を点けながら思ったことを迷わず言った。
「ヨーロッパで評価の高いマカロニの巨匠セルジオ・レオーネだって、ウェスタンでは主人公はポンチョにハバナ葉巻ですよ。彼もかなり時代考証に凝るそうですが、映画においては特に、考証よりイメージを大事にするべきです。それが映画史的成功につながりえます」
 煙を吐きながらショーンはワイルド監督を伺った。
 彼はそんなことを言われて怒る人間ではないはずだ。少し神経質なきらいがあるけれど、物事のわかるひとだ。
 その通り、ワイルド監督は雷に打たれたような顔をしていた。
「なるほど」
 彼は呻くように呟いた。
「イメージは考証に勝るべきだ」
 数回彼は口の中で呟いた。
 彼は食事の手を止め、うーっ……と唸りながら、煙草を咥えてしばらく宙を見つめるようにして吸っていた。そして「イメージだ、イメージ」と唱えるように呟いていた。
 それからだ。
 比較的スムーズに撮影が進められるようになり、細かな時代考証云々で、撮影が止められることはなくなった。そのことにスタッフは陰ながら喜び、安堵し、いつも監督の下であっちこっち雑用を手配させられている助監督のイアンは助言したショーンに礼すら言ってきた。
 別行動の多い第二班に所属するはずのクリスはことあるごとにわざわざ移動してショーンの演技をのぞきにきていた。
 ショーンのスタントをする彼が、ショーンの演技を見るのは当然といえば当然だ。ただ、スタントマンの中には、スタント芸に徹して俳優の演技に拘泥しないキャストもいる。逆に、俳優の演技や動きの癖や姿勢をよく見て、スタントの参考にするキャストもいる。
 前者の場合、スタントシーンだけが映画の中で異様に目立ってしまう場合もあり得る。
 彼は後者なのかもな、とショーンは幾分好ましく思った。
 しかしショーンは、自分の演技を見に来る彼には声をかけずにいた。そうしながら、自分の演技をみつめるクリスが気になって仕方なかった。その目が向けられているのを感じると、自然と気合が入った。でも、それをクリスには悟られないように気を付けた。
 ホテルで殴ったわだかまりもまだあったし、カフェでの発言の件もショーンにはいまだ許せない気持ちを抱かせたままだった。
 あるとき、滞在中のホテルのホールでエレベーターを待っていたら、外から買い物して帰ってきたらしいクリスと一緒になった。
 気まずい気分で、扉の開いたエレベーターにふたりで乗り込む。大きな音を立てて茨の彫刻されたアンティークな真鍮のドアが閉まった。
「考証に神経質になるワイルド監督を説き伏せた話、聞いたよ。なかなかやるな」
 話しかけてきたのはクリスだった。
 そんなこと知ってたのか、とちょっと驚きつつも素直になれなくて、ショーンは口の端をシニカルに持ち上げる。
「べつに。俺は大したことは言ってない」
 ふ、とクリスが笑う。
「スタッフはみんな大喜びしてるよ。珍しくワイルド監督の撮影が順調だって。ワイルド監督はこの映画に賭けてる。どうしても神経質になるんだろう。監督って立場はときどき孤独だからな。ときに話にのってやる人間も必要だ」
 そう言ってクリスは穏やかに口元をしならせてショーンを見つめた。
 その微笑に心臓が跳ねあがる。
 とてもきれいで理知的なでも柔和な笑みだった。
「なかなかのお手柄だったと思うよ」
 彼にここまで褒められると思ってなくて、ショーンは身体が熱くなってくる。
 照れ紛れに、首元を仰ぎながら笑った。
「今日は一際蒸すな」
 ひた、と頬に滴が伝う冷たい瓶を押し当てられる。
「ひっ」
 変な声が出て、背筋が伸びるように身体が震えた。
「ビールだ。一本やるよ」
 驚いてショーンがビールを手に取ると同時、エレベーターのドアが開いた。
「それで少し身体の熱が放散されて夜を過ごすのがマシになるだろ」
 クリスは優しく微笑む。
「おやすみ」
 そう言って、彼はエレベーターを降りていった。
 がしゃん、と閉まる真鍮のドアを見つめながら、そのあと滑るように上昇していくエレベーターの中で、頭の中が真っ白になった。
 な? な? な?
 なにも言葉にならない。手にしたビールの冷たさだけが鮮明だった。
 部屋に戻って、窓を開け、騒々しいメキシコの夜景を見つつベランダでビールを飲んだ。
 喉に染み入るようなそれは、最高にうまかった。そして、胸の奥が鈍痛めいて軋むように痛むのを甘く感じた。

 ワイルド監督は、劇中の拳銃にはコルト社製のものを愛用したが、映像にしたときの発砲シーンの刺激のなさに悩んでいた。賊で敵役のエンリコに銀色のコルトS.A.Aを渡しながら彼は言った。
「ガスは抜いてある。中に詰めた弾丸は先端に木片がついてるんだ。このシーン……セリフを言ったあと、カメラの前で発砲してくれないか」
 そのときショーンは屋外スタジオのトレーラー傍で、ペットボトルで水を飲みながら撮影シーンを見守っていた。
 エンリコはカメラ回りを見る。
「でも、ベニヤ板が置かれているだけですよ。危ないと思いますけど」
「弾丸の先端は木片だから大丈夫だよ」
 ワイルド監督に言われて、半信半疑ながら、エンリコはカメラの前で演技した。セリフを言って発砲した途端、カメラ助手のアレックスが跳び上がった。
 銃にガスが残っていて、ベニヤ板を貫通した弾丸が彼の足を貫いたのだ。
 現場は大騒ぎになった。
「至急、救急車を手配して」
 ショーンは助監督のイアンに指示して、アレックスの傍に駆け寄り、血が溢れる彼の足を見て息をのんだ。
 弾丸が肉を穿ち、めり込み、盛り上がるようにして血があふれ出ている。
 孤児院では周囲に大人がいないことが頻繁にあり、ショーンはケガの処置を何度かしたことがある。
 血の量や傷の深さの差はあれど、手当は大体同じだ。
「タオルを!」
 色を失い、あたふたするスタッフ陣の中にショーンが鋭い声をかける。
 だれかがタオルを手渡してきた。
 受け取り、太腿の動脈を圧迫する。圧されるようにして血が小さく吹きあがった。
 女性スタッフの悲鳴があがる。ざわっとした不安が広がった。
 素人が処置して大丈夫なのか、と誰からともなく呟く声が聞こえてくる。
 その時だった。
「いい手際だ」
 近くで撮影をしていたクリスがいつの間にか傍にいた。
 彼はショーンを手伝い、ガーゼで傷口を手早く巻いた。
「救急車は?」
 クリスが固まるスタッフ陣に視線を走らせる。
「ショーンの指示でイアンが呼んでる」
「もう来るはずだ」
 ショーンとクリスのふたりで、交互に傷のあるアレックスの足を心臓より高い位置で支えてやった。
「こんなに血が出て……俺、もう、だめなんじゃないかな。俺の足、もう、使えなくなっちまうんじゃないかな」
 アレックスが涙目で弱気なことを言う。悲痛な表情で震えながら手で口を覆った。
 元気づけるようにショーンはその肩をさすってやった。
「処置をしたから大丈夫だ。そんなに傷も深くない。病院で弾を抜いてもらえば軽く済むはずだ」
 ショーンが言うと、クリスも頷いた。
「運がよかった。適切な処置で出血が軽微で済んだ。数日でよくなるよ」
 その言葉に、不安で仕方なかったアレックスはほっとしたらしかった。
 数分後、市街地からの救急車が到着した。
 処置の甲斐あって、アレックスの傷は比較的軽く済み、三日ほどで現場復帰できるとのことだった。
 ちなみに、敵役のエンリコはショックでその日一日演技ができなかった。
 アレックスを救急車で見送った後、ショーンとクリスのコンビネーションの良さに、助監督のイアンには「さすがヒーローとスタントダブルですね!」と安堵したようにほめられた。正直、処置には自信があったけれど、クリスがいてくれたのは心強かった。なんとなく、ショーンの中で、傍で手伝ってくれたクリスの存在が温みをもって印象深く心に残った。
 しかし、この件、けが人が出たにも関わらず、素晴らしい発砲シーンが撮れた、とワイルド監督は大喜びだった。アレックスがケガをした例の発砲シーンはしっかり映画に使われるらしい。
 スタッフの中には、それに反感を覚えるものもいた。
 ワイルド監督の神経質を通り越した『やりすぎ』は再びだんだんエスカレートしていった。
 彼は撮影フィルムの細部にまでこだわり、ラッシュを細かく確認し、納得するまで何度でも撮り直しした。
 そのため撮影スケジュールは徐々にずれこんでいき、大幅な遅れとなっていた。
 でも、ショーンはむしろワイルド監督のその熱意に応えたいと思っていた。撮影後、全てのラッシュを見直し、ワイルド監督とともに何度もチェックし、必要があれば撮り直しに応じた。
 その真剣な姿勢と、アレックスのケガでの対応が現場で好感を与え、スタッフは皆ショーンに協力的だった。
 あるとき、自分の出番まで大分時間があったので煙草を咥えながら、何気なくショーンは第二班の撮影を見ていた。
 第二班監督の「アクション!」の声と共に目にしたその動きに鳥肌が立った。
 それはまさに、ショーンであってショーンではない『アルベルト』のアクションだった。
 スタントしているのはまぎれもないクリスである。でも、その姿勢、立ち方、歩き方、動き方は、ショーンを彷彿とさせるものがあり、それでいて動きは自然かつスタイリッシュだった。
 ショーンは煙草を咥えたまま火をつけるのすら忘れて、クリスのスタントに見入っていた。
 すごい、と思った。
 あんなスタント演技ができるやつ、見たことない。
 しばらく茫然としていたら、撮影は次のシーンに移り、第二班監督とアクションコーディネーターがクリスを交えて打ち合わせをはじめ、声を荒げだした。
 アクションコーディネーターは「そんなスタントやったら死んじまう」と叫んだ。第二班監督は「ワイルド監督を納得させるならやるしかないんだ」と叫び返した。アクションコーディネーターは「気が狂ってる! 死人が出てもいいのか、この現場は!」と怒鳴った。第二班監督は「やるしかないんだよ! 死人が出てもな!」と怒鳴り返す。やけになっているのが伝わってくる。ワイルド監督に相当発破をかけられているのだろう。ショーンは固唾をのんでその様子を見守っていた。
 クリスが一言軽く、やりますよ、と言った。
 それは、走る機関車を馬で追いかけ、ジャンプして貨車に飛び乗り、貨車にひそむ賊と揉み合って列車から落ち、共に絡み合うように坂を転げるという難易度の高いシークェンスだった。
 クリスはそれを、ちょっとしたためらい、息遣い、緊張感、ショーンの演技を感じさせる間合いを見せながらも、烈しく、臨場感に迫るスタントでカメラの位置を調整するためのリハを含めて二回やってみせた。
 ワイルド監督と共にクリスのスタントのラッシュを確認して、ショーンはため息を吐いた。
 感嘆と共に素直にすごいな、と思った。
 ちょっとした彼の動きの癖、わずか猫背になりがちな立ち姿、かかとを蹴り上げる重めの歩き方、そういったものまでコピーされていた。
 ここまで俳優の演技に寄り沿ったスタントマンはいないと思われた。
 ショーンはクリスに対しての認識を完全に改めた。
 自分の身内でもやもやしていたホテルでの一件、カフェでの暴言を謝ろうと、ある日、休憩中の彼のところへ行った。
 クリスはセットの馬小屋の横で煙草を吸っていた。馬小屋には、実際に馬が二頭入っていて、いななきが時折きこえてきた。
「となり、いいか」
 ショーンが訊くと、クリスは煙草を吸い、煙を吐き出しながら頷いた。
「いいよ」
 ショーンが隣に腰を下ろすと、馬小屋から獣と乾草の匂いが漂ってきた。
 ショーンも煙草を出して口に咥え、火をつけて吸う。
「おまえのスタント見たけど、すごいな」
 ショーンはそう言って、陽射しにプラチナめいて光る彼の金髪に目を細めた。
 彼は煙を吐き出しつつうなずいた。
「どうも」
「難しいスタントも軽くこなすし、なにより、俺の演技を踏襲してスタントアクションをしているのがすごいよ。正直びっくりした。俺が動いているのかと思ったよ」
 クリスは笑いながら煙草を吸った。
 青い目が嬉しそうにしなる。
 端整な面立ちにあどけなさが滲んだ。
「トーキー時代の映画になって活躍したヤキマ・カナットってスタントマン、知ってる?」
「知らない」
「すごいんだ。どんな難しいスタントも、ノーカットノー編集でやりのけちまう。こどものころの俺のヒーローだった。ヤキマ・カナットのスタントの真似ばっかりしてた。そうなりたいってずっと願って大人になったんだ」
「わかる。俺もヒッチコックの『鳥』を見た後、襲われる人間のもがく演技の真似をしてたよ」
 そう言って、ショーンは腕で顔の前を覆いながら背をかがめて、表情を強張らせ演技らしい声で叫び声をあげた。
 クリスは煙草の煙を吐き出しながら笑った。「あの映画、なんで鳥が家やひとを群れになって襲うのかはっきりとした理由がわからなくて、すごく怖かった。たとえば、襲う家の前に、ハンカチが落ちてる、とかちょっとした『危険』のサイン……襲う理由があるだけで怖くないのになって思ったら、逆にヒッチコックってすごいなって思ったよ」
「そうだね」
 クリスは深く頷きながら続けた。
「『ナイアガラ』を見たときは、モンローウォークを真似したよ。見つかってそんな真似やめろって母親に怒られた」
 ちょっと秘密めかしてわずかな色っぽさを垣間見せて彼が笑う。それにショーンは嬉しくなる。
「わかる。モンローウォークならふざけて俺もやった」
 ショーンは気持ちが和み、動悸を伴った気持ちのいい興奮が身内に染み出てくる。
「他に、どんな映画を観たんだ?」
 しばらく、昔に見た映画の話でもりあがった。
 ショーンはとても楽しい気分になっていた。
 その勢いに押されるように言った。
「顔合わせの夜、メルローズアベニューのホテルレストランでのこと、悪かったな。あと、カフェでのことも謝る」
 ショーンが言うと、クリスは一瞬目元に穏やかな色を浮かべた。
 それにショーンの胸奥から感情が溢れ出るようにじんわりする。思いのままに言葉を口にした。
「おまえのこと、俺はよく知りたい」
 ショーンがそう言った瞬間、クリスははっとしたように表情が固くなった。
「俺のことを知ってどうする?」
 自虐的な口調で言うなり、クリスは鼻で笑った。嘲るような色があった。
「ホテルじゃ、プロデューサー相手にあんたにとっては大事な商売の邪魔をしたな。上客だったんだろ?」
 途端、ショーンはむっとする。
「違う」
 はっきりと断言した。クリスに誤解されたくなかった。
 クリスの目は蔑むような気配を湛えて見つめている。
「まぁ、男優は身体が商売だからな。その点ではコールガールと大差ない」
 その言いざまが頭にきた。
「おまえっ」
 ショーンは身を乗り出して、クリスの襟首を掴み寄せた。
「俺の商売は自分の演技に全力を注ぐことだ。
ワンテイクごとに渾身の演技をする。俺はそのために全力を尽くしている。そういう努力こそが『俳優』の大事な商売だろ?」
 クリスは口の端を持ち上げ、背後の小屋を顎で指した。
「馬小屋の馬の方が、あんたより立派に演技するよ」
 かっとなった。
「最低な男だな!」
 そう叫ぶと、クリスを投げ飛ばすように襟首から手を放し、憤慨して立ち上がった。
「おまえとはもう金輪際口をきかない! おまえが俺のスタントをする資格なんてない!」
 叫ぶなり、振り向きもせずその場を去った。殴らなかったのは上出来だ。
 それ以降、ショーンはクリスとは現場ですれ違っても口をきかず、クリスはショーンのそんな様子をおもしろがっている風があり、それもまたショーンには気に食わなかった。
 撮影はなかなかスムーズに進まず、ワイルド監督の神経はリンゴの色や形、セットの木々の造形にまで及んだ。あるときは、通りがかりの民家の庭にある木を気に入り、どうしてもこれがセットに欲しいと言い張り、住民に交渉して、重機を手配し、引っこ抜いてセットに植樹する、ということまでやってのけた。そのこだわりの凄まじさと今まであったあれこれに音を上げて、美術班のスタッフが数人、やめると言い出した。
 美術班のスタッフがいなくなったら、今後の撮影に差し支える。美術監督と助監督が慌てふためく中、ワイルド監督は「代わりならいる」と気にしなかった。
 しかし、実際にはここまで撮影がすすんでいて、うるさいと有名なワイルド監督の現場に代わりに入るスタッフなどいなかった。
 撮影現場は遅延と予算のひっ迫のため、スタッフの休日が最低限に抑えられていた。それも彼らの不満になっていた。
 ショーンはやめると言っているスタッフ数人とともにワイルド監督に直談判して休日を無理矢理とり、夕方、彼らを市街地のレストランへ連れて行った。
 スタッフたちは皆、最初こそ、ワイルド監督への不満たらたらだったが、うまいメキシコ料理と酒が運ばれてくると、気持ちがほぐれたのか、撮影現場での思い出話と最近の映画界や作品の話にうつっていった。
 どのスタッフも、撮影現場は辛かったが映画が好きだからこそ働いていた。
 スタッフの一人に、この現場は他と比べてどうか、と聞かれたショーンは言った。
「俺、ワイルド監督はこの映画でアカデミー賞とると思うよ。それを考えたら、どんな努力も惜しくないんだ。もしそれでだめでも、そのためにした努力は無駄じゃない。ワイルド監督は毎回そうやって作品を作ってるんだと思う。だから、今回こそはと思っているはずの彼に賭けてるんだ。ワイルド監督には俺の人生を賭ける価値があるよ」
 ショーンの真摯な気持ちだった。
 酔っ払い、思い思いにしゃべっていたスタッフたちは皆黙り込み、何とも言えない表情をした。
 ショーンが会計にレジへ立っている間に、彼らは何事か話し合ったらしかった。
 レストランを出てホテルに戻ってくるとき、バーで飲んできたらしいクリスと会った。
 彼は面子を見て「へぇ」とわかったような声をあげたが何も言わなかった。ショーンは彼を無視していたので、クリスは家具を設置するセットデコレーターのアンナと冗談を言いながら歩いていた。彼らは寝ているときに頭上でする配管の水音を猥談めいて笑いながら話していた。
「コックコックコックって部屋の配管がいうの? なにそれおかしい! それ聞いてみたいわ。聞かなきゃ、この話は嘘よ! そんな音するはずないもの。このあと、クリスの部屋、行ってもいいかしら? ちょっと飲み足りないし」
 アンナがふざけた様子を装って下心丸出しで言っているのを聞き、心臓が押し潰されるみたいな感覚を覚えた。それに自分でびっくりして胸を抑える。
 なんだ、この感じ。
 ショーンは鋭い視線で左斜め背後を歩くアンナとクリスを見る。
 なぜか、クリスと目が合った。
 どき、とする。
 クリスはしばらくショーンを見つめていた。
 それにショーンの鼓動が鳴る。
「あ~……今日は俺、もう眠くて仕方ないんだ。かなり激しいスタントシーンが連続してあまり激しく動きすぎると眠れなくなるんで、ちょっと酒を飲みにバーに出たとこなんだ。今は酒がまわって、もう、眠くて仕方ないんだよ。何をしても今日は寝落ちする自信がある。君に恥はかかせたくないからね」
 最後の言葉は、ショーンには聞こえたけれど、囁くように小さな声だった。それにアンナは嬉しそうな声をあげる。
「またいつか、誘ってよ」
「もちろんさ。でも君たち、撮影チームを離脱するんじゃないの?」
「私たち、やめないことにしたのよ。ショーンと食事して決めたの。クランクアップまで、この撮影チームでクルーとして万全を尽くすわ」
 再びクリスと目が合った。
「それはいい決断だ」
 クリスが言うと同時、ホテルのゲートをくぐり、エントランスに入った。エレベーターにのり、アンナも他のスタッフと共に挨拶をしておのおのの部屋のあるフロアで降りていく。最後、クリスとふたりっきりになった。
 彼の部屋は四階だ。
 三階から四階へ昇降する時間がひどく長く感じる。自分の脈打つ心臓を感じる。喉がひどく乾いた。
 なにか言おうか。
 そう思いながら、ちらとクリスを見る。クリスは恬淡と前を向いている。
 その拘泥しない表情にこそ、なにか声を掛けたくなる。
 でも、なんて言おう。
 金輪際口をきかないなんて言ってしまったし。
 チン、と軽やかな音がして、真鍮の茨のドアが開いた。
 唾をのむ。
 何か言わないと。
 焦るようにそう思った瞬間、親しみの伝わる温かな所作で、背中にとん、と手が添えられて、離れた。ほんの微かな仕草だ。それだけで、彼が、ショーンのやったことを讃えてくれたことがわかった。
 息をのんだ。
 わずかな接触。
 なのに、あからさまに感情が伝わってきた。
 動揺した。
 こんな気持ち、ない。
 ちら、と微笑むような視線をショーンに向けてクリスは何も言わずにエレベーターを降りて行った。
 何か言葉を告げようとショーンが口を開くと同時、エレベーターのドアが閉まる。
 溢れる感情に、なぜだか嗚咽が漏れそうになって、口を抑えた。
 ドアが開くのを待ちかねたように六階でエレベーターを降り、足早に廊下を歩いて、忙しなく鍵を開けて部屋に入る。
 ずっとひとりで生きてきた。物心ついて孤児院のころからひとりだと強く認識してきた。
自分しか信じられない。それでいいと思っていた。でも、理解されたいと思ってしまった。理解されたい。そして、理解したい。そう強く想った。
 ベッドに倒れ込む。
 この感覚は、なんだ。
 めまいするような逡巡を覚えながら、ベッドの上で目を閉じた。

 翌日早朝、撮影現場に行くと、丁度第二班がスタントの撮影を開始したところだった。ショーンは自分の出番には時間があったので、離れたところから第二班の撮影を見ていた。
 クリスが第二班撮影監督とカメラの位置を相談し、監督と動きについて打ち合わせているのが見えた。
 ショーンは煙草を吸いながら見ていて、どのシーンの撮影かすぐ見当がついた。
 アルベルトが宿屋の二階に侵入してきた賊と揉みあいになり、銃を撃ちながら背後の窓から落ちて一階の軒を転がり、賊の銃弾をよけながら地面に落ちるシーンだ。
 下手に落ちれば骨折する。骨折で済めばいいが、命を失う危険もあるスタントだった。
 クリスと第二班撮影監督は入念に落下場所について打ち合わせている。ちょっとずれただけでそのテイクは使われなくなる場合もある。
 ショーンが見ている地上から、二階の室内にいるクリスが軽く身体を揺すってジャンプし、準備を始めたのが見えた。彼が動きを止めて呼吸を整えると、スレートが鳴り、第二班監督の「アクション!」がかかった。
 クリスが転がるように身を伏せて、窓の外から飛び出してきて、一階の軒に落ちた瞬間だった。
 すごい音がして、軒ごと建物の屋根が陥没し、飛散するがれきと共にクリスがそのまま地上に落下した。
 きゃー!
 スタッフのつんざくような悲鳴が響いた。
 濛々とあがった砂埃であたりが見えなくなる。
 想定外の出来事だった。
 一気にショーンの血の気が引いた。吸っていた煙草を投げ捨てて、がれきの山に駆け寄る。
「埋まってる。早く、どかせ!」
 ショーンが叫ぶと、気付いたようにスタッフが集まりだし、木材や屋根のがれきをどかしだした。
 ……もしかしたら、クリスが死ぬかもしれない……!
 そう思った途端、身体を貫いたのは恐怖と後悔だった。
 嫌だ……!
「そっちの木材を持て!」
 ショーンは中心になって叫ぶように指示しながら、埃立つなか材木をよけていく。しばらくして、擦り切れたアルベルトのズボンの衣装が見えた。
 はっと息をのむ。
「いたぞ!」
 ショーンが叫ぶと、スタッフが集まり、集中的にそこのがれきをどかした。
「クリス! 大丈夫か! クリス!」
 ショーンの呼びかけに、挟まれている手が動く様子があった。
 涙があふれそうになった。
「生きろ、クリス! 生きろ!」
 スタッフ総勢でがれきを掘り起こしたのち、クリスがショーンの手によって抱え起こされた。
 感極まってショーンは彼を抱き寄せた。
「俺のスタントマンをやるなら、死ぬな! それが俺のスタントマンをやる条件だ! だから、死ぬな!」
 興奮して、彼が息をしているのかすらわからない。それがさらにショーンを混乱させた。
「クリス! 死ぬな! 俺のスタントマンはお前しかいない!」
「ショーン、救急車がきてる」
 気付くと、救急隊員が担架を持ってきていた。ショーンが腕の力を緩めると、奪うように救急隊員がクリスを抱えあげて担架にのせた。
 救急車に運び込まれるまで、ショーンは泣きながらついていった。
「クリス! クリストファー!」
 何度も彼の名前を呼んだ。
 反応がないのが怖かった。
 また嫌味の一つでも言って欲しくて、必死に名前を繰り返し呼んだ。
 ばたん、と救急車のドアが閉まる。そのとき、ドアの向こうで目をうっすらあけ、二本指をたてて震えるようにショーンに向かって敬礼する彼が見えた。
「あ」
 泣きべそかいていたショーンは目を大きく開けてそれを見る。
 救急車はけたたましくサイレンを鳴らして、遠ざかっていった。
 昼頃、助監督の元に、検査の結果、クリスに異常はなく、明日から現場復帰できるとの連絡が届いた。
 ワイルド監督よりも先に、助監督のイアンはショーンへそれを伝えてきた。
「よかったですね」
 本心から同情したような様子でイアンに言われて、ショーンはひどく自分が取り乱していたのに気づく。
 恥ずかしさに今更ながら身体が熱くなった。
 そして、わかった。
 あいつは、俺にとって、代替できない唯一の人間で、心から必要なんだ、と。
 
 撮影は折り返し地点を過ぎ、クライマックスへと近づいていた。クランクアップが見えてくると、クルーの気持ちは引き締まり、一体感が強くなった。現場にいてショーンはその感覚をひしひしと感じた。監督の指示への返事がみんなきびきびしているのからもそれが伺えた。
 撮影の出番待ちで、セット脇のディレクターズチェアに座ってショーンが紙コップでコーヒーを飲んでいると「となり、いいか」と声を掛けられた。
 顔を向けると、煙草を咥えたクリスだった。
 ショーンはちょっと表情を緩めて彼を見つめる。
「ああ」
 クリスは煙草にジッポで火を点けながら、イスに腰を下ろした。
 ショーンはコーヒーを飲み、クリスは煙草をくゆらせる。ドバトの声がセットの屋根の上でのどかに響いた。裏手では撮影が続けられていて、監督の声やスタッフの声がざわめきめいて聞こえてくる。
「先だっては礼を言うよ。ありがとう」
 煙草を口から外し、煙を吐き出しながらクリスは言った。
「無事でよかった」
 さりげなく言ったつもりだったけれど、思いのほか感情が滲んでしまってしんみりとした物言いになった。
 クリスはショーンを見、ちょっと微笑んだ。
「がれきの中で、息苦しいなか、ずっと、あんたの声が聞こえてた。意識が遠くなりそうなのに、あんたの声だけが頭に響いてた」
 ショーンは照れたみたいに笑う。ちょっと困惑したふうに前髪を掻きあげた。
「そうなんだ……あのときは必死で……。名前を呼ばずにいられなかったんだ。とにかく、助かってよかったよ」
 そう言ってから、手持無沙汰にコーヒーを飲んだ。
「ずっと、俺の名前を呼んでいてくれたんだね」
 クリスが目に穏やかな光を宿して、ショーンを見つめてくる。
 それに心臓が穿つように鳴った。
 俺のスタントマンはお前しかいない!
 そう叫んだ心持を思い出した。
 迫るように胸がぎゅっとなった。
 誰かを自分にとって唯一に感じたことなんて、なかった。
 ショーンは迷うように口を開く。
「俺にとって、おまえは……多分、すごく大事なんだ」
 え? とクリスが煙草を吸う動きを止めてショーンを見る。
 自分の心の内を見つめるように、ショーンは慎重に続ける。
「いつの間にか、おまえは俺にとって、失えない得ない存在になっていた。もしかしたら、こんなこと言われて、おまえは迷惑かもしれないけど」
 言いながらショーンの身体が熱くなってくる。
 これじゃ、まるで、口下手のティーンの恋の告白みたいじゃないか。
 恋?
 これは恋なのか?
 そう思った瞬間、あまりにバチリと空白のパズルのピースがはまった感覚に息をのんだ。
「俺は……」
 クリスが言いかけたとき、助監督のイアンが駆け寄ってきた。
「ショーンさん、出番もうすぐです。ヘアメイク直して準備お願いします」
 イアンに急かされて、ショーンはディレクターズチェアを立ち上がる。
「また、あとでな」
 ショーンが言うと、クリスは煙草を吸いながら目を細めて頷いた。
 セットへ急ぎながら、ショーンは彼が何か言いかけたのを思い出す。
 それがわずか心に引っかかりながらも、イスに座ってヘアメイクを整えられているうちにスイッチが入り、役柄に没頭した。
 撮影後、主役俳優に与えられるプライベートトレーラーで、休憩のため台本を見返しながら煙草を吸っていたら、備え付けの電話が鳴った。
 出ると、プロデューサーのジョーからだった。
『やぁ、ショーン。撮影は順調だね。どうだい調子は』
 このねっとりと絡みつくような声を、ここ最近聞いてなかった。
 ショーンは少し嫌な気分になりながらも、さりげなく応えた。
「万全です」
 ジョーは周囲を慮るようにわずか声量を落とした。
『実は君に内密な話がある』
「というと?」
『この映画で最高の演技をしている君には悪い話じゃないはずだ』
 ジョーは意味ありげなことを言った。なんとなく、次の映画のオファーかな、とショーンは察した。今の撮影は遅れてもあと数週間でクランクアップするだろう。だとしたら、次の作品のオファーは喉から手が出るほど欲しかった。
「わかりました。伺います」
 ショーンは応えた。
『今晩、撮影の後、マルマラビロッソホテルでディナーをご一緒できるかな』
 一瞬、ショーンは躊躇した。
 それは、つまり、身体の関係を強要されるということだろうか。
 ショーンは今気持ち的に誰にでも身体を任せられる気分ではなかった。
『心配しないでいい。食事をしてビジネスの話をするだけだ』
 察したようにジョーは言った。
 ショーンはそれに安心する。
「承知しました」
『撮影が終わるころ、現場に車をまわすよ。それに乗って来なさい。私は最上階のレストランテで待っている』
「ありがとうございます」
『君にとっていいチャンスになる。ハリウッドだけじゃない世界に羽ばたくことになる。楽しみだよ』
 ジョーはそう言うと、通話を切った。ショーンは静かに受話器を置いた。なぜだか、気持ちが思ったほど浮き立たない。もしかしたら、再び主人公を演じるチャンスかもしれない、素晴らしい映画監督やスタッフと仕事をできるチャンスかもしれない。それなのに、あまり嬉しくない。
 灰皿に置いていた吸いさしの煙草を口に当てる。
 しばらく考えていた。
 クセの強い『やりすぎ』な監督と、人の良い親切な助監督、ぶつかり合うスタント第二班監督と撮影監督、離反し反抗しつつも監督のわがままに一生懸命つきあうスタッフ……この撮影現場で過ごす時間が終わってしまうのが、ひどく寂しいのだ、と気付いた。
 そして、スタントマンのクリスと顔を合わせることが、もしかしたらこの現場で最後になるかもしれないということに、愕然とする。
 胸が突かれるように痛む。
 この現場を最後に、クリスと会えなくなる?
 そう思ったら、突き上げるように気持ちがこみ上げてきた。
 クリスと別れなくない。
 何よりも強く、ショーンはその想いをはっきりと認識した。

 撮影後、スタジオの外に出ると、白いロールスロイスが止まっていた。運転手が、ショーンの顔を見てドアを開く。
「あれ、ショーンさん、すごい車ですね。どこかお出かけですか」
 スタジオに入ろうとしていた助監督のイアンが不思議そうに声を掛けてきた。
「市街地のマルマラビロッソホテルのレストランテでプロデューサーと商談があるんだ」
 プロデューサーの車とわかって、イアンは納得したらしかった。
「うまくまとまるといいですね」
「ありがとう」
 ショーンは頷いて、車に乗った。滑るように車は動き出し、夕方の少し混雑する道路をスピードをあげて走っていく。
 間もなく、車はホテルの車寄せに入った。ショーンは一人で降り、ドアマンにエントランスへ通される。
 今日はたまたまティシャツに紺のジャケットとスラックスという服装だった。なので、レストランテのレセプションでは止められることなく、窓際でシャンパンを飲んでいるジョーのテーブルに通された。
「やぁ、よく来てくれた」
 テーブル越しに彼が握手を求めてくる。ショーンがそれに応えると手の質感を堪能するように包むみたいにして両手で握られた。給仕が引くイスにショーンが腰をおろすと、名残惜し気に手を解放された。
 それにちょっと気持ち悪い気がした。
「なにやら、現場ではさまざまな事件が起こっているようじゃないか」
「派手なアクションシーンがある映画なので、多少は仕方ないと思いますよ」
 ショーンは擁護する口調で言った。
「なに、非難しているわけじゃない。ワイルド監督が存分にやっているようで嬉しいんだよ。彼はこの映画でその評価を確実なものにするだろう」
 ショーンのグラスにもシャンパンが注がれて、二人はグラスを持ちあげて口にする。
「この撮影の間に、君は大分、色っぽくなったね」
 ジョーが濡れたような目で見つめてくる。ショーンは構わず言った。
「痩せたかもしれません」
「じゃ、部屋で確認しようか」
 ショーンが息をのんでジョーを見る。
「すいません、俺、そういうのは嫌です」
 ショーンははっきりとした口調で言った。
「なるほど」
 ジョーはしばらく沈思するように見つめてから、笑った。
「冗談だよ」
 その言葉に安堵して、ショーンはシャンパンを飲む。心臓が嫌な風にどきどきしている。
 もしかしたら、これは、次回作のオファーなんかじゃなくて、罠だったか。
 自分のうかつさに歯噛みする思いがした。
 ジョーは腕を組んで、難しい表情で口を開いた。
「しかし、いい現場だが、アルベルト役のスタントマン。あいつはちょっと邪魔だな」
 ショーンが眉間を寄せる。
「どういうことですか」
「何かをかぎまわっている」
 意味を問おうとした途端、身体の力がガクンと抜けた。
「っ……」
 懸命に倒れるのを堪えようと、テーブルに腕をつく。シャンパングラスが倒れた。クロスがずれて、激しい音を立てて皿とフォークがテーブルの下に落ちる。
 ジョーが笑みを湛えてその様子を見ているのがわかった。
 なんだ、これ……! 
 空きっ腹にシャンパンを飲んだのが効いたのか、甚だしく眩暈がする。
 視界が渦巻くようにぐるりぐるりと揺れる。
 おかしい、と思った。
 いくら酔っぱらってもこんな酔い方したことない。
 やばい、と思った瞬間、イスの背に身体を委ねるようにして倒れた。
 ジョーが口角をあげながら近づいてくる。
「これでお前は私のものだ」
 生臭い息を吐いてジョーが囁くのが、聞こえた。

 身体は動かないのに、うすぼんやりと意識だけはある。そんな状況だった。
 ホテルスタッフだろうか、数人の男に、レストランテからホテルの部屋に運ばれる。部屋に入る前、ショーンは力を振り絞って、なんとかドア前にわずかなサインを残した。
 どさり、とベッドに横たえられる。
 笑みを浮かべたジョーがのぞき込んでいる。
 かちり、と部屋の鍵が閉められた音がやけに大きく聞こえた。
「やっと二人きりになれた」
 ジョーが笑いながら、ショーンの服を脱がしていく。デニムに手を掛けながら、その下肢を撫でるようにまさぐられる。
「きみの身体が、ずっと欲しかった」
 素肌を節ばったごつごつの指にさすられる。
 嫌なのに、抵抗したいのに、身体が動かない。声が出ない。
 きっとシャンパンだ。あれに何か入ってた。
 そう思ったけれど遅かった。
 ティシャツとデニムを脱がされ、下着をむしり取られる。
「とてもきれいな身体だ。ギリシア彫刻のような陰影をたたえた白さ。グイド・レーニの聖セバスチャンのようだ」
 指が、這う。
 唇が押し当てられる。
 気持ち悪い……!
 たすけて……だれか。
 ……クリス!
 心が焼け切れそうなほどの思いで、声なく叫んだときだった。
 戸口でものすごい音がした。みしみし、とドアの蝶番が軋んで音をたてた。
 びっくりして表情を強張らせ、ジョーがドアの方を見る。
「何事だ!」
 ドアの向こうから緊迫した声が轟いてくる。
「ジョー・ハラー! 開けないと、ドアを蹴破るぞ!」
 ジョーの顔色が変わる。
 再び、部屋が揺れて天井から埃が落ちてくるくらいの振動で、ドアが蹴られる。ジョーはあたふたして、ショーンとドアをかわるがわるに見た。
「開けろ! 既に警察にも連絡している! 大事になる前に、ここを開けるんだ!」
 叫び声が響き、もう一度、ドアが蹴られる。
 びきん、と音を立てて蝶番が片方外れた。ジョーは足早にドアへ駆け寄り、開けた。
 ベッドで横たわるショーンの目に、転げ込むように駆け寄ってきたクリスが映った。
 あ……つながった……。
 そう思い、ほっと安堵した瞬間、ショーンはそのまま意識を失った。

 目が覚めると、真っ暗で、デスクライトだけついていた。そのほの明かりを背後にクリスが煙草を吸いながらこっちを見ているのが目に入った。
 ショーンはベッドにいた。
 ゆっくりと身体を起こす。少し関節に違和感があったが、動いた。多少頭痛がする気がする。
「ここは?」
「デメヒコホテルの俺の部屋だ」
 デメヒコホテルは撮影でクルーとキャストが使っているホテルだ。
「ジョーは?」
「暴行・監禁容疑で拘置所に送られた。明日の新聞は大騒ぎだな」
 ショーンがはっとする。
「映画は?」
「わからない。プロデューサーが逮捕されたとなれば、もしかしたら、インベスターやスポンサーは解約を申し出てくるかもしれない。そうしたら、撮影は続けられないかもしれないな」
 ショーンの胸がしゅんとして激しく痛む。
「俺……大変なことをしてしまった」
「あんたが悪いんじゃない。悪いのは、ジョーだ。俳優に股を開け、なんて悪習はあってしかるべきじゃない。ましてやそれを薬もって無理やりさせるなんて言語道断だね」
 ショーンはしばらく黙り込んでいた。
「煙草、くれないか」
「いいよ」
 クリスが立ちあがり、自分の煙草をソフトケースから取り出してショーンの唇に咥えさせた。ジッポで着火されるなり、ショーンは大きく吸って、煙を吐いた。
「あんたに言いたいことがあってトレーラーに行ったんだ。でも、もう帰ったあとだった。そしたら、助監督のイアンに会って、ショーンはプロデューサーに会いにマルマラビロッソホテルへ行ったって聞いたんだ。やばいな、と思って追って来た。ホテルスタッフに訊いたけど、口を開かない。多分、スイートだろうと見当はつけてエレベーターであがってきたけど、確証がない。でも、あんたがサインを残してくれたから、すぐわかったよ」
 煙草を吸いながら、ショーンはうっすら笑う。
「わかったか」
 クリスはうなずく。
「『ハンカチ』だ。いつだったか、あんたがヒッチコックの『鳥』の話をしたときに言っていた。鳥が襲う家の前に、ハンカチが落ちてる、とかちょっとした『危険』のサインがあるだけで怖くないのになって。スイートの部屋のドア前にハンカチが落ちてた。しかも、あんたのイニシャルがついてるやつだ。間違いない、ここだ、ってね」
 つながった。
 ショーンがそう思った感覚は、これだった。ちょっとした他愛もない会話だったのに、クリスは覚えていてくれた。そして、自分を助けてくれた。
「クリス、好きだ」
 感情が噴出するように我慢できず、ショーンはクリスに告げた。
「俺はおまえが欲しい」
 そんなこと言うのは、あからさまで下品かもしれないと思った。でも、心からの気持ちだった。
 友情として曖昧にされたくなくて、恋愛的に好きだ、という気持ちをはっきりと伝えたくて、ショーンは言葉をつないだ。
「おまえに抱かれたいよ」
 クリスは大げさに驚いたり、蔑んだり、卑下したりしなかった。ただ、淡々と少し切ないような微笑を浮かべてショーンを見つめていた。
 急に、ショーンはひどく自分が馬鹿なことを言ったと不安になる。今まで男にも女にも言い寄られたことはあるし、容姿はそれなりに自信があった。でも、クリスを前にしたら、こんなにも自分自身が頼りなくなる。
 それを察したように、クリスはデスクライト下にある灰皿に煙草を押し付けた。
 立ち上がり、ショーンのベッド傍まで来ると、腕をぎしりとベッドサイドにのせて身体を傾け、唇を重ねてきた。
 男らしくて少し厚めの柔らかな唇だった。スモーキーな煙草の苦さが香った。触れた微熱は溶け入るように染み込んだ。じわ、と胸の奥が熱くなった。そしてきゅうきゅう引き絞られるように甘く苦しくなった。
 もっと、欲しい。
 その熱を、もっと感じたい。
 ショーンが顔を傾けて、さらに深く唇を貪ろうとすると、彼は身体を離した。
 ショーンは瞼を動かして、クリスの顔を仔細に見つめる。クリスは少し眉尻を下げて、困ったような顔をした。
「あんたに言わないといけないことがある」
「なんだ」
 クリスはしばしうつむき、躊躇した。
「クリス?」
「もう少し、時間が欲しい。状況を見てその時がきたら、話す」
 ショーンには、クリスが言い訳しているようにしか感じられなかった。
「俺も、男とやるのは初めてだよ。でも、おまえとだったらいい。好きにしていい。女みたいにしていいから」
 クリスは宥めるように笑った。
「違うんだ。そういうことじゃない。ただ、今、あんたと身体をつなげたら、俺は確実にあんたに溺れる」
「え?」
「あんたとそういう関係になっちゃいけないんだ」
「どういうことだ」
 クリスはベッドサイドに腰を下ろし、優しい所作でショーンの髪を撫でた。
「その時がきたら話すよ。それまで待っててほしい。俺もあんたが好きだ」
 ショーンはしばらくクリスを見つめていた。彼はただわずか苦しいような色を映して無言でショーンを見つめるばかりだ。その言葉に嘘はないとショーンは信じる。
「ほんと? 俺のこと、好き?」
「好きだよ」
 そう言って、クリスはショーンにもう一度唇を重ねてきた。触れた先から感情が伝わってくる。ほんの僅かな接触なのに、想いが染みるそのキスに、ショーンは陶然とした。
「わかった。おまえがいう『その時』まで俺は待ってる」
「ありがとう」
 ショーンはベッドから起き上がる。
「明日撮影があるかわからないけれど、とりあえず部屋に戻るよ」
「ひとりで眠れる?」
 クリスに訊かれて、ジョーに襲われそうになった恐怖がよみがえる。途端、関節がおかしな具合にがくがく震えだす。
 自分が思っていた以上に恐れを抱いていたのを知り、口を抑える。
「お、俺……」
 震える声でそう言ったとき、慰めるみたいにクリスの大きな腕で抱きしめられた。クリスの温もりを感じた途端、震えは止まった。
「朝までここにいたらいい。俺がそばにいてあげるよ」
 そう言って、クリスはショーンを抱きしめたままブランケットにもぐりこんだ。何か言おうとするショーンに、クリスは微笑む。
「何もしない。あんたはただ、リラックスして寝てればいい」
 じわっときた。
 ずっと、ひとりだった。
 どんな夜もひとりで越えてきた。
 どんな辛いこともひとりでやりのけてきた。
 たまに男に触られて、女と一晩過ごすときは、打算付きだった。
 大概のことはひとりでなんとかできると信じてきた。
 なのに、こんな風にクリスに手を差し伸べられることがこんなにもありがたく、嬉しかった。
「クリス」
 ショーンは彼の胸にすがるように顔を押し付けながら、その日向臭い匂いを感じた。
 本当に、心から、この男が好きだと思った。
 彼の匂いと温もりと肌の感触を感じながら、いつの間にかうとうとと安らかな眠りに落ちていた。
 
 翌朝、ホテルには報道陣が詰めかけ、新聞紙上も大騒ぎだった。
『ワールドシネマ配給会社プロデューサーのジョー・ハラー出演俳優に薬を盛ってセクハラ!』
 その驚愕的なニュースはアメリカ中をとどろかせた。
 とてもじゃないが、映画の撮影をできる状況ではなかった。
 映画のメインスポンサーだった大手電機メーカーと飲料メーカーがスポンサーをおりる、と配給会社にクレームをいれた。
 どの会社もプロデューサーのセクハラ問題は容易に看過できるニュースではなかったのだ。
 しかも当時キリスト教徒が大半を占めるアメリカでは男色はタブーだった。ジョーは徹底的な非難の的になった。
 朝食をとるために行った食堂ホールで監督から事情を話され、スタッフとキャスト全員にしばらく部屋で待機、と指示があった。
 自分のせいで撮影が中止になったと思ったショーンは自己嫌悪に陥っていた。部屋にもどったショーンは、片隅で小一時間ほど膝を抱えて椅子の上に小さくうずくまっていた。
 少し泣いて、やけになってベッドの上のものをたたきまくり、そしてまた少し泣いた。
 部屋のドアがノックされる。
「誰」
「俺だよ」
 ドアを開けると、クリスが立っていた。彼を中に入れる。
「荒れてるんじゃないかと思って」
「荒れてなんかない」
 ショーンは言い張るなり、みるみる涙が目に溢れてくる。その頭を抱えるようにしてクリスは胸に押し付けた。
「大丈夫だ」
「なんでそんなこと言えるんだ」
「大丈夫だから」
「どこが大丈夫なんだよ」
「大概のことが、世の中ではなんとかなるんだ」
「なんとかならないこともある」
「大丈夫だよ」
 しばらく、クリスの胸に顔を押し付けて泣いた。
「自分を責めちゃいけない。あんたはなにも悪いことしてないんだ。あんたのせいじゃない。それはちゃんとわかってほしい」
 ショーンは真っ赤に腫れた目でクリスを見つめる。
「でも、俺がもし素直にジョーの言いなりになっていれば」
「違う。それは間違っている」
 間違っている、と。
 そう指摘されたことに、ショーンははっとする思いがした。
「好きでもないやつに、身体を渡したらいけない」
 今までだってそうやって、うまく物事をすすめてきたことはあったのだ。
 ちょっとの時間、我慢すればいい。
 そう思って、他人に身体を触らせたこともあった。女なら寝所を共にしたこともあった。
 それで融通がきくことだってたくさんあった。
「間違ってなんか、ないだろ。おまえだって、あるだろ。たとえばある程度の金が必要な時に、女と寝ること、あるだろ。その相手がジョーだっただけだ。ビジネスの融通をきかせるために、ジョーと寝ることは間違ってるのかよ」
「間違ってる。しちゃ、だめだ。ビジネスの対話でも、守るべきものは守らないといけない。心も身体も、自分のものなんだから。ちゃんと守らなきゃ、だめだ」
 ショーンは困惑したように涙目のままクリスを見つめる。
「俺はなにも悪くないのか?」
「なにも悪くない。あんたは正しい」
 ぐっとこみ上げてくるものがあって、ショーンはクリスの首筋に腕を回して抱きついた。
「俺が全部悪いと思ってた。俺がすべてをぶち壊しにしたと思ってた。最高の撮影現場だったのに。どうしたらいいかわからなくて、死のうかとまで思った」
「死んだらだめだ。全てのことはなんとかなるようになってるんだ」
 クリスに優しく背中を叩かれて、ショーンはしゃくりあげるようにしばらく嗚咽をあげていた。
 クリスはショーンをときに抱きしめ、ただ黙って添い寝して、ずっと傍にいた。
 翌日、スタッフとキャストには撮影中止が配給会社から通達された。
 メキシコシティ国際空港の窓際に面したカフェでコーヒーを飲んでいたショーンのもとに、煙草を咥えたワイルド監督がやってきた。彼はイスを引いて、ショーンの隣りに座った。
「私は諦めてないよ」
 彼はサングラスをしたまま日焼けした顔を向けていった。
「この映画はなんとしても完成させる。残りが自主製作になったとしてもね」
 ワイルド監督は煙草を口から外し、灰皿に押し付けた。
「そのときは、また主人公アルベルトとして協力してほしい」
 ワイルド監督のこの映画に賭ける並々ならぬ決意を見た気がした。
「もちろんです」
 ショーンが力強く応えると、にやり、と口端を持ち上げて、彼は笑った。
「君の一撃は、ジョーだけじゃない。映画界へのいい一撃だった。まるでカシアス・クレイの左ジャブだよ」
 そう言って、ワイルド監督はジャブの真似事をし、ショーンの肩をたたいて、席を立った。
 そうだ、言い忘れた。
 歩きかけていたワイルド監督は足を止め、振り返る。
「君は、とてもいい役者だ。私が今まで会った最高の役者だよ」
 サングラスの下、微笑むようにワイルド監督はそう言って、去って行った。

 配給会社からは、撮影中止のうえ名目上、ショーンはアパートでの待機を命じられた。
 社内ではお偉方を交えていろいろ協議されているらしい。
 世論では被害者のショーンに対して同情的な意見が多く、その映画の撮影中止に対して抗議の電話が会社にもかかってきているらしい。
 しかし、改めて出資してくれるインベスターもスポンサーも見つからない状況だった。
 ショーンは撮影再開の望みをつないでいた。
ワイルド監督は常人には考えられないような情熱をもってこの映画を作っていた。彼だけでなく、多くのスタッフやキャストが苦労しながらも、今まで自分たちがみてきた素晴らしい映画と同じように、この映画もいつか誰かの希望になるかもしれない、と願いながら全力で制作にあたっていた。それらを考えたら、この映画の製作は継続される、と信じたかった。
 いつか再開する撮影日のために、ショーンはより一層残りの台本を読み込み、感情を考え、状況を想像し、セリフと演技の練習を部屋でひとり、続けていた。
 その日、ハリウッドでは珍しく、小雨が降っていた。
 ドアベルが鳴った。
 時計を見ると、昼を少しまわった時間だった。
 ショーンがドアを開けた途端、目の前に紙袋が差し出された。目を上げると、そこには紺色のスーツ姿のクリスが立っていた。水色のネクタイを締めて髪を綺麗に整えていて、一瞬、誰だかわからなかった。
「ランディーズドーナッツ」
 彼はずいと紙袋を押し付けてきた。
 雨が降っているのに袋は濡れていなくて、彼が着ているジャケットで覆って持ってきてくれたらしいのがわかった。
「ドーナッツ?」
「甘いの好き?」
「好きだけど」
「入っても?」
 いいよ、とショーンはドアを大きく開けた。彼のジャケットが雨でぬれていた。雨の匂いがふわりとした。
「どうして、ここが?」
 ショーンが訊くと、彼は部屋を見て、テーブルに台本が広げられているのに気づき、逆に尋ねてきた。
「演技の練習してたの?」
 ショーンは当然だというふうに頷いた。
「撮影は再開されると思う?」
「どうだろう……でも、再開されると信じてる」
 クリスはショーンをしばらく見つめていた。
 肩をすくめて息を吐き、うなずいた。
「あんたに言いたいことがある」
 ショーンはゆっくりと顔を上げて、クリスを見た。
「なんだ?」
 クリスはショーンをじっと見つめた。ほんの微かに息を吸い、吐き出すように言葉を告げた。
「実は俺はスタントマンじゃない」
 ショーンは目を見開く。
「だとしたら、すごいな。あんなスタントできるのは……普通じゃ無理だ」
「もとはFBI特別捜査官の出身だ。理由があって、ショーン・ガーラント……つまり、君の身辺と能力、適性、その他もろもろを調べていた」
 ショーンは眉間を寄せる。
「どういうことだ?」
「俺の雇い主は、先日亡くなったハリウッド財閥経営者ローリー・ロチェスターだ。彼には事故で亡くした前妻との間にこどもがいた。そのこどもは母親が亡くなるとともに孤児院に預けられた。当時、ローリーには恋人がいて、こどもを引き取るつもりがなかったんだ。その恋人とは結婚して家庭を築いたが、こどもができなかった。そして、その後妻は晩年、ローリーを残してモナコの財閥子息と夜逃げしてしまった。歳をとり死期を悟ったローリーはもうすでに成人しているはずの前妻のこどものことを思い出した。彼は系列傘下の会社社員を想い、万一彼が死んだ後も、その会社や財産をきちんと管理できるのか、そのこどもの能力と人間性を調べてから遺産を全て相続したいと遺書に残した。それを見極める仕事を任されたのが、俺だ」
 ショーンは眉をひそめる
「なにを言っているんだ?」
「ローリー・ロチェスターのこども、それがすなわち、ショーン・ガーラント、君だ」
 間々あったあと徐々に瞠目し、ショーンは手で口を覆う。
「嘘だろ」
「嘘じゃない。こんな嘘をついたところで、俺にはなんの得にもならないよ。俺は、この数か月、君のそばにいて、仕事をみてきた。俳優としても、人間としても、申し分ないと判断した。君は、ローリー・ロチェスターのすべてを継ぐにふさわしい人間だ」
 ショーンはしばらく黙り込み、素早く頭の中を整理し、そして難しい表情をする。
「その話を信じるとする。もし、俺がその権利を放棄したら、ローリー・ロチェスターの会社や財産はどうなるんだ?」
「莫大な財産はすべて孤児院に寄付され、会社はしかるべき手順をふんでふさわしい人物を他に求めることになる。でも、俺、個人的には」
 クリスはわずかに顎を引いて、決意するように言った。
「君にすべてを継いでほしい」
 クリスは続けた。
「そして、『西部の風』のスポンサー権を獲得したらいいと思う」
 ショーンは息をのんだ。
 クリスの言いたいことがわかった。
 言葉を失ったまま、ショーンはクリスの成層圏みたいなきれいな青色の目を見つめていた。
 しばし考え込み、そしておもむろにショーンは口を開いた。
「条件がある」
 クリスがショーンを見る。
 ショーンはとびっきり綺麗な笑顔でにこりと笑って、紙袋を持ち上げた。
「コーヒーをいれるから、ランディーズドーナッツを食べながら話そうぜ」
 
 
 劇場内は割れんばかりのスタンディングオベーションで満ちていた。
 ショーン・ガーラント主演『西部の風』は試写会の段階から全米で高い評価を受け、封切と同時にヨーロッパ各国でも上映されて、評論家からは近代西部劇の傑作との声があがっていた。ショーンが経営を引き継いだ大手金融会社も、ショーンが社長となったことで話題となり、さらに『西部の風』のスポンサー会社となったことも大きな宣伝となった。ショーンは経営者であり、そして会社の看板俳優でもあった。
 舞台にあがったショーンは、司会からひとこと求められると、謙虚さを滲ませる笑みを見せながら応えた。
「俺が今ここに立てているのは、コヌフロワの素晴らしい脚本と、ワイルド監督の情熱とあふれる才能、それを支えたすべての力あるスタッフとキャストの努力のおかげです。ありがとう」
 劇場内の拍手が一際大きくなる。
 ショーンは笑顔で手を振り、舞台をおりた。舞台袖の階段を下りてきたショーンの傍にスーツ姿のクリスが来る。
「次は、夕方5時からチャイニーズシアターで舞台挨拶」
「了解、相談役」
 ショーンは頷く。
 ローリー・ロチェスターの全財産と会社経営を引き継ぐ代わりにショーンが提案した条件は、こうだった。
 クリスがショーンのマネージャー兼相談役をすること。そして、映画では引き続きショーンのスタントダブルをやること。
 しぶしぶながら、クリスはそれを受け入れた。
 彼は、ショーンの身辺を調査するに際し、ワールドシネマ配給会社の内部事情について調べ、プロデューサーのジョーがショーンを狙っていることを知った。また、ジョーが行きつけにしているメルローズアベニューのホテルを調べるにつけ、レストラン支配人に金を渡し、ジョーがミッキーフィンという……戦後の港で帰還軍人の意識をもうろうとさせ金をかっぱらうために振舞われた麻薬をまぜた……違法な酒を役者に提供して意識を失わせ、その身体を好きにしていることが発覚した。そのことでクリスはジョーに、警察につきだすこともできると脅して、一旦ショーンから引き離した。
 撮影現場では、遠巻きながらショーンを守ると同時、観察した。彼の様子を伺うために、嫌味なことを言ったりもした。どんな反応も、クリスにとっては『合格』だった。微笑ましかったらしい。
 そして、マルマラビロッソホテルではショーンを好きにしようとしたジョーを捕まえるに及んだ。
 その手腕すべてを……微笑ましかった云々はとにかくとして……ショーンは買った。
 彼のマネージメント力はなかなかだった。楽屋へ歩きながら、ショーンは上機嫌で言った。
「おまえなら、ビジネススパイもできそうだな」
 ショーンが言うと、クリスはうんざりした表情で返した。
「あんたのマネージメントと相談を受けるのが仕事だ。スタントは趣味だぜ。それ以外はお断りだね」
「じゃ、今晩、チャイニーズシアターでの舞台挨拶の後、俺とディナーを一緒する仕事はどうだ?」
 クリスの表情がにやりとなる。
「それは謹んでお受けするよ。仕事じゃない」
「仕事じゃないのか」
 ショーンはくすくす笑う。
「もちろん、仕事じゃないさ」
 クリスがショーンの前に腕を出す。
 ショーンはその腕を取り、互いにわかるくらい微笑み合い楽屋への廊下を歩き出す。

 チャイニーズシアターでの舞台挨拶も大盛況だった。十分以上もスタンディングオベーションが続いた。
 ニューヨークのうるさい批評家にも絶賛されたこの映画の反響は思った以上にすごかった。
 午前と午後の舞台挨拶を終えて、少し興奮気味にクリスと共にホテルレストランでディナーをとったショーンは、ハリウッドの夜景が一望できる最上階の部屋にクリスを誘った。
 が、やはり気分が高揚していたのか、少し飲み過ぎた。
 グランドピアノの置かれたリビングダイニング、白い大理石のキッチン、広くて清潔なシャワールーム……夜景を一望できる窓のある寝室にベッドをみつけるなりショーンは倒れ込んだ。
「少し寝かせて……」
「ゆっくり休んでいいよ」
 クリスに誰よりも優しく髪を撫でられて、気持ちよさに気を失った。
 目を開くと、ライトが消えていて、暗い中浮かび上がるように窓の外に街灯りが見えた。まるで色とりどりの小粒のドロップキャンディみたいにきれいだった。
 身体を起こすと、デスクライトひとつでクリスが煙草を吸っていた。
「眠くないのか」
 ショーンが言うと、彼は気付いたように顔を向けた。
「今はね」
「俺は……おまえが寝ているところを見たことがない気がする」
 ショーンが言うと、クリスは軽く笑った。
「俺だって人間だ。寝るときはあるよ」
 ショーンはだまってうなずき、彼が掛けてくれたらしいブランケットを持ち上げる。
「こいよ」
 クリスは煙草を押し消して、立ちあがった。デスクライトを背後にして、彼がベッドへくる。
 途端、肩を抑えてキスされた。
 煙草の味がする。
 柔らかく、唇に挟まれて、吸われる。
 淡く吐息がこぼれた。
 好きなやつとのキスが、こんなに気持ちいいなんて。
 触れた先からとろけていきそうな感じがする。
 クリスの舌が入ってくる。それは、ちろり、と軽くショーンの舌を舐めて去って行った。
 それにさびしくなる。
「もっと、して」
 ショーンはそう言って、顔を寄せ、クリスに咬みつくようなキスをする。自分から舌を挿し入れて、のたうつようにその口内を撫でまわす。
 ん、とクリスが鼻にかかった声をあげる。その肩を掴み寄せて、もっと深く唇を堪能する。彼の唇は少し堅めで、弾力めいていた。その唇に音たてて吸い付く。クリスはもどかしげにため息を吐いた。
「なぁ、嫌じゃなかったら、触ってほしい」
 ショーンは上目遣いに言って、クリスの手を下肢にもっていく。キスだけで、そこはすでに兆していた。
 静かにクリスが息をのんだのがわかる。
「いやか?」
「いやじゃないよ。俺とキスするの、気持ちいいんだね」
 クリスは目を細めて確認するようにショーンを見つめてくる。
「当たり前だろ。俺はおまえが好きなんだ」
 言った途端、ベッドに背中を押し付けられた。手荒く、スラックスを下着ごと脱ぎおろされる。屹立したそれが、ふるりと天を衝く。その膝を抱えて食らいつくようにして、咥えられ、頬張られた。
「あ」
 びくんと身体がしなる。敏感な部分が、ぬめっとして温かい口内に包み込まれる。
「なっ……」
 そのまま貪るようにしゃぶりつかれた。じゅぷじゅぷと音を立てて、ヌードルでもすするみたいに、クリスに愛し気に口淫される。
 クリスが、俺の、しゃぶってる……。
 その光景に、心臓が飛び出しそうなほど脈打つ。
「あぁ……」
 身体を震わせながら、クリスの金髪を撫で混ぜる。
 たまらなかった。
 下腹部が張り詰めていく感じがする。甘く快感が渦巻くように滞っていく。
 多分、先走りが滲み出てる。
 恥ずかしい……そう思ったら、クリスは天上の蜜の滴りでも味わうかのように恭しく舌を這わせ、そして強く先端を吸引した。
「あっ」
 弾かれたように、射精した。
 クリスの顔に粘ついた白濁がかかる。
「ご、ごめん……」
 ショーンが慌てて、あたりを見回す。タオルか何か拭えるものがないかと思ったのだ。なのに、クリスは厚ぼったい舌を伸ばして鼻先から滴る粘液を舌で拭いとり、唇についた蜜液を舐めた。
「おまえ……そんなん舐めて……」
 はっきり言って、自分だって舐めたことない。クリスは手についた精液をやたらうまそうにしゃぶっている。ふと、疑問がわく。
「うまいのか?」
「舐めてみる?」
 彼がショーンの蜜汁に濡れた中指を差し出してくる。
 鼻を寄せて匂いをかぐ。
 青臭い、独特の匂いだ。
 ショーンは眉間を寄せる。
「やだ、舐めないよ」
「あんたの味がして、身体が疼いてくるんだ。たまらなく、極上の果汁だよ」
 そう言って、甘い棒飴でもしゃぶるように、クリスはショーンの欲望に濡れた中指を口に入れた。じゅぷぷ、とさっきまでしていたフェラみたいに指をすすった。
 口の中でなぶられていたのを思い出す。クリスのざらついて男らしい大きめの舌は辿るように茎をたどっていた。
「俺も舐めたい」
 ショーンは身体を起こして、クリスのスラックスの前立てを寛げる。窮屈に張り詰めていたそこは、勢いよく飛び出してきた。
 先端を舌先でれろれろして焦らすようにすると、クリスは腰をわななかせた。
 掴んで口に入れるといっぱいに弾力が満ち、彼の匂いを感じた。
 下肢がむずつく。
 なんだ、この感じ……咥えただけなのに、すごく、どきどきする。
「はぁ……ショーン……」
 クリスが感極まったような声で髪をまさぐってくる。
 気持ちいいのが伝わってきて、ショーンも胸の奥が軋むようにきゅうきゅうする。
 さっきクリスにやられたみたいに、喉の奥を引き締めて唇をすぼめて、顔を前後させる。
「あぁ……気持ちいいよ………すごく、素敵だ……あんたの口は最高だね」
 クリスがもどかしげに腰を揺らしながら喘ぐ。それにショーンは嬉しくなる。飲み込むように吸引して口内を真空状態にしながら、唇で扱いてやった。
「ショーン……だめだ、そんなにハゲシクされたら、イっちゃうよ……イっちゃう……」
 だめだ、と言いながら、クリスはショーンの後頭部を抑えて腰を押し付けてきた。
 がふ、とえずきながら、彼を喉の奥まで迎え入れる。
 苦しいのに、自分が感じてるのがわかる。勃起している。全身が鳥肌立つように敏感になっている。
「んーっ、ん、ん、んっ」
 喉の奥を突かれる。
 そのたびに、下肢が痺れるように反応した。
 苦痛なのに、クリスに与えられるそれは、倒錯的な快楽に変化した。
「う、うーっ」
「ショーン、気持ちいいよ。すごくいいよ」
 しゃくりあげるように腰をつかわれる。
 嘔吐感がこみあげてくる。
 目が涙でいっぱいになる。
「ぐ、ぐぅっ、うぅ」
「出るよ」
 言うなり、顔にかけられた。
 熱がべっとりと鼻から頬に滴る。息を荒くしながら、ぼんやりとショーンはそれを舐めた。
 変な味。
 なのに、これがクリスの味だと思うと否応なく興奮する。
「大事にするよ。いれていい?」
 耳朶を甘く咬まれながら、囁かれた。ショーンはうっそりとうなずく。
「ハンドクリームでいいかな」
 そう言って、クリスはポケットから容器を取り出した。回してフタを開け、ひとさし指ですくう。ショーンは不思議そうにのぞき込む。
「男同士って、ハンドクリーム使うのか」
「濡れないからさ。なんか滑るものがないと、ケガするんだよ」
 ショーンはちょっと笑う。
「おまえ、そういう知識、どうしたの?」
「知りたい?」
 クリスは意味深な笑みをする。ショーンは複雑な表情をする。
「俺以外の男と経験があるってことかよ」
「あんたとするために、ヒル・ストリートにあるゲイバーでやり方を聞いてきたんだよ。カクテル二杯とお触り程度で教えてくれた」
「まさか……」
 ショーンが目を大きくすると、クリスは首を横に振った。
「話で聞いただけだよ。実践ははじめてだ。ただ、教えてくれた男が言うには、大事に思いながらするセックスなら挿入なんて必要ないかもよって。どうする?」
 そう言って、クリスは問うようにショーンを見つめた。
「俺はおまえの特別になりたい」
 はっきりとした口調でショーンは言う。
「俺もあんたの特別になりたいよ」
 クリスは囁くように耳朶にキスしてきた。
 それにたまらなくなる。
 ショーンはワイシャツもすべて脱ぎ放ち、全裸になってクリスに卑猥に股を開いた。
 こんな格好するの、こいつにだけだ。
「いいよ。こいよ」
 ショーンが言うと、クリスは切ないような視線で見つめてきた。そして、脱ぎかけのスラックスとシャツを脱ぎ捨てた。
 のしかかるように、クリスがキスしてくる。濃厚でねちっこくてとろけそうに豊潤な甘いキスだ。ショーンはその絡みつくような舌としゃぶりついてくる唇に夢中になる。
 そうしながら、指が入り込んでくる。
 痛いような違和感に身体を強張らせると、キスで宥められる。そして再び指に中を掻きまわされ、広げられていく。変な感じに、びくりと震えると、再び甘美なキスで誤魔化される。
 そうしながら、いつの間にか、指が三本も入れられていた。
「すごいね。ショーンのアナルの襞が薄く伸びて、俺の指を三本も咥えてる。エッチだね」
「ど、どうしょう……なんか、ちょっとむずむずするんだ」
 クリスはびっくりしたようにショーンを見下ろす。
「どのへんが?」
「なんか、腹の奥だよ。ジンジンしてる」
「そいや、中指一本挿しこんだ第二関節あたりのところ腹側に性感帯があるって言ってたな」
 そう言うと、クリスは掌を返し、くりくりと指先を動かしだした。
「うぁっ」
 突かれたように身体を跳ね上げて、ショーンは涙目になってクリスの手を抑える。
「だめ」
「だめ?」
「強すぎる」
「これが?」
 クリスは抑えるショーンの手に構わず、再び抉るように指先を動かした。
「んあぁっ」
 白い喉をのけぞらせて、背筋をおののかせる。涙が一筋、頬を伝った。熱芯はぷるぷる震えながら勃起している。それはあからさまな快感の現れだった。
「やだ。こわい。すごい。やめて」
 クリスはしばらくじっとショーンを見つめていた。彼は優しくショーンの涙が伝った頬を舐めてキスをした。
「やめるね。そしたら、また今度しようね」
 うん、とショーンは頷く。
「入れていいかな」
「いいよ」
 ショーンはクリスの首筋に腕をまわす。ゆっくりと、クリスが身体を寄せて、その熱が挿入されていく。
 それは、言い得もせず、快感だった。
「はぁっ……」
「いいの?」
 クリスに訊かれて、うなずく。
 初めてなのに、すごくよかった。
 つながる、という肉体的行為に、これほど満たされた幸福感があるというのは初めての経験だった。
「動いても大丈夫?」
「いいよ」
 クリスに腰を支えられて、浅くゆるゆると動かされる。
 秘口がびくびく痙攣しているのがわかる。たまらず愉悦の痺れに貫かれた。
「あ、うぅっ……」
「いいんだね。もっと深くいれるよ」
 様子を見るみたいに、クリスは腰を寄せる。さっきよりも大きく、揺すられる。
 擦られる幅が大きくなるだけ、快感の余韻も響くらしかった。
 いつまでも、緩い動きしかしないクリスにじれったくなる。
 炙られるようにじりじりと身体が熱に疼く。もどかしさに身をよじる。
「もっとっ……」
 耐え切れず、ショーンはいやらしく腰をしゃくりだす。
「あげるね」
 腰を掴まれて、乱暴なほど下肢を押し付けられて、ぐりぐり抉られた。
「あぁぁっ」
 破裂するようにクリスの腹に白濁の熱をぶちまけた。
 手荒い仕草なのに、感じたのはこのうえない悦楽だった。
 そのまま、肩に荷重するように腰を持ち上げられ、肌打ちの音を立てて、ばちんばちん尻を穿たれる。
 イったばかりなのに、すぐさま再び官能を刺激されて、目がまわるほどの愉悦に呑み込まれる。
「あ、あぁっ……あ、うぁっ……」
「いいよ……中がきゅって引き締まって、最高だ……すごく気持ちいい。ショーンも、感じてるんだね」
 返事ができない。
 奥に、滾るクリスの欲望を感じる。
 クリスとひとつになり、そして絡み合うようにして、絶頂の階段をふたりでのぼっていく。
「ショーン、いい? 気持ちいい?」
 クリスの声に、ショーンはうなずく。
 発情期の猫のようなこの声は、なんだろう。どこから聞こえてくるんだろう。
「ショーン、ここ、すごいね」
 クリスの動きが大きく激しくなる。引き締まる奥襞をこじ開けるようにぐいぐいされて、ショーンは甲高い声をあげた。
「ひぁぁっ、あぅっ……」
「すごいよ、俺の食い絞めてくる」
 クリスが腰をひっこひっこ入れてくる。それに合わせるようにショーンも腰を動かす。「あぅ、うぅっ、うぅんっ」
「襞がうねってるね。ここ、すごく、好きなんだね」
 クリスに腹側奥を執拗に刺激される。
 ちりちりと焼け付くようにこみ上げてくる快感に、押し出されるように声がこぼれる。
「あン、あ、あ、あぁっ」
 ふと、さっきまで猫だと思っていた声が、自分のだと気付く。
 口を抑える。
 俺、すごくはしたない声だしてる。
「イくよ、ショーン」
 クリスに腰を抱えなおされて、高く掲げられる。
 ぐい、ぐいぐいと最奥を連続して突きあげられる。
「あぁっ、あ、あ!」
 怖いほどの大きな波が、くる……!
 そう思った瞬間、勢いつけて折り曲げられるようにして、一気にその身体を貫かれた。
「あああっ」
 震えながら身体をのたうたせてイった。腹の奥にも侵食するように放たれた熱を感じて、もう一度小さくイった。クリスが顔を寄せてきて、かぶりつくみたいな激しいキスをされて、またイった。連続して小さく何度も白濁の蜜液を噴出させた。
 電流にうたれたみたいに身体を小刻みに波打たせ、荒波に漂う小舟みたいに次々打ち寄せる快楽に翻弄された。
 クリスにたどるように頬を撫でられる。
「大丈夫?」
 ショーンは涙目でうなずく。
「すごくよかった」
 溶けそうなほど情熱的でそれでいて温かで優しくて、心のこもった情交だった。
 こんなの、初めてだった。
「好きな人とするセックスがこんなに気持ちいいなんて」
 彼は囁くように言ってきた。
 それは俺のセリフだ、と思った。
 ショーンはクリスの唇にキスをして、その下唇にしゃぶりつく。
 そして、ハリウッドの夏空みたいに明るい碧の瞳をみつめる。
「好きだ」
 ショーンが言うと、クリスは髪を撫でてきた。
 こんなにも優しく髪をなでてくれるひとを、ショーンは知らない。
「俺も好きだよ」
 慈しむみたいにクリスは言って、身体を離した。温もりを失うのが嫌で、ショーンは追うようにすぐさまその身体に抱きついた。クリスも背中に腕を回し、ゆっくりと撫でてくる。そしてこめかみにキスをして言った。
「少し休もうよ。シャワーはそのあとでも大丈夫だろ」
 ショーンは思い出したように顔を上げる。
「明日、昼から重役会議?」
「そのとおり。でも、心配しないで。あんたが無理そうなら、俺一人でもいいよ」
「いや、俺もちゃんと出席する」
「すばらしい経営者だな」
「そうだ。そして、俺はすばらしい役者なんだ」
 そう言ってショーンはくすっと笑う。
 クリスがその前髪を繊細な手つきで掻き分ける。
「俺は趣味のスタントで、あんたの演技を際立たせるよ」
「頼んだ。俺とおまえはふたりでひとつだ」
「了解、相棒」
 相棒、というクリスの言葉は、しっくりときた。
 俺たちは相棒でパートナーだ。
 ふたりは笑い合い、そして窓の向こうにひろがるハリウッドの夜景を見つめつつ、眠りについた。































END
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