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第四章:凪いだ水面に波が立ち

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 この時代に来て、いつの間にか一ヶ月が経った。二人で暮らすのにもずいぶん慣れた気がする。
 朝、伊織さんより少しだけ早く起きると朝ご飯の準備をする。伊織さんが起きたら一緒に食べて、仕事に行く伊織さんを見送る。朝ご飯の片付けをしたら部屋を掃除して、お昼ご飯を作りながら伊織さんの帰りを待つ。それが私の一日の全てだった。
 お昼を二人で食べた後、伊織さんが抜いてくれた家庭菜園の野菜を使って晩ご飯の準備をしたりもらったノートに日記を書いたりして時間を潰した。
 たまに、本当にたまに家庭菜園に水やりをすることもあった。伊織さんの家庭菜園は思った以上に本格的で、おうちの裏は全て畑になっていた。幸い、お米は作っていないようで田んぼはなかったので私でも近づくことはできた。……まだ土に触れるのは怖いけど。

「こんなもんかな」

 晩ご飯の下ごしらえを終えると、私は窓際に置いた座布団の上に座った。伊織さんが帰ってくるまでまだ1時間以上ある。今日は風が強いのか、窓がガタガタと音をたれて揺れていた。
 私は窓際に置いた箱を開ける。ずいぶんと増えた私の服やノート、それから伊織さんに借りた本なんかを入れた箱の中から一冊のノートを取り出した。

「結構書いたなぁ……」

 パラパラと最初からめくっていくと、この時代に来たときの不安な気持ちや元の時代のことが書いてあって、所々涙でにじんでいるのがわかる。でも、いつからだろう……。その日、伊織さんと話したこと、伊織さんに教えてもらったこと、伊織さんの好きなおかず……。日記の中に伊織さんの文字が増えていったのは。
 中学に上がった頃から、周りの友達の中には好きな子がいたり、付き合い始めたりすることが増えた。特に、中三になった今年は高校受験で学校が分かれてしまうこともあってか早く告白しなきゃとかそういう声も多くなっていたけれど、私には無縁の話だった。でも……。
 いつだったか友達が頬を赤く染めながら言っていた。好きな人ができると、胸の奥があたたかくなってドキドキして、その人のことばかり考えてしまう。
 もしもその気持ちを恋と呼ぶのなら――。

「っ……」

 伊織さんのことを思うだけで、胸の奥があたたかくなる。「菫」って伊織さんが呼んでくれるとドキドキする。早く帰ってこないかなってそわそわする。伊織さんが美味しいって思ってくれるかなって思うと、料理も頑張れる。
 この気持ちが、恋、なのだろうか。私は、伊織さんに恋、しているのだろうか――。

「菫?」
「ひゃっ!」
「ど、どうしたの?」

 いつの間に帰ってきていたのだろうか、気付くとすぐそばで私の顔を覗き込む伊織さんの姿があった。

「び、ビックリした……」
「驚かせたならごめん。何度か声をかけたんだけど……」
「い、いえ! ボーッとしてたので、それで……」

 心臓が破裂しそうなぐらいドキドキする。恥ずかしくて伊織さんの顔を見ることができない。こんな気持ち、初めて……。
 でも……。

「菫?」
「な、なんでもないです。すぐご飯にしますね」

 私は顔を背けると、立ち上がった。伊織さんは不思議そうに見ていたけれど、その視線には気付かないフリをする。
 作ってあったお味噌汁を温め直しながら思う。伊織さんを好きになってもいいのだろうか――と。
 だって、好きになったって私はこの時代の人間じゃない。もしかしたら明日、ううん、今日にだって元の時代に戻るかもしれない。それに、伊織さんよりずっと年下で……。そんな私が伊織さんを好きになって、どうなるっていうのか……。

「っ……」

 ずっと、元の時代に戻りたいと思っていた。今なら、お母さんとも椿とも素直に話せるような気がする。普通の家族になれる気がするって。なのに……元の時代に戻りたくない、そんなふうに思ってしまうなんて……。
 いつの間にか頬を伝っていた涙を拭うと、私は必死に口角を上げた。

「お待たせしました!」
「ありがとう」

 作業着から着替えた伊織さんがちゃぶ台の前に座って私に微笑む。その笑顔に胸がキュッとなるのを感じる。
 今日のメニューは伊織さんが買ってきてくれたアジを使って作ったアジの煮付けと、家庭菜園でとれたほうれん草の白和え、わかめとこれまた家庭菜園でとれたジャガイモのお味噌汁だ。

「菫の作るご飯はいつも美味しいね」
「そう言ってもらえると嬉しいです」

 伊織さんは美味しそうに味を頬張ると、何かを思い出したようにため息をついた。そんな伊織さんの態度は珍しくて、私は何買ったのかと不安になった。

「伊織さん……? どうかしたんですか?」
「いや、明日からしばらく菫の美味しいご飯を食べられそうにないと思うと、気持ちが落ち込んで……」
「え?」
「と、いってもお昼だけなんだけどね。ちょっと数日忙しくなりそうで、お昼に家に帰ってくるのが難しそうなんだ」

 今、伊織さんはお昼休みに家まで帰ってきてご飯を食べている。みんなそうなんだと思っていたけれど、どうやらそうではないらしい……?

「他の方はどうされてるんですか?」
「お弁当を持ってきてる人もいるし近くの食堂に食べに行く人もいるね」
「そうなんですか……」

 もしかして、家まで食べに帰っている伊織さんのような人の方が珍しい……? と、いうか、まさか……。

「伊織さんって今、家に帰って食べてまた戻ってるじゃないですか」
「そうだね」
「……私が来る前も、そうだったんですか?」

 私の質問に、伊織さんがしまったという表情を浮かべるのがわかった。これは、もしかして……。

「私が来る前は、伊織さんも食堂で食べていた、とか……?」
「それは……」
「私のせいで、わざわざ食べに帰ってきてくれてるんですか……? 私がここにいるせいで……」
「それは違う!」

 伊織さんは私の言葉を遮るようにして言うと、頭をかきながら恥ずかしそうに口を開いた。

「たしかに、家に帰って食べるようになったきっかけは菫が来たことだよ」
「やっぱり……」
「でも、それは仕方なしにそうしてるとかじゃなくて、その……」

 口ごもりながら、でも伊織さんはまっすぐに私を見て言った。

「僕が、菫と一緒にご飯を食べたかったから。だから、帰ってきてるんだ」
「っ……伊織、さん……」
「わかった?」
「……はい」

 そんなふうに真剣に言われたら、信じないわけにいかないじゃない。たとえその言葉が全て真実じゃなかったとしても、でも今の私には伊織さんの気持ちが嬉しかった。

「誤解が解けたみたいでよかったよ」
「すみません、早とちりしちゃって」
「いや。でも、そうやって疑問に思ったことや不安に思ったことを、きちんと菫が伝えてくれるようになって嬉しいよ」
「あ……」

 そういえば、そうだ。
 前の私だったらきっと勝手に勘違いして、一人自分を責めて、それで殻に閉じこもっていたと思う。
 そう思うと、今の自分は前の自分よりも少しだけ成長できたのかな……?
 だとしたら、それはきっと……。

「ん? 僕の顔に何かついてる?」
「い、いえ。なんでもないです」

 ジッと見つめている私に、伊織さんは不思議そうに首を傾げた。そんな伊織さんに慌ててなんでもないと笑顔を浮かべる。
 私が変われたんだとしたら、それはきっと伊織さんのおかげだ。伊織さんの優しさが、私の凝り固まった心をほぐしてくれた。全部、伊織さんがいてくれたから……。
 でも、それを伝えたら伊織さんはきっと「僕はなんにもしていないよ。菫が変わりたいと思ったから変われたんだ」なんて言うに決まっている。

「ふふ……」
「菫?」
「あ、すみません」
 
 頭の中で、やけにはっきりと伊織さんの声が響いて思わず笑ってしまった私を、伊織さんは訝しげに見たあともう一度ため息をついた。

「僕は、明日からしばらく菫のお昼ご飯が食べられないことに気落ちしているというのに、菫はやけに楽しそうだね」
「そ、そんなこと……」
「悲しく思ってるのは僕だけか」
「な……! わ、私も寂しいです! ……あ」

 勢いよく言った私を、伊織さんが笑っていた。
 引っかかった……。

「伊織さんの意地悪」
「ごめんごめん。菫がやけに楽しそうだったから、つい。……怒った?」
「…………」

 こんな伊織さんの一面を、島のみんなは知っているのだろうか。
 優しくて大人な伊織さんが、こんな少年のような表情を見せることを。

「菫?」
「……なんちゃって」
「あ……。もう、参ったな」

 私の顔を心配そうに覗き込む伊織さんに、ニッコリと微笑みかけると、伊織さんは「降参だよ」とでも言うかのように両手を挙げた。

「菫には適わないよ。結局、残念がってるのだって僕だけのようだし」
「そんなことないですよ。……夜は」
「え?」
「夜は一緒に食べられるんですよね?」
「……ああ」
「じゃあ、美味しいご飯作って待ってますから、早く帰ってきてくださいね」
「わかった」

 伊織さんが優しく微笑むから、私も微笑み返す。
 こんな幸せなご飯の時間を過ごせるようになるなんて、いつかの私に教えてあげたい。誰かと一緒食べるご飯の時間は、本当はこんなにも幸せなんだよって。
 私が目をそらしていただけで、本当はこんな時間がすぐそばにあったんだよって。
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