物的充実の幻想

神崎翼

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物的充実の幻想

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 ほしいほしいと強請る人々にものを与えること。それこそが己の使命だと信じていた。世の中の人々は物的に充実することで幸福を得るのだと。それこそがみんなが幸せになる為の近道なのだと信じていたのだ。
 昔々、戦争のあった頃はものが不足し、多くの人が不便と不幸にあえいでいた。食べ物も足らず、飢えて死んでいった。奪い合って殺し合った。そうしてみんなで貧しくなった。あの時代を二度と繰り返さないようにする。ものを生産し、人々を満たせば、足らないからと奪い合うことはない。満ちればみんな幸せになる。
 我が家は幸福だ。家族のためにと建てた二階建ての新築物件。広い玄関には有名な陶芸家が焼き上げた花瓶を置いて四季折々の花を飾り、妻の要望をふんだんに取り入れたアイランドキッチンには種々様々な調理器具が揃えられ、あちこちからお取り寄せした地方の名産品が大型冷蔵庫にぎゅうぎゅうに詰まっている。ウォークインクローゼットには目にするだけで人を楽しませる様々な服から靴、鞄、ベルト。宝飾品の詰め込まれた箱を開けば遊園地のようなオルゴール音が流れ、中では小さな宇宙のように宝石たちが輝いている。そして何よりも大切なのは、そこに暮らす妻と娘だった。ほっそりと白魚のような肌をした妻に、妻によく似た可愛い娘。衣食住、そして家族に恵まれた生活を、世の人々にも実感してほしい。そのために、世の中に必要だと思われているものをどんどん開発しどんどん生産してどんどん店で売り、利益を売る。そうして得たお金でまた開発・生産・流通・販売する。
 ほしいほしいと強請る人々にものを与えること。それこそが己の使命だと信じていた。そのために興した会社は順調で、家族仲も良い。何不自由ない暮らしをし、与えられている。だけど、最近少し疲れた気がするのは気のせいだろうか。どれだけ開発して生産して流通させて販売しても、お客は次を強請るのだ。終わらない迷路に迷い込んだような錯覚をする。

「あなた、つかれたの?」
 帰宅後、晩酌をしながら革で出来たソファに深く身を沈めていると、見咎めた妻が声を掛けてきた。台所から出てきて、ローテーブルに持ってきたつまみを置く。見覚えのないつまみの品だった。今度はどこの名産品を買ったのだろう。
「……少し、仕事がな」
「体には気を付けてね。今度の旅行、一緒に行けるんでしょう?」
「ああ、そうだな……」
 そういえばそうだった、というのが本音だった。つい先月ハワイに行ったばかりだというのに、もう次の旅行の計画をしたのかと、不意に咎めるような言葉が脳裏をよぎって小さく頭を振る。そのハワイ旅行に仕事で行けなかった自分のために、改めて計画してくれたのだ。つまみを口に入れ、酒を煽る。どちらも、舌に慣れぬ味がした。

 ほしいほしいと強請る人々にものを与えること。そうすればきっと、幸福になると信じていた。だけど実際は、人々の欲望に際限はないのだと実感するばかりだった。いくら物を売っても、物を売っても、終わりが見えない。それどころか、若い世代にはそれを疎んじてか、ミニマリスト……ものを持たない暮らしというのに興味を持つ人も多くなってきたのだと雑誌のインタビューで見た。『ものを持たない幸福』というものを目指すらしい。
「若い世代はお金がありませんからね。すっぱいぶどうみたいなものですよ」
 会社の人間はそう揶揄したけれど、果たしてそうだろうか。俺はもうわからなくなってきた。

 我が家に帰る。ものが多い家。どこを見ても金が掛けられた我が家。自分でも知らないうちに、更に物が増えたように思う。玄関にはブランドの靴が所狭しと置かれているし(我が家は三人暮らしなのに、十人以上暮らしていそうだ)、調理器具は埃をかぶり、食べきれない程の名産品をあっちこっちから取り寄せてたせいか少し食べたら飽きて、生ごみ入れに桐箱ごと捨てられている。ゴミ箱からは異臭がした。ウォークインクローゼットはもう扉が閉まらない。きらびやかな布の山の合間に未開封の靴の箱やピカピカのブランド鞄があり、貴金属は一つ二つ三つと、いつのまにか宝石箱単位で増えている。
 全部、俺が稼いだお金が化けたものだ。
「あら、あなた。おかえりなさい」
 呆然と廊下で立ち尽くす俺に、妻が声を掛ける。白フグか、あるいは白豚か。昔の面影などどこにもない女の姿がそこにあった。その女によく似た、娘の姿も。
「今度イタリアに旅行に行きたいねって話をしていたの。あなたは来れそう?」
 先月、アジア旅行だと長く家を空けていなかっただろうか。もうよく覚えていない。
 働いて、働いて、働いて。お金を得て、ものを得て、幸せになる。だけど今の俺は社会の歯車で、ものの奴隷だった。もう何もかもがガラクタの山にしか見えない。
 何のために、俺は働いてきたのだったか。もう何もわからなくなっていた。

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