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一の罪状

異変

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葵は夜の喧騒を、仔犬を抱いて歩く。


仔犬もまた安心しきった瞳で葵を見据え、その身を任せていた。


「これから宜しくね」


そう仔犬に囁き掛けながら、ふと気付き歩みを止める。


「あっ! まずはアナタの名前を考えなきゃね……」


またゆっくりと歩みを進めながら、葵は仔犬に名前の提案をする。


仔犬にとっては何でも良いのだろう。


付けて貰えるなら、それが自分の名前となる。


――裏通り。


人影は少ない。


葵は気付いてはいなかった。背後から忍び寄ってくる者達の存在に。


何時からかは定かでは無い。


だがその者達は虎視眈々と狙いを定めていた。


「ねえキミ……」


背後から突如掛けられる声。


「はい?」


振り向いた矢先、その瞳に映る姿。


「えっ……と」


葵から戸惑い出た言葉は、少なくとも愉快なものでは無い。


葵は思わず後ずさる。


闇に映る六つの瞳は、本当に浅ましい輝きで葵を見据えていたからだ。


「ククク」


「へへへ」


不快で残忍なまでの声が木霊する。そして――




――追う者と追われる者。


仔犬の瞳に最期に映した光景は、その姿をしっかりと焼き付けていた。


――――如月動物病院――――


本日は特に変わった事も無く、此所ではいつも通りの穏やかな時間が過ぎていく。


幸人は自宅と病院を兼用していた。何時でも急来に対応する為に。


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「ふう……」


その日の夜、風呂上がりの幸人は手に缶ビールを持ちながら、目の前の小さなテーブルの前に座り込み、つまみも無しに一気にビールを飲み干した。


風呂上がりだというのに、黒いセーターと黒いジーンズというスタイルは、白衣を着れば何時でも対応するという顕れなのかもしれない。


一息付いた幸人は、部屋内をゆっくりと見回す。


本当に質素で小さな部屋だった。


白を基調とした、清涼感溢れるといえば聞こえは良いが、悪くいえば殺風景。


お洒落なインテリア等どこにも見当たらず、小さなテーブルの奥に、ディスクトップのパソコンと簡易机、その脇にパイプベッドとクローゼットが、無造作に“ただ並んで”置かれているだけだ。


“ニャア”


寛いでいる幸人の元に、飼い猫のジュウベエが何処からともなく歩み寄り、いつもの様に幸人の膝の上へと身を寄せる。


何気無い光景。ジュウベエは膝の上から見上げ、その片盲眼の瞳で幸人を見据えながら。


“それは早く撫でろジェスチャーなのか?”


一瞬の間を置いた刹那の事。


「――依頼が来てるぜ幸人」


突然発せられたジュウベエからの第一声。


だが幸人に“それ”に対する動揺等の変化は無い。


それはさもそれが“日常”であるかの様に。


「…………」


幸人はゆっくりと無言で立ち上がり、ディスクトップパソコンのある簡易机へ向かい、椅子に腰掛け主電源を入れた。


ディスプレイに映し出されたのは、血の色を思わせる、画面を辺り一面埋め尽くす赤、赤、赤、赤、赤。


そして中央に時間差で浮かび上がってきた、赤黒い“狂座”の二文字。


幸人は慣れた手付きでマウスを操作し、画面を凝視している。


液晶に妖しく照らされた銀縁眼鏡からは、その奥に隠された瞳による表情の程を伺い知る事は出来ない。


「今回の依頼はランクCか……。難度的にも報酬的にも、大した内容じゃ無さそうだな」


同じく幸人の左肩に飛び乗り、液晶画面を凝視するジュウベエ。


明らかにこの声は、この黒猫から発せられている。


「で、どうすんだ幸人? オレ的にはこの程度なら、お前が出るまでもないと思うんだが……」


意味深なジュウベエの声に、幸人はパソコンの電源を落とし、立ち上がってクローゼットへと向かった。


「……報酬や難度は関係無い。依頼を受けるか受けないかは俺が判断する」


そう淡々と言い放つ幸人のその声には、いつもの暖かみをまるで感じられない。冷徹で無機質な感情そのもの。


「まあそれがお前らしいけどな……」


その非現実で奇妙なやり取りに、診療所で見せる幸人の穏やかな表情雰囲気等、何処にも無かった。


幸人はクローゼットを開け、そこに掛けてある一着のコートを手に取り、それをおもむろに羽織る。


足首まである長いコートだった。至る所まで漆黒に彩られたそれは、さながら黒衣の様であった。


「ジュウベエ……留守を頼む」


全身黒模様の幸人は、飼い猫にそう告げながら歩み、玄関のドアノブに手を掛ける。


「何言ってやがる……。お前を最後まで見届けるのも、オレの役目なんだよ」


“いつもそうしてんだろ?”とでも言わんばかりに、ジュウベエは幸人の左肩に飛び乗っていた。


「ふっ……そうだな」


幸人はジュウベエの言葉の意味に、不意に少しだけ微笑みの表情を見せた。


「何笑ってんだよ気持ちわりぃな……。オラ! やるんならさっさと終わらせようぜ。外は寒いからよ……」


人と猫の奇妙な対図。そして二人は外へ。


無人となった部屋に立て掛けられた、何の変哲もない丸い掛け時計は、丁度午後十時を指していた。
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