近衛文麿奇譚

高鉢 健太

文字の大きさ
上 下
11 / 13

関白宣言の発布

しおりを挟む
 この様な事態を招いた原因は欧州にあった。

 北アフリカにおいてカイロを目前にした独伊軍を辛くも退ける事に成功した英国は、1943年暮れから大攻勢に転じ、翌1944年8月にはマルタ島を奪還、9月にはシチリアへ侵攻し、明けて1945年に入るとイタリア南部へも上陸、4月には反ムッソリーニ派による反乱もあって、反攻作戦はほぼ1年で終了する事になった。

 こうして、長年準備を重ねてきたフランス上陸へと踏み切り、6月にはノルマンディー上陸を敢行、ドイツの裏をかいて橋頭堡を築く事には成功したが、そこから先への攻勢は強力な装甲部隊や上空を舞うジェット機によって苦戦を強いられていた。

 もし、この様な中で対日停戦などを行えば、対独戦継続にすら影響してしまう。
 損失という点で見れば対独戦の方が遥かに甚大であるし、米英側の大義は三国同盟を結んだファシスト枢軸の打倒であった。それを反故にして対日停戦など、米英間に亀裂を生じかねない。何せ、米国内の対日戦懐疑論だけでなく、5年にわたる戦争で英国は疲弊し、厭戦機運すらあったのだから。

 その様な状況であり、主戦場を欧州と定めた米国は対日戦は形だけ続けようという政府と、もっと成果が欲しい軍部の意見対立を生み出していた。
 特にフィリピン奪還を果たしたマッカーサーはさらなる戦果を求め、沖縄攻略を進言していたのである。

 この進言に呼応して、マリアナに所在する戦略爆撃部隊も、今のパッとしない状況を変える提案をする。

 それは日本軍の活動を支える急所が太平洋に面した相良油田なのだから、これを一挙に破壊しようと云うのだった。
 何せ、日本は1944年末の大地震によって飛行機産業の中心地である名古屋、さらには相良油田にも損害を出しているのだから、ここを狙わない手はない。

 ただ、大規模空襲は直ぐにターボプロップ機を中心とする迎撃部隊によって毎度大損害なので、稼働率維持の為か少数の偵察部隊を狙わない事に着目し、偵察部隊を装った原爆部隊による攻撃を企図していた。
 ここで相良油田に壊滅的打撃を与えれば、沖縄攻略にも寄与すると説いて。

 この様に対日戦での戦果を求める声を完全に否定する訳にも行かず、暫定政府はその存在意義を示すためにも、許可を与えた。
 こうして原爆投下を8月6日と定め、作戦準備が進むことになった。

 7月半ばから、頻繁に偵察部隊が日本各地へ飛来するが、予想通り迎撃は無く、編隊による空襲とはその対応の違いが明らかだった。
 これは日本側を欺く意図も当然含まれ、原爆部隊が迎撃を受けない様、日本が「偵察部隊はウザいが無害だ」と安心しきる様に誘導していた。

 こうして準備万端、8月6日早朝、テニアン島を離陸した「エノラ・ゲイ」を基幹とする原爆部隊は一路、相良油田を目指した。目標はだいたい解っているので、「施設周辺」に投下出来れば十分とされ、よほどの荒天以外は決行と決していた。
 原爆部隊は伊豆諸島付近まで一切の迎撃なく到達したが、ここで非常に高速なナニカの接近に気付いた。

 そのナニカは三角形をした物体であり、噂に聴くUFOかと皆が注視していると、数が増えて6個になった。
 その時、観測機のクルーがUFOに描かれた日の丸に気付く。「おい、見ろよ。ジャップのUFOだぜ、アレ」と、呑気に笑っていると、それこそ信じられないスピードで突っ込んできたソレは、衝突するかと思われた直前、曳光弾を曳いて遠ざかって行く。
 後には翼を折られ、或いは火だるまになるB29が残されるだけだった。

 8月6日午前8時15分頃、駿河湾上空にキノコ雲が立ち昇る姿が、各地で目撃されている。
 これが世界で2回目の核爆発であり、相良油田攻撃が失敗した瞬間だった。
 損傷度合いが比較的軽く、伊豆諸島周辺に不時着した観測機の乗員が日本側に救助され、爆発が何であるかが判明した。

 何故、これまで一度も迎撃しなかった少数部隊を迎撃したのか。
 実は、近衛は7月から急増した偵察部隊に過敏に反応し、「8月6日に飛ぶ敵航空機は、数の如何にかかわらず全て撃墜しろ。全てだ」と命じていた。何故、原爆攻撃を知っていたのかはわからないが、結果として相良油田は守られた。

 この事態に衝撃を受けたのは米軍だった。もし、虎の子の原爆部隊が再度、「偶然や気まぐれ」で撃墜されては堪らない。9日に予定された東京への原爆攻撃は急遽中止され、二度と原爆部隊が日本へ向かうことはなかった。

 この迎撃に飛び立ったのは、これが初陣となるジェット戦闘機「颯」である。
 颯の開発は古く、当初は萱場工業において無尾翼グライダーとして飛んでいた。
 このグライダーを目にした近衛は「かつをどりか!」と、ワケのわからないことを叫び、ひとり興奮していたという。
 実験が進み、ク3が飛行していた頃、近衛は「コレジャナイ」と言い出し、自ら拙い図面を描き、三角形を基本とした機体に変更するよう迫る。
 形状から、プロペラ機よりもジェット機に適していると考えた萱場は、開発中であったネ12を積む事を提案、流石にジェット機開発は萱場一社では手に余ると考え、関係の深い三菱を頼り、ジェット機開発を始めることになった。

 こうして1942年には一応形にはなったが、レシプロ機とさして変わらない速度に著しく離着陸が難しい操縦性など、とても実用的ではなかった。
 これを見た近衛は「まあ、デルタだもんな。リピッシュも実用化出来なかったし」と、なぜかドイツにおけるデルタ機開発者の名前を出している。
 さらに、自ら改善点として主翼前端と重なる位置に小型の無可動補助翼を追加するよう指示。
 それはつまり、「この様に作れ」という事であり、一二試艦戦の二の舞いに怯える三菱開発陣は狂った様に開発に邁進したという。
 近衛による助言、提案と称する横槍や妨害が繰り返され、本来なら1944年夏頃に飛ぶはずが、「あ、インテークは機体から離せ、そうじゃないとミラージュのイメージに合わない。あと、インテークにはショックコーン」 と、完成後にやり直しを命じ、今で言うダイバータの検証やショックコーンのサイズを検討するうちに年を越し、初飛行したのは1945年2月11日の事であった。
 この様にほぼ半年も完成が遅れたことで、硫黄島攻防戦には間に合わず、8月6日が初陣であった。
 
 この戦果を報告された近衛は、喜ぶどころかキノコ雲と聞いて恐慌状態となり、「焼け野原は嫌だ!」と、停戦交渉を始める様命じている。
 更に、交渉チャンネルが開かれないと聞かされるや、一方的停戦を叫び、8月15日の「関白宣言」発布に至る。

 あまりの事に対応を躊躇ったのは米国だった。暫定大統領には、近衛が何を言っているのかわからなかったし、それを今認めるのは憚られた。
 関白宣言の要旨は、「核兵器の使用は人類への冒涜であり認められない。しかし、それが使用されるくらいなら私は甘んじて降伏する。戦争終結後には、安保条約結んで仲良くやろう」

 一体、誰がこんな都合のよい声明を受け入れるだろうか?

 が、暫定大統領は足下からの突き上げもあって9月2日にはその声明を受け入れ、対日戦争の終了を宣言することになる。
 政治的な思惑はともかく、米国内はもはや二正面作戦に耐えられる状況にはなく、対日戦懐疑論が広く浸透していた。「相手が降伏するなら、もはや戦う必要なんかないじゃないか」と。
しおりを挟む

処理中です...