5 / 5
生死の境の国
しおりを挟むアナンダは寝食を忘れて糸作りに没頭した。薄手の絹の刺繍は慣れているが、そのスカーフは今まで見たこともない細い糸で、透けるように緩く織られていた。
スカーフの刺繍は、表裏がわからないように刺す。
しかし、手持ちの糸の太さでは、針で刺した部分の布地が縒れたり、刺繍だけが膨らんで分的に重くなってしまう。
糸の撚りをほどいて一本にし、切れない程度に更に細く細く、指先の感覚で真っ直ぐな、でこぼこの無い状態に形成し直して、両面使いのスカーフ専用の細い針で正確にステッチする。
ザカリアンローゼに白糸十二色、剣は金銀青緑と藤色の合わせて二十色の糸を形成し直した。
神に祈りながら、神の目を意識しながら、神には遠く及ばずとも自分でなせる最高の芸術を残したいと願う。
薔薇と剣のスカーフが完成する頃には、目の下に青黒いクマができた。衣服にゆとりを感じ、布靴もスポンと抜ける。
バルバーさんに襲われたら命はない
大きく振りかぶらずに斬りつけてくる
あの太刀筋に殺気はない
ただ一陣の風のように剣が閃く
何の前触れもなく
ルーベンの首が飛んだあの時
驚いて仰け反った鼻先を
針で描く線のように細く過った鋭い風
瞬きをしてみよう
一度だけの瞬き
そうだ
その一瞬にルーベンは死んだ
予想できたか……
微笑んで、俺について来いと言って
何の警戒心も抱かせず先を行く
飄々としたバルバーさんの背中
それからの瞬きの刹那
……無理だ
本当ならあのとき殺されていた
バルバーさんが
妙な気を起こしさえしなければ
僕は今、此処にはいない
死神はとうとう僕を捕まえるんだ
僕の前にあなたを寄越して
僕を連れて行くつもりなんだね
死の闇の中に
バルバーさん、その闇には
あんなにあなたに会いたがっていた
薔薇と剣の刺青の恋人がいる
捨てたはずではなかったの
死なれてから後悔したんだね
あなたは完成したスカーフを
受け取りに来るのでしょう
アナンダは出来上がった刺繍を工房の主に見てもらった。
「おお、この絹は特別に細い糸で織られているのに、アナンダは刺繍を糸から形成したのか。見事な出来映えだ」
主の笑顔にアナンダもほっと緊張が解ける。
工房のメンバーが仕事の手を止めて集まってきた。糸のよりを解して一本使いにすることはままあるが、その一本を細く形成し直すことはなかったから、驚異の目で称賛する。
子供のいない主は、アナンダを跡取りにとの心積もりを確かなものにした。
全ての色を識別できる。
そんなクリアな脳を楽しむつもりで、アナンダは枯れ葉の森をさ迷った。
様々な色が宴を催す秋の昼下がりに、斜めになっていく優しい陽の中でアナンダは衣服を脱ぐ。
近くに名も知らぬ小川がある。ピグ川に連なる川だ。川は流れて王都に辿りデルタン川になる。
わざとゆっくり裸になる。乾燥した冷たい空気に光を跳ね返すアナンダの肌の白さが眩しい。
結わえた髪をほどき、その髪を手櫛ですく。
人の気配がずっとついてきたのはわかっていた。枯れ葉は歩く度に音を立てるものだ。
「冷えすぎると動けなくなるぞ」
大木の影からバルバーが姿を現す。黒いミンクのマントは、十万色の秋の饗宴を描く画家の創意か、顕かになった不治の痼としてアナンダの前に存在する。
「バルバーさん……」
「甘い声色を使うな。もうその手には乗らない」
「今日が、僕の最後の日になるのですね」
アナンダは、斬られた左腕の傷を向けた。長い傷痕は赤く痛々しい。アナンダでさえ口づけしたくなるほどに目を惹きつける。
「死にたくないと言うのか」
バルバーが剣を抜いた。
アナンダは、バルバーの飄々とした雰囲気が消えたことに驚いた。剣の切っ先に似た冷たい目がアナンダを捉える。
どのように真正面から対峙して良いのかわからない。目を伏せた。身体が震える。一歩下がって木を背にしたことに気づく。
「あ……」
甘い吐息のようなものが漏れた。
バルバーが近づく。剣がアナンダの太ももの傷に触れた。
アナンダに電流のような衝撃が走る。ルーベンの首が跳んだ夜の恐怖。何度も夢に見て震えた。あの時の剣は何だったのかと、憧れさえした。その剣が今、アナンダの身体を切っ先で撫でる。
「ずっとお前のことを考えていた。お前は私の獲物なのに、その色香に惑わされて殺せなかったことを後悔したよ」
右足首に熱い衝撃が起きた。剣でひと撫でされた足首が赤く染まり始める。
「ううう……」
「痛むか……可愛いやつ。私はお前を抱く夢を何度も見た。まるで昔からの恋人同士のように」
剣が閃く。脛を撫でるひとふりが骨を掠めた。
「ああっ……あああ……」
「いい声だ。ぞくぞくするぞ、アナンダ」
「バ、バルバーさん……ぼっ、僕もあなたの夢を……」
「嘘を吐くな。死んだと思ってほくそ笑んでいたのだろう。小癪な奴」
バルバーはアナンダの太ももに軽く剣を刺した。諸刃の剣の切っ先が身体を撫で上げる。
地面に切っ先で細かな文字の書けるザカリー兵士の特徴的な腕前は、アナンダの肌を、乳首の下まで正確に一センチの深さで細く赤い血の線をすうっと真っ直ぐ描き上げた。
アナンダは仰け反って呻く。痛みは後からやって来た。
「あああ……うう……僕も……あなたに会いたかった。ううう……できれば会わずに生きていたかった。でも、会いたかった。あああ……」
始末するためにとは言えない。言葉の合間に呻きが漏れる。日が落ちると地表は五度を切る。空が少し翳った。
「アナンダ……お前を愛しく思うよ。お前を生死の境の国に連れて行ってやろう。そこは、お前が俺を閉じ込めた国だ」
剣はアナンダの腹を刺す。
「うわあああああ……」
「はっはっは……アナンダ、お前は本当に可愛い。簡単には死なせないぞ。俺が味わった生死の境をお前も見るんだ。なぶり殺しにしてその境の国に行かせてやる……」
抜いた剣のひと振りの閃きがアナンダの胸を斜めに過る。薄く血が滲む。生死の境なら、見たことがあるような気がする。
「あああ……あ……バ、バルバーさん……ぼ、僕を……もっと可愛いがって……」
刺された痛みは網の目のように身体中に拡がってゆく。
両腕を頭の上に上げて木肌を掴み、アナンダは、無抵抗の姿勢で「ううう」と呻いていた。
バルバーの剣に隙が生じ、アナンダは涙の滲む悩ましげな目でバルバーの唇を見た。剣が投げ捨てられた。
「俺はお前に刺されてからどうしたわけか男としては使い物にならなくなった。それなのに……お前を殺すことを思い描くだけで生きる喜びを感じた。勃つことのなくなったモノが勃ちたがって痛むのだ」
アナンダの首すじにバルバーの唇が触れた刹那、アナンダはバネ仕掛けの飛びネズミのように剣に飛び付いて翻りバルバーに一閃を与えた。
バルバーは枯れ葉に足をとられてアナンダをかわせない。アナンダの剣は確実にバルバーの腹をかっ捌く。
しかし次の手は塞がれ剣を持つ手首を捻り折られた。
「ぐぁああああ……」
あああ……
兄さん、ごめん……ごめんなさい
僕は生き延びられそうにない
多くの人の命を奪って
僕の命も絶たれる
死んでゴミになるんだ
こんな僕のために
お土産を買ってくれる兄さん
大好きだよ、兄さん
お菓子がほしかった訳じゃないんだ
思い付かなかっただけなんだ
それでも、王都のお菓子を
兄さんと一緒に食べたかったな
そんなひとときが幸せなんだと
今ならわかるよ
待っていられなくてごめんね
ピノになってごめんなさい
お土産、ありがとう
兄さん……神様……
兄さんを僕にくださってありがとう
その日、その年最初の雪が降った。
「これほどの刺繍の腕前は、王都にもなかなかいないだろうよ。こんな田舎に埋もれるのは惜しい技量だ。まだ若いのだから、王都に行きたければ旅に出してやろうか」
刺繍工房の主は、アナンダの帰りを待つ。
王都のアナンダの兄は、弟の笑顔を胸に描いて、綺麗で長持ちするお菓子を沢山選ぶ。
「女の子みたいなやつで、刺繍なんかやってるんだ。きっとこういう甘くて可愛いのがほしいんだよな。ピンク色の奴とか花のような奴とか」
深い森の奥、腹を裂かれて目覚めぬ眠りに墜ちたバルバーの懐には、黒いミンクに包まれたアナンダの、首すじに接吻痕が残る傷だらけの骸が懐かれている。生と死の境の国を越えて二人は塵に帰る。
枯れ葉の絨毯に横たわる二人の上に風花のように舞い始めた雪は、黒いミンクに白く優しく、やがて全てを覆い隠すように降り積もっていく。
***********************
ご愛読有り難うございました。
上の絵と下の絵の向きが違うのは、私の気まぐれだと笑って、気にしないでくださいね。
この『ピノ 可愛いがって』は、自作品『領主殺害・天使と悪霊』のスピンオフのひとつとして書いてみたものです。一部、本編と同じ場面のページがございますが、チラリと表現を変えた部分もありますので、何処だかお分かりになった方は、知能指数の相当高い読者さんだと思います。
この小作品は、剣を持つものは剣によって滅ぶという聖書の一文をテーマのひとつとして、異常性愛に絡めて書いてみました。
イラストは、皆さんが文章から抱いたイメージと違うかもしれません。それもなるべく気にしないでください。
そして、またいつか、私の拙い小説を読んでいただけますように。
皆さんのご多幸、ご健勝を願っています。
有り難うございました。
藤森馨髏
0
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
告白ごっこ
みなみ ゆうき
BL
ある事情から極力目立たず地味にひっそりと学園生活を送っていた瑠衣(るい)。
ある日偶然に自分をターゲットに告白という名の罰ゲームが行われることを知ってしまう。それを実行することになったのは学園の人気者で同級生の昴流(すばる)。
更に1ヶ月以内に昴流が瑠衣を口説き落とし好きだと言わせることが出来るかということを新しい賭けにしようとしている事に憤りを覚えた瑠衣は一計を案じ、自分の方から先に告白をし、その直後に全てを知っていると種明かしをすることで、早々に馬鹿げたゲームに決着をつけてやろうと考える。しかし、この告白が原因で事態は瑠衣の想定とは違った方向に動きだし……。
テンプレの罰ゲーム告白ものです。
表紙イラストは、かさしま様より描いていただきました!
ムーンライトノベルズでも同時公開。
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる


