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第四話 女軍師シリゾーケルサの香り
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軍師と言えどもひと度戦場に打ち出でて甲冑の重さに喘ぐとは、この私も何たるだらけようだ
湖の淵に脱ぎ散らかした衣を片手で拾い歩き、小さな布で肌の一部を隠しただけのシリゾーケルサは、甲冑の前で仁王立ちになった。
「誰か、ああ、マユラはおらぬか」
あのちびめ、怖じ気づいて逃げたか
「お呼びですか。軍師様……」
「呼んだ。お前、この甲冑を持ってこい」
ちびめ、私の姿に目を反らす
赤目猛禽族のシリゾーケルサは決して成りの大きな方ではないが、白小人族のマユラを見下ろすだけの丈はある。
すらりと伸びた肢体の上の、黒羽に覆われた目付きの鋭い顔が、何かに気づく。木々と茂みの間から一人の将軍が姿を現した。
「水浴びは終わったか、ケルサ」
金の鬣を綺麗に纏めた獸王族の出の将軍カルラヴィアン、三代続く将軍家の一番の猛将として、近隣三国に名を馳せている。
カルラヴィアンはにっこり微笑みかけてシリゾーケルサの姿に思わず後ろ向きになる。
「早く着ろ」
この男は、勇猛果敢な獸王族や熊族を束ねる器でありながら、どこかで水漏れしているかの如くのフェミニストぶりをみせる。
渋々といった体で薄絹を纏い始めるケルサの横で、マユラは甲冑と格闘している。
ちびめ、お前には一度では持てないだろう
「剣は置いておけ」
「おいおいケルサ。ここは安全な場所だ。兵法恐るべし。お主のおかげで、あの最強国ガマリ帝国に蜂を使って勝ち戦だからな。私も鼻が高い。尤もこれ以上高くなっては折角のいい男も台無しだが」
カルラヴィアンは恥ずかしげもなく自惚れる。
マユラは用意してきた袋に甲冑を納めると、ちらりと女軍師に目を流して、耳を染めた。目を合わせるつもりだったが、あらぬ処に視線が止まったからだ。
マユラの手から肌に塗るジェルの入った小瓶が、女軍師に渡った。
ちびめ、後でその目を抉り抜いてやる
マユラは器用に袋を担ぐと、将軍に深々と頭を下げて立ち去った。
「着替えは済んだか。お主の心ははあの蜂蜜小僧を憎からず思っているのだな」
「戯けたことを」
小瓶のジェルを手に取る女軍師。
「隠すな。バレバレだ。それでなァ、ケルサ。ガマリ帝国と和解するのはどうかな」
「残忍狂暴なガマリがどうやって世界強国になったか忘れたのか。王族も武人ともども皆殺しだ」
ひゅっと風を鳴らして、矢が耳を覆う黒羽を掠めた。女軍師が剣を抜く。次の矢を切り捨てた。
「誰だっ」
林の中からばらばらと自国の兵士が飛び出してきた。カルラヴィアンが間に入り、女軍師を背で庇う形になったが、剣を抜くと女軍師に向き直った。
「強運もここまでだな、ケルサ。お主の命を買おうじゃないか。ガマリ帝国への手土産だ」
猛禽族女軍師の目が赤く吊り上がる。
「将軍ともあろう者が身売りなどとは情けなや。その鼻先に目の眩むニンジンでもぶら下げられたか」
「なるほど、読みが早い」
頭を振ってカルラヴィアインが笑う。
「この女を捕らえろ。生け捕りにするのだ」
兵士たちが剣を抜いて間合いを詰める。そこへ、銀色の波が押し寄せてきた。兵士たちには見慣れた恐るべき兵器だ。
「うわっ」「ぐわわっ」「蜂だ。銀蜂だ」
「うわっ。息ができない」
兵士たちの間を羽音を響かせて飛び回る大きな蜂に刺されて、カルラヴィアンも呼吸ができない。身体が痺れる。やがて目が霞んで倒れた。
「捕らえたカルラヴィアンは軍議にかける。治療は施したか」
黒羽に覆われた顔が髭の熊族を見た。
「はい、銀蜂の毒は中和剤でなんとか。しかし、足の萎えた者となりましょう」
髭の熊族は、マユラの蜂蜜造りの師匠だ。毎晩一杯の蜂蜜入りの酒が、兵士たちの活力を支える。
『青蜜蜂は食虫花の蜜を吸う特殊な蜂だ。火を見ると興奮して、動物が恐れる火の回りを飛び回る。銀蜂は青蜜蜂の羽音に触発されて奴等を襲うだろう。青蜜蜂も、銀蜂の羽音を聞いて人間に襲いかかる。連動すれば人間に負けない武力になると最高軍師シリゾーケルサ様が仰ってくださった』
師匠は酒が入ると同じことばかり話す。シリゾーケルサの命令によって軍に属することになった師匠だったが、師匠のお供で来たマユラは蜂蜜造り以外の仕事で走り回っていた。
今日も『夕暮れに湖で悶着あれば銀蜂を放て』と言われていた。ジェルの小瓶を手渡したり、目を合わせて合図をする手筈だったが、マユラは耳たぶを真っ赤に染めて怒りを買った。
そのお仕置きがあるというので、マユラはシリゾーケルサのテントでじっと待っていた。
「今夜こそはお前の目玉をくじり抜いて酒の肴にしようではないか」
シリゾーケルサは薄絹だけの豊満な身体でマユラに迫りベッドに押し倒す。
「ひいっ」
甘い香りがマユラを包んだ。銀蜂ジェルとシリゾーケルサの体臭が混ざった花園のワインのような香り。
「ちび。私と地上世界へ行こう」
「そんな夢のような……」
シリゾーケルサがマユラの顔を覗く。
「夢か。私は好き好んで軍師になったのではない。平和な世界に憧れて、この国にも平和をもたらしたいと望んだのだ。それには私の両親を刃に掛けた残忍帝国ガマリを倒す必要があった」
「復讐ですか」
マユラは震えながら尋ねた。
「それもある。しかし、戦によって平和をもたらす等と、ふふ、それが間違いだったのだ。剣を持つ者は剣によって死ぬと書かれているそうではないか。先ずはあの聖なる古文書を学びに地上世界へ行けば良かったのだ」
「軍師様、何故私のような者と……」
マユラの胸はときめいて、顔が燃えるように熱い。マユラの口をシリゾーケルサの手が塞ぐ。
「ああっ……酔いそう……」
マユラの耳元でシリゾーケルサが囁いた。
「黙れ、誰かいるぞ」
凡そその場に似つかわしくない色気のない声に、マユラの膨らみは縮み上がった。
「お前は逃げろ。そこの剣を私によこせ」
マユラは枕の下から覗く剣をシリゾーケルサに渡した。
「銀蜂を……」
「最早間に合わぬ……行けっ」
マユラは飛び退いた。一目散にテントの裾に身体を潜り込ませる。
「ちびめ。目の玉くり抜かれずに済んだな」
女軍師の唇の片端がつり上がった。ひゅっひゅっと火矢が放たれて、テントが火に包まれる。シリゾーケルサがテントを切り裂き、出てくる処に火矢が飛んだ。
「シリゾーケルサ。女軍師にしてはなかなか上玉だが、ガマリ帝国に多くの血を流させた戦犯だ。その才能すら惜しみ見ることはない。従わなければ殺すのみ」
「おのれ、売国奴。まだ言うか」
「討て。火矢を射ろ。生かしておくな」
マユラが藪の中から見たシリゾーケルサの姿は、火の矢を剣で叩き落としながらも遂に赤い火に包まれて踊り崩れる姿だった。
「銀蜂を放て。青蜜蜂も放て。火を見ると攻撃するのじゃ」
師匠の声がした。
マユラは師匠の蜂箱の蓋を開けに走った。無数の青い蜂と大きな銀色の蜂がふわりと箱の上に浮き上がり、火の燃え盛る方向へ向きを変えた。
青い蜂は波のように、銀蜂は剣のように光りながら一直線に火の周りにいる兵士向かった。次々と上がる叫び声。
騒ぎに起き出した兵士たちが、二次災害を恐れて遠巻きに囲むなか、テントも崩れ落ち、蜂に襲われた謀反軍も倒れ将軍も死んだ。
「マユラ、銀蜂のジェルは塗ったか」
戦場から日常に戻ったマユラは、毎日蜜蜂の世話に明け暮れた。今日はプリマリナの木の花蜜を集める。
「塗りました。ジェルは銀蜂の子供の匂いなんですよね」
「そうだ。だから攻撃しない。銀蜂には内緒だぞ」
マユラはシリゾーケルサに押し倒された時の、銀蜂ジェルの甘い匂いを思い出す。その香りは女軍師の体臭と相まって、二度と嗅ぐことのできない幻の花のように芳しい、至上の記憶となった。
終わり
湖の淵に脱ぎ散らかした衣を片手で拾い歩き、小さな布で肌の一部を隠しただけのシリゾーケルサは、甲冑の前で仁王立ちになった。
「誰か、ああ、マユラはおらぬか」
あのちびめ、怖じ気づいて逃げたか
「お呼びですか。軍師様……」
「呼んだ。お前、この甲冑を持ってこい」
ちびめ、私の姿に目を反らす
赤目猛禽族のシリゾーケルサは決して成りの大きな方ではないが、白小人族のマユラを見下ろすだけの丈はある。
すらりと伸びた肢体の上の、黒羽に覆われた目付きの鋭い顔が、何かに気づく。木々と茂みの間から一人の将軍が姿を現した。
「水浴びは終わったか、ケルサ」
金の鬣を綺麗に纏めた獸王族の出の将軍カルラヴィアン、三代続く将軍家の一番の猛将として、近隣三国に名を馳せている。
カルラヴィアンはにっこり微笑みかけてシリゾーケルサの姿に思わず後ろ向きになる。
「早く着ろ」
この男は、勇猛果敢な獸王族や熊族を束ねる器でありながら、どこかで水漏れしているかの如くのフェミニストぶりをみせる。
渋々といった体で薄絹を纏い始めるケルサの横で、マユラは甲冑と格闘している。
ちびめ、お前には一度では持てないだろう
「剣は置いておけ」
「おいおいケルサ。ここは安全な場所だ。兵法恐るべし。お主のおかげで、あの最強国ガマリ帝国に蜂を使って勝ち戦だからな。私も鼻が高い。尤もこれ以上高くなっては折角のいい男も台無しだが」
カルラヴィアンは恥ずかしげもなく自惚れる。
マユラは用意してきた袋に甲冑を納めると、ちらりと女軍師に目を流して、耳を染めた。目を合わせるつもりだったが、あらぬ処に視線が止まったからだ。
マユラの手から肌に塗るジェルの入った小瓶が、女軍師に渡った。
ちびめ、後でその目を抉り抜いてやる
マユラは器用に袋を担ぐと、将軍に深々と頭を下げて立ち去った。
「着替えは済んだか。お主の心ははあの蜂蜜小僧を憎からず思っているのだな」
「戯けたことを」
小瓶のジェルを手に取る女軍師。
「隠すな。バレバレだ。それでなァ、ケルサ。ガマリ帝国と和解するのはどうかな」
「残忍狂暴なガマリがどうやって世界強国になったか忘れたのか。王族も武人ともども皆殺しだ」
ひゅっと風を鳴らして、矢が耳を覆う黒羽を掠めた。女軍師が剣を抜く。次の矢を切り捨てた。
「誰だっ」
林の中からばらばらと自国の兵士が飛び出してきた。カルラヴィアンが間に入り、女軍師を背で庇う形になったが、剣を抜くと女軍師に向き直った。
「強運もここまでだな、ケルサ。お主の命を買おうじゃないか。ガマリ帝国への手土産だ」
猛禽族女軍師の目が赤く吊り上がる。
「将軍ともあろう者が身売りなどとは情けなや。その鼻先に目の眩むニンジンでもぶら下げられたか」
「なるほど、読みが早い」
頭を振ってカルラヴィアインが笑う。
「この女を捕らえろ。生け捕りにするのだ」
兵士たちが剣を抜いて間合いを詰める。そこへ、銀色の波が押し寄せてきた。兵士たちには見慣れた恐るべき兵器だ。
「うわっ」「ぐわわっ」「蜂だ。銀蜂だ」
「うわっ。息ができない」
兵士たちの間を羽音を響かせて飛び回る大きな蜂に刺されて、カルラヴィアンも呼吸ができない。身体が痺れる。やがて目が霞んで倒れた。
「捕らえたカルラヴィアンは軍議にかける。治療は施したか」
黒羽に覆われた顔が髭の熊族を見た。
「はい、銀蜂の毒は中和剤でなんとか。しかし、足の萎えた者となりましょう」
髭の熊族は、マユラの蜂蜜造りの師匠だ。毎晩一杯の蜂蜜入りの酒が、兵士たちの活力を支える。
『青蜜蜂は食虫花の蜜を吸う特殊な蜂だ。火を見ると興奮して、動物が恐れる火の回りを飛び回る。銀蜂は青蜜蜂の羽音に触発されて奴等を襲うだろう。青蜜蜂も、銀蜂の羽音を聞いて人間に襲いかかる。連動すれば人間に負けない武力になると最高軍師シリゾーケルサ様が仰ってくださった』
師匠は酒が入ると同じことばかり話す。シリゾーケルサの命令によって軍に属することになった師匠だったが、師匠のお供で来たマユラは蜂蜜造り以外の仕事で走り回っていた。
今日も『夕暮れに湖で悶着あれば銀蜂を放て』と言われていた。ジェルの小瓶を手渡したり、目を合わせて合図をする手筈だったが、マユラは耳たぶを真っ赤に染めて怒りを買った。
そのお仕置きがあるというので、マユラはシリゾーケルサのテントでじっと待っていた。
「今夜こそはお前の目玉をくじり抜いて酒の肴にしようではないか」
シリゾーケルサは薄絹だけの豊満な身体でマユラに迫りベッドに押し倒す。
「ひいっ」
甘い香りがマユラを包んだ。銀蜂ジェルとシリゾーケルサの体臭が混ざった花園のワインのような香り。
「ちび。私と地上世界へ行こう」
「そんな夢のような……」
シリゾーケルサがマユラの顔を覗く。
「夢か。私は好き好んで軍師になったのではない。平和な世界に憧れて、この国にも平和をもたらしたいと望んだのだ。それには私の両親を刃に掛けた残忍帝国ガマリを倒す必要があった」
「復讐ですか」
マユラは震えながら尋ねた。
「それもある。しかし、戦によって平和をもたらす等と、ふふ、それが間違いだったのだ。剣を持つ者は剣によって死ぬと書かれているそうではないか。先ずはあの聖なる古文書を学びに地上世界へ行けば良かったのだ」
「軍師様、何故私のような者と……」
マユラの胸はときめいて、顔が燃えるように熱い。マユラの口をシリゾーケルサの手が塞ぐ。
「ああっ……酔いそう……」
マユラの耳元でシリゾーケルサが囁いた。
「黙れ、誰かいるぞ」
凡そその場に似つかわしくない色気のない声に、マユラの膨らみは縮み上がった。
「お前は逃げろ。そこの剣を私によこせ」
マユラは枕の下から覗く剣をシリゾーケルサに渡した。
「銀蜂を……」
「最早間に合わぬ……行けっ」
マユラは飛び退いた。一目散にテントの裾に身体を潜り込ませる。
「ちびめ。目の玉くり抜かれずに済んだな」
女軍師の唇の片端がつり上がった。ひゅっひゅっと火矢が放たれて、テントが火に包まれる。シリゾーケルサがテントを切り裂き、出てくる処に火矢が飛んだ。
「シリゾーケルサ。女軍師にしてはなかなか上玉だが、ガマリ帝国に多くの血を流させた戦犯だ。その才能すら惜しみ見ることはない。従わなければ殺すのみ」
「おのれ、売国奴。まだ言うか」
「討て。火矢を射ろ。生かしておくな」
マユラが藪の中から見たシリゾーケルサの姿は、火の矢を剣で叩き落としながらも遂に赤い火に包まれて踊り崩れる姿だった。
「銀蜂を放て。青蜜蜂も放て。火を見ると攻撃するのじゃ」
師匠の声がした。
マユラは師匠の蜂箱の蓋を開けに走った。無数の青い蜂と大きな銀色の蜂がふわりと箱の上に浮き上がり、火の燃え盛る方向へ向きを変えた。
青い蜂は波のように、銀蜂は剣のように光りながら一直線に火の周りにいる兵士向かった。次々と上がる叫び声。
騒ぎに起き出した兵士たちが、二次災害を恐れて遠巻きに囲むなか、テントも崩れ落ち、蜂に襲われた謀反軍も倒れ将軍も死んだ。
「マユラ、銀蜂のジェルは塗ったか」
戦場から日常に戻ったマユラは、毎日蜜蜂の世話に明け暮れた。今日はプリマリナの木の花蜜を集める。
「塗りました。ジェルは銀蜂の子供の匂いなんですよね」
「そうだ。だから攻撃しない。銀蜂には内緒だぞ」
マユラはシリゾーケルサに押し倒された時の、銀蜂ジェルの甘い匂いを思い出す。その香りは女軍師の体臭と相まって、二度と嗅ぐことのできない幻の花のように芳しい、至上の記憶となった。
終わり
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