この手を離す、その時までは

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前編

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ずっと一緒にいたのに。
アルトがそんな風にして笑うことを、リリシャはその時まで知らなかった。




慣れない夜会場で、侍女とはぐれてしまったリリシャは涙目で邸内を歩いていた。
知らない人は苦手だけれど、知らない場所もとても苦手だった。
心細くて、不安で、泣き出しそうになる。
けれどリリシャは必死に堪えた。

『ご立派な淑女は人前で泣いたりいたしませんよ』

大好きなアルトの教えを忠実に守っていたからだ。

と、そのアルトを探していたリリシャの足が、ぴたりと止まる。
突然聞こえた、弾けるような笑い声に驚いたからだ。
(……これってアルト? よね)
暗い廊下の先には、ふたり分の影が揺らいでいた。
一人は騎士で、一人はメイドのお仕着せを着ていた。リリシャは柱の裏に忍んで、笑い合うふたりの会話に耳をそばだてる。
女性の声は、からかうような響きを持っていた。
 
「お姫様のお守りも大変でしょう?」
「もう慣れたよ」

そう言って軽く肩を竦めたのは、紛れもない、リリシャの従者兼護衛の騎士アルトその人だった。
黒地に銀糸で縁取られた立派な騎士服は闇の中でもよく映えていたし、何より彼の黒い髪はこの国では珍しいものだったから、見間違えるはずもなかった。
リリシャはその場に立ち尽くしたまま、瞬きを繰り返す。
壁に寄り添うように並んで話している彼らは、リリシャに気づいた様子はなかった。
いつもは無口でほとんど表情を変えないアルトの顔が、今は心なしか緩んでいる。

「十年だからな」
「そんなに経つのね」

メイドが、感慨深げに息を吐いた。
そうしてじっとアルトを見上げる。
格好よくて剣も強いアルトは、しょっちゅうそんな目で女の子たちから見つめられていた。
リリシャはその度に嫌な気持ちになっていた。
アルトはリリシャの家来なのに、と、大した用もないのに彼を呼びつけては取り返した気分になっていた。
今だって一言彼を呼びさえすれば、アルトはすぐにこちらに戻るだろう。
けれど、とてもそんな気持ちになれなかった。
アルトが嬉しそうだからだ。
こんなアルトを、リリシャは知らない。

メイドが言った。

「リリシャ様は、もう十六になられるのよね」
「そうだよ」
「社交界にも出られたんでしょう?さっきお見かけしたけど、綺麗になられたわね」
「見かけだけだよ。中身はまだまだ子供だ」

苦笑するアルトに、メイドは親しげな視線を投げる。

「アルトったら。聞かれたら大変よ?また癇癪を起こされるかも」
「それも慣れてる」
「あなたも大変ね。休暇も全然ないのですって?」
「護衛だからね。仕方ないさ」
「窮屈じゃない?」
 
アルトはそれにも「慣れた」と答えた。

リリシャは、全身から力が抜けていくような気がした。
アルトはずっと、わたしといることを窮屈に思っていたのね。
拘束するつもりはなかったのだけれど、それでも、悪いことをしたと思った。
確かにリリシャは、大好きなアルトを何処に行くにも連れ回していた。護衛だからという魔法の呪文を用いて。

「ねえ。故郷(こっち)に戻る気はないの?おば様もおじ様も待ってるわ」
「そうだね、そのうちね」
「もう、いっつもそればっかり」

どうやら、メイドの女の子とアルトは同じ西国の出身らしかった。おそらくはこの夜会で偶然再会して、話し込んでいたのだろう。


リリシャはゆっくりとその場から離れた。

思い出していたのは、アルトと出会った日のこと。
リリシャはまだ、六歳だった。

武術大会に西国の戦士として出席していたアルトに、リリシャは命を救われた。
あの瞬間のことは、今でも鮮明に覚えている。
大会をよく見たいと侍女を振り切り、木登りをしたリリシャは、足を滑らせて落下した。その時に受け止めてくれたのが、偶然下を通りかかっていたアルトだった。
「大丈夫ですか」
鍛え上げられた硬い胸と太い腕に抱きとめられ、リリシャは打撲の一つも負わずに済んだ。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
にこりと微笑まれ、幼いながらもリリシャは、アルトの美しい顔に見惚れた。
そうしてすぐに、彼に懐いた。
名前を聞き出し、素性を聞き出し、子供の特権を駆使して遊んで欲しいとせがみ、公爵位の父に頼んで彼を従者につけた。

それからずっと、アルトはリリシャと一緒にいてくれていた。
十二歳も年上のアルトは、今年で二十八になる。
本来なら結婚して子供さえいてもおかしくはない歳なのに、リリシャの護衛をしていたせいで、彼は未だに独身だった。それどころか、浮いた話のひとつもない。

わたしの世話ばかりしていたから。
わたしが彼の恋路を邪魔していたから。

リリシャだって馬鹿ではない。
本当は、薄々、その事実に気づいていた。けれど知らないフリをした。アルトと離れたくなくて。アルトに恋人なんて作って欲しくなくて。独占した。

それも今夜までにしよう。
お父様に言って、新しい従者をつけてもらおう。

迷路のような屋敷を歩き回りながら、やっと元の会場に出る。
リリシャはほっとしながら明るいパーティー会場へと戻った。
侍女は何処に行ってしまったのだろう。
早く帰りたかったリリシャは、はしたなくない程度に顔を動かす。
と、背後から若い男性の声がかかった。

「こんばんは、リリシャ様」

振り返ると、眩い金髪と蒼い瞳の青年が立っていた。リリシャは記憶をなんとか辿って、青年の名前を紡ぎ出す。

「ラフリート様。こんばんは」
「良い夜ですね。食事はお召し上がりになられましたか」
「ええ。もうお腹いっぱいで、そろそろお暇しようかと思っていたところです」

社交も貴族の義務だ。
リリシャは努めて笑顔を浮かべて、失礼のない程度に会釈した。
こんな時も、いつもはさりげなくアルトが助け舟を出してくれていた。会話に詰まらないように、自然な流れになるように。けれど、今夜からはそうはいかない。知らず、喪失感に胸が痛んでいた。
ラフリートが、役者みたいに大袈裟に驚いて眉をあげた。

「おや。もうお帰りに?それは残念です」

そうして、意味ありげに目を細める。
子爵家の嫡男ラフリートは、ちらと、ダンスホールに目をやった。

「もし宜しければ、お帰りの前に一曲だけ御相手願えませんか」
「……ええ。喜んで」

リリシャは暗い気持ちになりながら、差し出されたラフリートの手をとった。
ピアノも乗馬も詩の暗唱もお手の物。けれど昔から、どうしてもダンスだけは苦手だった。
しかし社交が目的のこの場で誘われて断るなど許されることではない。
一曲だけ、一曲だけ。
リリシャは自身に言い聞かせて、ダンスの輪に加わる。
と、曲が始まる寸前、見守る観衆の中に見知った黒い髪を見つけた。
いつもの気難しい顔で、アルトがそこに立っていた。
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