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第二話 娼婦シリゾーケテナの死に関して 

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『あなたはその女と入って行ってはならない。その哀れな女はあなたを食らい尽くす危険な炎のように貧しい女だから』

  神聖な古文書に書かれている一文だが、マユラはすっかり忘れていた。

  シリゾーケテナは魅惑的な金色の瞳でじっと小柄な白小人族マユラを見つめると、こう囁く。

「あなたは悪を行うことを選んだ」

  自分の方からマユラを唆しておきながら。

  もしかしてあのことを指摘されたのだろうかと、マユラは貼り付けたほろ酔いの笑みのままシリゾーケテナの前で身動みじろぎひとつできない。

 白小人族は、概ね善良で従性に優れた面があるがノンポリの八方美人で誰にでも良い顔をしたがり、やたらと酒に弱い。

  薄く冷や汗を感じながらも、両頬の筋肉は口角を吊り上げたまま強張っている。

  もっとも、シリゾーケテナの淡く虹色に輝く鱗肌の豊満な色香に迫られているときでさえ、病身の母親への心配も吹っ飛んで身動ぎひとつできなかったけど。

「マユラ、あなたは悪を行うことを選んで私とともに来た」

  蛇のような髪を逆立てて再び同じ科白を言い放ったシリゾーケテナの眼光は、先ほどマユラに優しく接した時とは打って変わって蛇眼の鋭い光を放っている。


  マユラは今日、親方に言われて青蜜蜂の箱のいくつかを、およそ数万匹の病気の青蜜蜂を駆除したのだった。

  仕事を終えると、初めて熊族の親方の家に招かれて酒を振る舞われた。

『これがわしらのことなら、わしもお前も大量殺戮の罪を免れることはあるまいて。じゃが、残りの青蜜蜂を感染から守るためには仕方あるまい。大昔、地上世界で、神もこのように行われたのじゃ。大洪水によってノアの家族を感染から守り、ノアの子孫を守り、わしら地底に下った子孫までも守る為に』

 親方は広い肩を落として涙ぐんでいた。

  ふわふわと揺れる食虫花の銀タンポポや日の回り花と格闘するかのように、ブンブン飛び回って働いて、真っ青な津波のように大群を成して戻ってくる青蜜蜂の姿が愛しくて、瞼が潤むのだ。

 病気に感染したとはいえ、青蜜蜂は波がうねるように元気に動く。見ず知らずの神を引っ張り出されても、マユラには図りかねる話しだった。


「シリゾーケテナさん、あなたが僕に迫ったんです。何も知らない、いえ、あなたに比べればの話ですが、ほとんど何も知らない僕のような者に、あなたの方から迫ったのではありませんか」

  仕事帰りに、高見の黒々とした樹木の間から垣間見える高い空を眺めながら、不思議に思うことがあった。空は暮れなずみ、やがて星空へと移り行くと言うのに、何故この世界を地底国と言うのか。

  マユラは一歩退く。

  その戦きにつられて、シリゾーケテナは赤い唇を曲げてクックックッと笑う。

「マユラ、何故、私を受け入れようとした。私は名のったのに」

  顔を取り巻く赤い鞭をしならせながらシリゾーケテナは一歩マユラに近づく。いつの間に手にしたのか、シリゾーケテナは鋭いダンビラの切っ先をマユラの喉元に突きつけた。

「私の名前は、そう、シリゾーケテナ。お前が退けなければならない者の名だ。シリゾーケテナは選別者。お前の運命の選別者。お前は処刑だ」

  シリゾーケテナの赤々と蠢く髪さえも、蛇の頭のようにマユラに向かう。マユラは思わずぎゅっと両の目を瞑った。何か、ただならぬ物音がしたが、マユラはじっと我慢していた。

  暫くして、片目を恐る恐る開くと、シリゾーケテナはマユラの足元でうつ伏せに倒れていた。

  え、えーと

  赤い髪が蛇のようにのたうち回り、ハタリと息絶えた。 

  何の冗談、転んで気を失っているのか、いや違う、いや、違わない

  一歩、二歩、退いて籐椅子によろけて座った。

  いやいや、今殺さなければ僕がやられちゃう、いや、そんなことはない、逃げるんだ、逃げるんだ、何で目を瞑ったりしたんだろう、殺される処だったのに、いいや、考えるのは後だ、とにかく逃げなければ

  マユラは激しい動悸に吐き気を覚え、この場から逃げることにしたが、ふいにシリゾーケテナが街角の暗がりでマユラに囁いた招き文句が耳を掠めた。

  初めから僕を、殺すつもりだったんだ、一体何故

  騒ぐ胸が、直ぐにでもここから逃げるようにとマユラの震える両膝に訴えている。

  しかし、マユラは自分の座した籐椅子にしがみついて立ち上がれそうもない。

  急がなければならない事態なのは理解している。それなのに何かが、もう少しここにいてシリゾーケテナの死に関して考えてみようではないかと酔った足を引っ張るのだ。

  誰かに目撃されたら僕はお仕舞いだ

  マユラはかくかくと震えながら、一歩も踏み出すことができなかった。腰が、抜けた。

  この場面に新展開をもたらした者は、マユラにとって神の使いのように思えた。前歯がすきっぱになっている人の好さそうな白小人族の小太りの中年女だ。

  すきっぱの中年女はつかつかと入って来ると、シリゾーケテナの長い鞭毛を鷲掴みにして顔を眺め、脳天に響く声で叫んだ。

「まあ、シリゾーケテナが死んでしまったゆう。この蛇女はあんたのような若い男を道連れにしようと企んでいたさぁね。だけどもが、先に寿命がきたさいがね」

  狭い部屋に慌ただしく人の出入りがあり、そのほとんどが虎族や狼族の生活保安関係者で、マユラも尋問受けたが、シリゾーケテナに関する住民の証言と空きっぱの証言がことごとく食い違いをみせるのだから、聞き取りに当たった保安員の困惑といえば想像に難くない。  
 
  広場に集められ騒然としたなかで、マユラは椅子ごと運び出され、見せ物のように多くの目にさらされたが、不思議と自分が透明になったような静けさを感じ、街灯の灯りに問うた。

  神よ、何故このようなことが起きたのですか

 人生で初めての瞬間だったかもしれない。それは、マユラにとってこれまでの人生でもっとも意義深い質問だった

  神よ

  広場に敷き詰められた煉瓦に落ちる明りが揺らめいた。街灯は、風に揺らめく造りではない。動き回る人影のせいか。

「そりゃあ旦那、偶然と云うものの悪戯さいが」ひょろひょろした黒長族が虎族の保安員に言った。

「何故にそう思うのだ」虎族は目を光らせる。

「だってさぁ、こんなチンピラ女よりも、もぉっと悪いやつはこの世にごまんといるさいがよ」

「そうだな」

「もしも誰かがヒトノア族を裁くとしたら、もっと悪い奴らからに決まっているって」

  村人の言葉に、腕組みしながら頷く虎族の保安員。その目は油断なく一人一人を見据えている。

  マユラは胸の裡で訝った。

  裁くって、シリゾーケテナの死はただの偶然だ、いや、僕が殺したわけではないことが、証明されればのことだが

  マユラはますます透明になっていく。

「いやいや、あの女はそりゃあ酷い女で、何人もの男を騙しているさぁね。うちの亭主も」

  しょぼくれたエプロンの枯れ枝の女が、噛みつくように言った。背後で子供たちが震えている。

「だから天罰って言ったさいがよ。神が裁いてくださったとよ」すきっぱが間髪を入れずに叫ぶ。

  神を信じる者にとってシリゾーケテナの死は、神の処罰ということになるのかな、神がこのようなことをされるなんて、聞いたことがないのだけれど

  マユラは透明になって何かに心の目を向けようとしていた。

「マユラ」「「「………」」」

  いきなり不穏な叫びが広場にいた全ての目をマユラに向けさせた。マユラを呼ぶ聞きなれたザガン婆さんの声が、マユラの姿を求めている。

  マユラは透明から現実に引き戻されザガン婆さんの涙に遭遇し、戸惑った。

「母さんが、死んだってっ」

「マユラ、お前の名前を呼びながら」

「ああ、母さんっ」

  人の好い働き者の母さん、病気で痩せこけて見る影もなくなるほどベッドと同化していた、僕は本当は急いで帰らなくちゃならなかったんだ、親方の家で少し飲んだだけで帰っていれば、こんな事件に巻き込まれないで母さんを看取れたのに

  マユラの胸に悲痛な叫びが沸く。

  どこにあったのかと思うほどの力を込めてマユラの腕を引っ張るザガン婆さんを、保安員が諭した。

「腰が抜けて動けないようですから、お孫さんは」

    誰かが呟く。
「母親が死んだだと。この世に神はいないのか」

  誰かが応える。
「今頃になって何を言うかよ、全く。お前さんは神様のことなど気にも留めずに暮らしてきたさいがよ」

  マユラは怒りに支配されて叫んだ。
「神に目を向けさせるためにこのようなことが必要だと言うのなら、僕は神など信じない」

  奥から誰かが返した。
「当たり前さぁね。神はそのような邪悪な方ではないさいがよ」
「そうだ。これが自然死でなくても、犯人は神ではない」

   マユラはもう一度叫んだが、涙で声がくぐもる。
「それでもっ、どうやって神を信じればいいというわけ。こんな事態になって」

  ザガン婆さんが涙声で言った。
「神を信じるのはいつからでもよい。兎に角、母さんの処に行かんとならんよ、マユラ」

「ああ、母さんっ。僕の母さん、ごめんよぉ、母さんっ」

  娼家からそのまま母さんの元に駆けつけるには僕は穢れている、大事なときに僕は何をしていたのか、いや、まだ何もしてはいない、娼婦と何かをしようとしていたのだ、その僕が母さんの死に顔に対面するなんて、母さんっ

「マユラ、早く立ち上がれ。母さんの元に行かんとならんさいがよ」

「僕は母さんに合わせる顔がない」

「あがい。そんなことを言っている場合かよ」

  シリゾーケテナの死に際してさえ一粒の涙もこぼさなかったマユラの目から、涙が奔流のように流れている。

  狼族の保安員の肩を貸りてやっとこさマユラは立ち上がり、酒場に樽酒を運ぶ熊族の荷馬車に乗せてもらうことになった。

  白小人族は熊族や虎族と違って小柄で軽い。荷馬車の樽の上に乗せられたマユラはしかし樽の蓋が壊れバランスを崩した。お尻が古い樽にはまったのだ。手足をばたつかせて這い上がろうとするのだが、それが新たな展開を生む。

  空の樽があっという間もなくごろんごろんと荷馬車から落ちた。驚愕のマユラを尻目に幾つかの酒樽が人波に向かう。

「「「おっ………」」」「「「わあっ………」」」

  広場は喧騒を極め、蓋の外れた樽から強烈な酒の匂いが溢れ出し、辺りに広がる。空っぽとはいえ、度数の高い酒の樽だ。樽底に少しでも染みていれば、近くにいるだけで白小人族は酔ってしまう。案の定、数名の白小人族が踊り出した。

  事件はマユラのヘマが効を奏して終結を迎える。

「占いと言ったけど、嘘っぱちさいがよ。誰が信じると思うかさあよ。ケラケラ。恨みを晴らしたかったけどさ。あの色気女ったら自分の命運が尽きたと信じ込んで、道連れを連れ込んださあね。あの可愛い坊やをね。私ゃ、坊やの命の恩人さいが」

  すきっぱの中年女が、鼻の頭を赤くテカらせて笑った。自分でこさえた毒薬をシリゾーケテナの飲み物に仕込んでおいたという顛末で。

「私は忍耐強いさいがよ。それが心底イヤになった。だからあの女を裁いてやったさ。そうさ、神様は大昔、大洪水によってこの惑星のひとつの家族を救い、他のみんなを滅ぼしたっていうさいが。ジェノサイドじゃないかよ。それに比べれば、それに比べれば他者の生き血を吸うノミを一匹潰したくらい……」

  酔っぱらった殺人犯の、言い訳にならない自己弁護の身勝手さに、マユラの胸で何かが割れた。

「違う。それは違う」

  声にはならない言葉の続きが胸のなかで去来して、涙と鼻水でしゃくりあげる喉と見開いた目が、マユラのなかで起きた変化を物語っていた。
それは、ある理解だった。

  神は善良な者を守ったのだ、大昔、この惑星の地上世界において、全ての住人が悪に感染して絶滅する前に、そうだ、親方はそれを言っていたのだ、そして今、シリゾーケテナひとりを殺したからといって全ての者を守れる訳ではない、もっと悪い奴らはごまんといるのだから、すきっぱのおばさん、何故もう少し忍耐してくれなかったんだ、白小人族として善良な側でいてほしかった、あんたが嘘の占いなんかするから、シリゾーケテナは僕を道連れに死のうとしたんだ

  喪が明けて数ヶ月後、親方に誘われてお見合いをした帰り道。久々の酒にほろ酔いのマユラが千鳥足で行く煉瓦の坂道には、あの夜と同じ風景が見えた。

  高みの黒々とした樹木から垣間見える夜空。通りの角の幾つかに、月光に細かく光るストールを巻いた人影が立っていた。ある影はもうひとつの影を誘い込み、ある影はもうひとつの影を送り出す。

  マユラの耳にシリゾーケテナの誘い文句が蘇る。あの女は、芳しいストールごと腕をマユラの首に絡ませてこう囁いたのだった。

『あなたはその女と入って行ってはならない。その哀れな女はあなたを食らい尽くす危険な炎のように貧しい女だから』

  あの時のシリゾーケテナの金色の眼差しは、優しく寂しげだった。色香の漂う豊満な肉体に不似合いな孤独を湛えていた。

  殺されかけた者の心をさえ震わせる憐れみという貴重なものが、月影の下、マユラの目から一粒の光るものとなって、きらりと滑り落ちる。

  それが、ある哀れな娼婦の死に関して、他者が流した涙の全てだった。

                      
                了


 
         


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