10 / 32
府中の宿
拾
しおりを挟む
小吉に江戸へ行くよう説得しようとして見事に失敗してから十日が立った。時雨は小吉に苛烈ともいえる修行を付けながら、狐面、お美津の行方と情報を集めていた。
あれ以来狐面は現れず、道場破りも収まった。しかし駿府城襲撃の余波は収まらず、府中の城下は厳戒態勢の中にあった。
「ねぇ、時雨姉。府中にはいつまでいるの?」
昼餉の時間になり、朝の鍛錬を終えた小吉が通りを眺めていた時雨に声をかけた。時雨は気怠そうに小吉に視線を移す。時雨の目に生気は無い。どこか疲れと憂いを漂わせている。
「小吉……、お腹減った……」
時雨の言葉に小吉の太刀を握った手がぷるぷると震えていた。
「……姉、斬る……」
小吉の握る鞘から一瞬で刀身が躍り出た。光を反射する切っ先は時雨の胸元から顎にかけてを的確に捉えている。しかしその切っ先が時雨に喰い込むことは無い。
「まだまだ……だねぇ。殺気出し過ぎ……」
いつの間に間合いを潰されたのか、時雨の手が小吉の喉を掴んでいる。顔は小吉の目の前、鼻の頭同士が当たるか当たらないかのぎりぎりの線だ。突然小吉の口が生暖かい物に塞がれた。時雨の唇が小吉の口を塞ぎ、目の前には時雨の美しい眼が開いている。
小吉はじたばたと暴れて離れようとするが何故か吸い付いたように動かない。仕方なしに抵抗を止め力を抜いた瞬間、時雨はずるずると真下に落ちた。
俯せに力なく横たわる時雨の手は小吉の裾を掴んでいる。ゆっくりと時雨の顔が持ち上がり、細い切れ目がじっと小吉を見つめていた。先程まで小吉の口を塞いでいた細い唇がゆっくりと開いた。
「……小吉、昼餉……まだ?」
小吉はかくりと頭を垂れ時雨と目を合わせる。何とも形容しがたい生暖かい視線を時雨に向けた。
「はぁ。昼餉ね。宿に頼んでくるよ。どうせ甘い物もいるんでしょ」
抜いた太刀を鞘に仕舞い、時雨の掴んでいる裾を振り払ってから小吉は襖を開ける。そのまま廊下に出ようとすると時雨から声がかかった。
「み、みたらし団子……二十本……と安倍川餅五個も……」
小吉は小さく溜息をつくと時雨の顔を一瞥して二階から一階へと降りていった。
■□■□■□■□
昼餉を食べ終わり、小吉は午後の稽古を始め時雨はその様子をじっと眺めていた。時折声をかけ、腰の位置や腕の位置、視線の場所を修正する。
「小吉、相手を捕らえているはずの視線の位置と切っ先が遠すぎるよ。それじゃああんたは死ぬ」
最近時雨は厳しい言い方をするようになった。最初は手取足取り教えていたがこの二、三日は殆ど触れてくることは無い。たまに指示を飛ばす程度だ。それでも小吉は言われたとおりに修正し、二度同じ注意を受けることは無くなっていた。
同時に小吉にも変化は訪れていた。小吉は目の前に相手がいることを想定し動いている。自分がこの数日間で何百回斬られたか、既に数えることは出来なくなっていた。相手としているのは小田原で最初に小吉が突き殺した侍だ。小吉は日毎に鍛錬を積んでゆくだけ殺されていた。自分が殺したはずの相手にだ。
「時雨姉、俺、弱くなってる?」
小吉は太刀を鞘に収め時雨に向き直った。額には汗が噴き出し、呼吸も荒い。時雨の整った顔をじっと見つめ返事を待つ。
時雨は暫く黙って小吉を見つめ、溜息をついた。
「ねぇ小吉。強いって何をもって強いと思う? 弱いって何をもって弱いと思う?」
突然の時雨の答えに小吉は何も答えない。正直このような問答みたいな返事が返ってくるとは思っていなかったからだ。
「…………」
小吉が黙っているのを見て時雨はもう一度溜息をついた。
「小吉、今日の鍛錬はこれで終わりで良いよ。今から私が言ったことを少し考えてごらん」
時雨はそれだけ言うと近くに置いてあった団子にかぶりつく。小吉は太刀を腰から外すと部屋の隅に畳んである蒲団に寄りかかり天井を見つめた。
(? 強いのは誰にでも勝てる? 弱いのは負ける? でも誰にでもではない? 強いって? 弱いって? なんだろう? 剣術の腕? でもそれじゃあ小田原で殺されていたはず……)
小吉は混乱していた。時雨は強いことは分かっている。ここで出会った二階堂龍之介も強い。小田原で助けて貰った侍もたぶん強い。そして自分が殺した侍の顔が目に浮かぶ。自分はあの時死を覚悟した。刀を渡され、ただただ不気味な笑いを浮かべて近づいてくる侍に刀を突き出していただけだ。突然硬く柔らかい感触が襲い、そのまま刀は侍の身体に吸い込まれていった。自分が刺し込んだわけではなく[何故?]という表情の侍が覆い被さってきただけだ。
(じゃあ強さとか弱さってなんだろう。単純な剣術の上手さ? ではないなぁ。そもそも俺の剣術の腕なんて全くなかったから弱い以前だよな。あの時考えていたことは……)
時雨は蒲団に寄りかかり天井を見つめている小吉をじっと眺めていた。自分の弱さを自覚する。それは剣術の腕では無い。生き延びたいと思い続けること。それを素直に認めることができ、外側から自分を見つめて貪欲に生にしがみつく。人に頼ってでもだ。それが出来れば人はさらに伸びることができ、ありとあらゆるもので成長できる。時雨の想う強さや弱さとはそのようなものだ。
小吉を連れて行くと決めたときの情景が浮かぶ。危うい不安定な存在。時雨と寄騎の岡崎は小吉を始末せず、見守り、生きさせる道を選択した。それがどうなるかは二人にも予測は出来ていなかった。それでも時雨は昔の自分を重ね合わせ、生かすことが出来ると考えている。小吉が生き延びることを望めば……。
自分は江戸へ下る旅の途中で様々な人と出会い、吉原でも様々な人と出会った。そして自分の心が弱いと思った。それでも制御が効かなくなるときはある。自分は強いと思い続けていた。生きるために。
あるとき熊に襲われた。戦い、追い詰められ自分が死ぬことを覚悟したとき、その武芸者が現れ一言。
「助けは必要か?」
自分は断った。もうどうでもよかった。千を超える人を斬り、百の数以上の武士も斬った。それが唯の一匹の熊に命を奪われそうになっている。刀の腕だけで生き抜いてきた自分がだ。疲れ果てた身体に再度力を込め、熊に立ち向かう。死んでも良い。そう想い戦ったが途中で涙が溢れてきた。そして泣いた。泣きながら声を上げた。死にたくない。何故かそう想った。
「助けて……」
自分は初めて涙を流してその武芸者に助けを求めた。死ぬことを気にしていなかった自分がだ。自分も驚いた。
生きたいと想うゆえの懇願。
黙って頷いたその武芸者は只の一振りで熊を仕留めた。その時助けてくれた武芸者は言った。
「自分の弱さを認める。そして生きたいと想う。人は弱い生き物だ。一人で生きていくことには限界がある。誰かに頼る事も必要だ。その時は全力で頼ればよい。生きることを望むのなら誰かが助けてくれる」
そして自分はその武芸者に付き剣術を習った。時任家で見ていた剣術とは全く異なる術だった。武芸者は惜しげもなく自らの術を教えてくれた。見返りに何も求めては来なかった。金も身体も。時雨はある時武芸者に聞いてみた。何故見返りも無く教えてくれるのか?
武芸者の答えは素っ気ないものだった。
「頼ってきてくれたからだ。生きたいと望んだから。それに君はまだ自分の弱さを自覚できていない。それを教えるのも年長者の務めだ」
それだけの言葉。時雨が唯一の剣術の師を見つけた時だった。
江戸に着き師と別れた後、自分に変化が訪れる。師は一緒に来ても良いと言ってくれたが何故か断った。その時急に寂しく、苦しく、孤独を覚えた。僅か十五で国を追われ一人で何事も考えること無く旅をしてきたはずなのに……。
そして国を出て二度目の涙。熊と戦い、生を望んだときの絶望の涙では無い。何かが無くなった。それが分からない涙。
暫く江戸の町を彷徨い、物を乞うていた時拾ってくれたのが喜瀬屋の勘左衛門だった。吉原で下働きとして雇い入れてくれた。その時人の心の暖かみを思い出した。国元でも姫として暖かく接してくれた人々。父上や母上(鬼)。腰元達。側に使えてくれていた桂真之介。領民達。その時に師の言葉を思い出した。
【人は弱い生き物だ。一人で生きていくことには限界がある。誰かに頼る事も必要だ。】
そして自分は今の自分になった。それを小吉に伝えることが出来たら……。
時雨は自らの過去に少しだけ浸っていた。
■□■□■□■□
(分からない。強い? 弱い? 力? 経験? 全てが弱い? じゃあ、どうする? 時雨姉を殺さないと生きることが出来ない? 勝てない。弱い。強すぎる? ……考えていない。勝つ方法を。生き残る方法を。 弱い自分がどうやったら生き延びられるのか。 どうやったら触れる事が出来るのか? どうやったら死なずに済むのか。 考えろ、考えろ、考えろ……)
ふと、小吉が立ち上がった。澱みの無い動きに時雨は眼を見張る。
(うん? 生き延びるすべを見つけたかな? それでもまだ迷っているかな? まだ一人だけで生き延びようとしている。 もう少し……かな? ただ何か違和感が……)
「時雨姉、受けて」
小吉は太刀を腰に佩きゆっくりと時雨と距離を取った。時雨もゆっくりと立ち上がり腰に太刀を佩く。
部屋の中に四筋の光の軌道と一つの光が発生した。小吉の左の首筋に白刃が喰い込んでいる。そして時雨の白い首筋にも白刃が喰い込んでいた。
小吉の額から大量の汗が吹き出し、頬や鼻筋を伝い畳に落ちる。刃紋を、赤黒い液体がゆっくりと伝い柄の方へと流れてゆく。同時に時雨の白い首筋からも赤い液体が流れ出した。
二人は眼を合わせ続ける。通りの喧噪は二人の耳には届かない。ただただ静寂の時が流れるだけだ。開け放たれた窓から一陣の冷たい風が吹き込んできた。同時にゆっくりと二人の首筋から白刃は離れてゆく。
時雨はだらりと太刀を下げ、小吉はゆっくりと畳の上に膝を突いた。
「小吉―――
「狐だ―――! 狐が出たぞ―――!」
時雨が小吉に話しかけようとしたその時、外から大声が上がる。呼び子が鳴り、時雨が待ち望んでいた存在の出現を告げた。時雨はすぐに太刀を納刀し、腰に佩く。そして左手にもう一振りの太刀を握りしめた。
「小吉、疲れただろ。少し休んでな!」
畳の上に膝を突いていた小吉は何か言葉を出そうとしたが口が動くだけだった。それだけ時雨との一刀での消耗は激しかった。
時雨は小吉の横を通り過ぎるときに頭を軽く撫で、そのまま部屋を出て行く。小吉は振り向くことも出来ずに黙って襖が閉まる音を聞いているだけだった。
■□■□■□■□
府中の通り、城へと続く大通りは混乱を極めていた。町人達は我先にと被害に遭わないように走り、町方、同心や岡っ引き、捕り手など集まりはするが逃げ惑う町人達に阻まれ目的地へとたどり着けない。前方からは悲鳴や鳴き声が上がり、それはすぐに消え去り、新しい悲鳴が上がる。
府中の大通りに最初に陣取り、陣地を造った者達は町人達を大通りに面する大店や商家、路地へと誘導していた。
「ええぃ、早く避難させろ!」
騎乗した寄騎が大声を上げる。この場には五騎の寄騎が城から出て陣取っていた。城からの応援である足軽達が来るまで半刻。近くにいた同心や岡っ引き、町寄りにいた捕り手達は総動員されていた。
寄騎である松笠の視線の先に赤黒い血飛沫が上がる。松笠は歯噛みしながらそれを視ていた。
「松笠様、動かれないのですか!」
松笠配下の同心が声をかける。松笠はちらりと声をかけた同心に視線を送り、すぐに前を見据えた。
「ここから先には通せん! 動けんのだ」
松笠達が最初に築いた防衛陣地、これはあくまでも時間稼ぎの物だ。後方の陣が整うまではこの位置を動くわけにはいかなかった。それに応援が来ないことにはこの簡易陣地にいる者達では荷が重すぎた。それは先日、狐面と相対し、生き残った松笠だからこその判断だ。
(鉄砲隊はよい。先に弓隊だけでも到着すれば……)
松笠は斬り倒されていく町人達に心の中で[すまぬ]と詫びを入れながらも視線を外さなかった。
「松笠殿、情けないではありませんか! 我ら騎馬が打って出ればすぐに片がつくではありませぬか!」
寄騎の一人が声をかける。それはまだ若い寄騎だった。他の三人も頷いている。松笠はそれを手で制した。
「奴の動きに騎馬は役にたたぬ。それに町人を巻き込むつもりか?」
松笠は五十を過ぎた年配の寄騎だ。若かりし頃には騎馬を駆り、戦場へと赴いたこともある。その経験があってこその判断だった。それでも四騎の寄騎は引き下がらなかった。
「松笠殿、年長と思い我慢したがここで行かぬは武士の名折れ、行かせていただく!」
二騎の寄騎が猛然と馬に鞭を入れ陣地の隙間から飛び出した。慌てて止めようとする松笠の前に二騎の寄騎が立ちふさがる。猛然と速度を上げ始める騎馬に近くにいた町人がはじき飛ばされた。
「戻れ―――――!」
松笠が大声で叫ぶ。二騎の騎馬が加速を始めると共に、狐面が騎馬へ向かい走り出す。走り出していた寄騎が驚き狐面を挟むように左右に分かれる。
(あ……、駄目だ)
松笠は二人の寄騎の運命を悟り少しだけ目を閉じた。狐面は向かって右の騎馬の左側をすり抜けざまに刀を水平にして馬の足の真ん中で固定する。馬が通り過ぎた瞬間、狐面は騎馬の後ろへ飛び乗り寄騎の首筋に刀を突き立てた。左側全ての足を切断された馬がぐらりと傾き速度が落ちた瞬間、狐面は併走する騎馬の左斜め後ろに飛びついた。
寄騎は対応しようと手綱を引くが既に遅く、狐面の刃は首筋に押し当てられ、そのまま引き斬られた。血飛沫が舞い、狐面の半分を朱に染める。
狐面は手綱を引かれその場に留まろうとした馬の尻を斬りつけ暴走させた。暴れる馬は、斬り殺された寄騎を引き摺りながら大通りを暴走し、呻き声を上げ倒れている町人や捕り手達を踏み潰しながら走り去った。
松笠を止めていた二人の寄騎は唖然としてそのやり取りを見ていた。
「……分かっただろう。ここは動けぬのだ。お主らは馬から降りて指揮を執れ。長物を持った捕り手を左右に同数配置せよ。その間に同心達を配置して長物持ちを護衛させろ! 来るぞ!」
松笠が言うと同時に二人の寄騎は馬を降り、左右に分かれる。簡易的に造られた陣地では左右に捕り手達と同心が分かれて狐面を迎え撃つ準備を始めていた。
(しかし……、何か? 何か変だ)
松笠は近づいてくる狐面をじっくりと馬上から観察していた。何かしらの違和感。見逃しているところが無いかをじっと探す。
「違う……、奴は、違う」
狐面が長物の間合いに入る直前、松笠は重大な違いに気がついた。すぐに大声を上げる。
「気をつけろ! こやつは先日の狐面では無い! すぐに後方の部隊に警戒させよ!」
松笠は大声を出し、刀を後方へ向ける。その時には横を向いた松笠の目の前に白い狐面が迫っていた。
あれ以来狐面は現れず、道場破りも収まった。しかし駿府城襲撃の余波は収まらず、府中の城下は厳戒態勢の中にあった。
「ねぇ、時雨姉。府中にはいつまでいるの?」
昼餉の時間になり、朝の鍛錬を終えた小吉が通りを眺めていた時雨に声をかけた。時雨は気怠そうに小吉に視線を移す。時雨の目に生気は無い。どこか疲れと憂いを漂わせている。
「小吉……、お腹減った……」
時雨の言葉に小吉の太刀を握った手がぷるぷると震えていた。
「……姉、斬る……」
小吉の握る鞘から一瞬で刀身が躍り出た。光を反射する切っ先は時雨の胸元から顎にかけてを的確に捉えている。しかしその切っ先が時雨に喰い込むことは無い。
「まだまだ……だねぇ。殺気出し過ぎ……」
いつの間に間合いを潰されたのか、時雨の手が小吉の喉を掴んでいる。顔は小吉の目の前、鼻の頭同士が当たるか当たらないかのぎりぎりの線だ。突然小吉の口が生暖かい物に塞がれた。時雨の唇が小吉の口を塞ぎ、目の前には時雨の美しい眼が開いている。
小吉はじたばたと暴れて離れようとするが何故か吸い付いたように動かない。仕方なしに抵抗を止め力を抜いた瞬間、時雨はずるずると真下に落ちた。
俯せに力なく横たわる時雨の手は小吉の裾を掴んでいる。ゆっくりと時雨の顔が持ち上がり、細い切れ目がじっと小吉を見つめていた。先程まで小吉の口を塞いでいた細い唇がゆっくりと開いた。
「……小吉、昼餉……まだ?」
小吉はかくりと頭を垂れ時雨と目を合わせる。何とも形容しがたい生暖かい視線を時雨に向けた。
「はぁ。昼餉ね。宿に頼んでくるよ。どうせ甘い物もいるんでしょ」
抜いた太刀を鞘に仕舞い、時雨の掴んでいる裾を振り払ってから小吉は襖を開ける。そのまま廊下に出ようとすると時雨から声がかかった。
「み、みたらし団子……二十本……と安倍川餅五個も……」
小吉は小さく溜息をつくと時雨の顔を一瞥して二階から一階へと降りていった。
■□■□■□■□
昼餉を食べ終わり、小吉は午後の稽古を始め時雨はその様子をじっと眺めていた。時折声をかけ、腰の位置や腕の位置、視線の場所を修正する。
「小吉、相手を捕らえているはずの視線の位置と切っ先が遠すぎるよ。それじゃああんたは死ぬ」
最近時雨は厳しい言い方をするようになった。最初は手取足取り教えていたがこの二、三日は殆ど触れてくることは無い。たまに指示を飛ばす程度だ。それでも小吉は言われたとおりに修正し、二度同じ注意を受けることは無くなっていた。
同時に小吉にも変化は訪れていた。小吉は目の前に相手がいることを想定し動いている。自分がこの数日間で何百回斬られたか、既に数えることは出来なくなっていた。相手としているのは小田原で最初に小吉が突き殺した侍だ。小吉は日毎に鍛錬を積んでゆくだけ殺されていた。自分が殺したはずの相手にだ。
「時雨姉、俺、弱くなってる?」
小吉は太刀を鞘に収め時雨に向き直った。額には汗が噴き出し、呼吸も荒い。時雨の整った顔をじっと見つめ返事を待つ。
時雨は暫く黙って小吉を見つめ、溜息をついた。
「ねぇ小吉。強いって何をもって強いと思う? 弱いって何をもって弱いと思う?」
突然の時雨の答えに小吉は何も答えない。正直このような問答みたいな返事が返ってくるとは思っていなかったからだ。
「…………」
小吉が黙っているのを見て時雨はもう一度溜息をついた。
「小吉、今日の鍛錬はこれで終わりで良いよ。今から私が言ったことを少し考えてごらん」
時雨はそれだけ言うと近くに置いてあった団子にかぶりつく。小吉は太刀を腰から外すと部屋の隅に畳んである蒲団に寄りかかり天井を見つめた。
(? 強いのは誰にでも勝てる? 弱いのは負ける? でも誰にでもではない? 強いって? 弱いって? なんだろう? 剣術の腕? でもそれじゃあ小田原で殺されていたはず……)
小吉は混乱していた。時雨は強いことは分かっている。ここで出会った二階堂龍之介も強い。小田原で助けて貰った侍もたぶん強い。そして自分が殺した侍の顔が目に浮かぶ。自分はあの時死を覚悟した。刀を渡され、ただただ不気味な笑いを浮かべて近づいてくる侍に刀を突き出していただけだ。突然硬く柔らかい感触が襲い、そのまま刀は侍の身体に吸い込まれていった。自分が刺し込んだわけではなく[何故?]という表情の侍が覆い被さってきただけだ。
(じゃあ強さとか弱さってなんだろう。単純な剣術の上手さ? ではないなぁ。そもそも俺の剣術の腕なんて全くなかったから弱い以前だよな。あの時考えていたことは……)
時雨は蒲団に寄りかかり天井を見つめている小吉をじっと眺めていた。自分の弱さを自覚する。それは剣術の腕では無い。生き延びたいと思い続けること。それを素直に認めることができ、外側から自分を見つめて貪欲に生にしがみつく。人に頼ってでもだ。それが出来れば人はさらに伸びることができ、ありとあらゆるもので成長できる。時雨の想う強さや弱さとはそのようなものだ。
小吉を連れて行くと決めたときの情景が浮かぶ。危うい不安定な存在。時雨と寄騎の岡崎は小吉を始末せず、見守り、生きさせる道を選択した。それがどうなるかは二人にも予測は出来ていなかった。それでも時雨は昔の自分を重ね合わせ、生かすことが出来ると考えている。小吉が生き延びることを望めば……。
自分は江戸へ下る旅の途中で様々な人と出会い、吉原でも様々な人と出会った。そして自分の心が弱いと思った。それでも制御が効かなくなるときはある。自分は強いと思い続けていた。生きるために。
あるとき熊に襲われた。戦い、追い詰められ自分が死ぬことを覚悟したとき、その武芸者が現れ一言。
「助けは必要か?」
自分は断った。もうどうでもよかった。千を超える人を斬り、百の数以上の武士も斬った。それが唯の一匹の熊に命を奪われそうになっている。刀の腕だけで生き抜いてきた自分がだ。疲れ果てた身体に再度力を込め、熊に立ち向かう。死んでも良い。そう想い戦ったが途中で涙が溢れてきた。そして泣いた。泣きながら声を上げた。死にたくない。何故かそう想った。
「助けて……」
自分は初めて涙を流してその武芸者に助けを求めた。死ぬことを気にしていなかった自分がだ。自分も驚いた。
生きたいと想うゆえの懇願。
黙って頷いたその武芸者は只の一振りで熊を仕留めた。その時助けてくれた武芸者は言った。
「自分の弱さを認める。そして生きたいと想う。人は弱い生き物だ。一人で生きていくことには限界がある。誰かに頼る事も必要だ。その時は全力で頼ればよい。生きることを望むのなら誰かが助けてくれる」
そして自分はその武芸者に付き剣術を習った。時任家で見ていた剣術とは全く異なる術だった。武芸者は惜しげもなく自らの術を教えてくれた。見返りに何も求めては来なかった。金も身体も。時雨はある時武芸者に聞いてみた。何故見返りも無く教えてくれるのか?
武芸者の答えは素っ気ないものだった。
「頼ってきてくれたからだ。生きたいと望んだから。それに君はまだ自分の弱さを自覚できていない。それを教えるのも年長者の務めだ」
それだけの言葉。時雨が唯一の剣術の師を見つけた時だった。
江戸に着き師と別れた後、自分に変化が訪れる。師は一緒に来ても良いと言ってくれたが何故か断った。その時急に寂しく、苦しく、孤独を覚えた。僅か十五で国を追われ一人で何事も考えること無く旅をしてきたはずなのに……。
そして国を出て二度目の涙。熊と戦い、生を望んだときの絶望の涙では無い。何かが無くなった。それが分からない涙。
暫く江戸の町を彷徨い、物を乞うていた時拾ってくれたのが喜瀬屋の勘左衛門だった。吉原で下働きとして雇い入れてくれた。その時人の心の暖かみを思い出した。国元でも姫として暖かく接してくれた人々。父上や母上(鬼)。腰元達。側に使えてくれていた桂真之介。領民達。その時に師の言葉を思い出した。
【人は弱い生き物だ。一人で生きていくことには限界がある。誰かに頼る事も必要だ。】
そして自分は今の自分になった。それを小吉に伝えることが出来たら……。
時雨は自らの過去に少しだけ浸っていた。
■□■□■□■□
(分からない。強い? 弱い? 力? 経験? 全てが弱い? じゃあ、どうする? 時雨姉を殺さないと生きることが出来ない? 勝てない。弱い。強すぎる? ……考えていない。勝つ方法を。生き残る方法を。 弱い自分がどうやったら生き延びられるのか。 どうやったら触れる事が出来るのか? どうやったら死なずに済むのか。 考えろ、考えろ、考えろ……)
ふと、小吉が立ち上がった。澱みの無い動きに時雨は眼を見張る。
(うん? 生き延びるすべを見つけたかな? それでもまだ迷っているかな? まだ一人だけで生き延びようとしている。 もう少し……かな? ただ何か違和感が……)
「時雨姉、受けて」
小吉は太刀を腰に佩きゆっくりと時雨と距離を取った。時雨もゆっくりと立ち上がり腰に太刀を佩く。
部屋の中に四筋の光の軌道と一つの光が発生した。小吉の左の首筋に白刃が喰い込んでいる。そして時雨の白い首筋にも白刃が喰い込んでいた。
小吉の額から大量の汗が吹き出し、頬や鼻筋を伝い畳に落ちる。刃紋を、赤黒い液体がゆっくりと伝い柄の方へと流れてゆく。同時に時雨の白い首筋からも赤い液体が流れ出した。
二人は眼を合わせ続ける。通りの喧噪は二人の耳には届かない。ただただ静寂の時が流れるだけだ。開け放たれた窓から一陣の冷たい風が吹き込んできた。同時にゆっくりと二人の首筋から白刃は離れてゆく。
時雨はだらりと太刀を下げ、小吉はゆっくりと畳の上に膝を突いた。
「小吉―――
「狐だ―――! 狐が出たぞ―――!」
時雨が小吉に話しかけようとしたその時、外から大声が上がる。呼び子が鳴り、時雨が待ち望んでいた存在の出現を告げた。時雨はすぐに太刀を納刀し、腰に佩く。そして左手にもう一振りの太刀を握りしめた。
「小吉、疲れただろ。少し休んでな!」
畳の上に膝を突いていた小吉は何か言葉を出そうとしたが口が動くだけだった。それだけ時雨との一刀での消耗は激しかった。
時雨は小吉の横を通り過ぎるときに頭を軽く撫で、そのまま部屋を出て行く。小吉は振り向くことも出来ずに黙って襖が閉まる音を聞いているだけだった。
■□■□■□■□
府中の通り、城へと続く大通りは混乱を極めていた。町人達は我先にと被害に遭わないように走り、町方、同心や岡っ引き、捕り手など集まりはするが逃げ惑う町人達に阻まれ目的地へとたどり着けない。前方からは悲鳴や鳴き声が上がり、それはすぐに消え去り、新しい悲鳴が上がる。
府中の大通りに最初に陣取り、陣地を造った者達は町人達を大通りに面する大店や商家、路地へと誘導していた。
「ええぃ、早く避難させろ!」
騎乗した寄騎が大声を上げる。この場には五騎の寄騎が城から出て陣取っていた。城からの応援である足軽達が来るまで半刻。近くにいた同心や岡っ引き、町寄りにいた捕り手達は総動員されていた。
寄騎である松笠の視線の先に赤黒い血飛沫が上がる。松笠は歯噛みしながらそれを視ていた。
「松笠様、動かれないのですか!」
松笠配下の同心が声をかける。松笠はちらりと声をかけた同心に視線を送り、すぐに前を見据えた。
「ここから先には通せん! 動けんのだ」
松笠達が最初に築いた防衛陣地、これはあくまでも時間稼ぎの物だ。後方の陣が整うまではこの位置を動くわけにはいかなかった。それに応援が来ないことにはこの簡易陣地にいる者達では荷が重すぎた。それは先日、狐面と相対し、生き残った松笠だからこその判断だ。
(鉄砲隊はよい。先に弓隊だけでも到着すれば……)
松笠は斬り倒されていく町人達に心の中で[すまぬ]と詫びを入れながらも視線を外さなかった。
「松笠殿、情けないではありませんか! 我ら騎馬が打って出ればすぐに片がつくではありませぬか!」
寄騎の一人が声をかける。それはまだ若い寄騎だった。他の三人も頷いている。松笠はそれを手で制した。
「奴の動きに騎馬は役にたたぬ。それに町人を巻き込むつもりか?」
松笠は五十を過ぎた年配の寄騎だ。若かりし頃には騎馬を駆り、戦場へと赴いたこともある。その経験があってこその判断だった。それでも四騎の寄騎は引き下がらなかった。
「松笠殿、年長と思い我慢したがここで行かぬは武士の名折れ、行かせていただく!」
二騎の寄騎が猛然と馬に鞭を入れ陣地の隙間から飛び出した。慌てて止めようとする松笠の前に二騎の寄騎が立ちふさがる。猛然と速度を上げ始める騎馬に近くにいた町人がはじき飛ばされた。
「戻れ―――――!」
松笠が大声で叫ぶ。二騎の騎馬が加速を始めると共に、狐面が騎馬へ向かい走り出す。走り出していた寄騎が驚き狐面を挟むように左右に分かれる。
(あ……、駄目だ)
松笠は二人の寄騎の運命を悟り少しだけ目を閉じた。狐面は向かって右の騎馬の左側をすり抜けざまに刀を水平にして馬の足の真ん中で固定する。馬が通り過ぎた瞬間、狐面は騎馬の後ろへ飛び乗り寄騎の首筋に刀を突き立てた。左側全ての足を切断された馬がぐらりと傾き速度が落ちた瞬間、狐面は併走する騎馬の左斜め後ろに飛びついた。
寄騎は対応しようと手綱を引くが既に遅く、狐面の刃は首筋に押し当てられ、そのまま引き斬られた。血飛沫が舞い、狐面の半分を朱に染める。
狐面は手綱を引かれその場に留まろうとした馬の尻を斬りつけ暴走させた。暴れる馬は、斬り殺された寄騎を引き摺りながら大通りを暴走し、呻き声を上げ倒れている町人や捕り手達を踏み潰しながら走り去った。
松笠を止めていた二人の寄騎は唖然としてそのやり取りを見ていた。
「……分かっただろう。ここは動けぬのだ。お主らは馬から降りて指揮を執れ。長物を持った捕り手を左右に同数配置せよ。その間に同心達を配置して長物持ちを護衛させろ! 来るぞ!」
松笠が言うと同時に二人の寄騎は馬を降り、左右に分かれる。簡易的に造られた陣地では左右に捕り手達と同心が分かれて狐面を迎え撃つ準備を始めていた。
(しかし……、何か? 何か変だ)
松笠は近づいてくる狐面をじっくりと馬上から観察していた。何かしらの違和感。見逃しているところが無いかをじっと探す。
「違う……、奴は、違う」
狐面が長物の間合いに入る直前、松笠は重大な違いに気がついた。すぐに大声を上げる。
「気をつけろ! こやつは先日の狐面では無い! すぐに後方の部隊に警戒させよ!」
松笠は大声を出し、刀を後方へ向ける。その時には横を向いた松笠の目の前に白い狐面が迫っていた。
0
あなたにおすすめの小説
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる