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第七章 両生類は夜を知る
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絵美と話ができたのは、彼女が外泊から戻ってきた日の夕方だった。昨日の朝よりも元気になったように見える。
時刻は午後五時。もうすぐ夕飯の時間になるということで、明日の昼食後に休憩所で話し合おうと決めた。外泊で疲れたのか、絵美は返事をすると足早に去って行った。
絵美が病室に入ったことを確認すると、スマートフォンをポケットから取り出した。インターネットに接続して『さちこの怠惰な毎日』を閲覧する。何か更新しているかもしれないと思ったが、最後の日付は入院した前日になっている。
何が絵美の心を軽くしたのか。どうして目元が赤いのか。彼女の内側を覗きにいくも成果は得られなかった。
諦めて俺が運営している『両生類の進化』を開く。最後の日付は九月一日。コメント欄には(0)と表示されている。ユウトからの返事もなく、俺は未だ孤独の渦中を彷徨っている。虚しさの象徴を電源を落とすことで消去すると、ナースステーションにスマホを返却した。
規則正しい時間にご飯を食べて規則正しい時間に就寝する。管理された生活の中で、俺は『今宮戒斗』という存在が消えていくような不安感に襲われた。
昼食を終えると、絵美と約束した時間に休憩所へ向かった。ジャージ姿の絵美が席を確保してくれている。俺の存在に気がつくと「こっち」と誘導してくれる。買ってきた紅茶を差し出すと、嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
窓際の一番端。周囲には誰もいない。内緒話をするには打って付けの場所。絵美の前に座ると早速本題に入った。
「この前は聞けなかったけど、十三日のことを教えてくれ」
「うん。でも、その前にこの間はごめんね」
「いや、俺の言い方が悪かった。俺こそごめん」
「じゃあ、もうこの話はお終い。えっと、十三日のことだったね」
「そう。絵美が何で俺だと言い切れるかの理由」
「あのね、前に話した通り。私が幸子として、戒斗がカイトとしてメッセのやりとりをしてたときに、お母さんが服をプレゼントしてくれたって言ったの覚えてる?」
「ああ。俺が何も言ってないのに、欲しい服を買ってきた件だろ。覚えてるけど、それがどうした?」
「あの日、戒斗が着てたんだよ。写真で見せてくれた服。こんなコーデがしたいってモデルさんの写真くれたでしょ?」
「送ったな」
「そのコーデと全く同じ服装をしてたの」
「ん? 俺、カラーパンツなんか持ってないぞ? やっぱり他人のそら似じゃないか?」
「そうなの? でも、あれは絶対に戒斗だよ。仮に戒斗そっくりな人がいたとして、偶然戒斗が持ってる服を着て、しかも見せてくれた写真と同じコーデして、これまたお母さんに似た人と一緒にこんな所に来るとか、どんな偶然?」
「何回も言うけどさ、俺、本当にその日はどこにも行ってないんだよ。母さんもランチだって言ってたし」
「ねえ、戒斗。本当に覚えてないの? 服の件もそうだけど……」
絵美が黙ったので「どうした?」と訊くと。
「髪」
「神?」
天井を指して聞き返すと首を横に振って「か、み、の、け」と頭部を指さされた。
「髪? 髪がどうした?」
「染めたりするの?」
「へ?」
風呂場での出来事が脳裏を掠める。濁った水。そう、茶色。排水口に吸い込まれていく茶色の液体。
「思い当たることがあるんじゃない? 話なら聞くよ?」
「そう、言われても、な?」
気になることは幾つかあるが、自分にもわからない事を絵美にうまく説明できるとは思えない。買ってきた炭酸飲料を噎せないように少量ずつ口に含ませながら、言葉と出来事を結びつけていく。絵美は紅茶を飲んでじっと待ってくれている。
「気になることならある……ような、ないような?」
「うん」
相槌を打つだけで無理矢理続きを訊こうとはしない。
「あー……あのな? 前にも言った通り服のこともそうだけど。髪も染めたことない。でも」
「でも?」
「染めたかもしれないって思ったことならある。ごめん。うまく説明出来ない」
「いいよ。気にしないで」
絵美がふわりと笑う。こんなにも柔らかく笑えるなんて知らなかった。
「戒斗?」
置いて行かれたような気分になっている自分を叱咤して話を再開する。
「ブログ見てたから知ってると思うけど、最近、変な夢を見るんだよ」
「同じ夢を見るって書いてたね。どんな夢なの?」
「真っ暗闇の中、俺を呼ぶ男がいるんだ」
「知ってる人?」
「それが、顔だけ靄がかかったように見えないんだ。でも、背格好は俺と一緒くらいだし、声からして男ってのは間違いない」
「それから?」
「何かを訴えてくるんだけど、肝心な部分になると俺の耳が消えて聞こえなくなる」
「はい? 耳が消えるって、その時だけ都合良く耳がなくなるの?」
「嘘だと思うだろう? でも、本当なんだよ。夢で触って確かめたから間違いない」
「それ以外に気になることは? そういえば、いつもユウトって人がコメントしてくれてたよね? その人には相談したの?」
ユウトの名前を出されて焦った。誰にも知られたくないことを知られてしまった気分だ。
「ユウト、か」
「どうかした?」
「それが――」
日記のことを話した。未公開のまま保存していた内容が公開されていた上に、ユウトからのコメントがついていたこと。服のことを訊いたときに抱いた違和感。そして、タオルケットのこと。誰も真剣に聞いてくれなかった話を絵美だけは真剣に聴いてくれた。
「全部、先生に話した?」
「話したけど、両親に一度訊いてみなさいって言うだけで他には。あっ、夢のことについては、俺が見て見ぬふりをしている事の現れじゃないかって。最後は全て君が決めることだからって……」
「うーん……」
唸ると、目を閉じて考え込んでしまった。その間、家族や主治医。そしてユウトとのやり取りを振り返ってみた。
俺を呼ぶときによそよそしくなる母。聞いてしまった両親の会話。ブログのコメント。無意識に触れていた髪の毛はざらざらとしていた。
時刻は午後五時。もうすぐ夕飯の時間になるということで、明日の昼食後に休憩所で話し合おうと決めた。外泊で疲れたのか、絵美は返事をすると足早に去って行った。
絵美が病室に入ったことを確認すると、スマートフォンをポケットから取り出した。インターネットに接続して『さちこの怠惰な毎日』を閲覧する。何か更新しているかもしれないと思ったが、最後の日付は入院した前日になっている。
何が絵美の心を軽くしたのか。どうして目元が赤いのか。彼女の内側を覗きにいくも成果は得られなかった。
諦めて俺が運営している『両生類の進化』を開く。最後の日付は九月一日。コメント欄には(0)と表示されている。ユウトからの返事もなく、俺は未だ孤独の渦中を彷徨っている。虚しさの象徴を電源を落とすことで消去すると、ナースステーションにスマホを返却した。
規則正しい時間にご飯を食べて規則正しい時間に就寝する。管理された生活の中で、俺は『今宮戒斗』という存在が消えていくような不安感に襲われた。
昼食を終えると、絵美と約束した時間に休憩所へ向かった。ジャージ姿の絵美が席を確保してくれている。俺の存在に気がつくと「こっち」と誘導してくれる。買ってきた紅茶を差し出すと、嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
窓際の一番端。周囲には誰もいない。内緒話をするには打って付けの場所。絵美の前に座ると早速本題に入った。
「この前は聞けなかったけど、十三日のことを教えてくれ」
「うん。でも、その前にこの間はごめんね」
「いや、俺の言い方が悪かった。俺こそごめん」
「じゃあ、もうこの話はお終い。えっと、十三日のことだったね」
「そう。絵美が何で俺だと言い切れるかの理由」
「あのね、前に話した通り。私が幸子として、戒斗がカイトとしてメッセのやりとりをしてたときに、お母さんが服をプレゼントしてくれたって言ったの覚えてる?」
「ああ。俺が何も言ってないのに、欲しい服を買ってきた件だろ。覚えてるけど、それがどうした?」
「あの日、戒斗が着てたんだよ。写真で見せてくれた服。こんなコーデがしたいってモデルさんの写真くれたでしょ?」
「送ったな」
「そのコーデと全く同じ服装をしてたの」
「ん? 俺、カラーパンツなんか持ってないぞ? やっぱり他人のそら似じゃないか?」
「そうなの? でも、あれは絶対に戒斗だよ。仮に戒斗そっくりな人がいたとして、偶然戒斗が持ってる服を着て、しかも見せてくれた写真と同じコーデして、これまたお母さんに似た人と一緒にこんな所に来るとか、どんな偶然?」
「何回も言うけどさ、俺、本当にその日はどこにも行ってないんだよ。母さんもランチだって言ってたし」
「ねえ、戒斗。本当に覚えてないの? 服の件もそうだけど……」
絵美が黙ったので「どうした?」と訊くと。
「髪」
「神?」
天井を指して聞き返すと首を横に振って「か、み、の、け」と頭部を指さされた。
「髪? 髪がどうした?」
「染めたりするの?」
「へ?」
風呂場での出来事が脳裏を掠める。濁った水。そう、茶色。排水口に吸い込まれていく茶色の液体。
「思い当たることがあるんじゃない? 話なら聞くよ?」
「そう、言われても、な?」
気になることは幾つかあるが、自分にもわからない事を絵美にうまく説明できるとは思えない。買ってきた炭酸飲料を噎せないように少量ずつ口に含ませながら、言葉と出来事を結びつけていく。絵美は紅茶を飲んでじっと待ってくれている。
「気になることならある……ような、ないような?」
「うん」
相槌を打つだけで無理矢理続きを訊こうとはしない。
「あー……あのな? 前にも言った通り服のこともそうだけど。髪も染めたことない。でも」
「でも?」
「染めたかもしれないって思ったことならある。ごめん。うまく説明出来ない」
「いいよ。気にしないで」
絵美がふわりと笑う。こんなにも柔らかく笑えるなんて知らなかった。
「戒斗?」
置いて行かれたような気分になっている自分を叱咤して話を再開する。
「ブログ見てたから知ってると思うけど、最近、変な夢を見るんだよ」
「同じ夢を見るって書いてたね。どんな夢なの?」
「真っ暗闇の中、俺を呼ぶ男がいるんだ」
「知ってる人?」
「それが、顔だけ靄がかかったように見えないんだ。でも、背格好は俺と一緒くらいだし、声からして男ってのは間違いない」
「それから?」
「何かを訴えてくるんだけど、肝心な部分になると俺の耳が消えて聞こえなくなる」
「はい? 耳が消えるって、その時だけ都合良く耳がなくなるの?」
「嘘だと思うだろう? でも、本当なんだよ。夢で触って確かめたから間違いない」
「それ以外に気になることは? そういえば、いつもユウトって人がコメントしてくれてたよね? その人には相談したの?」
ユウトの名前を出されて焦った。誰にも知られたくないことを知られてしまった気分だ。
「ユウト、か」
「どうかした?」
「それが――」
日記のことを話した。未公開のまま保存していた内容が公開されていた上に、ユウトからのコメントがついていたこと。服のことを訊いたときに抱いた違和感。そして、タオルケットのこと。誰も真剣に聞いてくれなかった話を絵美だけは真剣に聴いてくれた。
「全部、先生に話した?」
「話したけど、両親に一度訊いてみなさいって言うだけで他には。あっ、夢のことについては、俺が見て見ぬふりをしている事の現れじゃないかって。最後は全て君が決めることだからって……」
「うーん……」
唸ると、目を閉じて考え込んでしまった。その間、家族や主治医。そしてユウトとのやり取りを振り返ってみた。
俺を呼ぶときによそよそしくなる母。聞いてしまった両親の会話。ブログのコメント。無意識に触れていた髪の毛はざらざらとしていた。
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