宵月町のあやかし

koma

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一話

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 進展のない会議を終え、廊下に出ると、もう昼の二時を過ぎていた。

(……メシは諦めるか)

 暁月は小さく息を吐くと、治安管理課の自席へと戻った。幸い──と表現するのも微妙なところだが──【現場資料】を再読させられたおかげで、腹は減っていなかった。

「機嫌悪かったなー、部長」
「上からせっつかれてんだろ。容疑者もあげられんのかー無能めーって」

 書きかけの報告書を仕上げようと、パソコンのスリープを解除したところで、そんな会話が聞こえてきた。同じ会議に出席していた同僚たちだった。

 容疑者か。

 暁月は先ほどもあらい直した概要を整理しようと、閲覧制限付きのフォルダを開く。
 事件現場の写真とともに、膨大な文章が映し出された。

 ──X X区 強盗未遂事件
 被害者は大手金融会社社長、安佐見あざみ剛造ごうぞう氏、八十三歳。
 犯行は深夜、安佐見氏が眠りについた頃に行われた。
 窓を割り寝室に入った【何者】かが、眠る安佐見氏の腕と頭に噛みついたのだ。
 幸い、常駐していた警備員が駆けつけたことで安佐見氏は一命をとりとめたが、全治三ヶ月の重症を負ってしまった。部屋は荒らされていたが盗られたものはなく、しかし安佐見氏はひどく激昂し、警官に当たり散らしていたという。
 
 その日は暁月も緊急招集で呼び出され、現場に足を踏み入れていた。
 あの朝のことは、今でも鮮明に記憶に残っている。
 一等地の高級住宅街。非常線の張られたガレージに並ぶのは、やはり高級車ばかりで。その主人の寝室には、引き裂かれた羽根布団の中身が、うんざりするほどあちこちに散乱していた。

 歩きづらさに辟易しつつ現場を調べ、そこで見つけたあやかしの痕跡に、思わず眉を顰めてしまう。強い怨嗟、怒り──かなしみ。それらが痛いほど伝わってきて、胸が疼くように軋んだ。哀れみが膨れあがる。〝助けたい〟。

 かつてあやかしを友に持ったことがあるためか。
 暁月はあやかしの不遇を黙ってはいられなかった。
 例えそれで変わり者と陰口を叩かれようと、かまいやしなかった。

(だけど今回は相手が悪い)

 パソコンの画面を閉じ、暁月は思案に暮れる。あれほどのあやかしだ。自分ひとりでは退治など不可能だろうし、そもそもできれば、捕まえたくすらない。何とか穏便に、逃がしてやることはできないものか……。

 同僚らは、まだ事件の話をしていた。

「しかも【絶対生け捕り】って、あの爺さんも無茶苦茶言うよな。誰がやるかわかってんのかよ」
「おい、声がでかいぞ」
「だってよ」

 ──事件翌日。
 管理局に乗り込んできた安佐見氏は「犯人は絶対に生きて捕らえるように」と厳命していた。面倒なことに彼の親戚が管理局上層部の人間で、この傍若無人な指令は、全職員に通達されることとなってしまった。

(……もう少し札を増やすかな)

 あまり気の進む方法ではないが、これ以外に思い浮かばない。
 日織にはまた「こんなことをしたって無駄です」と苦言を呈されるのだろうが。仕方ない。

 そこまで考えたところで、胸ポケットの携帯が震えた。
 相手は昨日知り合ったばかりのあやかし、宵月町のユキからだった。
 綺麗な男だったと思いながらを通話キーを押せば、鮮やかな声が耳をついた。

『仕事中に悪いな』から始まったユキの電話は、いい酒が手に入ったから飲みに来ないか、というものだった。暁月は報告書に手をつけながら了承する。
 どの道見廻りも兼ねて、夕方には宵月町におりようと思っていたところだった。

『じゃ、決まりな。七時くらいに『善』に来てくれ』
「わかりました、それじゃ」

 通話を切り、携帯を胸ポケットにしまう。
 日織も今日が非番でなければ誘ったのだが──きちんと整頓された隣のデスクを見やり、暁月は思い直した。
【変わり者】でない日織には、あやかしとの酒宴など願い下げだろうから。
 誘ったところで十中八九、断られるに決まっていた。
 

 *


 痛みはなくとも、恐れはある。

 凛はその日一日中、腕に貼られた札を気にせずにはいられなかった。仕事にも集中もできず、笑顔はこわばり、常連客には心配され──閉店間際にはとうとう、高谷に給仕を任せてしまった。

「大丈夫か? 送ってやるから、少し待ってろ」

 いつになく優しい高谷に、凛は軽く首を振って答える。

「大丈夫。歩けはするから」
「バカ。また管理局の奴が来るかもしれないだろ。いいから待ってろ。あ、お前は動くなよ、また皿割られたらたまんねぇから」

 そう強く言われ、凛は客席に腰をおろしたまま、高谷が店の片付けを終えるのを大人しく待つことにした。多少なりとも、まだ、怖かったからだ。



 今朝。
 凛は仕入れから戻った高谷に、日織に札を貼られたことを伝えた。──包帯で隠そうとしていたところを、見られてしまったからだ。
 その時の高谷の怒りようといったらなかった。

「あいつら……っ」

 顔を赤く染め、声を震わせ、怒りを身体中から溢れさせていた。高谷の本性──鬼の顔が顕れそうになったところで、彼は深く息を吐き、感情を押し留めた。約定がそうさせたのだろう。険しい顔はそのまま、高谷は凛に向き直った。

「……遅くなって悪かった。腕、痛みはないのか? 俺が剥がしてやれたらよかったけど」
「大丈夫よ、ありがとう高谷さん」

 高谷でも、この札には触れることすら難しいようだった。忌々しそうに睨みつけたあと、慎重な手付きで包帯を巻いていく。


 高谷は、今日くらいは休めと言ってくれたけれど、凛はその申し出を断った。誰もいない部屋に自分だけでいると、札のことばかり考えてしまいそうで怖かったからだ。結局、店にいても札のことが頭から離れず迷惑をかけてしまったけれど──。
 凛は申し訳なさに落ち込みながら、小袖の上から腕を押さえた。 
 幸い、札はそこにあるだけで、痛みも痺れも感じることはなかった。日織の言っていた通り、凛が宵月町で大人しくしている間はなんの効力ももたないのだろう。
 凛は知らず、ため息を溢していた。

(日織さんは、明日には結果がわかると言っていた)

 ──そんなはずはない。
 しかし万が一、もしも、歯形が合致したら、自分は管理局へ連行されてしまうのだろうか。
 そうなったら、どうなるのだろう?
 連行された先、あやかしがどんな尋問を受けるのかを、凛は知らない。
 日織の口ぶりからすれば、暁月は別に犯人を探しているらしいが。──彼もこの札を凛に貼ることは知っていたのだろうか? ──了承、したのだろうか。

(暁月さん、今日は来なかった)

 昨日も疲れている様子だったし、よほど忙しいのだろう。昼のピークを過ぎて、夕方の閉店間際になっても、今日は暁月が姿を表すことはなかった。

 凛は店の窓の外、薄闇迫る空を見た。
 もうすぐ、本当の夜が来る。
 宵月町はほとんどが地下で、だから町はいつだってほんのりと薄暗い。
 昔ながらの町並みを照らす花灯籠には常に明かりがともっていて、道を、町を、煌々と照らしている。
 ここはあやかしの町。
 あやかしの領分。
 ヒトの、それも管理局職員の暁月と仲良くなれたような気がしていたけれど、そんなものは全て、無知な凛の、勘違いだったのだろうか。

 そう思っていた時だった。
 知った甘い香が凛の鼻先を掠めたのは。

「よっす」

 明るく陽気な声をあげて、ユキが店に入ってくる。
 奥から顔を覗かせた高谷が、しかめつらを作った。

「もう終いだ、帰れ」
「わかってるよ。オレだって今から仕事だっての」
「じゃあなにしに来たんだよ」
「客引き。お前らも来いよ、いい酒入ったんだ」
「はぁ? 悪いけど今日は」
「暁月もそろそろ来るぜ、ここで待ち合わせしてんだ」
「え?」

 凛と高谷は、思わず顔を見合わせてしまう。

 暁月さんが、くる。
 とたん顔色を変えた凛に、ユキが目敏く気づく。

「あ? どうした凛、具合でも悪いのか?」
「いえ、何も──」
「呪符貼られたんだよ。管理局の奴に」
「高谷さん……!」

 声をあげる凛に構うことなく、高谷は続ける。

「あいつら、俺が出てる間に押しかけやがった。凛がヒトを襲ったあやかしじゃないかって、疑ってる」
「……なにもないはずはないと思ってたけど」

 ユキは言って、小袖から覗く凛の腕に目をやった。そこで凛はやっと、自分が腕を押さえ続けていたことに気付いた。
 
「…………それ、暁月がやったのか?」
「違います、暁月さんの部下の方が」
「じゃあ暁月が許可したってことか」

 ユキはいつになく冷静だった。
 凛の声はか細く、小さくなっていた。
 
「でも、疑いが晴れたらすぐに剥がしてくれるって」
「晴れたらいいけどな」

 ユキが低い声をあげる。心なしか、店の温度がわずかに下がった気がした。

「ユキさん、わたしは本当に大丈夫だから」

 と、そう言いかけた時だった。
 凛と高谷とユキが、近づいた気配に会話を止める。
 あの匂いがしていた。
 ここずっと凛が意識してかぎ分けていた、落ち着く、お香のようなかおり。
 暁月だ。

「こんばんは」

 いつも通りの声音で、穏やかな表情で、暁月が戸を開く。真っ先に凛と目があって、いつもみたいににっこりと笑顔を向けられてしまった。

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