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第五章:押し寄せる高波と感情と

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いると、まるで本当の母親の存在をみんなが忘れてしまうようなそんな気がして……。そんなときに国が先行してやっていたオリーブ園の管理の仕事を任されてみないかという話をもらってね。逃げるようにしてこの島にやってきたってわけだ」

 情けないだろうと言うように、伊織さんは笑う。でも私はそんなふうに思えなくて必死に首を振った。

「情けなくなんて、ないです。だって、私だって、お母さんが誰かと再婚して代わりのお父さんができたりなんかしたら絶対嫌だもん。私のお父さんは一人だけだし、その居場所を奪わないで欲しいってそう思う!」
「……菫は優しい子だね」

 いつの間にか溢れていた涙を、伊織さんが私に握りしめられた手とは反対の手で優しく拭ってくれる。
 そして伊織さんは「ありがとう」と呟いた。

「何もかもから逃げたような気になっていた僕だけど、こっちに来てオリーブを育てながらいろんな人に触れて、少しずつだけど気持ちが楽になるのを感じたんだ。だから、あのオリーブ園は僕にとって大切な場所なんだ」
「そうだったんですね……」
「…………」
「伊織さん?」

 考え込むように黙ってしまった伊織さんに、どうしたのかと尋ねると小さく、そして優しく微笑んだ。
 
「こんな話、今まで誰にも話したことなかったのに、どうして菫には話してしまったんだろう」
「っ……」
「不思議だね」

 そう言う伊織さんの口調は優しくてあたたかくて、私は心臓のドキドキがどんどん早くなるのを感じた。他の誰にも話したことない話を私に……。それは私が、伊織さんにとってほんの少しでも――特別な存在だと、そううぬぼれてしまっても、いいですか……?
 尋ねることのできない質問が、私の心の中で浮かんでは消える。嫌われてはいないと思うけれど、でも……。

「雨が酷くなってきた」
「え……?」

 いつの間に降り出していたのか、窓の外では大粒の雨がたたきつけるように降っていた。この時代に来てからこんなに雨が降るのは初めてでなんだか少し怖い。風で家が吹き飛んだりしないだろうか……。雨漏りしたりとか……。
 私がそんな心配をしていると、伊織さんは自分の部屋に戻りジャケットを持ってきた。

「い、伊織さん? どこに行く気なんですか?」
「……少しオリーブ園の様子を見てくるよ」
「危ないですよ! 私の元いた時代でも、台風の日に外を見に行って川に流されて亡くなる方だっているんですから……! こんな雨と風が酷い中、外に出ちゃだめですって!」
「心配してくれてありがとう。大丈夫、様子を見たらすぐ帰ってくるから」

 けれど、どれだけ言っても伊織さんが行くのをやめてくれることはなく……。私の頭をポンポンとすると、伊織さんは傘を差して玄関の戸を開けた。閉めているときよりも雨の音が大きく聞こえて不安になる。

「先に休んでいてもいいからね」
「……気をつけてくださいね。私、起きて待ってますから、絶対に帰ってきてくださいね」
「……わかったよ。いってきます」

 そう言って伊織さんは大雨の中へと飛び出した。あまりの雨の酷さに、走って行った伊織さんの姿はすぐに見えなくなってしまう。
 伊織さん、大丈夫かな……。
 私は、一人っきりの部屋の中で、先ほど触れた伊織さんの手のぬくもりを思い出しながら伊織さんが戻ってくるのを待ち続けた。




 伊織さんが戻ってきたのは、それから2時間以上経ってからだった。傘はもう役に立たなかったのか、全身ずぶ濡れになった伊織さんは青い顔をしていた。走ったせいか、それともオリーブ園で作業をしていたときについたのか……伊織さんのジャケットは泥で汚れていた。

「だ、大丈夫ですか!?」
「ああ。オリーブは無事だったよ。倒れかけていたのにも――」
「そうじゃなくて! 伊織さんは大丈夫ですか!? 顔色悪いですよ!」
「だいじょう……ゲホッゲホッ!」

 激しく咳き込むと、伊織さんはその場に座り込んでしまう。ぐっしょりと濡れた服を脱がさなきゃ、そう思うのに手が震える。せめてタオルで拭くぐらい……。そう思って乾いたタオルを持ってくる。けれど、伊織さんに触れることができない。こんな情けないことってない。目の前で、好きな人がこんな姿になっているのに、私は……!

「っ……」
「だい、じょうぶ……。だか、ら、触ら、ないで……」
「ごめ……なさ……」

 私の手を優しく払いのけると、伊織さんは上着を脱いで自分の部屋へと向かう。カタカタと震える手をギュッと握りしめる。情けない。伊織さんがあんなに苦しそうだというのに、どうして私は……。たったあれだけの泥、どうってことないじゃない。それよりも大事なことがあるじゃない。なのに、なのに……!
 自分のダメさ加減に涙が出る。伊織さんのことが好きだのなんだの言いながら、結局は自分が一番可愛いんじゃない。こんなときでも自分のことばっかり……!

「っ……菫」
「い、伊織さん。大丈夫ですか?」
「申し訳ないけど、具合がよくないので僕は先に休むよ。菫も早めに、休むように……」
「はい……」

 青い顔で伊織さんは力なく微笑むと、部屋へと戻っていった。私は、その背中を見送りながら、少しでも早く具合がよくなりますようにと祈ることしかできなかった。
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