あなたと私のサイコパス(元 潮の香り)

団子(仮)

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普通の人間

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 のろのろと起き上がり、息を吐くために伸びをする。そうすることで肩の力が抜けて、徐々に夢と現実の区別ができるようになる。

「ふう~……」

 妙な浮遊感が溶けるように消えていき、そうして稀はやっと覚醒した。
 壁に掛けている柱時計を見れば、午前十一時を指していた。寝室を出てリビングに向かう。
 顔を洗って歯を磨いて、冷蔵庫で冷やしているガラスのコップに氷を三個だけ入れて麦茶を注ぐ。ごくごくと喉を鳴らしながら二回に分けて飲み干し、また氷を入れ直して麦茶を注ぐ。
 水分を補給して視界がクリアになっていくが、どこかすっきりしない。稀は嫌な感覚を唾と一緒に飲み込もうとしたが、このまとわりつくような感覚は意識すればするほど逆に増していくばかりだった。

 麦茶の入ったコップに口を付けようとして止めて、中身を流しに捨てる。棚からスポーツ飲料の素になる粉を引っ張り出して、水と氷と一緒に掻き混ぜた。急かす心を知らないふりして、平静を装って。
 出来上がった傍から、稀はごくごくと喉を鳴らしながら勢いよく飲み干した。

 はあ…………

 麦茶では満足せず苛立っていた脳味噌が、急速に落ち着きを取り戻す。それをおかしいと感じながらも、まだ自分の体にスポーツ飲料は有効なのだと知って安心した。

 ……どんどんおかしくなってる。

 執筆中の稀は物語の主人公が吸血鬼ということもあって、発作のように手を噛みたくなることがあった。机に向かっている間は流れのままに噛んだりもしたが、日常生活で不意に頭の奥が疼くことも珍しくなく、そういう時は注意力が散漫になってなかなか精神的に安定することはなかった。
 自分の手を噛む。それ自体がたとえ気持ちのいいことだとしても、当然のことだとして慣れたくはなかった。必要がないなら避けて生活したかったのだ。そうして稀が目を付けたのがスポーツ飲料だ。
 稀の愛用しているスポーツ飲料は成分が人の汗に似せて作られている。それは人間の体が吸収しやすいように似せているのだが、つまり海水の成分とも似ているということ。それは飲む点滴であり、稀にとっては健全に欲求を満たしてくれるなくてはならない物だった。

 健全、というのは周りに怪しまれることも拒否されることもなくを装ったまま欲求を満たせるということだ。稀が誰かの前で市販されている飲み物を飲んだとして、それは異様な光景ではなく日常の一部、ただの水分補給としか認識されない。稀の場合、水分補給を目的として飲む人間と比べてしまうと動機は違うかも知れないが、両者ともただ飲み物を飲んでいるだけなので行動自体に罪悪感を感じることもない。
 それに手を噛むと脳味噌が喜んで幸せを感じるのだが、長い間興奮してしまう。幸せ過ぎて、それがたまに苦痛に感じてしまうくらいなのだ。それに比べてスポーツ飲料は効率が良い。一瞬のうちに脳味噌を満足させるうえ、興奮させる前に落ち着きを取り戻すことができる。稀にとっての精神安定剤のようなものなのだった。

 しかしスポーツ飲料に頼る機会が増えるというのは、それほど我慢が利かなくなってきた証拠でもある。今は元となる粉を常備しているが、いつからこうなったのか。稀はこの状況を何とかして抜け出したいと思わなくもなかったが、誰かに迷惑を掛けているわけでもない――そう考えるとやっと縋ることのできる安心を手放すのが悪手にしか思えなかった。そうやってずるずるとここまできてしまった。

 何か食べないと……。

 食欲はあまりないが、腹が減っていては気分も沈む一方だろう。稀は冷凍庫で保存していた米を電子レンジで温めて解凍すると、梅干しと醤油で混ぜた鰹節を具におにぎりを三つ握った。さらに適当の味噌と鰹節をお湯で掻き混ぜると、乾燥ワカメを入れて即席の味噌汁を作った。
 食べるのが億劫であるならば、パンやフルーツジュースではなく腹持ちのいい米を選べば良いと思う。一度の食事でなるべく腹を満たしておけば、食事が面倒で一食抜いてしまったとしてもカバー出来るからだ。
 これがパンやドリンクではとても間に合わない。食欲がない時、米を口にするよりもハードルは幾分か下がるが、食事の回数が減ることも考えると米の方が結果的に効率が良いように思える。

 稀は出来上がったものを外の景色がよく見える、窓際のミニテーブルまで持っていくと、時折風に揺られる木々を眺めながらおにぎりにかぶりついた。気分は依然沈んだままだった。
 稀は柱時計の振り子の音に神経を集中させ雑念を払うように黙々と食べ物を口に運んだ。



 ***



「書籍化も問題なく進んでいます。もうすぐ書店に並べられると思いますよ!」
「それは嬉しいですね」
「ところで次回作をどうするかですが……何か浮かんできていたりしました?」

 数日後、坂田からの電話で打ち合わせをすることになった稀は、お気に入りのカフェに来ていた。半個室のような空間が気に入っていて、座席もソファを採用しているので物を書くのは勿論、打ち合わせにも使いやすいのだ。店内に流れる曲にボサノヴァを採用しているのも気に入っていた。
 稀は紅茶を一口飲んでから、首を横に振った。

「まだ、何を書こうとか具体的なものは……」

 電話での彼は、気持ちいつもより早口になっていた。稀にアイデアなど浮かんできていなかったが、彼はどうやら言いたいことがあって打ち合わせを要求したらしかった。

「……それにしても」
「……それにしても? なんです?」
「いえ、ブロッサムを書いている時の稀さんは生き生きしていましたからね。悩んでいる稀さんを見るのは久しぶりです」
「そ、そうですか」

 そんなに生き生きとしていただろうか。いや、アイデアが浮かんだ直後は恥ずかしいくらい浮かれていたのは覚えているが……。まあ、彼の言うことは間違っていないだろう。良いも悪いもない、稀の欲を落とし込むことが出来た唯一の作品なのだから。

「それで、僕からの提案なのですが……ブロッサムの続きを書くというのはどうですか?」
「――それは」
「いえ、まだ本の売り上げ次第なのは間違いないのですが、ブロッサムは稀さんに合っているようですし。アイデアがあれば考えておいて欲しいんです。僕も協力します」
「…………」

 まさかブロッサムの続きを要求されるとは思ってもみなかった。
 嬉しいような、もうブロッサムからは離れたいような。稀の本に影響された人間は少なからず存在する。頭の中にナイフを持った少年が浮かんだ。

「稀さん?」

 稀はうんともすんとも言えず、困惑した顔をしていただろう。考えておくと言ったと思うが、そのつもりはなかった。この時の稀は怯えていたのだ。またあの強烈な感覚を文字に起こさなければならないのかと。自分はそれに耐えて今のまま、周りに溶け込むように生活をしていられるのだろうかと。
 果たして、家に着いた稀に丁度良く一本の電話が入った。



「貝さんですね? 感謝状を贈りたいのですが――」
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