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かけ違えたボタンホールを、今(下)
かけ違えたボタンホールを、今.11
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部屋選びは、思いのほか順調に進んだ。
千鶴は瑠璃が自分たちをどういう関係と銘打って部屋を探すのか不安だったが、彼女は彼女なりにきちんと色々調べてくれていたらしく、事前にピックアップしていたLGBTフレンドリーな物件を紹介してくれた。
駅が近いとか、スーパーが近いとか、千鶴の職場が近いとか。
ベランダが広くて採光の具合が良いとか、防犯システムに気合いが入っているとか。
色々。とにかく、色々な物件があって、数日かけて千鶴は瑠璃と部屋を見て回った。
その過程で千鶴が思い知ったのは、瑠璃が自分を想う気持ちは想像以上に現実に下支えされたものだったということ。
彼女は、誰よりも自分との未来を現実的に考えている。
いつか、どこかで起こりうる未来ではなく、すぐ目の前にあって、相沢千鶴と生きる未来として綿密に。
『空き部屋があるのに性的指向で部屋を貸す、貸さないって話になるのは、ナンセンスだと思わないか?そんなの、私はマニュアル通りにしかやれませんって恥ずかしげもなく言いふらしているのと同義だ』
瑠璃はそんなふうに不平を口にしながらも、何もないマンションの一室に降り注ぐ陽光の中、酷く幸せそうな顔で微笑んでいた。
それがあまりに美しく、気高く、多幸感に満ちた姿として瞳に映っていたから…千鶴はその部屋で瑠璃と一緒に住むことを決意した。
瑠璃はそれをとても喜んだ。彼女にしては珍しく、大はしゃぎして、感情を露わにしながら跳ねまわっていたから、千鶴は自分の決断は間違っていないと確信を持つことができていた。
そうとなれば、必要になるものがある。
きっと、瑠璃と一緒に住むにあたって、最も千鶴が勇気を振り絞らなければならない過程であっただろうことは間違いない。
都心から離れた郊外。平野の中にぽつんと立った二階建ての建物の駐車場に、千鶴と瑠璃の姿はあった。
「…い、行くよ。準備はいい?」
つい先ほど最寄り駅に瑠璃を車で迎えに行った千鶴が、胸に手を当てながらそう言った。その言葉が瑠璃に向けられたものだったのか、それとも、直前にまでなっても臆病の虫が収まらない自分自身に向けられたものかは定かではなかった。
「…大丈夫?千鶴。顔面蒼白だけど」
瑠璃が隣に立っていた千鶴の顔を覗き込みながら、あっけらかんと尋ねる。
自分と同じくらい緊張していても然るべきはずの瑠璃が余裕のある態度を示していることが、千鶴にはとてもではないが理解できない。
「し、紫野ってさぁ、薄々勘づいてたけど、脳みそバグってるよね!?どれだけ図太い神経してたら、この状況で飄々としていられるわけ!?」
――一緒に暮らしたいと思っている恋人がいるから、明日、連れてきてもいい?
千鶴が両親にたどたどしく切り出すことができたのは、約束の直前、昨日の夜更けのことだった。
目玉が飛び出るのではと思うくらいに驚く父と、言葉を失っていた母の姿が今もありありと思い出せる。二十数年の人生の中で一番の驚愕ぶりであった。
両親とも、急すぎるという言葉はなかった。許可を取るのがどうしてこれだけ直前になったのか、分からない二人ではない。千鶴の緊張と不安を汲み取った父と母はこれを緊張した面持ちで快諾してくれた。
そして、今。苛烈な戦いの最前線への扉…玄関扉が目の前にあった。
心臓が早鐘を打つ中、千鶴は扉に手をかけようとして思い留まる。
(…もしも…受け入れてもらえなかったら…)
千鶴の脳内に、瑠璃が罵倒される最悪の未来がよぎる。
日頃穏やかな両親からは思いもよらない恐ろしい妄想が、倒れたコーヒーが白い紙を汚すように広がっていく。
頭に湧いた恐怖心は、やがて指の先まで広がっていく。扉に伸ばしていた手がカタカタと震えていることに、千鶴は今さらながら気がついた。
そのとき、隣に立っていた瑠璃が、千鶴の震える手のひらのそばに自分の手のひらを寄せてこんなことを言った。
「見て、千鶴。私の指も震えている」
「あ…」
彼女の告げた通り、瑠璃の指先は千鶴と変わらないくらい震えていた。
「落ち着いているように見えるのは、きっと私が何度も繰り返してきたから」
「繰り返す?何を?」
瑠璃の知性に満ちたオニキスが千鶴を間近で捉える。
「今日、この日を。頭の中で」
この瞳を貫く、黒曜の輝き。
その中には、決して目に見えないのに、人類の歴史が始まって以降、『心』という不確かなモノを確かに揺さぶり、温め続ける光があった。
「怖いけど、大丈夫。きっと上手くいく」
「紫野…」
「たとえ今日上手くいかなくとも、来週には上手くいく。来週上手くいかなかったら、また次の週。――上手くいくまで繰り返す。それだけなんだ、千鶴。何かを成し遂げるための、たった一つの方法。…大丈夫だ。十年近くボタンをかけ違えていた私たちが上手くいったんだから」
自分は、何を勘違いしていたのだろう。
失望や拒絶。誰だって、そんなものに傷なんて負わされたくない。それは紫野だって同じはずだ。
緊張もする。不安にもなる。二人の未来をより身近に考えていた彼女なら、私以上に怖いに決まっている。
それでも、進むのは…。
「扉、私が開けようか?」
問いかける瑠璃に、千鶴はゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫」
千鶴は瑠璃が伸ばしていた右手を左手で掴むと、空いた右手で玄関扉の取手を掴んだ。
――それでも進むのは、そうまでして欲しいものがあるからだ。
紫電瑠璃、もとい、紫野瑠璃と手を繋いで玄関に入ってきた娘を目の当たりにした両親は、唖然とした表情のまま凍りつき、立ち竦んでいた。
(お父さんも、お母さんも、驚いてる。当たり前と言えば、当たり前だけど、これは…思っていた以上に…!)
覚悟していても、実際に対面するのとではわけが違う。
千鶴は両親が言葉を失っているこの状況に、少なからず臆していたし、二人と同じようにどんな言葉を口にすればいいのか分からなくなっていた。
そんなぴんと張りつめた糸のような静寂を断ち切ったのは、誰あろう、千鶴のパートナーである瑠璃であった。
「初めまして、お父様、お母様、私、紫野瑠璃と申します。千鶴さんにはお世話になっております」
凛とした声音で挨拶し、ぺこり、と深々頭を下げる瑠璃。彼女が仕事以外でこれだけ他人に頭を下げるのを、千鶴は未だかつて見たことがなかった。
彼女の緊張は千鶴にも十分伝わってきていた。だからこそ、瑠璃が頭を下げたときに自分も遅れて頭を下げたし、彼女のこの真摯な想いが伝ってほしいとも思った。
「ふ、二人とも驚かせてごめん、実は私――」
紡いでいた言葉は見切り発車の言葉だ。『実は私』の先は何も用意していなかったが、ただ、何か大事なことを、相沢千鶴を象る大事なものを伝えたいと踏切板を切った。
だが…両親の反応は千鶴が予想していたものとは全く異なるものであった。
「お、おい、母さん!本物だぞ!本物の紫電瑠璃だ」
不躾に瑠璃を指差す父。それを咎めつつも、「見たら分かるわよ、そんなの」とどこまでもドライな母。
「お前なぁ、もうちょっと驚くところだろ!芸能人だぞ、芸能人」
「驚いてるわよ…。お父さんみたいにミーハーな反応は恥ずかしいからしたくないだけ」
「別にいいだろ…ミーハー。娘が芸能人の恋人連れて来たら、誰だって普通こうなると思うけどなぁ」
トン、トン、とピンポン玉でラリーするみたいに短いやり取りを続ける二人に、千鶴も瑠璃も困惑を隠せずに両者の顔を見比べる。そうしていると、佇まいを直した母が改めて一礼した。
「千鶴の母です。娘がお世話になっています。玄関口で挨拶させてすみませんね。さぁ、上がってください」
「それは俺の役だぞ」と唇を尖らせた父も遅れて母同様に挨拶した。
当たり前のようにリビングに通される流れになった千鶴は、瑠璃を伴って二人について行きつつ声を大きくする。
「ちょっと、お父さん、お母さん?今日が何の日か分かってる?」
「当たり前でしょう。お母さんたちもまだ耄碌してないわ」
事前に用意していたらしいコーヒーを淹れ始める母。それから、先にいそいそと席に着いていた父が二人に座るよう促しながら笑う。
「お父さんもお母さんも千鶴が昨夜急に、『同棲したい恋人がいる』なんて言うから、慌てて準備したんだぞ。どうしてもっと早く言わんかなぁ」
「そうじゃなくて…!な、なんで驚かないの!?」
「はぁ?だから驚いてるって!まさかお前があの紫電瑠璃を――」
「違うってば!」
千鶴は父の言葉を素早く遮った。両親二人ともが何か大きな勘違いをしていたり、現実逃避的な考えをしていたりするのではないかと不安に思ったからだ。
だとしたら、瑠璃に失礼すぎる。
「……私、恋人に、女の人を連れて来たんだよ…?」
繋いだままの瑠璃の手にぎゅっと力が入った。問題の根幹に刃先を入れたことで、彼女もさらに緊張したのだろう。学生時代、他人や社会といったものの価値観に微塵も興味がなく、また、合わせる気のなかった彼女を思えば大きな変化だ。
両親は互いに顔を見合わせた。そして、ふっとタイミングを合わせたように微笑むと、千鶴と瑠璃のほうを見つめ、どちらからともなく口を開いた。
「千鶴。親を舐めるもんじゃない。社交的なお前が一度たりとも恋人の話をしないってことは、俺たちに言いづらい事情があるんだろうと思うのが自然だ」
「そうそう。昔から言ってるでしょう。他人に迷惑かけないならそれでいいって。それともなに?女性が女性と付き合うと世間様に迷惑がかかるの?」
父らしい、自分の推理が当たっていたから、その手柄を自慢するみたいな言葉。
母らしい、ちょっと皮肉めいていながらも、こちらを元気づけようとする言葉。
そのどちらもが、千鶴の胸にすとんと収まる。そしてそれは瑠璃もそうだったのだろう。母の言葉に反応できずにいる千鶴に代わって、彼女が答えを出した。
「いいえ、何も。何も迷惑などかけません」
「そうよね」
人数分のコーヒーをトレイの上に乗せて運んできた母は、父の隣に腰を下ろすとカップを配った。
「だったら、堂々としていていいのよ。少なくとも、家族の前ぐらいは。――もちろん、瑠璃ちゃんもね」
今度は瑠璃が言葉を失う番だった。そう言えば、彼女の家族はあまり瑠璃の性的指向に肯定的ではないと聞いたことがある。その反動もあって気持ちの言語化が上手くできないのだろう。
「それにしても、千鶴お前、どうやってこんな美人捕まえたんだ?千鶴もなかなか可愛く育てたつもりだが…」
「えっと…私たち、高校で同級生だったから」
「なに?当時から付き合ってたのか?なんで言ってくれないんだ」
「付き合ってないし、色々と説明しづらいこともあったし…」
特に体育倉庫の一件は絶対に言えないことだ。ちゃんと自分の手綱を握れていたら、かっこいいエピソードになったかもしれないが…。
そうして千鶴が口ごもっていると、不意に瑠璃が口を開いた。
「千鶴さんだけが、変わり者の私を爪弾きにしませんでした」
初め千鶴は、その感極まったふうな声が瑠璃のものだとは信じられなかった。基本的に瑠璃は淡々としゃべることが多い。何か目に見えない理不尽と戦っているようなときは、氷のように冷たい炎をたぎらせていることもあったが…。こんなふうに、怒りでも喜びでもない感情に頭から浸かり、瞳を潤ませたところは見たことがない。
「千鶴、だけが…」
ぽろぽろと涙する瑠璃。初めて目にする彼女の姿に驚きもしたが、両親や自分と関わることで発露されたであろう瑠璃の全てが千鶴は何よりも愛おしく思えた。
「紫野…」
「ご、ごめん、私」
「謝る必要なんてないよ」
優しく、瑠璃の背中をさする。
「そんなふうに言ってもらえて、私は嬉しい」
自分よりも十センチ以上背の高い彼女の体が、今は幼子のように感じられた。
すると、「そうなのね。でも、それじゃあ少し申し訳ないかしら」と母がハンカチを用意しながら笑った。
「何が?」
千鶴の問いかけを受けた母は瑠璃の目元を優しく拭きつつ、こう言った。
「だって、そこに私たちも加わるのよ?千鶴だけじゃなくなってしまうわ」
皮肉と言うか、何と言うべきか分からない母の暖かな言葉。
瑠璃は誰よりも早く母の意図に気づいてお礼を口にしながら頭を下げていたが、さらに父が続けた言葉に千鶴も張りつめていた心が緩んで泣き出してしまう。
「とにかく、俺たちは瑠璃ちゃんを歓迎するし、千鶴の選択も当然尊重する。大変なことが多いと思うが、負けるなよ」
涙と共に頷いた千鶴は、瑠璃の背中をさすり続けながら、ぼうっと自分の幸運に感謝していた。
今、間違いなく自分は両親の愛情をこの身に受けている。
それだけでも嬉しいが、そもそも自分が愛されていることは知っていた。
千鶴がそれ以上に嬉しかったのは、その愛情が自分の大事な人にも惜しみなく注がれていることであった。
あまねく万象を照らす、父の太陽のような愛情。
眠る命を静かに見守る、母の月のような愛情。
これらをここまで心の底から理解できたことはなかっただろう千鶴は、いつしか立場が逆転して瑠璃になだめられる側になるまで、ずっと頷きを繰り返すのだった。
千鶴は瑠璃が自分たちをどういう関係と銘打って部屋を探すのか不安だったが、彼女は彼女なりにきちんと色々調べてくれていたらしく、事前にピックアップしていたLGBTフレンドリーな物件を紹介してくれた。
駅が近いとか、スーパーが近いとか、千鶴の職場が近いとか。
ベランダが広くて採光の具合が良いとか、防犯システムに気合いが入っているとか。
色々。とにかく、色々な物件があって、数日かけて千鶴は瑠璃と部屋を見て回った。
その過程で千鶴が思い知ったのは、瑠璃が自分を想う気持ちは想像以上に現実に下支えされたものだったということ。
彼女は、誰よりも自分との未来を現実的に考えている。
いつか、どこかで起こりうる未来ではなく、すぐ目の前にあって、相沢千鶴と生きる未来として綿密に。
『空き部屋があるのに性的指向で部屋を貸す、貸さないって話になるのは、ナンセンスだと思わないか?そんなの、私はマニュアル通りにしかやれませんって恥ずかしげもなく言いふらしているのと同義だ』
瑠璃はそんなふうに不平を口にしながらも、何もないマンションの一室に降り注ぐ陽光の中、酷く幸せそうな顔で微笑んでいた。
それがあまりに美しく、気高く、多幸感に満ちた姿として瞳に映っていたから…千鶴はその部屋で瑠璃と一緒に住むことを決意した。
瑠璃はそれをとても喜んだ。彼女にしては珍しく、大はしゃぎして、感情を露わにしながら跳ねまわっていたから、千鶴は自分の決断は間違っていないと確信を持つことができていた。
そうとなれば、必要になるものがある。
きっと、瑠璃と一緒に住むにあたって、最も千鶴が勇気を振り絞らなければならない過程であっただろうことは間違いない。
都心から離れた郊外。平野の中にぽつんと立った二階建ての建物の駐車場に、千鶴と瑠璃の姿はあった。
「…い、行くよ。準備はいい?」
つい先ほど最寄り駅に瑠璃を車で迎えに行った千鶴が、胸に手を当てながらそう言った。その言葉が瑠璃に向けられたものだったのか、それとも、直前にまでなっても臆病の虫が収まらない自分自身に向けられたものかは定かではなかった。
「…大丈夫?千鶴。顔面蒼白だけど」
瑠璃が隣に立っていた千鶴の顔を覗き込みながら、あっけらかんと尋ねる。
自分と同じくらい緊張していても然るべきはずの瑠璃が余裕のある態度を示していることが、千鶴にはとてもではないが理解できない。
「し、紫野ってさぁ、薄々勘づいてたけど、脳みそバグってるよね!?どれだけ図太い神経してたら、この状況で飄々としていられるわけ!?」
――一緒に暮らしたいと思っている恋人がいるから、明日、連れてきてもいい?
千鶴が両親にたどたどしく切り出すことができたのは、約束の直前、昨日の夜更けのことだった。
目玉が飛び出るのではと思うくらいに驚く父と、言葉を失っていた母の姿が今もありありと思い出せる。二十数年の人生の中で一番の驚愕ぶりであった。
両親とも、急すぎるという言葉はなかった。許可を取るのがどうしてこれだけ直前になったのか、分からない二人ではない。千鶴の緊張と不安を汲み取った父と母はこれを緊張した面持ちで快諾してくれた。
そして、今。苛烈な戦いの最前線への扉…玄関扉が目の前にあった。
心臓が早鐘を打つ中、千鶴は扉に手をかけようとして思い留まる。
(…もしも…受け入れてもらえなかったら…)
千鶴の脳内に、瑠璃が罵倒される最悪の未来がよぎる。
日頃穏やかな両親からは思いもよらない恐ろしい妄想が、倒れたコーヒーが白い紙を汚すように広がっていく。
頭に湧いた恐怖心は、やがて指の先まで広がっていく。扉に伸ばしていた手がカタカタと震えていることに、千鶴は今さらながら気がついた。
そのとき、隣に立っていた瑠璃が、千鶴の震える手のひらのそばに自分の手のひらを寄せてこんなことを言った。
「見て、千鶴。私の指も震えている」
「あ…」
彼女の告げた通り、瑠璃の指先は千鶴と変わらないくらい震えていた。
「落ち着いているように見えるのは、きっと私が何度も繰り返してきたから」
「繰り返す?何を?」
瑠璃の知性に満ちたオニキスが千鶴を間近で捉える。
「今日、この日を。頭の中で」
この瞳を貫く、黒曜の輝き。
その中には、決して目に見えないのに、人類の歴史が始まって以降、『心』という不確かなモノを確かに揺さぶり、温め続ける光があった。
「怖いけど、大丈夫。きっと上手くいく」
「紫野…」
「たとえ今日上手くいかなくとも、来週には上手くいく。来週上手くいかなかったら、また次の週。――上手くいくまで繰り返す。それだけなんだ、千鶴。何かを成し遂げるための、たった一つの方法。…大丈夫だ。十年近くボタンをかけ違えていた私たちが上手くいったんだから」
自分は、何を勘違いしていたのだろう。
失望や拒絶。誰だって、そんなものに傷なんて負わされたくない。それは紫野だって同じはずだ。
緊張もする。不安にもなる。二人の未来をより身近に考えていた彼女なら、私以上に怖いに決まっている。
それでも、進むのは…。
「扉、私が開けようか?」
問いかける瑠璃に、千鶴はゆっくりと首を横に振る。
「大丈夫」
千鶴は瑠璃が伸ばしていた右手を左手で掴むと、空いた右手で玄関扉の取手を掴んだ。
――それでも進むのは、そうまでして欲しいものがあるからだ。
紫電瑠璃、もとい、紫野瑠璃と手を繋いで玄関に入ってきた娘を目の当たりにした両親は、唖然とした表情のまま凍りつき、立ち竦んでいた。
(お父さんも、お母さんも、驚いてる。当たり前と言えば、当たり前だけど、これは…思っていた以上に…!)
覚悟していても、実際に対面するのとではわけが違う。
千鶴は両親が言葉を失っているこの状況に、少なからず臆していたし、二人と同じようにどんな言葉を口にすればいいのか分からなくなっていた。
そんなぴんと張りつめた糸のような静寂を断ち切ったのは、誰あろう、千鶴のパートナーである瑠璃であった。
「初めまして、お父様、お母様、私、紫野瑠璃と申します。千鶴さんにはお世話になっております」
凛とした声音で挨拶し、ぺこり、と深々頭を下げる瑠璃。彼女が仕事以外でこれだけ他人に頭を下げるのを、千鶴は未だかつて見たことがなかった。
彼女の緊張は千鶴にも十分伝わってきていた。だからこそ、瑠璃が頭を下げたときに自分も遅れて頭を下げたし、彼女のこの真摯な想いが伝ってほしいとも思った。
「ふ、二人とも驚かせてごめん、実は私――」
紡いでいた言葉は見切り発車の言葉だ。『実は私』の先は何も用意していなかったが、ただ、何か大事なことを、相沢千鶴を象る大事なものを伝えたいと踏切板を切った。
だが…両親の反応は千鶴が予想していたものとは全く異なるものであった。
「お、おい、母さん!本物だぞ!本物の紫電瑠璃だ」
不躾に瑠璃を指差す父。それを咎めつつも、「見たら分かるわよ、そんなの」とどこまでもドライな母。
「お前なぁ、もうちょっと驚くところだろ!芸能人だぞ、芸能人」
「驚いてるわよ…。お父さんみたいにミーハーな反応は恥ずかしいからしたくないだけ」
「別にいいだろ…ミーハー。娘が芸能人の恋人連れて来たら、誰だって普通こうなると思うけどなぁ」
トン、トン、とピンポン玉でラリーするみたいに短いやり取りを続ける二人に、千鶴も瑠璃も困惑を隠せずに両者の顔を見比べる。そうしていると、佇まいを直した母が改めて一礼した。
「千鶴の母です。娘がお世話になっています。玄関口で挨拶させてすみませんね。さぁ、上がってください」
「それは俺の役だぞ」と唇を尖らせた父も遅れて母同様に挨拶した。
当たり前のようにリビングに通される流れになった千鶴は、瑠璃を伴って二人について行きつつ声を大きくする。
「ちょっと、お父さん、お母さん?今日が何の日か分かってる?」
「当たり前でしょう。お母さんたちもまだ耄碌してないわ」
事前に用意していたらしいコーヒーを淹れ始める母。それから、先にいそいそと席に着いていた父が二人に座るよう促しながら笑う。
「お父さんもお母さんも千鶴が昨夜急に、『同棲したい恋人がいる』なんて言うから、慌てて準備したんだぞ。どうしてもっと早く言わんかなぁ」
「そうじゃなくて…!な、なんで驚かないの!?」
「はぁ?だから驚いてるって!まさかお前があの紫電瑠璃を――」
「違うってば!」
千鶴は父の言葉を素早く遮った。両親二人ともが何か大きな勘違いをしていたり、現実逃避的な考えをしていたりするのではないかと不安に思ったからだ。
だとしたら、瑠璃に失礼すぎる。
「……私、恋人に、女の人を連れて来たんだよ…?」
繋いだままの瑠璃の手にぎゅっと力が入った。問題の根幹に刃先を入れたことで、彼女もさらに緊張したのだろう。学生時代、他人や社会といったものの価値観に微塵も興味がなく、また、合わせる気のなかった彼女を思えば大きな変化だ。
両親は互いに顔を見合わせた。そして、ふっとタイミングを合わせたように微笑むと、千鶴と瑠璃のほうを見つめ、どちらからともなく口を開いた。
「千鶴。親を舐めるもんじゃない。社交的なお前が一度たりとも恋人の話をしないってことは、俺たちに言いづらい事情があるんだろうと思うのが自然だ」
「そうそう。昔から言ってるでしょう。他人に迷惑かけないならそれでいいって。それともなに?女性が女性と付き合うと世間様に迷惑がかかるの?」
父らしい、自分の推理が当たっていたから、その手柄を自慢するみたいな言葉。
母らしい、ちょっと皮肉めいていながらも、こちらを元気づけようとする言葉。
そのどちらもが、千鶴の胸にすとんと収まる。そしてそれは瑠璃もそうだったのだろう。母の言葉に反応できずにいる千鶴に代わって、彼女が答えを出した。
「いいえ、何も。何も迷惑などかけません」
「そうよね」
人数分のコーヒーをトレイの上に乗せて運んできた母は、父の隣に腰を下ろすとカップを配った。
「だったら、堂々としていていいのよ。少なくとも、家族の前ぐらいは。――もちろん、瑠璃ちゃんもね」
今度は瑠璃が言葉を失う番だった。そう言えば、彼女の家族はあまり瑠璃の性的指向に肯定的ではないと聞いたことがある。その反動もあって気持ちの言語化が上手くできないのだろう。
「それにしても、千鶴お前、どうやってこんな美人捕まえたんだ?千鶴もなかなか可愛く育てたつもりだが…」
「えっと…私たち、高校で同級生だったから」
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「付き合ってないし、色々と説明しづらいこともあったし…」
特に体育倉庫の一件は絶対に言えないことだ。ちゃんと自分の手綱を握れていたら、かっこいいエピソードになったかもしれないが…。
そうして千鶴が口ごもっていると、不意に瑠璃が口を開いた。
「千鶴さんだけが、変わり者の私を爪弾きにしませんでした」
初め千鶴は、その感極まったふうな声が瑠璃のものだとは信じられなかった。基本的に瑠璃は淡々としゃべることが多い。何か目に見えない理不尽と戦っているようなときは、氷のように冷たい炎をたぎらせていることもあったが…。こんなふうに、怒りでも喜びでもない感情に頭から浸かり、瞳を潤ませたところは見たことがない。
「千鶴、だけが…」
ぽろぽろと涙する瑠璃。初めて目にする彼女の姿に驚きもしたが、両親や自分と関わることで発露されたであろう瑠璃の全てが千鶴は何よりも愛おしく思えた。
「紫野…」
「ご、ごめん、私」
「謝る必要なんてないよ」
優しく、瑠璃の背中をさする。
「そんなふうに言ってもらえて、私は嬉しい」
自分よりも十センチ以上背の高い彼女の体が、今は幼子のように感じられた。
すると、「そうなのね。でも、それじゃあ少し申し訳ないかしら」と母がハンカチを用意しながら笑った。
「何が?」
千鶴の問いかけを受けた母は瑠璃の目元を優しく拭きつつ、こう言った。
「だって、そこに私たちも加わるのよ?千鶴だけじゃなくなってしまうわ」
皮肉と言うか、何と言うべきか分からない母の暖かな言葉。
瑠璃は誰よりも早く母の意図に気づいてお礼を口にしながら頭を下げていたが、さらに父が続けた言葉に千鶴も張りつめていた心が緩んで泣き出してしまう。
「とにかく、俺たちは瑠璃ちゃんを歓迎するし、千鶴の選択も当然尊重する。大変なことが多いと思うが、負けるなよ」
涙と共に頷いた千鶴は、瑠璃の背中をさすり続けながら、ぼうっと自分の幸運に感謝していた。
今、間違いなく自分は両親の愛情をこの身に受けている。
それだけでも嬉しいが、そもそも自分が愛されていることは知っていた。
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あまねく万象を照らす、父の太陽のような愛情。
眠る命を静かに見守る、母の月のような愛情。
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