近衛文麿奇譚

高鉢 健太

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戦艦不要論

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 近衛は憲法に一切記載のない大権貸与という誰もが理解しがたい方法で権力を掌握し、憲政破壊と叫ぶ政治家たちを力と金で黙らせていった。軍、特に陸軍は226事件でも見られたように、兵器行政はともかく、支持基盤となる農村の支持が絶対的な近衛に対する反発は少なかった。海軍は近衛の動きを静観するに留め、政治的な動きを見せることはしなかった。

 これに気を良くした近衛は近衛版ニューディールと称される農村からの日本改造を推し進め、農地整理によって整備が進む道路網を鉄道拠点駅から地方への幹線整備へと拡大し、農地整理と農業機械の普及によってあぶれる労働力を吸収していく。

 こうした農村の支持を確固とする一方で、知識層からの反発は収まることなく続いていくが、盛んに近衛批判を展開した新聞は日ごとに整備される道路網や田畑の状況によって近衛支持が増えるにつれて、いつしか近衛支持へ転向し、近衛批判は一部の思想家や軍人のみが行う活動へと縮小していく。

 1937年末には混乱を極めた近衛批判も次第に沈静化していくが、日本を離れると必ずしも国内の状況が反映されていた訳では無かった。朝鮮は近衛が資金を投入して鉱山開発や農地整理、干拓を行っているのでまだしも、満州や中国においては旧態依然の状況が継続し、近衛に従わない風潮も大きかった。
 その結果が盧溝橋事件以後の情勢に反映され、勝手に動く現地軍に対し、邦人保護名目による部隊増強要請を追認せざるを得なくなっている。
 ただし、ただで折れた訳ではなく、一度門前払いを喰らったアンサルド社製47ミリ砲を戦車砲として採用する事と引き換えに部隊増強が行われている。この時には、アンサルド社から車載型砲架の図面が届いていた為、当初より戦車砲としての搭載が叶う事となった。

 近衛は大権貸与を受け、海軍の建艦計画にも口を出していく。特に戦艦建造に対する批判は厳しく、建造を中止すれば無条件で空母6隻の建造を許可すると交換条件すら提示しているほどだ。なぜそこまで戦艦建造に対して消極的だったのかは分かっていない。一部には転生者だったから後の戦局が見えていたのだという意見もあるが、それならば20世紀末に公開されたルーズベルト政権による対日戦計画についても知っている筈で、日本が戦艦建造を取りやめたことが、対日戦計画を推し進めた要因の一つとして挙がっている。この時の近衛による戦艦建造中止決定が、米国が日本を侮る結果となり戦争につながったとする研究すら存在しているほどだ。
 海軍は最後まで戦艦建造中止に抵抗したが、無条件での空母6隻建造という飴に抗しきれず、すでに準備が進んでいた新戦艦の建造を取りやめている。
 もちろん、海軍が思い描いた様な自由な空母建造など近衛が認めるはずはなく、飛行甲板に装甲を張り巡らせ、一層式格納庫、舷側エレベータ―という仕様による建造を海軍の抗議など無視して強要している。ただ、海軍が妥協案として出した船体拡大案を受け入れ、排水量4万トン、全長268mという巨大空母の建造が開始されることとなる。

 こうした建造を支えたのが、近衛が朝鮮で探鉱を行い、商業採掘に成功した各種鉱山の存在であった。ボーキサイトこそ大規模な埋蔵量は存在しなかったが、それ以外の多くの資源は自給可能な状態にあった。
 さらに、探鉱の結果その存在が確実視されていた満州沿岸部における原油試掘も成功し、1938年から生産が開始されることになる。

 中国大陸情勢は近衛の不拡大方針によって紛争は小康状態になっていたのだが、原油生産が開始されると中華民国は停戦条件を翻し、満州返還を要求、その後の交渉は暗礁に乗り上げ、戦争の拡大を招くことになった。
 さらにソ連による満州、朝鮮に対する国境侵犯も頻発、朝ソ国境において張鼓峰事件が勃発してしまう。戦闘は約2週間で停戦に至るが、国民党だけでなく、ソ連も石油欲しさに満州侵攻を企てかねないという近衛の猜疑心から対中戦線の縮小が図られ、対ソ防衛体制に重点が置かれることとなった。
 この方針は陸軍や大陸権益を持つ者たちから煙たがられたが、さりとて近衛の方針を覆す論拠などどこにもなかった。
 ただ、満州において、米系農機具メーカーの技術を導入した近衛商会が大規模な機械化農業を始めていた事から、政治、軍事的な視点ではなく、自己利益追求と見られていたのは確かだが。

 そんな近衛に対する冷ややかな視線はともかく、ソ連やモンゴルとの小競り合いは拡大を続け、方針自体の正しさが認識されていく。
 そして、1939年5月、満州北方ノモンハンにおいて日ソは衝突した。
 当初、いつもの小競り合いとして日本側の動きは鈍かったが、サボタージュにより情報が届いていないはずの近衛が事態を嗅ぎつけた。 
 彼は自身の権力を遺憾なく発揮し、現地関東軍の頭ごなしに部隊増強を命じている。幾ら外地軍であり、近衛に従う姿勢が薄いと言えど、憲法上の大権を理由にされては無視も出来ない。

 その結果、5月末には日本側有利な状態で戦線は一度落ち着いている。
 しかし、6月半ばよりソ連による反転攻勢に晒され、さらなる部隊増強に奔走。9月20日に停戦を迎えたが、5月の時点では関東軍が近衛の命令より少ない部隊しか展開しなかった事が明るみになり、6月以後の戦局で劣勢に回っている。この事に激怒した近衛は、関東軍首脳を軒並み更迭、抗議する者を抗命罪に問うという強権による処断を行っている。ただし、捕虜となった者たちへの対応は一転して良く、近衛が自身の支持基盤を理解して居た事が窺える。
 9月1日にナチスドイツがポーランドへと侵攻し、第二次世界大戦が始まっていたが、10月を迎える頃、米国では近衛批判が俄に高まりをみせていた。

 その内容は、1926年から行われた近衛による米国投機によって大恐慌が起こり、以後、米国企業が次々潰されているというものだった。
 確かに近衛による米国投機は事実だが、企業潰しは内容が異なる。彼は米国投機で得た利益を、大恐慌後の米国において企業再生に投じていた。
 その最たる分野が、日本への導入著しい農業機械や建設機械であった。そこを足掛かりとして米国人を介して多くの米国企業への投資や買収を行い、再生された企業は米国資本への売却を行っていた。
 こうした近衛の行動により、米国企業は日本の農地整理や朝鮮、満州での石油、鉱山への出資や進出も果たしており、米国にとって悪い話ではなかった。

 しかし、大多数の米国人には無関係であり、大統領による近衛批判に多くの支持が集まっていく。これはルーズベルトの三選に向けた選挙戦略であったのだが、近衛はこの話に対し「魔王が仮面を剥いで本性を現した」と笑って済ませていた。もし、彼の懇意にする企業家達を介しロビー活動を行っていれば、結果は変わったとする意見も多い。
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