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第三章 感情を、思い出させてくれたのは
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救急車は五分ほどで病院に着いた。行き先はやはり俺も通い慣れた、杏珠と会ったあの大学病院だった。
ストレッチャーで運ばれていく杏珠を、俺は見送ることしかできない。午後の診察も終わり、人気のなくなった待合室で俺は一人項垂れたまま座っていた。保険医は学校に連絡するからと言って席を外した。待合室に設置された時計の秒針の音だけが響く。誰もいない病院というのはこんなにも心細いものなのだと初めて知った気がする。
バタバタと走る足音が聞こえて、俺は顔を上げた。俺達の親世代ぐらいだろうか。男女二人が慌てた様子で処置室の方へと向かっていく。もしかして、と思ったが確証はない。この二ヶ月と少し、毎日のように一緒にいてたくさんの時間を共有してきた気になっていた。けれど、俺は杏珠のことなど何も知らないのかも知れない。
「朝比奈、蒼志君……?」
「え?」
層声を掛けられたのは、処置室にその人達が入ってから三十分ほどしてのことだった。焦燥しきった表情の女性は、俺の前に立つと視線を合わせるようにしゃがんだ。
「始めまして。杏珠の母です」
「あ……」
「いつも杏珠がお世話になってます」
「そん、な、こと……」
お世話になんてなっていない。小さく首を振る俺に杏珠の母は優しく微笑んだ。
「杏珠が呼んでるの」
「え……?」
「行ってやってくれないかな」
一瞬、飲み込めなかった言葉の意味がようやくわかると、俺は反射的に立ち上がった。病院内で走ってはいけないなんて子供でも知っていることを守ることはできなかった。勢いよく駆け出すと、処置室のドアを開ける。バンッと音がして中にいたであろう看護師から「静かに!」と注意を受けたがそれどころではなかった。
「杏珠!」
ベッドにはたくさんのコードが繋がれた杏珠の姿があった。取り付けられたコードがやけに痛々しい。薄らと開いた目はゆっくりと視線を天井から俺へと向けた。
「えへへ、バレちゃった」
震える手で酸素マスクをずらすと、杏珠は弱々しく笑った。その笑みに喉の奥が締め付けられ上手く声が出せなくなる。それでも何とか絞り出すように、杏珠に声を掛けた。
「病気、なんだって?」
「バレないように、してたん、だけどなぁ」
喋るのも苦しいのか、途切れ途切れに杏珠は答える。頷いた拍子に酸素マスクの紐が外れたのでそっと直してやると「ありがと」と微笑んだ。
杏珠は笑いながら言うが、俺は自分自身が情けなくて仕方がなかった。どうして気づけなかったんだろう。あんなにも近くにいたのに。
「俺が……」
「ん?」
「俺が気づいていれば、無理、させなければ……」
ああすればよかった、こうすれば何かが違ったかもしれない。後悔ばかりが俺の上にのしかかってくる。けれど俯く俺を、杏珠は小さく笑った。
「気付かれないように、してたからね」
「どう……して」
俺の問いかけに答えることなく杏珠は再び目を閉じた。処置室の中には電子音と、それから遠くで看護師が何かを話している声だけが聞こえる。
「――もう、いいよ」
「え?」
その言葉が何を意味しているのかわからず、思わず尋ね返す。杏珠は目を開けることなく、そしてさらに俺を拒絶するかのように顔を反対に向けると、もう一度口を開いた。
「もう写真、撮らなくていいよ」
「そう、なの?」
「……こんなところ、撮られるの嫌だしね。それに毎日病院に来てもらうのも大変だし申し訳ないからさ」
早口で言う杏珠の表情は見えない。冷たく固い口調は俺を拒んでいるようだった。杏珠の言うことはもっともだ。俺だって自分が同じ立場になれば、病院に来てまで写真を撮られるなんて勘弁して欲しい。
「……わかった」
「私が言い出したのに、ごめんね」
「謝る必要なんて、ないよ」
首を振る俺にもう一度「ごめん」と杏珠は呟いた。
「日下部さん、お部屋の準備ができたので移動しますよ」
看護師は杏珠にそう告げると、手早く移動の準備をしながら俺に視線を向けた。その目は「そろそろ退室しろ」と言っているように思えて居心地の悪さを覚えた。
「……じゃあ、帰るな」
「うん、今日はありがと」
処置室をあとにすると、俺は俯いたまま足早に出口へと向かう。静まり返った待合室にすすり泣くような声が響いていた。
顔を上げると、途中のベンチに杏珠の両親が座って肩を寄せ合いながら泣いているのが見えた。向こうもこちらに気付いたようで顔を上げる。俺は頭を小さく下げるとそのまま通り過ぎた。
出入り口の自動ドアの前で、俺は立ち止まった。
これでいいんだ。杏珠が嫌がっているのであればこのまま病院をあとにして、また学校に戻ってくるのを待てばいい。そう頭ではわかっているのに、何故か足が動かない。あと一歩踏み出せばドアが開くはずだ。なのに、まるで病院から出るのを拒むように歩き出すことができない。
どうして、こんなにも、杏珠のこととなると冷静じゃいられなくなるのだろう。
なくなったはずの感情が、心の奥から次から次へと湧き出てくるようなそんな感覚に襲われる。
俺は、どうしたい?
俺は――杏珠と、いたい。
「……っ」
俺は自動ドアに背を向けると処置室へと戻る。ちょうどストレッチャーに乗せられた杏珠が病室へと移動の為に出てくるところだった。
「杏珠!」
「俺、君……?」
「俺、やっぱり嫌だ」
「え……?」
杏珠は驚いたように目を見開く。けれど、杏珠以上に自分自身の行動が、俺は信じられなかった。
「な、にを……」
「俺は、最期の日まで杏珠の写真を撮りたい」
杏珠の最期の日が来るのが先か、自分自身の最期の日が来るのが先かはわからないしそんなことはどうでもよかった。
「杏珠が言ったんだろ。3ヶ月間毎日写真を撮る合おうって。自分が言ったこと、ちゃんと守れよ」
嫌だと言われても来るつもりだった。それでも伝えずにはいられなかった。こんなふうに自分の望みを口に出したのなんていつ以来だろう。それこそ、心失病になってから初めてのことのように思う。まだこんなふうに何かに執着する想いが、感情が残っていたなんて。
「しょうが、ないなぁ」
杏珠は笑う。力なく、それでもいつもの杏珠の笑顔だった。
ストレッチャーで運ばれていく杏珠を、俺は見送ることしかできない。午後の診察も終わり、人気のなくなった待合室で俺は一人項垂れたまま座っていた。保険医は学校に連絡するからと言って席を外した。待合室に設置された時計の秒針の音だけが響く。誰もいない病院というのはこんなにも心細いものなのだと初めて知った気がする。
バタバタと走る足音が聞こえて、俺は顔を上げた。俺達の親世代ぐらいだろうか。男女二人が慌てた様子で処置室の方へと向かっていく。もしかして、と思ったが確証はない。この二ヶ月と少し、毎日のように一緒にいてたくさんの時間を共有してきた気になっていた。けれど、俺は杏珠のことなど何も知らないのかも知れない。
「朝比奈、蒼志君……?」
「え?」
層声を掛けられたのは、処置室にその人達が入ってから三十分ほどしてのことだった。焦燥しきった表情の女性は、俺の前に立つと視線を合わせるようにしゃがんだ。
「始めまして。杏珠の母です」
「あ……」
「いつも杏珠がお世話になってます」
「そん、な、こと……」
お世話になんてなっていない。小さく首を振る俺に杏珠の母は優しく微笑んだ。
「杏珠が呼んでるの」
「え……?」
「行ってやってくれないかな」
一瞬、飲み込めなかった言葉の意味がようやくわかると、俺は反射的に立ち上がった。病院内で走ってはいけないなんて子供でも知っていることを守ることはできなかった。勢いよく駆け出すと、処置室のドアを開ける。バンッと音がして中にいたであろう看護師から「静かに!」と注意を受けたがそれどころではなかった。
「杏珠!」
ベッドにはたくさんのコードが繋がれた杏珠の姿があった。取り付けられたコードがやけに痛々しい。薄らと開いた目はゆっくりと視線を天井から俺へと向けた。
「えへへ、バレちゃった」
震える手で酸素マスクをずらすと、杏珠は弱々しく笑った。その笑みに喉の奥が締め付けられ上手く声が出せなくなる。それでも何とか絞り出すように、杏珠に声を掛けた。
「病気、なんだって?」
「バレないように、してたん、だけどなぁ」
喋るのも苦しいのか、途切れ途切れに杏珠は答える。頷いた拍子に酸素マスクの紐が外れたのでそっと直してやると「ありがと」と微笑んだ。
杏珠は笑いながら言うが、俺は自分自身が情けなくて仕方がなかった。どうして気づけなかったんだろう。あんなにも近くにいたのに。
「俺が……」
「ん?」
「俺が気づいていれば、無理、させなければ……」
ああすればよかった、こうすれば何かが違ったかもしれない。後悔ばかりが俺の上にのしかかってくる。けれど俯く俺を、杏珠は小さく笑った。
「気付かれないように、してたからね」
「どう……して」
俺の問いかけに答えることなく杏珠は再び目を閉じた。処置室の中には電子音と、それから遠くで看護師が何かを話している声だけが聞こえる。
「――もう、いいよ」
「え?」
その言葉が何を意味しているのかわからず、思わず尋ね返す。杏珠は目を開けることなく、そしてさらに俺を拒絶するかのように顔を反対に向けると、もう一度口を開いた。
「もう写真、撮らなくていいよ」
「そう、なの?」
「……こんなところ、撮られるの嫌だしね。それに毎日病院に来てもらうのも大変だし申し訳ないからさ」
早口で言う杏珠の表情は見えない。冷たく固い口調は俺を拒んでいるようだった。杏珠の言うことはもっともだ。俺だって自分が同じ立場になれば、病院に来てまで写真を撮られるなんて勘弁して欲しい。
「……わかった」
「私が言い出したのに、ごめんね」
「謝る必要なんて、ないよ」
首を振る俺にもう一度「ごめん」と杏珠は呟いた。
「日下部さん、お部屋の準備ができたので移動しますよ」
看護師は杏珠にそう告げると、手早く移動の準備をしながら俺に視線を向けた。その目は「そろそろ退室しろ」と言っているように思えて居心地の悪さを覚えた。
「……じゃあ、帰るな」
「うん、今日はありがと」
処置室をあとにすると、俺は俯いたまま足早に出口へと向かう。静まり返った待合室にすすり泣くような声が響いていた。
顔を上げると、途中のベンチに杏珠の両親が座って肩を寄せ合いながら泣いているのが見えた。向こうもこちらに気付いたようで顔を上げる。俺は頭を小さく下げるとそのまま通り過ぎた。
出入り口の自動ドアの前で、俺は立ち止まった。
これでいいんだ。杏珠が嫌がっているのであればこのまま病院をあとにして、また学校に戻ってくるのを待てばいい。そう頭ではわかっているのに、何故か足が動かない。あと一歩踏み出せばドアが開くはずだ。なのに、まるで病院から出るのを拒むように歩き出すことができない。
どうして、こんなにも、杏珠のこととなると冷静じゃいられなくなるのだろう。
なくなったはずの感情が、心の奥から次から次へと湧き出てくるようなそんな感覚に襲われる。
俺は、どうしたい?
俺は――杏珠と、いたい。
「……っ」
俺は自動ドアに背を向けると処置室へと戻る。ちょうどストレッチャーに乗せられた杏珠が病室へと移動の為に出てくるところだった。
「杏珠!」
「俺、君……?」
「俺、やっぱり嫌だ」
「え……?」
杏珠は驚いたように目を見開く。けれど、杏珠以上に自分自身の行動が、俺は信じられなかった。
「な、にを……」
「俺は、最期の日まで杏珠の写真を撮りたい」
杏珠の最期の日が来るのが先か、自分自身の最期の日が来るのが先かはわからないしそんなことはどうでもよかった。
「杏珠が言ったんだろ。3ヶ月間毎日写真を撮る合おうって。自分が言ったこと、ちゃんと守れよ」
嫌だと言われても来るつもりだった。それでも伝えずにはいられなかった。こんなふうに自分の望みを口に出したのなんていつ以来だろう。それこそ、心失病になってから初めてのことのように思う。まだこんなふうに何かに執着する想いが、感情が残っていたなんて。
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