時雨太夫(通常版)

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第三十九話

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かん・かん・かん 
かん・かん・かん
かん・かん・かん

 半鐘はんしょうの音が響き始める。ばたばたと廊下を走る音が近づいてきた。

「失礼つかまつります」

 家臣の一人が走り込んできた。
岡崎に一礼するとすぐに真之介しんのすけに耳打ちをする。真之介しんのすけの表情が険しくなった。その様子を岡崎が黙ってみていた。

「岡崎殿、直ぐに松風まつかぜ下屋敷しもやしきへ行かれた方が宜しいかと」

 真之介しんのすけが口を開く。その表情が深刻さを物語っている。

「まさか。この半鐘はんしょう松風まつかぜ下屋敷しもやしきか!」

 岡崎は半身を浮かせた。真之介しんのすけが黙って頷く。
岡崎はそのまま立ち上がり、御免!といって駆け出していった。真之介はそのまま座っている。
その眼は部屋の天井付近をじっと見つめていた。

時雨しぐれ様、無茶をなさいませんように)

真之介しんのすけはただ祈り、成り行きを見守ることしか出来なかった。


■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□

 松風まつかぜ下屋敷しもやしきの火災は数カ所から当時に起こった。それは、表門、裏門を覆い隠すように燃えさかっている。
 また内部からも出火したようで、建物はすでに炎に包まれていた。中から男女の悲鳴が聞こえてくる。与騎よりきや同心と火消し達が到着したときは、すでに手が付けられない状況になっていた。

「なんか臭わねぇか?」

 町火消しの一人が鼻をひくひくとさせている。他の者達も同じような仕草をした。鼻につく異臭が漂っている。
それは誰もがここ一~二ヶ月で嗅いだ臭いだった。

「また臭水くそうずか?」

 誰ともなく声を上げる。松風まつかぜ下屋敷しもやしきを取り囲んでいる火消し達はすでに消すことを諦めていた。
ただ、延焼するのを防ぐ布陣を敷いている。暫くすると風下の方から騒ぎ声が聞こえ始めた。

「おぃ、医者を呼べーーーー!」

 風下にいた火消し達が数名の同心や火消しを担いでくる。担がれてきた者達は様子がおかしかった。目を剥いている者、泡を吹いている者、とろんとした眼になっている者、喚いている者、震えている者様々だ。
 岡崎が騎馬で駆けつけた時にはすでに三十を越える者達がおかしくなっていた。

(えぇいっ、あの薬に火が付いたか)

 岡崎は直ぐに他の与騎よりきと火消しの長を集めた。

「あの煙は危険だ。風下の住民を全員避難させよ。
大名屋敷も踏み込んでかまわん。苦情は大目付おおめつけ様が受けると伝えろ!」

 与騎よりきと火消しの長達は一瞬躊躇したが、今の惨状を目の当たりにしていたせいか直ぐに分担を決め始めた。
 与騎よりき達は二人一組で大名屋敷、火消し達は三人一組で町人達を避難させることになった。
岡崎は一人の与騎よりきと話をしていた。
話を聞き終えた与騎よりきはすぐに騎馬を駆り、江戸市中へ走ってゆく。
 岡崎はすぐに残った同心と火消し達の再配置を指示し始めた。その間にも火勢はどんどん強くなって行く。

(ちっ、証拠を消したな)

 岡崎がその場にいる全員に様々な指示を出していると、江戸市中から応援が駆けつけた。
先頭には大目付おおめつけと北町奉行がいた。岡崎はすぐに二人の元へ駆け寄った。

「申し訳ございません、このような事になるとは」

 岡崎は頭を下げていた。実際、岡崎の失態ではないが松風まつかぜ下屋敷しもやしきを見張りきらなかったことを当事者として悔やんでいた。
それを見た大目付おおめつけが声を掛ける。

「それは後回しじゃ。それより被害が酷いと聞く。
大名屋敷は与騎よりきでは動かん者も多いじゃろう。そっちは儂が直々に説得に当たろう。ここは北町奉行と共に二人で指揮せよ。これ以上の延焼だけは絶対に防げ!」

 大目付おおめつけはそこまで言って配下を数人引き連れて駆け出そうとする。それを岡崎が呼び止めた。

「絶対に煙を吸わぬよう、お願いいたします。
あれは最悪です」

 岡崎の目と声に大目付おおめつけは黙って頷き、騎馬を走らせた。横には北町奉行が立っている。

「おぅ、岡崎。何でも言え。儂は今からお主の指揮下に入る。存分に働かせい」

 北町奉行の言葉に岡崎は奮い立った。とにかく延焼を防ぐために近くの木を切り、人を避難させ、風の向きに気を配った。

そして一刻後、ようやく火事は鎮火することとなった。
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