律と欲望の夜

冷泉 伽夜

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第一夜 Executive Player「律」

不幸は続く 

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 志乃の言うとおり、病院に行くつもりはない。

 明日になってぽっくり死んでいるのも、それはそれで構わなかった。特別、生きることに執着があるわけでもない。死んだところで、自分の代わりなどいくらでもいる。

 りつはいつものとおり、タクシーでデリヘル事務所へと向かった。ずいぶん早い出勤だ。まだ日にちを越えていない時間帯に行くのはめったにないことだった。

「おつかれさま~」

 事務所のリビングに足を踏み入れると、デスクに座っていた優希ゆうきが目を丸くした。

「え? 社長? 今日早くないすか? 」

 部長とメイコもそろってデスクに座っており、神妙な顔を律に向ける。

 優希が自身の額を指さし、声を張り上げた。

「ちょっと社長! ここどうしたんすか?」

「あれ? まだ血止まってない? 」

 律は額に手を当てて確認する。痛みに顔をゆがめた。

「血っていうか、青くなってますよ!」

「客から殴られたんだよ。でも大丈夫。大したことないから」

 改めてリビングを見渡す。いつもどおりの優希の声で気づかなかったが、部屋の空気がいつもより重く、緊迫した空気に満ちていた。

「なに? どうした?」

 部長が社用の携帯電話片手に口を開く。

「それも何かの、虫の知らせだったりすんのかもな」

「え? 何? すごい嫌な予感するんだけど」

「レミが飛んだ」

 部長の声が、ずしりとのしかかってくる。それは、律から五十万円を前借りした女の名前だ。

 なぜ? どうして? 同じマンションで宿泊してたはずなのに? 

 社長として聞くべきことが、口から出てこなかった。部長が順を追って説明する。

「朝、スタッフが部屋を確認したら、消えてたんだよ。ご丁寧にポストにカギ返されてたわ。あんたに連絡したけど見てないだろ?」

「ああ、ごめん」

 デリヘル会社用の白いスマホは、仕事以外ではマナーモードにしている。ホストとして集中するためにも、働いているあいだは極力見ない。

「俺たちのほうからレミにずっと電話かけてるけど、出ねえんだ。着拒されてる。実家にも帰ってないみたいだな」

「そう」

 律は取り乱すことなく、ジャケットの内側から白いスマホと黒いスマホを同時に取りだした。白いスマホには確かに、部長からの着信とメッセージが連続で届いている。

 白いスマホに電話番号を表示し、黒いスマホでかけてみた。何度か呼び出し音が鳴ったあと、声が返ってくる。

「……はい」

 レミだ。

「あ、もしもしレミちゃん?」

 接客のときのように、穏やかで、優しい声を出す。

「どうしたの、無断欠勤なんて。みんな心配してるよ?」

「……社長……」

 返ってくるのは、決意のある力んだ声だ。

「ごめんなさい! ごめんなさい社長! ごめんなさい……!」

 たったそれだけ。プツリと、電話が切れる。

 もう一度かけ直した。

「おかけになった電話番号は……」

 無機質な女性のアナウンスに、律はため息をつく。その顔は、怒るでもあきれるでもなく、ほほ笑んでいた。

「やられた。逃げられたね……」

 スタッフたちから、同情するような目を向けられる。

 スマホをジャケットの内にしまう律に、優希がたどたどしく声を放った。

「どうするんすか? レミさん、まだ半分も返済で来てないし……。この損失はでかいっす」

「そうだね」

 優希の心配をよそに、律は冷ややかな笑みを浮かべるだけだ。口元から、ふふ、とこぼした。

「バカだな、あの子。自分で、身を滅ぼすようなマネをして」

 事務所の重苦しい空気の中、律の言動はますます異質で、得体のしれない恐ろしさを感じさせる。

「ごめん。今日はもう帰っていい?」

 律と目が合ったメイコはうなずく。

「もちろんです。はやいうちに帰って休んでください。その……けがもちゃんと手当てしてくださいね」

「ありがとう」

 律はほほ笑んだまま、スタッフたちに背を向ける。物悲しい空気となってしまった事務所を、後にした。

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