時雨太夫(通常版)

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第三十一話

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 時雨しぐれは、賊の後を追っていた。相手は見えない。
 しかし臭いで分かる。強烈な臭水くそうずの臭い。賊はこの臭いを発していることに全く気づいていないようだ。
暫く走ると、武家屋敷の集まる地域に出ていた。そこからは走らず、ゆっくりと歩きながら臭いを追った。
 刀は持っているが、問いただされることはまずないはずだ。
それは時雨しぐれが来た方角を見れば分かる。吉原よしわら付近の空は煌々とした光りに包まれていた。武家屋敷からも何人かの中間ちゅうげんが様子を見に外へ出ている。その間を臭いを辿りながら進んでゆく。そしてその臭いはある屋敷の中へ消えていた。

「ふ、ん。松風まつかぜ家か」

 時雨しぐれはぽそりと呟いた。

 松風まつかぜ家。
 この家は二万石という小家だ。唐津からつ家と平戸ひらど家の間に位置している。海と山はあるが平地が少なく石高が低い。
 しかし、財政は他の家より裕福だ。漁業と林業でかなりの利益を上げている。そしてもう一つは平戸ひらどにあるオランダ商館とイギリス商館との取引だ。
 基本的に平戸ひらどの中にある2つの商館は、平戸ひらど家だけではなく、となりの松風まつかぜ家にも手を伸ばしていた。焼き物や陶器を手に入れるためだ。
 肥前には数々の陶器の製造元がある。
しかし、値が張る。
 そこで肥前の希少品ではなく、質はほとんど変わらず、安価な松風まつかぜ家の焼き物や陶器を仕入れていた。当然、松風まつかぜ家も対価として様々な物を手に入れていた。しかしそれは抜け荷の一歩手前だった。

 時雨しぐれ松風まつかぜ家の上屋敷かみやしきに忍び込んだ。見張りはほとんどいない。
先程の賊達も見当たらなかった。
 時雨しぐれは気配を消しながら屋敷内を探索する。屋敷の中で数カ所、かなりの手練れがいる場所があった。重臣などの警護だろう。
 時雨は取りあえずそのような場所は避け、屋敷の庭を頭の中に入れていった。小家だが一応大名なので屋敷は広い。土蔵などもある。
 その土蔵のなかで1つだけ明かりが灯ったものがあった。
 時雨しぐれはそこに危険な気配がないことを確認し、近づいて行く。そして土蔵の鍵を斬り落とし、ゆっくりと中に入っていった。
 土蔵の中は蝋燭で火が灯され、煌々こうこうとしている。二階には火は灯っていない。時雨しぐれが消し忘れか……と思い引き返そうとしたとき、その声は聞こえた。

 どこからか女の喘ぎ声と複数の男達の声が聞こえてくる。
時雨しぐれは耳を澄まし、声の出所を探った。蝋燭の火を半分消すと、床の一部から明かりが漏れていた。その場所へ行き入り口を探す。
 仕掛けはすぐに見つかった。どうやら少し押し込み、離すと床が軽く跳ね上がるように出来ていた。
時雨しぐれは入り口を完全には閉めず地下へと降りていった。

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 女の影が女の声とともに揺れ動く。部屋の奥に映る影は四つだ。女らしき影が前後から男達に責められていた。
もう一つの影は身動きをせずに立っていた。
 時雨しぐれは足音をさせずにゆっくりと近づいて行った。そこでは影に映ったとおりの光景が繰り広げられていた。

「おい、先生。女の反応が鈍くなった。また例の物をくれ」

 男の声に、背を向けていた男が振り向き、近づいてきた。手に筒のような物を持っている。影から現れた者の顔は時雨しぐれの見知った顔だった。

(と、東雲とううん先生……)

 時雨しぐれは思わず声を上げかけたが唇を噛んでぐっとこらえた。

 東雲とううんはあまりにも変わり果てていた。
頬は痩け、目の下には隈ができている。あれだけ逞しかった身体はやせ細り、筒を持った手はふるふると震えていた。東雲とううんは筒を持って女の顔の方へ近づいて行った。

 女の髪を掴み、後ろへ引っ張る。女の顔は上を向き口が開いた状態になった。そこへ筒の中の者を流し込む。赤い液体だ。しかも時雨しぐれ東雲とううんの持っている筒に見覚えがあった。それは東風こちの部屋で見つけた物とそっくりであった。
女が赤い液体をこぼしながら飲み込んでゆく。
もう一本筒を持ってきた。
今度はもう片手に針を持っている。そして針を筒の中の赤い液体に浸し、女の身体に刺し始めた。それは氷雨ひさめが刺されていたのと全く同じ場所だ。

時雨しぐれは冷静な自分を取り戻すまでしばらくの時間を要した。
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