君たちが贈る明日へ

天野 星

文字の大きさ
10 / 68
第一章 両生類の進化

しおりを挟む
 梅雨が明けて本格的な夏が始まろうとしている七月上旬。
 予定通り九日に退院した絵美からメールが届いた。

『さっき退院したよ。この間はお見舞いに来てくれてありがとう。シュークリーム美味しかった。今日から一段と暑くなるみたいだから、熱中症には気をつけてね』

 一見明るく見える内容にどれだけの本音が隠されているのかを俺は知らない。歓談室で垣間見た絵美の心の奥を知りながらも、当たり障りのない文面を作成して返信した。
 手元から斜め下に視線をずらすと、カーテンの隙間から細い光が足下を照らしている。先月見た灰色の光とは違う熱を帯びた太陽の光。あまりの目映さに眩暈がする。

「いつもいつも!」

 勢いよく全てを遮断する。明るいだけの時間が忌まわしい。スマホを机に置くと、開けたままにしているパソコンの画面が視界の端に映った。

「嘘だろ」

 時刻は午後一時。とっくに昼食の時間を過ぎている。
 ぐう。と鳴った腹に手をあてると、誰もいないリビングへ急いだ。
 一人きりのご飯を済ませると、自室には戻らずにテレビ前のソファに腰を掛けた。いつも父が座っている場所。本来であれば親の温もりがある場所。そして、俺が知ろうともしなかった温もり。大きな窓から降り注ぐ陽の暖かさが食後の脳に休息を促してくる。心地よい日差しに包まれながら、襲ってくる睡魔に身を任せた。

『戒斗、戒斗』

 誰かが俺を呼んでいる。返事をしようとするも声が出ない。何度試してみても空気が漏れ出るだけ。諦めて声の主を探そうとするも、今度は体が動かない。
 足を上げようにも、腕を上げようにもぴくりともしない。もちろん首も動かせないので、仕方なく暗闇に視線を彷徨わせると、俺を呼ぶ〝誰か〟を探した。

『戒斗。僕はここだよ。お願いだから早く――』

 そこで目が覚めた。時計を確認すると昼寝をしてから一時間も経っていない。
 先ほどまで部屋に差していた温もりは消え、眠ったときには被っていなかった物が床へ滑り落ちていった。

「いつの間にタオルケットなんか」

 母がパートから帰ってきたのだろうか?
 辺りを見渡すも人がいる気配はない。寝惚けて持ってきたのだろうか。 
 不審に思いながら落ちているタオルケットを拾った。
 母が帰宅してから一時間半後。質問ついでに夕食を取りに行くと「どうしたの?」と訊かれた。息子がリビングに居るという非日常。母にとって俺の存在はそういうものなのだ。

「ご飯ついでに訊きたいことがあるんだけど」

 パートの合間に帰宅したか。その際にタオルケットを用意したか。思ったことをそのまま訊ねるも「一度も戻ってきてないわよ」と言われてしまい、益々意味がわからなくなる。嘘とは無縁な瞳で見つめられると、それ以上追及することは憚られた。

「タオルケットがどうかしたの?」
「何もない」
「……そう、わかったわ」

 親子なのに、二人だけの空間は居心地が悪い。それだけで先刻の疑問などどうでもよくなってしまう。母はというと左手の人差し指をいじっている。この人の逃避行動の一つだ。俺が見ていることに気づいたのか、右手の動きが止まると。

「ご」
「ご飯は部屋で食べるから。これ、持っていくよ」

 無理矢理会話を終わらせて自室へ戻ると、いつもどおりブログを見ながら食べ始めた。
 昨日更新した日記には、ユウトからのコメントがついている。

『昨日は本当に暑くて、僕も辛かったです。主治医の先生ときちんと話ができたようで何よりです。
 死にたいって気持ちは消えた?』
『ありがとう。まだまだこれからかな。死にたい気持ちはまだあるよ。そんなに簡単に消えるものじゃないかな。心配してくれてるのにごめん』
『謝ることないよ。誰にだってそういうときはあるからさ』

 責めずに肯定してくれる彼の言葉は心地よい。ユウトと繋がるこの場所だけが、俺の唯一の居場所となっていた。
 両親が寝静まった頃。風呂を済ませた俺は、さちこのブログを閲覧していた。
 一ヶ月振りに更新された日記。
 逸る鼓動のリズムに合わせてタイトルをクリックすると、謝罪の言葉と共に一枚の写真が載せられていた。

『7月9日
 皆さん、更新出来なかった間にたくさんのコメントありがとうございます。色々と忙しくて一ヶ月も更新できませんでしたが、今日から再開するのでよろしくお願いします。写真は先月撮った夕焼けに照らされた街です。
 梅雨の時期に見た夕日が印象的で綺麗だったから、思わず撮ってしまいました。
 コメント:(35)』

「この場所って」

 画面を凝視する。
 長方形に切り取られた夕焼けに染まる街並みは、一ヶ月ほど前に俺が見た景色と一緒で。
 久しぶりに絵美と会った日と同じ、病院の外から見たオレンジ色そのものだった。
 そして、文章の最後に添えられた文章は、俺に凄まじい衝撃を与えた。

『思わず撮ってしまいました。そして更新できなかった間に、懐かしい人と会いました。
 有名な○○店の期間限定のシュークリームは本当に美味しかったなあ』

 ○○店の期間限定のシュークリームは、俺が絵美に買っていった見舞いの品だ。
 よく知る場所から撮影された写真。
 懐かしい人。
 手土産のシュークリーム。
 頭の中で否定する俺と、間違いないと叫ぶ俺が喧嘩をしている。体の中心が大きく脈打つ音を聞きながら震える指先で、その日初めて『さちこの怠惰な毎日』にコメントを残した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】知られてはいけない

ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。 他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。 登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。 勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。 一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか? 心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。 (第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

〈銀龍の愛し子〉は盲目王子を王座へ導く

山河 枝
キャラ文芸
【簡単あらすじ】周りから忌み嫌われる下女が、不遇な王子に力を与え、彼を王にする。 ★シリアス8:コミカル2 【詳細あらすじ】  50人もの侍女をクビにしてきた第三王子、雪晴。  次の侍女に任じられたのは、異能を隠して王城で働く洗濯女、水奈だった。  鱗があるために疎まれている水奈だが、盲目の雪晴のそばでは安心して過ごせるように。  みじめな生活を送る雪晴も、献身的な水奈に好意を抱く。  惹かれ合う日々の中、実は〈銀龍の愛し子〉である水奈が、雪晴の力を覚醒させていく。「王家の恥」と見下される雪晴を、王座へと導いていく。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

処理中です...