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第一章 両生類の進化
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梅雨が明けて本格的な夏が始まろうとしている七月上旬。
予定通り九日に退院した絵美からメールが届いた。
『さっき退院したよ。この間はお見舞いに来てくれてありがとう。シュークリーム美味しかった。今日から一段と暑くなるみたいだから、熱中症には気をつけてね』
一見明るく見える内容にどれだけの本音が隠されているのかを俺は知らない。歓談室で垣間見た絵美の心の奥を知りながらも、当たり障りのない文面を作成して返信した。
手元から斜め下に視線をずらすと、カーテンの隙間から細い光が足下を照らしている。先月見た灰色の光とは違う熱を帯びた太陽の光。あまりの目映さに眩暈がする。
「いつもいつも!」
勢いよく全てを遮断する。明るいだけの時間が忌まわしい。スマホを机に置くと、開けたままにしているパソコンの画面が視界の端に映った。
「嘘だろ」
時刻は午後一時。とっくに昼食の時間を過ぎている。
ぐう。と鳴った腹に手をあてると、誰もいないリビングへ急いだ。
一人きりのご飯を済ませると、自室には戻らずにテレビ前のソファに腰を掛けた。いつも父が座っている場所。本来であれば親の温もりがある場所。そして、俺が知ろうともしなかった温もり。大きな窓から降り注ぐ陽の暖かさが食後の脳に休息を促してくる。心地よい日差しに包まれながら、襲ってくる睡魔に身を任せた。
『戒斗、戒斗』
誰かが俺を呼んでいる。返事をしようとするも声が出ない。何度試してみても空気が漏れ出るだけ。諦めて声の主を探そうとするも、今度は体が動かない。
足を上げようにも、腕を上げようにもぴくりともしない。もちろん首も動かせないので、仕方なく暗闇に視線を彷徨わせると、俺を呼ぶ〝誰か〟を探した。
『戒斗。僕はここだよ。お願いだから早く――』
そこで目が覚めた。時計を確認すると昼寝をしてから一時間も経っていない。
先ほどまで部屋に差していた温もりは消え、眠ったときには被っていなかった物が床へ滑り落ちていった。
「いつの間にタオルケットなんか」
母がパートから帰ってきたのだろうか?
辺りを見渡すも人がいる気配はない。寝惚けて持ってきたのだろうか。
不審に思いながら落ちているタオルケットを拾った。
母が帰宅してから一時間半後。質問ついでに夕食を取りに行くと「どうしたの?」と訊かれた。息子がリビングに居るという非日常。母にとって俺の存在はそういうものなのだ。
「ご飯ついでに訊きたいことがあるんだけど」
パートの合間に帰宅したか。その際にタオルケットを用意したか。思ったことをそのまま訊ねるも「一度も戻ってきてないわよ」と言われてしまい、益々意味がわからなくなる。嘘とは無縁な瞳で見つめられると、それ以上追及することは憚られた。
「タオルケットがどうかしたの?」
「何もない」
「……そう、わかったわ」
親子なのに、二人だけの空間は居心地が悪い。それだけで先刻の疑問などどうでもよくなってしまう。母はというと左手の人差し指をいじっている。この人の逃避行動の一つだ。俺が見ていることに気づいたのか、右手の動きが止まると。
「ご」
「ご飯は部屋で食べるから。これ、持っていくよ」
無理矢理会話を終わらせて自室へ戻ると、いつもどおりブログを見ながら食べ始めた。
昨日更新した日記には、ユウトからのコメントがついている。
『昨日は本当に暑くて、僕も辛かったです。主治医の先生ときちんと話ができたようで何よりです。
死にたいって気持ちは消えた?』
『ありがとう。まだまだこれからかな。死にたい気持ちはまだあるよ。そんなに簡単に消えるものじゃないかな。心配してくれてるのにごめん』
『謝ることないよ。誰にだってそういうときはあるからさ』
責めずに肯定してくれる彼の言葉は心地よい。ユウトと繋がるこの場所だけが、俺の唯一の居場所となっていた。
両親が寝静まった頃。風呂を済ませた俺は、さちこのブログを閲覧していた。
一ヶ月振りに更新された日記。
逸る鼓動のリズムに合わせてタイトルをクリックすると、謝罪の言葉と共に一枚の写真が載せられていた。
『7月9日
皆さん、更新出来なかった間にたくさんのコメントありがとうございます。色々と忙しくて一ヶ月も更新できませんでしたが、今日から再開するのでよろしくお願いします。写真は先月撮った夕焼けに照らされた街です。
梅雨の時期に見た夕日が印象的で綺麗だったから、思わず撮ってしまいました。
コメント:(35)』
「この場所って」
画面を凝視する。
長方形に切り取られた夕焼けに染まる街並みは、一ヶ月ほど前に俺が見た景色と一緒で。
久しぶりに絵美と会った日と同じ、病院の外から見たオレンジ色そのものだった。
そして、文章の最後に添えられた文章は、俺に凄まじい衝撃を与えた。
『思わず撮ってしまいました。そして更新できなかった間に、懐かしい人と会いました。
有名な○○店の期間限定のシュークリームは本当に美味しかったなあ』
○○店の期間限定のシュークリームは、俺が絵美に買っていった見舞いの品だ。
よく知る場所から撮影された写真。
懐かしい人。
手土産のシュークリーム。
頭の中で否定する俺と、間違いないと叫ぶ俺が喧嘩をしている。体の中心が大きく脈打つ音を聞きながら震える指先で、その日初めて『さちこの怠惰な毎日』にコメントを残した。
予定通り九日に退院した絵美からメールが届いた。
『さっき退院したよ。この間はお見舞いに来てくれてありがとう。シュークリーム美味しかった。今日から一段と暑くなるみたいだから、熱中症には気をつけてね』
一見明るく見える内容にどれだけの本音が隠されているのかを俺は知らない。歓談室で垣間見た絵美の心の奥を知りながらも、当たり障りのない文面を作成して返信した。
手元から斜め下に視線をずらすと、カーテンの隙間から細い光が足下を照らしている。先月見た灰色の光とは違う熱を帯びた太陽の光。あまりの目映さに眩暈がする。
「いつもいつも!」
勢いよく全てを遮断する。明るいだけの時間が忌まわしい。スマホを机に置くと、開けたままにしているパソコンの画面が視界の端に映った。
「嘘だろ」
時刻は午後一時。とっくに昼食の時間を過ぎている。
ぐう。と鳴った腹に手をあてると、誰もいないリビングへ急いだ。
一人きりのご飯を済ませると、自室には戻らずにテレビ前のソファに腰を掛けた。いつも父が座っている場所。本来であれば親の温もりがある場所。そして、俺が知ろうともしなかった温もり。大きな窓から降り注ぐ陽の暖かさが食後の脳に休息を促してくる。心地よい日差しに包まれながら、襲ってくる睡魔に身を任せた。
『戒斗、戒斗』
誰かが俺を呼んでいる。返事をしようとするも声が出ない。何度試してみても空気が漏れ出るだけ。諦めて声の主を探そうとするも、今度は体が動かない。
足を上げようにも、腕を上げようにもぴくりともしない。もちろん首も動かせないので、仕方なく暗闇に視線を彷徨わせると、俺を呼ぶ〝誰か〟を探した。
『戒斗。僕はここだよ。お願いだから早く――』
そこで目が覚めた。時計を確認すると昼寝をしてから一時間も経っていない。
先ほどまで部屋に差していた温もりは消え、眠ったときには被っていなかった物が床へ滑り落ちていった。
「いつの間にタオルケットなんか」
母がパートから帰ってきたのだろうか?
辺りを見渡すも人がいる気配はない。寝惚けて持ってきたのだろうか。
不審に思いながら落ちているタオルケットを拾った。
母が帰宅してから一時間半後。質問ついでに夕食を取りに行くと「どうしたの?」と訊かれた。息子がリビングに居るという非日常。母にとって俺の存在はそういうものなのだ。
「ご飯ついでに訊きたいことがあるんだけど」
パートの合間に帰宅したか。その際にタオルケットを用意したか。思ったことをそのまま訊ねるも「一度も戻ってきてないわよ」と言われてしまい、益々意味がわからなくなる。嘘とは無縁な瞳で見つめられると、それ以上追及することは憚られた。
「タオルケットがどうかしたの?」
「何もない」
「……そう、わかったわ」
親子なのに、二人だけの空間は居心地が悪い。それだけで先刻の疑問などどうでもよくなってしまう。母はというと左手の人差し指をいじっている。この人の逃避行動の一つだ。俺が見ていることに気づいたのか、右手の動きが止まると。
「ご」
「ご飯は部屋で食べるから。これ、持っていくよ」
無理矢理会話を終わらせて自室へ戻ると、いつもどおりブログを見ながら食べ始めた。
昨日更新した日記には、ユウトからのコメントがついている。
『昨日は本当に暑くて、僕も辛かったです。主治医の先生ときちんと話ができたようで何よりです。
死にたいって気持ちは消えた?』
『ありがとう。まだまだこれからかな。死にたい気持ちはまだあるよ。そんなに簡単に消えるものじゃないかな。心配してくれてるのにごめん』
『謝ることないよ。誰にだってそういうときはあるからさ』
責めずに肯定してくれる彼の言葉は心地よい。ユウトと繋がるこの場所だけが、俺の唯一の居場所となっていた。
両親が寝静まった頃。風呂を済ませた俺は、さちこのブログを閲覧していた。
一ヶ月振りに更新された日記。
逸る鼓動のリズムに合わせてタイトルをクリックすると、謝罪の言葉と共に一枚の写真が載せられていた。
『7月9日
皆さん、更新出来なかった間にたくさんのコメントありがとうございます。色々と忙しくて一ヶ月も更新できませんでしたが、今日から再開するのでよろしくお願いします。写真は先月撮った夕焼けに照らされた街です。
梅雨の時期に見た夕日が印象的で綺麗だったから、思わず撮ってしまいました。
コメント:(35)』
「この場所って」
画面を凝視する。
長方形に切り取られた夕焼けに染まる街並みは、一ヶ月ほど前に俺が見た景色と一緒で。
久しぶりに絵美と会った日と同じ、病院の外から見たオレンジ色そのものだった。
そして、文章の最後に添えられた文章は、俺に凄まじい衝撃を与えた。
『思わず撮ってしまいました。そして更新できなかった間に、懐かしい人と会いました。
有名な○○店の期間限定のシュークリームは本当に美味しかったなあ』
○○店の期間限定のシュークリームは、俺が絵美に買っていった見舞いの品だ。
よく知る場所から撮影された写真。
懐かしい人。
手土産のシュークリーム。
頭の中で否定する俺と、間違いないと叫ぶ俺が喧嘩をしている。体の中心が大きく脈打つ音を聞きながら震える指先で、その日初めて『さちこの怠惰な毎日』にコメントを残した。
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