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かけ違えたボタンホールを、今(上)
かけ違えたボタンホールを、今.5
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授業が始まっても、紫野が戻って来なかった。
普段はまともに授業を受ける気のない生徒ですら、珍しく始業開始のチャイムが鳴る前から席に着いていたのに。
そのため、ぽっかりと虫食いみたいに空いた彼女の席がかえって目立つ。
千鶴は、何だか胸騒ぎがして授業開始後すぐに仮病で教室を出た。
他の教室の前を通りながら目を光らせていると、いくつか空白の席があることが確認できた。
やはり、最近、紫野にちょっかいをかけている奴らもいない。
彼女が同性愛者であることをカミングアウトしてから、やたらと執拗に絡んでいた生徒たちだ。
千鶴はすぐに、彼女らがどこにいるのかを考えた。
授業中にコソコソできる場所なんて、学校にそう多くはない。
いくつかの空き教室を回ってから、校舎の裏なんかを見ていく。
使われていない物置スペースも確認するが、誰の気配もない。
グラウンドから響いてくる体育教師の声に、見つからないようにと身を屈めながら、体育館の裏手を回っていると、人のいない館内のことが気になった。
誰もいない。今日の体育はグラウンドだけか。
ぐるりと体育館の周囲を回る。正面の入り口まで戻って来たところで、もしやと思い、大きな両開きのドアを押してみた。すると、片方だけが鈍い音を立てて開いた。
先ほど、外周に取り付けられた窓から覗いた無人の館内が脳内に蘇る。
担当の者が閉め忘れたのか、あるいは…。
体育館の中で虐めや嫌がらせをしている、なんてことは今までになかったのだが、それはただ、勝手には使いづらいからにすぎなかった。
使えるのであれば、これほど外部から隔絶されている空間はそうそうないだろう。
静かに、息を殺すようにして館内に足を踏み入れる。
靴を脱ぎ、玄関口を越えたあたりですでに嫌な予感がしていた。
「――…」
くぐもった複数の誰かの声が聞こえる。
気が付いたら、声のする方へと走り出していた。
用具室のほうだ。
そちらに近づけば近づくほど、その声から放たれるただならぬ緊迫感、恐怖感が強くなり、ほとんど体当たりするような勢いでスライド式の扉の取手に手を掛けた。
雷鳴のような音を立てて開いた鉄の戸の先では、数名の女子生徒が驚きに満ちた表情でこちらを見返していた。こぼれ落ちるのではというほど、目を丸くしている。
だが、千鶴の視線は彼女らではなく、その間で抑えつけられている別の人物に真っ直ぐ注がれていた。
いつも規則正しくスカートの中に入れていたシャツがはみ出し、ボタンはその役目を忘れたかのようにボタンホールから離れてだらりとしており、その裂け目からは、新雪の積もったようなお腹と、飾り気のない白い下着が覗いていた。
スレンダーな体形だが、二つの膨らみは触れずとも柔らかみを想像させる。
そのようなあられもない姿を強要されてなお、彼女の、紫野瑠璃の瞳は従属をよしとしない不屈の意思に満ちあふれ、鈍い輝きを放っていた。
その眼差しとぶつかった瞬間、千鶴の中にある信じがたいほどの激情が爆発する。
「なにやってんのよ!」
彼女らが答えるより何倍も速く、一番近くにいた一人の頭を強く引っ叩く。
何か悲鳴じみた声を生徒が漏らしたものの、そのまま押しのけるように相手の肩を強く蹴りつける。
「離れろよ、このっ!」
その拍子に相手が頭を平均台にぶつけたが関係ない。続けて、他の少女たちも睨みつける。
息を荒げ、獣じみた暴力を見せた千鶴を見て、彼女らは大慌てして猫なで声を出した。
「ちょ、千鶴ちゃん、そんなに怒らないでよ」
小さな声が震えているのが、いっそう千鶴を苛立たせる。
「冗談じゃん、ね?」
「冗談…?」
もう一度、紫野のほうを見やる。
上半身が半裸に近い状態の紫野の唇は、気丈に見えてもやはり震えていた。
「ほら、こいつレズだって言うから、私たちが遊んであげようかなって…」
「遊ぶ?こんなの、犯罪じゃん。強姦だよ、アンタら、分かってんの?ねえ」
少女たちは今さらながら、スクールカーストの上位層に属する千鶴の逆鱗に触れたことを察したらしく、しゅんと小さくなって口を閉ざした。
嵐が過ぎ去るのを黙って待つような態度に、千鶴は殺意じみたものさえ感じて、さらに激しく怒鳴りつける。
「分かってんのかって、聞いてんの!」
千鶴の迫力に完全に気圧されてしまった生徒たちは、飛び上がるようにして立ち上がると、口々に謝罪を重ねながら、頭から血を流した生徒を最後尾にその場を立ち去った。
「くそっ…!信じられないっ!」
追いかけようかと思ったが、そんなことよりも目の前の紫野のほうが重要だ。
千鶴は一旦扉を閉め直して、彼女のそばに膝をついた。
抵抗して叩かれでもしたのか、頬から口の端にかけて赤くなっており、唇は少し切れて血が出ていた。
千鶴はそのまま、他に傷はないかと視線を体のほうに向けたのだが…それがいけなかったのだ。
幸い、綺麗な肌には傷一つ付いていなかったのだが、その胸を震わせる美しさ、触れたくなるような艶やかさ…。
いや、着飾った言葉で誤魔化すのはやめよう。
相川千鶴はただ、紫野の半裸に欲情してしまったのだ。
ごくり、と喉が鳴る。
(やだ、私…なんで…)
千鶴は自分の抱いた下劣な情欲と興奮を自覚したことで、自分がどういう目で紫野を見ていたのかを知ってしまった。
それと同時に、自分と先ほど彼女を犯そうとしていた下種とが、たいして変わらない生き物なのだと思えてならなくて、戦慄する。
パンドラの箱は開いてしまった。
一度悟った自らの情欲、欲望は、二度と目を逸らせない事実として千鶴の行方を遮るように横たわり、その眼差しを紫野の体一点に注がせた。
友として、慰めの言葉をかけることも出来ず、
他人のように、彼女に干渉しないという選択も出来ず、
恋人のように、彼女を抱きしめることも出来ない。
友人にも、他人にも、もちろん恋人にもなれなかった私は、言葉一つ発さず、ただ欲望のままに彼女の半裸を見つめていた。
その愚かすぎる自分に気付くことが出来たのは、幾ばくかの時間が流れて、紫野が重いため息を吐いてからだった。
「…はぁ…」
ハッと我に返り、反射的に顔を上げると、何とも言えない表情をした紫野と目が合った。呆れているような、哀れんでいるような…。正しい答えは、分からない。
自らの品のない行為について謝ることも出来ず、千鶴は誤魔化すようにやっと声を発する。
「紫野さん、大丈夫だった?」
大丈夫だよ、あるいは、最悪、とでも答えてもらえればマシだったのだが、紫野は何も答えず、ただ沈黙して千鶴を見ていた。
その視線に自分を責めるようなものを勝手に感じた千鶴は、バツが悪そうに俯くと、やっとの思いで、「ごめん」と口にした。
「何が」と紫野がようやく口を開いた。
「いや、その…」
貴方に欲情して、舐めるような目つきで体を見てしまい、すいませんでした…とは口が裂けても言えない。
しかし、紫野は躊躇なくギロチンのスイッチを押す。
「私をエロい目で見たこと?」
その一言に圧倒的羞恥が全身を駆け巡る。体は熱く、顔は赤く…。そしてわけの分からない汗が流れ始めた。
万事、気づかれていた。
私の歪んだ情欲が、全部。
(ど、どうしよう、私…)
途端に目の奥が熱くなり、涙が浮かび始める。
押し留める術を知らないその涙は、ダムが決壊するようにして頬をつたい、ぽつぽつと床に敷かれていたマットに黒いシミを作った。
それを嘲るように、紫野が言った。
「襲われかけた後なのに…、千鶴、火事場泥棒みたい」
「ち、ちが…う」
自分ではない誰かが、ひたすらに否定を口にしていた。
「別にいいよ、千鶴。こういうの、同類は分かるものなんだって、最近気が付いたんだ」
紫野は自分のシャツを肩がはだけるまで指先でずらし、蠱惑的な鎖骨を露わにした。その下にぽつんと付いた黒子が、千鶴を誘うように薄闇に浮かび上がって見える。
「視線でね、分かるんだ。胸、太腿、首筋、鎖骨…。見られてるの、分かる。その視線にどういう感情がこもっているのかも」
「な、何してんの…、ちゃんと着て」
「いいの?ずっと見てたでしょ」
ぼそり、と彼女は呟いた。先程まで、襲われかけていた女とは思えなかった。
「な、何を言って…。そんなの勘違いだし。早く、着て。じゃないと…」
「じゃないと?」
ドクン、と心臓が高鳴る。
紫野は、千鶴以上に彼女の心のうちを理解していた。
(じゃないと……?じゃないと、私…やだ、ちがっ…)
ぐっと、紫野が千鶴の体を引き寄せた。
くらくらする甘い香り。
バニラみたいだけど、少し違う。
もっと、甘い。
脳がチカチカする感覚に千鶴が襲われていると、紫野は今日の晩飯の献立でも答えるように平然と言った。
「――千鶴になら、いいよ」
…その後のことは、思い出したくもない。
だから千鶴は、キャンバスに絵の具をぶちまけるみたいにして、青春の記憶に忘却を招こうとしていた。
ただ、それでも、自分が違う何かに変貌していく恐怖や、呼吸が出来なくなるまで感じた熱、ぞっとしてしまうほどの耽美な感触、押し殺したような声が誘う魅惑の扉のことは覚えている。
どれだけの時間、紫野に覆い被さっていたのかは分からない。
高い位置に備え付けられてある窓から夕暮れが差し、帰りのホームルームのチャイムが鳴ったときにようやく、千鶴は紫野から離れた。
すでに千鶴と紫野の関係は、数時間前までの『ただのクラスメイト』ではなくなってしまっていたのだが、さらにこの後、千鶴が起こした行動が、いよいよ二人の関係を決定的なものに変えてしまった。
肩で息をしている紫野の、半分ほど役割を投げ捨てたシャツやスカートから覗く艶やかな肢体を目にしたとき――千鶴は、このすさまじい美の結晶をいつまでも自分のものとして留めておきたくなった。
だが、もう二度とこのような機会には恵まれないだろうという予感もあった。自分がしたことは畜生にも劣る行為だと痛感していたからだ。
気がつくと、手にしていた携帯はカメラを起動し、シャッターを切っていた。
もちろん、勝手に携帯が動くはずもない。無意識的にではあるが、千鶴が自分でやったことだった。
その音でハッと我に返った千鶴は、紫野のブラックダイヤみたいな瞳が異様な熱と、それに反発するような冷酷さをまとっているのを画面越しに理解してしまった。
千鶴はそれ以上、その場でじっとしていることが出来なくなり、飛び出した。
その後、何も噂にならなかったことを考えると、どうやら紫野は誰にも気付かれずに用具室を後にすることが出来たらしい。
千鶴が怪我をさせた生徒たちも、学校側に、あるいは周囲に知られるのを恐れてか、自ら藪を突くような真似はしなかった。
まあ、そんなものはどうでもいい。
千鶴は次の日から数日間、学校を休んだ。それは、犯罪じみた行為を重ねたことによる罪悪感のためではない。ただ怖かっただけだ。
紫野が誰かに一言でも漏らしたら、自分の立場は失墜し、たちまちスクールカーストの最底辺へと転がり落ちることは分かっていた。
この期に及んでも我が身が大事な自分が情けなくてたまらない一方で、向き合うことも出来ない。
しかも千鶴は、最低なことにその不安を慰めるために紫野の写真を使っていた。
画面越しに紫野の焼け付くような、凍て付くような視線に射抜かれ、千鶴は度々不気味に歪んだ昂揚感を覚えた。
千鶴には、自分が何よりも穢れた存在に堕ちていくのが分かった。もう昔のようには戻れないことを悟った。
無論、千鶴を取り巻く環境は何も変わっていなかった。実際、千鶴が何とか学校に登校した後も、周囲の千鶴を見る目が変わるということはなかった。
紫野は誰にも言わなかったのだ。そればかりか、彼女は何事もなかったかのように千鶴に接した。
いや、以前に比べると、よりその機会と親しみは増えていたといえるだろう。
「千鶴」と呼ぶ愛らしい声には、生殺与奪を握った者の余裕が滲み出ているような気がして、千鶴は紫野が怖くて仕方がなくなった。
千鶴はその後卒業まで、逃げるように帰宅するか、外敵から身を守るように友人たちという群れから離れなくなった。少なくともそうしていれば、紫野千鶴に絡んでこなかったからだ。
卒業式のあの日、紫野から手紙を貰った。それは呼び出しの手紙だった。
場所は体育用具室。
彼女が何を言いたいのかは明白だった。
本当なら私はあの日、その処刑場に行くべきだったのだ。
断頭台に括りつけられようとも、罪を認め、懺悔するべきだったのに。
私は、迷うこともなく逃げ出した。
いつか、彼女が再び、自分を裁きに来ることを予感しながら…。
普段はまともに授業を受ける気のない生徒ですら、珍しく始業開始のチャイムが鳴る前から席に着いていたのに。
そのため、ぽっかりと虫食いみたいに空いた彼女の席がかえって目立つ。
千鶴は、何だか胸騒ぎがして授業開始後すぐに仮病で教室を出た。
他の教室の前を通りながら目を光らせていると、いくつか空白の席があることが確認できた。
やはり、最近、紫野にちょっかいをかけている奴らもいない。
彼女が同性愛者であることをカミングアウトしてから、やたらと執拗に絡んでいた生徒たちだ。
千鶴はすぐに、彼女らがどこにいるのかを考えた。
授業中にコソコソできる場所なんて、学校にそう多くはない。
いくつかの空き教室を回ってから、校舎の裏なんかを見ていく。
使われていない物置スペースも確認するが、誰の気配もない。
グラウンドから響いてくる体育教師の声に、見つからないようにと身を屈めながら、体育館の裏手を回っていると、人のいない館内のことが気になった。
誰もいない。今日の体育はグラウンドだけか。
ぐるりと体育館の周囲を回る。正面の入り口まで戻って来たところで、もしやと思い、大きな両開きのドアを押してみた。すると、片方だけが鈍い音を立てて開いた。
先ほど、外周に取り付けられた窓から覗いた無人の館内が脳内に蘇る。
担当の者が閉め忘れたのか、あるいは…。
体育館の中で虐めや嫌がらせをしている、なんてことは今までになかったのだが、それはただ、勝手には使いづらいからにすぎなかった。
使えるのであれば、これほど外部から隔絶されている空間はそうそうないだろう。
静かに、息を殺すようにして館内に足を踏み入れる。
靴を脱ぎ、玄関口を越えたあたりですでに嫌な予感がしていた。
「――…」
くぐもった複数の誰かの声が聞こえる。
気が付いたら、声のする方へと走り出していた。
用具室のほうだ。
そちらに近づけば近づくほど、その声から放たれるただならぬ緊迫感、恐怖感が強くなり、ほとんど体当たりするような勢いでスライド式の扉の取手に手を掛けた。
雷鳴のような音を立てて開いた鉄の戸の先では、数名の女子生徒が驚きに満ちた表情でこちらを見返していた。こぼれ落ちるのではというほど、目を丸くしている。
だが、千鶴の視線は彼女らではなく、その間で抑えつけられている別の人物に真っ直ぐ注がれていた。
いつも規則正しくスカートの中に入れていたシャツがはみ出し、ボタンはその役目を忘れたかのようにボタンホールから離れてだらりとしており、その裂け目からは、新雪の積もったようなお腹と、飾り気のない白い下着が覗いていた。
スレンダーな体形だが、二つの膨らみは触れずとも柔らかみを想像させる。
そのようなあられもない姿を強要されてなお、彼女の、紫野瑠璃の瞳は従属をよしとしない不屈の意思に満ちあふれ、鈍い輝きを放っていた。
その眼差しとぶつかった瞬間、千鶴の中にある信じがたいほどの激情が爆発する。
「なにやってんのよ!」
彼女らが答えるより何倍も速く、一番近くにいた一人の頭を強く引っ叩く。
何か悲鳴じみた声を生徒が漏らしたものの、そのまま押しのけるように相手の肩を強く蹴りつける。
「離れろよ、このっ!」
その拍子に相手が頭を平均台にぶつけたが関係ない。続けて、他の少女たちも睨みつける。
息を荒げ、獣じみた暴力を見せた千鶴を見て、彼女らは大慌てして猫なで声を出した。
「ちょ、千鶴ちゃん、そんなに怒らないでよ」
小さな声が震えているのが、いっそう千鶴を苛立たせる。
「冗談じゃん、ね?」
「冗談…?」
もう一度、紫野のほうを見やる。
上半身が半裸に近い状態の紫野の唇は、気丈に見えてもやはり震えていた。
「ほら、こいつレズだって言うから、私たちが遊んであげようかなって…」
「遊ぶ?こんなの、犯罪じゃん。強姦だよ、アンタら、分かってんの?ねえ」
少女たちは今さらながら、スクールカーストの上位層に属する千鶴の逆鱗に触れたことを察したらしく、しゅんと小さくなって口を閉ざした。
嵐が過ぎ去るのを黙って待つような態度に、千鶴は殺意じみたものさえ感じて、さらに激しく怒鳴りつける。
「分かってんのかって、聞いてんの!」
千鶴の迫力に完全に気圧されてしまった生徒たちは、飛び上がるようにして立ち上がると、口々に謝罪を重ねながら、頭から血を流した生徒を最後尾にその場を立ち去った。
「くそっ…!信じられないっ!」
追いかけようかと思ったが、そんなことよりも目の前の紫野のほうが重要だ。
千鶴は一旦扉を閉め直して、彼女のそばに膝をついた。
抵抗して叩かれでもしたのか、頬から口の端にかけて赤くなっており、唇は少し切れて血が出ていた。
千鶴はそのまま、他に傷はないかと視線を体のほうに向けたのだが…それがいけなかったのだ。
幸い、綺麗な肌には傷一つ付いていなかったのだが、その胸を震わせる美しさ、触れたくなるような艶やかさ…。
いや、着飾った言葉で誤魔化すのはやめよう。
相川千鶴はただ、紫野の半裸に欲情してしまったのだ。
ごくり、と喉が鳴る。
(やだ、私…なんで…)
千鶴は自分の抱いた下劣な情欲と興奮を自覚したことで、自分がどういう目で紫野を見ていたのかを知ってしまった。
それと同時に、自分と先ほど彼女を犯そうとしていた下種とが、たいして変わらない生き物なのだと思えてならなくて、戦慄する。
パンドラの箱は開いてしまった。
一度悟った自らの情欲、欲望は、二度と目を逸らせない事実として千鶴の行方を遮るように横たわり、その眼差しを紫野の体一点に注がせた。
友として、慰めの言葉をかけることも出来ず、
他人のように、彼女に干渉しないという選択も出来ず、
恋人のように、彼女を抱きしめることも出来ない。
友人にも、他人にも、もちろん恋人にもなれなかった私は、言葉一つ発さず、ただ欲望のままに彼女の半裸を見つめていた。
その愚かすぎる自分に気付くことが出来たのは、幾ばくかの時間が流れて、紫野が重いため息を吐いてからだった。
「…はぁ…」
ハッと我に返り、反射的に顔を上げると、何とも言えない表情をした紫野と目が合った。呆れているような、哀れんでいるような…。正しい答えは、分からない。
自らの品のない行為について謝ることも出来ず、千鶴は誤魔化すようにやっと声を発する。
「紫野さん、大丈夫だった?」
大丈夫だよ、あるいは、最悪、とでも答えてもらえればマシだったのだが、紫野は何も答えず、ただ沈黙して千鶴を見ていた。
その視線に自分を責めるようなものを勝手に感じた千鶴は、バツが悪そうに俯くと、やっとの思いで、「ごめん」と口にした。
「何が」と紫野がようやく口を開いた。
「いや、その…」
貴方に欲情して、舐めるような目つきで体を見てしまい、すいませんでした…とは口が裂けても言えない。
しかし、紫野は躊躇なくギロチンのスイッチを押す。
「私をエロい目で見たこと?」
その一言に圧倒的羞恥が全身を駆け巡る。体は熱く、顔は赤く…。そしてわけの分からない汗が流れ始めた。
万事、気づかれていた。
私の歪んだ情欲が、全部。
(ど、どうしよう、私…)
途端に目の奥が熱くなり、涙が浮かび始める。
押し留める術を知らないその涙は、ダムが決壊するようにして頬をつたい、ぽつぽつと床に敷かれていたマットに黒いシミを作った。
それを嘲るように、紫野が言った。
「襲われかけた後なのに…、千鶴、火事場泥棒みたい」
「ち、ちが…う」
自分ではない誰かが、ひたすらに否定を口にしていた。
「別にいいよ、千鶴。こういうの、同類は分かるものなんだって、最近気が付いたんだ」
紫野は自分のシャツを肩がはだけるまで指先でずらし、蠱惑的な鎖骨を露わにした。その下にぽつんと付いた黒子が、千鶴を誘うように薄闇に浮かび上がって見える。
「視線でね、分かるんだ。胸、太腿、首筋、鎖骨…。見られてるの、分かる。その視線にどういう感情がこもっているのかも」
「な、何してんの…、ちゃんと着て」
「いいの?ずっと見てたでしょ」
ぼそり、と彼女は呟いた。先程まで、襲われかけていた女とは思えなかった。
「な、何を言って…。そんなの勘違いだし。早く、着て。じゃないと…」
「じゃないと?」
ドクン、と心臓が高鳴る。
紫野は、千鶴以上に彼女の心のうちを理解していた。
(じゃないと……?じゃないと、私…やだ、ちがっ…)
ぐっと、紫野が千鶴の体を引き寄せた。
くらくらする甘い香り。
バニラみたいだけど、少し違う。
もっと、甘い。
脳がチカチカする感覚に千鶴が襲われていると、紫野は今日の晩飯の献立でも答えるように平然と言った。
「――千鶴になら、いいよ」
…その後のことは、思い出したくもない。
だから千鶴は、キャンバスに絵の具をぶちまけるみたいにして、青春の記憶に忘却を招こうとしていた。
ただ、それでも、自分が違う何かに変貌していく恐怖や、呼吸が出来なくなるまで感じた熱、ぞっとしてしまうほどの耽美な感触、押し殺したような声が誘う魅惑の扉のことは覚えている。
どれだけの時間、紫野に覆い被さっていたのかは分からない。
高い位置に備え付けられてある窓から夕暮れが差し、帰りのホームルームのチャイムが鳴ったときにようやく、千鶴は紫野から離れた。
すでに千鶴と紫野の関係は、数時間前までの『ただのクラスメイト』ではなくなってしまっていたのだが、さらにこの後、千鶴が起こした行動が、いよいよ二人の関係を決定的なものに変えてしまった。
肩で息をしている紫野の、半分ほど役割を投げ捨てたシャツやスカートから覗く艶やかな肢体を目にしたとき――千鶴は、このすさまじい美の結晶をいつまでも自分のものとして留めておきたくなった。
だが、もう二度とこのような機会には恵まれないだろうという予感もあった。自分がしたことは畜生にも劣る行為だと痛感していたからだ。
気がつくと、手にしていた携帯はカメラを起動し、シャッターを切っていた。
もちろん、勝手に携帯が動くはずもない。無意識的にではあるが、千鶴が自分でやったことだった。
その音でハッと我に返った千鶴は、紫野のブラックダイヤみたいな瞳が異様な熱と、それに反発するような冷酷さをまとっているのを画面越しに理解してしまった。
千鶴はそれ以上、その場でじっとしていることが出来なくなり、飛び出した。
その後、何も噂にならなかったことを考えると、どうやら紫野は誰にも気付かれずに用具室を後にすることが出来たらしい。
千鶴が怪我をさせた生徒たちも、学校側に、あるいは周囲に知られるのを恐れてか、自ら藪を突くような真似はしなかった。
まあ、そんなものはどうでもいい。
千鶴は次の日から数日間、学校を休んだ。それは、犯罪じみた行為を重ねたことによる罪悪感のためではない。ただ怖かっただけだ。
紫野が誰かに一言でも漏らしたら、自分の立場は失墜し、たちまちスクールカーストの最底辺へと転がり落ちることは分かっていた。
この期に及んでも我が身が大事な自分が情けなくてたまらない一方で、向き合うことも出来ない。
しかも千鶴は、最低なことにその不安を慰めるために紫野の写真を使っていた。
画面越しに紫野の焼け付くような、凍て付くような視線に射抜かれ、千鶴は度々不気味に歪んだ昂揚感を覚えた。
千鶴には、自分が何よりも穢れた存在に堕ちていくのが分かった。もう昔のようには戻れないことを悟った。
無論、千鶴を取り巻く環境は何も変わっていなかった。実際、千鶴が何とか学校に登校した後も、周囲の千鶴を見る目が変わるということはなかった。
紫野は誰にも言わなかったのだ。そればかりか、彼女は何事もなかったかのように千鶴に接した。
いや、以前に比べると、よりその機会と親しみは増えていたといえるだろう。
「千鶴」と呼ぶ愛らしい声には、生殺与奪を握った者の余裕が滲み出ているような気がして、千鶴は紫野が怖くて仕方がなくなった。
千鶴はその後卒業まで、逃げるように帰宅するか、外敵から身を守るように友人たちという群れから離れなくなった。少なくともそうしていれば、紫野千鶴に絡んでこなかったからだ。
卒業式のあの日、紫野から手紙を貰った。それは呼び出しの手紙だった。
場所は体育用具室。
彼女が何を言いたいのかは明白だった。
本当なら私はあの日、その処刑場に行くべきだったのだ。
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