恋に落ちるなら

koma

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恋に落ちるまで

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 ロマンスもなにも、あったものじゃない。
 ネリッサはため息をついて、読みかけの本を閉じた。

「どうしたの? 元気ないね」

 向かいの長椅子に掛けていた少年が、ふいと顔をあげる。彼は、今日も小難しそうな歴史の本を読んでいた。家庭教師のいない時間まで勉強しようとする少年の神経が分からなくて、ネリッサは眉をよせる。

「ねえそれ、いつも読んでるけど面白いの?」
「面白いよ。昔の人の考えとかよくわかって」
「ふうん」
「ネリッサは? それ楽しみにしてるシリーズの新刊だろ? 面白くなかったの?」

 言いながら首を傾げる少年の視線が、ネリッサの手元の本に注がれる。
 ネリッサは、その美麗な装飾の施された表紙を撫でつつ呟いた。

「面白いけど……」
「けど?」

 小さなため息がこぼれる。

 それは、ネリッサが一年ほど前から愛読している続き物の少女小説だった。

 平凡で心優しい女の子と、身分を隠して市井に降りた王子さまとの交流を描いた、愛と冒険に満ち溢れたファンタジー小説だ。一巻毎に近づいていく二人の距離と深まる謎、王室の陰謀に加え、次々と現れる魅力的な悪役たちにととにかくストーリーが素敵で壮大で、ネリッサは創刊当時からこの物語の虜になっていた。

 特に、ヒーローの王子さまが素敵なのだ。

 勇気と誇りを持って魔物に挑み、ヒロインの女の子を命懸けで守る。

 そのヒロインに自分を重ねて、ネリッサはうっとりと物語に沈んでいた。
 先日発売されたばかりのこの新刊だって、それはそれは楽しみにしていたし、内容はやはり素晴らしいものだった。けれど。

 ──けれど最近、気づいてしまったのだ。

 現実にこんな王子さまがいないということを。

 少なくとも、段々と好きになる、その相手と恋に落ちる──なんて夢物語、自分には起こり得ないことなのだと。

「どうしてそう思うの?」

 不思議そうに尋ねてくる少年に、ネリッサは言った。

「だって、私の結婚相手はもう決まってるじゃない」

 ふかふかのクッションを抱きしめながら、ネリッサは少年を睨むように見つめる。少年は飄々と首を傾げた。

「ネリッサは、僕が相手じゃ嫌なの?」
「嫌じゃないけど」

 ぶつぶつと呟くように言いながら、想いを吐露する。

「私とあなたじゃ、ロマンスにならないじゃない」

 少年とネリッサは、もう二年も前に結婚を約束している──互いの親同士に決められた、許嫁だった。

 爵位持ち同士で、歳も今年で12歳と同じ、住まう屋敷も近く、親同士の仲も良好。
 こんなにいい縁談はないと、会う大人たちは口々にのたまっていた。

 ネリッサだって、少年のことは嫌いじゃない。こうして月に数度会って遊ぶのは楽しいし、お菓子も大きな方をくれる。ネリッサの読書にも付き合ってくれるし、やさしい。
 でも、でも。

「あなたとじゃ、こんなに素敵な冒険は無理だし、それに、私たちにときめきなんてないじゃない」
「ああ、まあ」

 もはや家族愛に近くなっているそれに、少年は同意して、ふむ、と考える。

「つまり君は、恋がしたいってこと?」
「そう! そうなの! 例えばね、夜会場で初めて会った人と踊ってドキドキして、『恋人はいるのかしら』とか『次はいつ会えるかしら』みたいな、切ない気持ちになってみたいの」
「なるほどね」
「でも大人になって社交界に出たって、私の相手はもう決まってるんだもの。ね? ロマンスなんてあったものじゃないでしょ?」
「んー……ロマンスね」

 よくわからないけど、と少年は口にして、立ち上がった。

「エト?」

 どうしたのだろう。と思っていると、少年──エトアルトは、ネリッサのすぐ隣に座ってきた。彼のいる側が少しだけ深く沈む。

「じゃあさ、キスでもしてみようよ」

「…………え?」

「ドキドキしたいんだろ? キスって緊張しそうじゃないか」

「は」

 それは、そうかもしれないけど。

「でも、待ってエト、私、心の準備が」
「待たない」
「や、でも」

 表情ひとつ変えないエトアルトに、右手を取られる。
 あ、と思う間もなく、その感触は降りてきた。

「──どう?」

 綺麗な緑色の瞳が、イタズラこのように煌めいて、ネリッサを捉える。

 ──からかわれた、のだ。

 ネリッサは首まで顔を赤くして、エトアルトに怒鳴る。

「……っ! エトのばか! 大嫌い!」
「あはは。顔真っ赤だよ、ドキドキしてる?」
「教えない!」
「それって教えてるようなものだよ」

 くすくすと笑ったエトアルトが、口付けたばかりのネリッサの右手を離す。ネリッサは取り返したその手を、抱きしめるように左手で覆った。

 温かくて柔らかい──不思議な感覚。

 全く、ロマンスなんてあったものじゃない。


 ネリッサは未来の夫に不満をこぼしながら、うるさくはねる心臓に、静かにして、と言い聞かせ続けた。




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