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反キリストとは

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私は何食わぬ顔で自分の書き散らしている駄文を『クリスチャン小説』などとうそぶいているが、実はクリスチャンには程遠くて、聖書を研究する人たちには「クリスチーヌ」と呼ばれている。

そんな私にも、可愛い時期はあった。

年頃の娘だったはずの私は、こっそり父親のセブンスターやらラークやらを吸ってみたことはあったし、酒も飲んでみたことはあった。何処が可愛いかというと、こっそり隠れてやってみた処が可愛いかった。父親に敬意を払っていたのだ。

私は何気にファザコンだったから、デキの良い弟と比べられてジェンダー差別に激怒して、大好きな父親には面倒くさがられていた。

それでもブラックホールほどは歪まずにこのように意外と真っ直ぐに育ったことには誰かに感謝する。

『誰かでなく神にだろう』と言う天使と『そもそも真っ直ぐに育ったと言えるのか』と嘲笑う悪魔がいるとしても、エレミヤの10章27節の聖句が傍にある。人間の歩みは本人が思うようにはいかず、紆余曲折するという意味のアレだ。どや。

女子高生だった頃のある日、女子同士で帰宅途中に、牧志の蔡温橋さいおんばしに向かう川に架かる何といったか名前を知らない裏道の橋だが、その上だった。

一期上の先輩から本を借りた。薄い哲学書で、私の脳みそでは理解不能だった。大人になってから貰った聖書関連の『ものみの塔』という冊子も、当時はエホバの証人用の研究記事があり、日本語だから字面は読めるものの主旨は理解不能だったから、似たような位置にあるものだったのだろう。

その先輩は細身でにこやかな人だった。顔は覚えていないがジャガ芋ではなかったことにする。身長はそう高い方ではなく、態度も腰の低い物柔らかなイメージだ。

この先輩だったか、またある日の夕方の与儀公園内部で「この先は行かない方が良いよ。遊びたいなら別だけど」と教えて助けてくれた男子学生がいたが、別人だったか先輩。

何でも、不良と目されるグループがたむろしていて、女の子二人連れだった私たちは独楽のようにグルグルされるということだった。

実は暇を持て余していたことと方向音痴に陥ってしまっていたことから、公園を横切るつもりでいた私たちは、少し遠回りになっても安全であるなら公園を迂回することに異存はない。

あの時、その先輩の示す出口に進まなければどうなっていたことか。物柔らかな印象の痩せた男子学生。

私は夏休みの間に読み終えた哲学書を返しに、二年生の教室を訪ねたことがある。そこには本を貸してくれた先輩の姿はなかったが、教室や校舎やグラウンドの光と影の温度差に心を動かされた。

私は生きていた。

大人も盛りを過ぎて更年期を迎え、エホバの証人の集会場所である若狭の王国会館に通いだした。

そこに、あの日の先輩にそっくりな長老がいた。柔らかな物腰の優しい話し方の若い長老は、年からいってあの公園の男子学生ではない。しかも、その長老は内地の人だ。何故思い出すのだ、

あの先輩も、何処かの王国会館に通っているかもしれない。あの時、彼の背後に天使がいたのかもしれない。無自覚だったが、人生の傷を何度も塗り重ねる必要はないのだと、その天使が助けてくれたのかもしれない。

何かが動いたのかもしれない。しれない、しれないばかりだ。

私はギター片手に自分勝手な歌を作って、色んな所でミニライブを演るようになった。酒も煙草も日常の友達で恋人と同棲した。

同棲した相手は異性だったが、私は過去百合女だったから、彼女のいた時期もあった。

時代はいつしかアメリカ支配から日本帰属を果たして、世に流されているうちに、全てが遠く過ぎ去った。過去は風のような時間だ。そして、そんな私が更年期に入ると『ゲッセマネの園でキリストが祈りを捧げた父神エホバ』を信じるようになった。

人生の紆余曲折は当たり前らしい。多くの人が迷い悩みながら歩むその歩みは、その人に属していないとエレミヤは言う。

私の歩いた道の傍らに天使がいて、私が素直に聞き入れるモードの時には、天使に従って安全な道に進むことができるのだと思う。


故意に私の人生に災いをもたらす迫害者がいるとして、天使は、み子イエスは、父神エホバは、その迫害者に何を思うだろうか。

私が頑迷になって天使の指さす先を無視する時は、天使は、み子イエスは、父神エホバは、どんな気持ちになるだろうか。

それでも天使は、父神とみ子イエスの面前で人間が其々の道を安全に進めるように、私たちの傍らにいてくれるのではないだろうか。

あの公園にいた先輩は、天使と悪魔の間で無自覚のまま自らの正しい人間性を発揮して、天使を喜ばせたのだ。

天使と悪魔が一人の少年の傍らにいる。

天使は綺麗な受けのイメージで、陽光と自然と柔らかそうな白いファーが似合う。対する悪魔は攻めのイメージで、ネオン街の灯りと鋲の付いた黒いレザーが似合う。

いかん、いかん。聖書までBLネタに使おうとしてしまう。

もし、烏滸がましくも私が反キリストだと言うのであれば、それは私の闇が問題なのだ。


ヨハネ第一の手紙 2:22
イエスがキリストであることを否定する者は、偽り者です。父とみ子を否定する者、それが反キリストです。


キリストとは、油を注がれた者という意味で、選ばれた、或いは使命を与えられた、ということになる。

イエスが油を注がれ使命を受けた立場なら、誰がイエスに使命を『与えた』立場なのか。ポイントはそこだ。父神エホバが息子イエスに油を注いで人類救済の使命を与えたのだ。

良かった。
私はまだ、危険な一線は越えていないようだ。

私は、イエスはキリストとして人類に与えられ、処女マリアから生まれることになった神のみ子だと信じている。のだから反キリストではない。

イエスが磔になったときの、父神の痛みは如何ばかりだっただろうか。

私は、私という娘がクリスチャンであることを疑わずに身罷みまかった父に、いつか楽園で再会できるだろうことを心の底から期待している。

その時は満面の笑顔で両手を広げ、父との再会を喜び合おう。

深酒も煙草も止めた。異性も同性も性的な付き合いはない。性欲自体がなくなった。不完全きわまりない人間だが、いつかはど腐れババァのBL妄想も治まっていくかもしれない。

綺麗に枯れるとはどういうことか、もう少ししたら答えが出るかもしれない。どんな状況にあっても、どんな精神にあっても、望みは開かれるのかもしれない。

しれない、しれない、かもしれない、ばかりだが『クリスチーヌ』人生はまだまだ続く。天使と悪魔の間で、記憶の中に淡く存在する彼らを慈しみながら。






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