死に寄り添わん黒きもの

冷泉 伽夜

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小夜子

はみでたもの

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 いつものように、窓から部屋に入る。食卓テーブルに飛び乗り、尻を落とした。

 私が来るのを小夜子が予見したのか否か、すでに小皿が用意されている。

 ちょこんと盛られた、赤い食べ物。香辛料と酸味のある匂い。赤に混じって葉物野菜がのぞいている。

 ――キムチだ。まさか、私のために?

「あら、いらっしゃい。来ると思ってたの」

 キッチンから小夜子が近づいてくる。テーブルのそばにまで来て、私を見下ろした。あのはかない笑みを浮かべて。

 小皿に顔を近づけてにおいを嗅ぐ私を、止めようとはしない。

 ……小夜子は知らないのか? その可能性はある。彼女は生き物を飼ったことがないらしいからな。

 視線を小皿に戻し、口を開いた。瞬間、小皿は下げられる。

「だめよ。これは人間の食べ物なの。おまえが食べるものじゃない」

 穏やかな声で、私の前に代わりの皿を置く。そこには、真っ赤なスイカが切り分けられていた。

 私は小夜子の顔を見上げる。あいかわらずほほ笑んだままだ。

「これは私のご飯。というか、おかず。最近めっきり食欲が減っちゃってね……」

 小夜子は自身が使うイスの前にキムチを置きなおした。

「なぁに? どうしたの?」

 ずっと見ていた私に、小夜子は首をかしげる。私はとりあえずひと鳴きしておいた。

 台所に戻る小夜子は、湯気の立つ茶碗をもって戻ってくる。テーブルに置き、イスに座った。食事はご飯にキムチをのせただけのものだ。肉も汁物もない。

 箸で小さくつまみながら口に運んでいく。小夜子を前に、私もスイカを口にした。

 ――うん。甘いな。種が邪魔だが。

「辛い物を食べたいときって、自分を痛めつけたいときなんだって」

 突然始まった小夜子の話に、顔を上げる。

「ようは自傷行為なの。ピアス開けたり入れ墨入れるのと一緒。……でね。辛い物を食べると快楽系の脳内物質がたくさん出るから、どんどん食べたくなっちゃうんだって。……なんだか麻薬みたい」

 私は猫だ。相づちもうなずくこともしない。ただ、小夜子の前でスイカをむさぼるだけ。

「おまえがウチに来るのも、なんだか当たり前になってしまったね」

 小夜子は笑う。今にも消え入りそうな、もろさを感じさせながら。

「おまえになにかをあげるのは、私なりの罪滅ぼしなのかも。私はあまりにも、消える命を見捨てすぎたから」

 小夜子はこの日も語り始める。私が必要としている、情報の一部を。


          †


 あれは、思い切って就活しようといきこんでいたときのことだった。

 中小企業の事務職に、書類が通ったの。次は面接。準備と対策に追われて不安定になってた。

 どうして、大事な日に限って寝坊したり忘れ物したりするんだろうね? 当日は化粧も髪型もなんだかしっくりこなくて、面接の対策もほんとにこれでいいのかってどうしても気になっちゃうの。

 バタバタして、家を出たころには予定の時間より五分もすぎてた。バスで行く予定だったから、慣れないパンプスで走ってバス停に向かってたの。

 家と、バス停の中間地点にまで来たころ、だったかな? 住宅街の中でも、治安がいいとは言えないエリアだったんだけどね。

 女性の悲鳴が、聞こえたんだ。

 バス停に向かってまっすぐ走っていた中、差し掛かった曲がり角に顔を向ける。その道の真ん中で、女性が倒れてた。遠くへ走っていく男の背中も見た。

 これが、もし、散歩中に遭遇した事件だったなら、すぐに通報したと思う。でも、私はそのとき、面接を控えている無職なわけで。遅れていけば、不採用になる可能性もあるわけで。

 女性は仰向けに倒れてた。私より若くて、化粧も上手できれいな子だった。

 その子の顔が、私を向いていた。口が、動いてた。目が、訴えてた。

 でもね、わかるの。どうせ助かりっこないって。

 おなかが真っ赤でね。たぶん、中身が出てた。怖くてよく見てないんだけど。

 それに、私も一大事なの。面接がうまくいくかどうかなの。やっと書類が通った会社なの。

 どうせ助からないのなら、私が今、わざわざ助ける必要もないじゃない? 少なくとも、このときはそう思ったの。

 悲鳴もあった。あれほど派手に倒れてる。きっと私じゃなくても、気付いて助けようとする人は現れる。

 だから、見捨てたの。そのままバス停に向かった。走ったおかげでバスには間に合った。面接にも間に合ったし、受け答えも十分にできた。

 そのあとのことは、わからない。
 多分、死んだんでしょう。私の周りには死がつきものなんだし。少なくとも、面接から帰ってきた時点で、その女性はもういなかった。犯人が捕まったのかもわからない。

 で、会社のことだけど。結果としては受かった。働くことになったの。

 私が働いてるところ、想像できる? 私はね、できなかった。それは今でも……。

 もともとなんでこうやって引きこもってるかっていうとね。人とかかわれないからなの。意志疎通がうまくできないし、報連相もできないの。

 私がなにかすると、それがすべて間違ったことのような気がするの。私の発言すべてが、みんなにとっては間違いのような気がするの。
 何かするたびに、何か言うたびに、批判されるような気がしてならないの。

 だから、たくさんの人の目がある中で、自分が動くのも発言するのも、怖くてできなかった。

 当然、そんな性格でうまくいくはずがないよね。

 仕事でわからないことを誰にも聞けなくて、怒られるばかりで、空気も読めなくて……。そんなんでなじめるはずがない。

 私なりにがんばろうとしたんだけど、結局、うつになって辞めちゃった。会社が怖くて、行けなくなっちゃったの。会社だって、こんなお荷物いらないから、辞めて正解だよね。

 辞めたときに、ふと思い出したの。そういえば、あのとき倒れてた女性、スーツ姿だったなって。パンプスも就活に使うようなマットなやつで。

 もしかしたら、同じ会社を受けようとしてたのかも。……まさかね。でもあり得ない話でもない。

 もしそうだったとしたら、私じゃなくて彼女が受かってたのかもね。きっと彼女は私よりも社交的で人に好かれて、仕事もできる人だったのかもしれない。

 運命って残酷ね。人でなしの私じゃなくて、社会のために動ける彼女が命を奪われてしまうんだから。

 人でなしの私の命は、誰も奪ってくれないのだから。


          †


「キャハハハ!」

 突然の笑い声に、びくりと震える。

「アッハッハッハ! うふふふ! アーハッハ!」

 小夜子は気が狂ったように笑う。大人しい静かな小夜子が、めったにしない笑い方だった。

「はーあ」

 小夜子の前にある茶碗には、まだ半分ほどご飯が残っている。小夜子はもう、箸を置いていた。

「おかしいと思わない? 美人で人生楽しむはずだった彼女が死んで、愚鈍で役立たずの私はまだ生きているの。どうしてあの男は私を狙わなかったの? 死ぬべきなのは、私のほうなのに」

 私は返事をしない。残り少ないスイカを、種をよけながら食べていく。

「あのときの私は、普通の生活を送れない自分が嫌だった。異常者だと思われるのが嫌で、普通の職を求めてた。そんなことしたって自分が異常なのは変わらないのにね」

 肘をついて、組んだ手に顎をのせる小夜子は、食事中の私を見ていた。

「……今みたいに一人で、ひきこもって、のんびり過ごすのが一番いいんだって思えなかったの。それが、他の人を不幸にしない方法なんだって……あのときはまだ気づかなかった」

 すべて食べ終えた私は、ゲップをして口をめる。目の前の皿は、赤い汁に黒い種が浮かぶだけだ。

「おまえは、いつ死ぬんだろうね?」

 その言葉に、目を向けた。

 小夜子の顔は笑みが消え、眉尻を下げている。

「せめて私が生きているあいだは、死なないでね。おまえは、私にとって唯一の話し相手なんだから」

 私は返事をしない。鳴くこともない。

 座っていた私は歩き始め、テーブルをおりる。開きっぱなしの窓に向かう私の背に、小夜子の声がかかった。

「また、来てね。急に来なくなる、なんてことはやめてね。猫は知らないとこで死ぬって言うし」

 ……案ずるな。少なくとも、小夜子より先に死ぬことはないさ。絶対に。

 そんなこと、決して言うこともなく、私は窓から外へ出た。

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