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かわいい婚約者

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後日譚。

前話から二年後、十四歳になった二人のお話です。
社交界にデビューする一幕。
エトアルト視点です。

────────────



「おかしくない? ねぇ、おかしくない?」

 鏡の前で何度も自分を振り返るネリッサを、エトアルトは淡々と見つめ返す。

 これで、十回目くらいの同じ質問だった。

「おかしくない、可愛いよ」

 先ほどからそう問われるたび、同じように返しているのだが、いかんせんネリッサは中々信じてはくれなかった。着付けたばかりのドレスを見下ろしてはエトアルトや彼女付きのメイドに、華奢な身体をひねってみせつつ変なところはないかとしきりに尋ねてくる。

(ほんとに似合ってるのに)

 エトアルトは他にどう伝えるべきかと、長椅子に腰掛けたまま思案した。

 初めての夜会を前に、エトアルトの幼馴染であり婚約者のネリッサはひどく気後れしている様子だった。幼い頃からあんなにも憧れ、楽しみにしていたというのに、いざ出席するとなると、膨らみすぎた期待と不安に押しつぶされそうになっていた。

「ねえ、エト」
「思ったのと違ったらどうしよう」
「失敗したらどうしよう」

 ネリッサは助けを求めるように心配ごとを並べ立て、且つそれらを少しでも払拭しようと、今まで培ってきた礼儀作法を、エトアルトを練習台にして復習した。
 真面目で勉強熱心なネリッサの作法はエトアルトからすれば完璧に思えたし、厳格な教師陣だって舌を巻くほどだった。なのにネリッサときたら、ずっとこの調子だった。

「心配性だよね」

 ダンスの練習相手にと呼び出されたエトアルトは、明日の本番を前にいよいよ緊張のピークに達しているネリッサの手を取った。
 エトアルトを見つめるネリッサは、怪訝そうに眉を寄せる。

「……逆に、なんでそうエトは平然としてられるのよ。怖くないの? 出席者リストは見た?」
「見たけど、別に」

 ネリッサの手を握り直し、コルセットで締め付けられた細腰にもう一方の手を当てがう。とたん、ネリッサが一瞬固まったような気がしたが。頃合いを見計らったように男性の講師が入室してくる。

「さあさ、お嬢様、御坊ちゃま。おしゃべりはそこまでですよ。レッスンのお時間です」

 彼がピアノに腰かけたところで、エトアルトも背筋を正す。数秒ののち、緩やかな練習曲が部屋いっぱいに流れ出した。リズムに合わせて足を動かしながら、エトアルトは、出席者リストに羅列された名前を思い起こす。

 そこには確かに、大物貴族の名もあった。けれど明日の夜会はデビュタントが主な目的で、だから並ぶ名前も八割が若者ばかりだった。──新人ばかりの社交会。
 よほどの失言をしない限りは、大したことにはならないだろう。

 けれどエトアルトの婚約者は、念には念をとダンスの練習も必死だった。

 ──誰が相手になってもいいように。

 ネリッサが苦手だったはずのステップを踊りこなす。ダンスの講師も上手くなったと声を上げて、彼女の顔がぱっと華やいだ。この分なら、多少身長差がある相手でも難なく踊れるだろう。
 エトアルトは安堵しつつ、同時に、ほんの少しだけ不安になる。

 もしもネリッサに、他に気の合う男性が現れたら。その時自分は、祝福出来るのだろうかと。




 先日のことだ。
 めでたく十四を数えたネリッサとエトアルトは、互いの父親らの勧めもあって、社交界へデビューすることが決まった。
 とは言っても、他の子息子女のような相手探しお見合いが目的ではない。夜会の雰囲気に慣れ、交友を広げるための参加だった。どの道成人すれば避けては通れないのだからと、両親に背を押されたのだ。

 しかしそれは、ネリッサにとっては大変な一大行事らしく。

「他の子はどんなドレスを着てくるのかしら。浮いたりしないかしら……」

 丸めた片手を口元に当て、ぶつぶつと不安を口するネリッサに、エトアルトは「大丈夫だよ」と声をかけ続けていた。

 子供の頃から夜会に憧れていたネリッサは、先祖代々懇意にしている仕立て屋を呼び、悩みに悩んで初めてのドレスを作り上げた。

 その出来栄えは、彼女の労力に比例して素晴らしいものだった。
 縁(ふち)を手編みのレースで彩った薄黄色のドレスは花弁のようにふんわりとやさしげで、全体に細かく散りばめられた金剛石(ダイヤモンド)も晴天下の水面(みなも)のように煌めいていた。いくつものパターンを起こし、針子とあれやこれや相談した甲斐があったとネリッサは満足そうにしていた。
(「なんでもいい」と、全てを母親に任せたエトアルトとは、えらい違いだった。)

 しかし、そんなに時間と熱意をかけて作り上げたドレスも、本番が近づくにつれて「これでいいのかしら」という不安がもたげてきたらしい。



 とうとう夜会のその日が訪れても、会場に足を踏み入れても──ネリッサは心細そうに顔を曇らせていた。

「エト、エトってば」
「なに?」 
「離れないでね、絶対よ」

 正装したエトアルトの片腕を縋(すが)るように掴み、ネリッサはかぼそい声をあげた。
 もちろん、離れるつもりはない。
 彼女の父親にも、くれぐれもと頼まれている。
 エトアルトは頷いて、きょろりと周囲を見渡した。
 
 通された宮殿の大広間には巨大なシャンデリアが吊るされ、会場中が明るく照らされている。
 豪華絢爛、さざめく人波の中、女王陛下への挨拶を終えたエトアルトたちが次になすべきことは社交──人脈作りだった。

 今夜は自分も含め、若輩者ばかりの顔ぶれ。しかし、だからといって社交を疎かにするわけにはいかない。会場のすみに寄り、エトアルトはめぼしい人物を探した。
 子爵公爵男爵伯爵。
 さまざまな位を親に持つ子息子女の、どの輪にはいるべきか。
 無意識に利を追い求めていたエトアルトの耳に、明るい声がかかった。

「ウィルシュ様!」

 誰だろうと振り向けば、見事な金髪巻毛のお嬢さんがそこに立っていた。青藍色の瞳が、エトアルトを捉えていた。
 アウゼン伯爵家のご令嬢だ。とすぐに気づいたのは、彼女を追いかける青年がいたからだ。リストにも確かにあった家名だった。

「こんばんは」

 見目麗しいアウゼン兄妹に向き直り、エトアルトは笑顔を返す。

 令嬢を追いかけた青年──兄の方は御歳十七を数える穏やかな気質の青年で──おそらくは妹のデビューに付き合わされたのだろう──はしゃぐ妹を困ったように見下ろしてから、エトアルトとネリッサに向き直った。

「こんばんは、エトアルトくん。ええと、そちらは」
「婚約者(フィアンセ)のヴィリーナ・ネッサローズです。──ネリッサ、こちらはアウゼン伯爵家のヴィルヘルさんとイリーナさん。昔、歴史の勉強会に一緒させてもらったんだ」
「まあ、そうなの?」
「二年も前の話だけどね。外国から講師を招いて、みっちり叩き込まれたんです。……あれは大変だった」

 記憶が蘇り、エトアルトも苦く笑った。

「スパルタでしたね」
「うん、思い出したくもない」

 言ってヴィルヘルは肩を竦め、それにしても、と続けた。

「エトアルトくんはずいぶん背が伸びたね。一瞬わからなかったよ」

 と、妹のイリーナが会話に入り込んでくる。

「ええ、本当に見違えましたわ! 昔からウィルシュ様は素敵でしたけれど、今夜の礼装もとてもお似合いですし……。そうだわ、再会の記念に一曲踊ってくださいませんか? ネリッサさん、あの、よろしくて?」
「え? ええ、もちろん」

 突然話題を振られたネリッサは、一瞬戸惑ったように瞬いた後、けれどしとやかに頷いた。
 この場は社交が目的だ。
 資産家でもあるアウゼン家と繋がりを持っておいても損はないだろう。でも。

「では、ネッサローズ嬢は僕がお相手差し上げてもよろしいでしょうか」

 冗談めかしていったヴィルヘルに、ネリッサが笑顔で呼応する。
 申し込まれたら手を取るのが当然。むしろ断るということは「あなたと仲良くする気はないですよ」と宣言しているも同然で、だからネリッサの反応は全てが当たり前で普通だった。
 なのに──なのにどうしてこうも、落ち着かないのだろう。
 他愛無い会話の間、エトアルトは自問自答していた。
 消化に悪いものでも食べたあとみたいに、喉の奥、胸辺りに、違和感を覚える。
 それは、「では後ほど」とアウゼン兄妹が去ってからも治りはしなかった。



「……ねえエト、どうしたの? 具合悪い?」

 心配そうな声に、エトアルトは隣のネリッサを見つめた。

「別に、どこも悪くないよ」

 一通りの歓談が終わり、まもなくダンスが始まろうとしていた。
 開(ひら)けたホールのそばから、弦楽器を調律する微(かす)かな音が響く。

「でも、さっきから辛そうよ?」

 おろおろと自分を見上げてくるネリッサ。──彼女は先ほどから、何名もの男性に話しかけられていた。すでに婚約者がいると知れば、皆残念そうに引き下がっていったけれど。好意を寄せられていたのは確かで、エトアルトの気は抜けない。

「……人に酔ったのかも」
「ええ、大丈夫? 帰ろうか?」

 今にも別室で待機している従者を呼びに行きそうになったネリッサを、エトアルトはその手を掴んで引き留めた。

「ごめん。もう大丈夫」
「でも」
「君だって楽しみにしてただろ?」

 あんなにも練習を重ねていたネリッサを、自分の体調不良に付き合わせるのは心苦しかった。
 あと数時間くらい耐えられるだろう。
 けれどネリッサはきっぱりと言った。

「ううん。エト、さっきからずっと辛そうだもの。帰りましょ。ダンスならいつでも出来るわ」
「けどせっかく」
「エトの方が大事だもの」

 真っ直ぐに言われて、エトアルトは口をつぐんだ。
 
「ね、帰りましょう?」

 ネリッサが言った瞬間、ホールから舞踏曲が流れ出した。若者たちが手を取り合い、色鮮やかな輪を作っていく。視界の端にその群れを認識しながら、エトアルトは、ネリッサの絹の手袋に包まれた手首をそっと握りなおした。

 憧れの舞踏会がすぐそこで開かれているというのに、この子ときたら。

 ──エトアルトは、もう随分前からネリッサに恋をしていた。
 十二歳の時だ。
 一度婚約を白紙に戻さないかと彼女から提案されて、気がついた。彼女が好きで、だからそんなのは絶対に嫌だと。焦った。
 両親に言われての婚約だったけれど、エトアルトは確かに彼女が好きだった。
 だから、ネリッサに自分にも恋をして欲しくて、答えを求めて、友人や召使いに相談したり、本を読んでみたりもした。彼女が憧れるような紳士になるため、勉強も、体作りの鍛錬も欠かさず。
 二人の関係は良好だった。

 けれど結局、ネリッサに恋をしてもらう方法はわからなかった。

 尋ねればネリッサは顔を赤くしながら「好きよ」と返してくれる。
 けれどそれは、弟に対するそれに近いかもと、彼女は言った。喧嘩をすることもあるけれど数日経てば仲直りしてしまう、そばにいることが当たり前になってしまった良好な関係……。──なまじ子供の頃から一緒にいたせいで、家族愛が先に育ってしまったのかもしれない。

 ネリッサは小説のような恋に憧れていた。こうした夜会で巡り合って、相手の気持ちを考えたり、ゆっくりお互いを知っていったり、ドキドキする、そんな恋をしたいと言っていた。そうして今この場は、彼女の憧れそのもので。

 避けては通れない道だからと出席を決めたけれど、その実、エトアルトは不安でたまらなかった。

 この日のためにと意気込むネリッサを見るたびに、もしも彼女が別の誰かに心を奪われたら。自分はちゃんと、この手を離してあげられるだろうかと。思い悩んだ。
 
「ネリッサ」
「なに?」

 薄い化粧と甘やかな香水の匂い。
 凛としたそつのない受け答え。
 それでなくとも整った顔立ちをしたネリッサは、男共の視線を集めて止まなかった。お近づきになれないかという、打算を含んだ。
 エトアルトは嘆息する。

「……君って、なんでそんなに可愛いんだろ。心配で心配でたまらなくなるじゃないか」

 独り言のようにつぶやいたエトアルトを、一瞬呆けたネリッサは────意味を理解してぼっと顔を赤らめた。

「え、えっ? エト、あの」
「なに?」
「なにって。は、恥ずかしいじゃない。こんなところで」
「そう?」

 慌てふためくネリッサに少しだけホッとする。
 もしかしたら、弟君よりは意識して貰えているのかもしれない。

「なに、皆君のこと可愛いって言ってたじゃないか。今更照れるの?」

 からかうように覗き込めば、ネリッサはむっと眉を寄せてくる。けれどその顔は、露わになっている首筋までほんのりと赤く染まっていて。

「あ、あんなの社交辞令でしょ。エトは……本当っぽく言うんだもの」
「本当だけど」

 人より羞恥心の薄いエトアルトがさらりと言えば、ネリッサはもう我慢できないと言ったように視線を逸らした。

「も、もう、いいから。具合よくなったんなら離して」
「なんで? 踊ろうよ。せっかく練習したんだから」

 最初のダンスだけは誰にも譲らない。エトアルトは心に決めて、ネリッサの手を引き寄せた。
 ネリッサが困ったように見上げてくる。顔はやっぱり赤いまま。

「……あの、言い忘れてたけど。エトもとっても素敵よ。おばさまの見立ては間違い無いわね」
「そう? ありがとう。母上も喜ぶよ」
「本当よ? ……エトは、本当にいつも素敵で、なんでもできて、わたし」

 客人の注意がダンスホールに向いているから話せることだった。

「この頃、置いて行かれないか、不安なの」

 その憂う表情に、エトアルトは気付く。社交会への出席が決まって、あんなにもネリッサが必死になっていたのは──ロマンスとやらを求めたわけではなく。

「……今夜は、あなたの婚約者としてちゃんと出来てたかしら」
「……」

 エトアルトは瞬き、一拍の間を置いて頷く。真顔で返した。

「完璧だったよ、誰よりも」
「……エトの採点は甘いもの」

 完璧な淑女を演じていたネリッサの気が緩み、頬を膨らませる。エトアルトはあたりに目を走らせ、一瞬の隙をついて、その白い頬に唇を寄せた。

「エ、エト……!」

 驚き慄くネリッサにエトアルトは上機嫌で微笑む。

「好きだよネリッサ」

 だから早く君にも恋を知って欲しい。甘くて苦くてとても素敵なものだから。
 できればその相手は、僕であって欲しいと。そう、願ってみた。

 



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