宵月町のあやかし

koma

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一話

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「凜ちゃん、こっちこっち、オーダーとって」
「はい! 今行きます!」

 太陽が頂点に登るお昼時。凛はその日も仕事着にしている薄桃色の小袖を纏い、給仕に精を出していた。『善』の従業員は高谷と凛しかいないため、この時間はどうしてもてんてこまいになってしまう。

「煮付け定食三つ、ご飯は大盛りでね」
「かしこまりました」

 注文表にオーダーを書き込み、厨房へと声を張り上げる。大きな中華鍋を振る高谷はこちらを見ることなく「あいよ」と返事をした。日焼けした浅黒い頬をいく筋もの汗が伝っていく。高谷の仕事着である濃紺の作務衣は、ぐっしょりと濡れていた。

「繁盛してるねえ」
「おかげさまで」

 常連客の一つ目小僧に言われて、凛は微笑んだ。

 数年前、徒歩圏内に駅が新設されてから、店の売り上げは右肩上がりだった。
 有り難くはあるけれどこれでは店が回らない。
 増え続ける客に不安を募らせた凛は、お昼時だけでもバイトを雇うべきではと助言したのだが、高谷は首を縦には振らなかった。「客なんていつ来なくなるかわからないから」と。

 高谷は見た目こそ三十路そこらにしか見えないが、実際は百を超える長寿の鬼だった。ゆえに世間の厳しさも身に染みて知っているのだろう。何かとシビアで現実的で、こと金勘定に関しては細かく煩かった。

(でも、確かにお金は大事だものね)

 凜は急いで空いた席を片付けながら、次の客を呼び込む。

「お待たせしました、どうぞ」

 凜の呼び声に、店先の待合椅子に座っていた男たちが立ち上がった。

「ったくいつまで待たせんだ。ちんたらしやがって」
「あれ、お姉さんお狐さんなんだー。耳、可愛いね」

 ──カシャリと。
 向けられた携帯で写真を撮られ、凛は顔を顰めそうになる。

「撮影は止めてください」

 言った凛に、男はヘラヘラと謝罪する。

「あ、ダメだった? ごめんねえ」

 その客人は、ふたりともヒトだった。
 ひとりは黒いタンクトップの筋肉質な男性で、耳や唇に見ているだけでも痛そうなトゲトゲのピアスをいくつもつけている。もうひとりは細身だが、顔は赤いし呂律も怪しく、先ほどから強い酒の匂いを発していた。酔っ払っているのだ。

 嗅覚の鋭い凛には耐えづらいほどだったが、なんとか笑顔を引き戻す。
 
「どうぞこちらへ」
「お狐さんの接客とか光栄だなあ」

 細身の男が、凜の狐耳と尾っぽを舐めるように見回し、笑う。

(……たまにいるのよね)

 ヒトが宵月町を訪れるのは、そう珍しいことではない。あやかしとヒトは、千年も前に共生の道を選んでいる。凜だって用事があれば上層階うえへ登るし、ヒトの知り合いも、いないわけではない。
 けれど、こうもあからさまに眺め回されるのはさすがにいい気分がしなかった。まるで見せ物になったような気がして。

(我慢我慢)

 諦めにも似た感情で、凜はため息を呑み込む。

 凜の容姿は一見、ヒトと変わらない。二足歩行で歩くし、目はふたつだし、口と鼻は一個ずつだ。けれど頭から生えた狐の耳と、お尻にある尾っぽだけは動物のそれと同じだった。半人前で妖力の少ない凜は、まだ、うまく人に化けることができないのだった。
 そうしてヒトの中には稀に、そんな凜の姿を面白がってくる輩も一定数はいて、こうして冷やかされることがあった。
 狐のあやかしは数が少ない上、それが雌だとわかれば「本物の女狐だ」なんてからかわれることもしばしばで──。

 タンクトップの男が、どかりと椅子に座る。

「とりあえずビール。あと枝豆」
「じゃあ僕もそれ」
「はい、かしこまりました」

(大丈夫。こんなの慣れっこだもの)

 凜は心の中でそう呟き、仕事に集中することにした。

「おい、大丈夫か?」

 ビールを用意しようとした厨房で、高谷が心配そうに聞いてる。
 凜は「平気」と笑ってみせた。酔っ払いのひとりやふたりで怯むほど繊細なたちではなかった。むしろあしらってやろうという気分で握り拳を作る。

「高谷さんこそ喧嘩売らないでね。また管理局の人に怒られちゃう」
「……わかってるよ」

 高谷は首をすくめると、火の前に戻っていった。
 彼は先月、ヒトの客人と喧嘩をして、管理局から二時間もお小言を食らっている。次は罰金だぞと脅しも受けていた。
 立て続けに問題を起こすわけには行かない。最悪は営業停止命令を受けてしまうからだ。
 凜は、手早く用意したビールと枝前を抱えて、男性客のもとへ急いだ。

「お待たせしました」
「おっせえなあ」

 タンクトップの男が、しゃっくりをしながら太い拳でテーブルをどんと叩いた。鈍い音がして、周囲の視線がこちらに集まる。凜は穏便に、と自分に言い聞かせた。

「申し訳ありません」
「謝罪はいいから、酌しろよ、酌」
「いいね。お狐さんの酌なんて最高だ。あ、動画撮っていい?」

 細身の男が笑って、テーブルにグラスを置こうとした凜の手首を掴んだ。その、酔っ払いとは思えない力の強さに、凜は思わず固まってしまう。

「やめ……」

 そうして、あっと思った瞬間には遅かった。
 バランスが崩れ、もうひとつの手で持っていた盆のビール瓶が、真横を向く。栓を抜いていた口から、勢いよく中身があふれた。

「あ……」
「! ってめえ!」

 最悪な事態が重なった。こぼれた中身が、タンクトップの男性客の胸に思い切りかかってしまったのだ。
 凜は青ざめて頭を下げる。

「すみません! すぐに拭くものお持ちします」

 急いで店の棚からタオルを持ってもどる。男は大仰に声をあげた。

「くそ! 冷てえ!」
「あー、これは、弁償してもらわないとだね」

 男たちは面倒そうに凜を見上げた。

「くそ。……おい、お前拭けよ」
「……はい」

 凜は震えそうになる手で、男の濡れた胸元にタオルを当てた。
 ビールを運ぶのも絡み客の足らいも慣れていると、自信をつけすぎていたのかもしれない。数分前を後悔する。

「本当に、申し訳ありません」

 情けないほど小さな声で、謝罪を繰り返す。服はいくらぐらいするものなのだろうか。ヒトの服屋で買い物などしたことがない凜には、凡その検討もつかなかった。手持ちがいくらだったか思い出そうと思考を巡らせる。

「あの、クリーニング代弁償します。いくらご用意したら」
「ん? まあデニムもダメになっちまったし、上下合わせて五万ってとこかな」
「五万!?」

 そんなに……!
 素っ頓狂な声をあげた凜の腕を、男が力いっぱい掴んで引き寄せる。

「なんだよ。払えねえってのか」

 顔が触れてしまいそうなほど近づいて、凛はおののく。

「いえ、ちゃんと、お支払いします……」
「おう。ほら、しっかり拭いてくれよ。これじゃ上に戻るまでに風邪を引いちまうだろ」

 治療代まで上乗せされたくないだろ、と男は笑った。ビールの染みたズボンのそのあたりも色濃く変色していた。凜はタオルを持つ手をきつく握りしめる。

「ほら、ここも」

 男が急かす。
 店を大切にしている高谷に迷惑をかけたくない。
 穏便に。穏便に済ませなくちゃ。凜は意を決して、手を伸ばした。その時。

「変わりますよ」

 背後からするりと伸びてきた手が、奪うように凜の手からタオルの抜き取る。そして迷うことなく男の濡れたズボンを拭きだした。
 え?
 すぐ後ろに体温を感じて、凛ははっと振り返る。
 とたん、綺麗な横顔が視界いっぱいに広がった。すっと通った鼻筋に、切長の瞳。癖のない黒い髪は、艶やかで美しかった。
 だれ。

「な、なんだよあんた」

 凜同様驚いた酔っ払いの男が、音を立てて立ち上がる。凜の背後にいた男性は、和やかに言葉を返した。

「失礼。こちらのお嬢さんが困ってらっしゃったようなので」
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