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ねこ探偵クイーン&しらすちゃん
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ねこ探偵クイーン&しらすちゃん
牧原しぶき
早朝。
晴れわたるどこまでも広い青空。大気は澄みきっている。
心がほっといやされる。そんな朝だ。
ここは、江戸時代に大名の広大な武家屋敷が建ち並んでいた都内有数のお屋敷街。
この界隈のなかでも、ひときわ異彩を放つお屋敷がここにある。
めずらしく欧米のカントリーハウスを模した大邸宅。赤い八角形のタワーがお屋敷のシンボルだ。
お屋敷と、石だたみの小みちのさかいに建つ石塀の上を、二匹のねこが優雅に歩いていた。
「にゃーん」
小さいねこがないた。小さいねこは、モフモフしてとっても可愛い。抱きしめたくなるほどだ。
「おはようにゃーん」
大きいねこがへんじをかえした。
大きいほうのねこは、ノルウェージャン・フォレスト・キャットの純血種だ。付近に住まうねこたちからも、人間たちからも、クイーンと呼ばれている見目うるわしき飼いねこだ。
その名のとおりクイーンはメスねこである。
全身の毛が女王のドレスのように長い。ついでながらピンと伸ばしたしっぽも長い。
体毛は、白、グレー、シルバーがまざっている。
深い海からとった真珠のようなきらびやかな白。
風雅な薄色の小袖を想起させるグレー。ピカピカかがやきをはなつシルバー。
三色が混ざった体毛は、クイーンの全身をあでやかにおおい、周辺のお屋敷に住まう飼いねこのなかでもナンバーワンの容姿容貌をほこっている。
「にゃーん」
クイーンは歩き方も洗練され、ひとつひとつの動作もすこぶる格調高い。
「クイーンにゃーん」
クイーンの後に続いているのは、小さな一匹の子ねこだ。名前は、しらすちゃん。
しらすちゃんもメスねこだ。
おなかがわは白く、せなかがわは黒い。ひたいが漆黒のハチワレで、おでこの下からがフワフワで、雪のような白さ、ごじまんの純白だ。
とにかくしらすちゃんは、ふわふわモフモフしていて、とっびきり可愛いのだ。
しらすちゃんはまだ生後数ヶ月、よちよちとクイーンについて歩いている。
「クイーン、きょうも、とってもいい天気ね?」
「そうね、しらすちゃん。気分がはればれするいい天気だわ」
ねこは、ねこどうし、ねこのことばで会話できるのだ。ただし、人間たちにとっては、ねこが鳴いてるとしか聴こえない。
立ち止まり、しらすちゃんに振り向いてニコっとえがおで話すクイーンは、なんとも魅力的だ。女王のほほえみというべきか。
しらすちゃんは、うっとりした。
「でもしらすちゃん、西の空をごらんなさい」
「あっ、黒い雲にゃん!」
「そうよ。このお屋敷にもいずれ、邪悪な雨雲が押し寄せるにちがいないわ。用心しましょうね」
「うん。クイーンは、なんでもよく気がつくにゃん」
「ああぁ予感がしてきたわ!」
クイーンはピンと両耳を逆立てた。
「どうしたのクイーン?」
「虫の知らせならぬ『ねこのしらせ』よ」
「ええっ? クイーンには超能力があるの?」
「飼いねこ特有の予感。ダンナさまに良くないことが起こる前ぶれなの」
「クイーンはすごいにゃん!」
「しらすちゃん。わたし、だてにあなたより長く生きてないわ。うふふふ。行くわよ」
クイーンは、塀からお屋敷の庭へと、しなやかに飛び降り、お屋敷に向かって走った。
しらすちゃんもおくれないよう、クイーンの後にピョンと続いた。
どれほど急ごうが、クイーンが疾走するすがたは、あくまで優美だ。
「すてきよ、クイーン」
「ふふふ、しらすちゃん。あなたが走るすがたは、ひたすら愛らしいわ」
クイーンを追いかけるしらすちゃんに、クイーンはやわらかな声をかけた。
クイーンが向かうのは、大邸宅。しらすちゃんが敬愛するクイーンは、この旧伯爵邸で飼われているのだ。
三階だての旧伯爵邸は東西に細長く、中央に、北向きに正面玄関がある。
飼いねこであるクイーンは、表玄関からも自由に出入りできるが、ノラねこのしらすちゃんはそうはいかない。
二匹は建物の裏手にある使用人出入口へ向かった。
クイーンを追って走りつつ、しらすちゃんは言った。
「ああ、クイーン。どうしよう? わたし、心配だわ。あのイジワルな新入りのメイドさんに見つかりたくないの。いつもの優しい料理人さんなら、ごちそうの残り物をくれるかもしれないのに」
「そうね、しらすちゃん。わたしもあの新しいメイドのカスミさん、あまり好きになれないわ。よくいえば仕事に忠実なんだろうけど、もうすこし気をきかせてくれてもいいのにね」
「うん。わたしね、カスミさんにイカツい顔でフン!だとか、キッ!とだとかにらまれるの、ほんとうにこわいの」
二匹は進んだ。待っているのは、さあ、怖いメイドか、優しい料理人さんか? 可能性はふたつにひとつだ。
果たして、二匹が使用人出入口まであと数メートルのところまで走ってくると、
「にゃ~ん!」
しらすちゃんに、笑顔があふれでた。
ちょうど木月カエデコさんの姿が見えたのだ。
お屋敷つきの料理人であるカエデコさんの親しみやすい風貌は、おだやかな性格を反映している。
きちんとアイロンが当たった濃紺のワンピースに、フリルのついた白色エプロンとカチューシャ。カエデコさんは常に清潔な制服で、こざっぱり身なりを整えている。そしてやや小柄のカエデコさんには、短髪がよく似合う。
クイーンは安心した。
「しらすちゃん、きょうは大丈夫ね!」
「うん、クイーンありがとうにゃん」
「じゃあ、わたしはダンナさまが待ってるから、なかへ入るわね」
「はいにゃん」
しらすちゃんは甘えるようにノドを鳴らし、クイーンを見上げた。
「またあとでね、しらすちゃん」
そう言うと、クイーンは使用人出入口から邸宅内に入った。
「にゃん」
「あらクイーンおかえり。おチビちゃんもいるのね」
二匹に気づいたカエデコさんは、いつものようににこやかに話しかけた。
「にゃん、にゃん」
「あら、しらすちゃん、おなかが減ってるのね? じゃあ、ちょっとここで待っててね。何か持ってきてあげるから」
そういい残すと、カエデコさんはいったん半地下にあるキッチンへ入り、すぐ、白身魚の骨まわりを、しらすちゃん専用の容器に入れて戻ってきてくれた。
「はいどうぞ、しらすちゃん」
カエデコさんはしらすちゃんが食べやすいように、専用の容器をそっと地面に置いてくれた。
「にゃーん」
うれしいにゃーんといったようすで、しらすちゃんは無心になって食べはじめた。
同じ頃、クイーンはどうしていたか?
あとでクイーンから聞いたところによると、お屋敷内では、とんでもない事件が発生していたのだ。
クイーンは、建物の西のはしの『使用人出入口』から中へ入った。
キッチンへは向かわず、『配膳室』から『晩餐の間』へと向かった。
ちょうどそのころ、いつもどおり、二階の寝室から一階の『エントランスホール』に向かって、ダンナさまが、しずしずと中央階段を下りてきた。
絵に描いたようなイケメンだ。
ダンナさまは、旧伯爵家のあととり息子としてこの屋敷で生まれ育った。年齢よりもはるかに若々しく見える。背は高く、180センチはある。
目鼻立ちが整った美男子で、モデルか俳優にもなろうかという端麗な容姿の持ち主である。
朝起きてから夜パジャマに着替えるまでずっと、タキシードで正装し、髪形は七三分けで、キリッと決まっている。
常に余裕を持ったエレガントな立ち居ふるまいで、旧伯爵家の当主として申し分のない品の良さと、生まれもっての高貴さをただよわせている。
ダンナさまは優雅な身のこなしで階段を下りている。
絢爛豪華な大理石づくりの化粧階段にも、赤いふんわりしたじゅうたんが敷きつめられている。
ダンナさまは、大理石づくりの巨大なエントランスホールを抜け、ゴージャスで広々とした『晩餐の間』へ入った。
晩餐の間は、ひとつひとつの調度品が重厚でエレガントなムードをかもしだし、凡人なら入口で立ちすくむほどの威圧感を発している。
北側のかべには、人の背たけよりも高い額縁がところせましとかかげられ、周辺の美術館にくらべても、圧倒的に貴重な絵画が、あまた飾られている。
南側のかべは総ガラス張りになっており、晩餐の間から、緑豊かでどこまでも続く広大な庭が見渡せる。
ダンナさまは屋敷内にいるかぎり、三度の食事と三時のおやつは晩餐の間で取ることにしていた。
ダンナさまは悠々たる身のこなしで、いつもの席に座った。
目の前にあるのは、シミひとつ無い純白のテーブルクロスを載せた二十メートルもの長さをほこる純銀製のテーブルだ。
ダンナさまのかたわらの床の上には、すでにクイーンが控えていた。
「にゃーーん」
「ああクイーン、おはよう」
給仕はいない。食事とおやつの時間は、朝八時、昼十二時、午後三時、午後七時と決まっていて、その時間ぴったりに、ダンナさまとクイーンの食事は用意されてなくてはならないのだ。
「じゃあクイーン、いただこうか」
「にゃーん」
ダンナさまとクイーンは、そろって朝ごはんを食べはじめた。
給仕する者がいないのは、ダンナさまが生まれる以前からお屋敷に仕えていた執事が、昨年の秋に交通事故で亡くなってしまったからだ。ダンナさまの目の前で、ダンナさまの愛妻とともに。
ダンナさまの両親は高齢のためすでに亡くなっており、大学生のひとり娘は海外に留学中なので、ダンナさまはクイーンがいなければひとりぼっちになってしまう。
「にゃ~ん」
だからクイーンはダンナさまを独りぼっちにしないよう、三食とおやつの時間には、必ず晩餐の間に戻ってくることにしているのだ。
「おいしいかいクイーン? たくさんお食べ」
時折クイーンを見やりつつ、ダンナさまは半じゅくたまごの黄身をシルバーのスプーンで食しおわり、白身は、慣れた手つきでクイーンの皿の上に落としてあげた。
「にゃーん」
クイーンは、もともとダンナさまと同じ料理を、ねこ向けに特別に無塩で調理した食事をいただいている。そのためクイーンは、おなかまわりが気になり始めており、これ以上食べると肥満になるおそれがあるのだ。
でも、こういったチョッとしたやりとりがダンナさまの精神状態を悪化させないためには必要だと感じていた。
「にゃ~~ん」
だから、ありがたくいただくことにしている。
食事が終わるとダンナさまとクイーンは連れ立って晩餐の間を出た。そしていつものように、となりの『大広間サルーン』を通る。
「クイーン、きょうもいい天気だね」
「にゃにゃーん」
大広間サルーンにも床から天井にまで届くグラスウォールが広がり、果てしなく広がる緑の庭に南面している。
庭の青い芝生は燦々たる日の光を受け、キラキラと輝いている。
ダンナさまとクイーンは大広間を抜け、これまた豪勢な『タペストリーの間』に入った。
張り出しの窓からきらびやかな朝の光がふりそそぎ、ダンナさまの悲しみをすこしでも和らげることができようか。
床には赤じゅうたんが敷きつめられ、数々の瀟洒な調度品が置かれ、かべには著名な絵画が見える。
ひとつのこらず、すべては先祖代々から受け継いだものだ。
ダンナさまは、金のふちどりのあるいつもの赤いイスに腰かけた。
「にゃーん」
クイーンは、見目よく組まれたダンナさまの長いあしの上にチョコンと飛び乗った。
「どれどれ」
マホガニー製の丸いティー・テーブルに置かれた郵便物を見るのが、ダンナさまの日課なのだ。
「ごろごろごろにゃん」
ダンナさまが郵便物を見ているあいだ、クイーンはうっすらと目を閉じてしあわせにひたるのだ。
しかし今朝は、なにかがおかしい。
ダンナさまのひざのふるえで、クイーンは察知した。
とある郵便物――手紙のようなものを手にしてからだ、ダンナさまのふるえが止まらないのは!
クイーンが手紙をのぞきこむと、白い紙に、なにやら文字が切りはりしてあり、ダンナさまの両手がぶるぶるとふるえている。
クイーンは、人間が使う文字ナルモノは読めないが、気配でわかった。
大変なことが書かれてあるのだ。
「……きょ、脅迫状だ!」
立ち上がったダンナさまのひざから、クイーンは飛びおりた。
顔色が一変したダンナさまは、タペストリーの間を離れ、クイーンもあとに続いた。
「なんということだ! 怪盗ルサンチマンが、わが家宝の指輪をぬすみにくるなんて……」
怪盗ルサンチマンとは、ここ数年、世間をさわがしている大どろぼうで、だれも正体を見たものがいない謎の人物だ。
警察はどうしてもつかまえることができず、怪盗ルサンチマンはやりたい放題。ねらった獲物は百発百中で盗んでしまう凄腕の盗っ人だ。
怪盗ルサンチマンは正体不明の怪人物なので、対策をたてるのもむずかしいのだ。
あおざめた表情のダンナさまは、いっきに階段をかけあがり、自分のへや『ダンナさまの間』へ入った。クイーンもいっしょだ。
クイーンは、こんなにも泡を喰ったダンナさまを、初めて目にした。
キングサイズベッドのあるへやの奥へかけこんだダンナさまは、サイドテーブルを見やった。
「ふう、まだあるぞ。ふう、良かった!」
「にゃーん」
亡き奥さまを懐かしむダンナさまは毎夜毎夜、寝る前にながめているので、家宝のリングを入れている宝石箱は、サイドテーブルの上に置いたままだった。
ダンナさまは宝石箱を手に取り、パカンとフタを開けた。
「あっ。無い!」
宝石箱はからっぽだ。
「た、たいへんだっ!」
動揺したダンナさまは宝石箱をベッドになげすて、着こんでいるタキシードじゅうのポケットをまさぐった。
「無い! 無い! 無いぞ、無いぞ、リングがどこにも無いぞ!」
果たして、どのポケットにも何も入っていない。
ダンナさまは顔面蒼白だ。
「あ、あ。亡き妻の想い出のリングが……」
そのときクイーンは飛びあがった。
サイドテーブルに足をつき、反転してサッとのびあがり、ダンナさまの左手にチュッとキスをした。
「クイーン、どうした? ああ、そういう意味か」
ようやく合点したダンナさまは、キスをされた左手にはめている純白の手袋を外した。
「ああ、なんだ。わたしとしたことが!」
ダンナさまは左手の小指に、家宝のリングをはめたままだったのだ。
「クイーン、ありがとう。教えてくれたんだな」
「にゃーん」
ダンナさまは、いまや心の支えとなっている家宝『心の平和』を、肌身離さず身につけているのだ。亡き奥さまの形見の品なのだから。
「それにしてもだ。クイーン、聞いてくれ」
「にゃーん」
ダンナさまは、おのれの小指にはめたリングをみつめたまま語った。
「『心の平和』は、もともと奥さまの薬指のサイズに合わせていたから、わたしの小指には大き過ぎて、いつどこで落としてしまうかしれたものではない。
だから、怪盗ルサンチマンからの脅迫状の期限が過ぎるまでは、身につけるよりも、屋敷のなかのどこか安全な場所にかくそうと思う。どこがいいかな?」
「にゃーご」
ダンナさまはサイドテーブルの引き出しを開けて、鍵束を取り出した。
「よし、クイーン。ついてきてくれ」
「にゃーん」
ダンナさまは自分のへやを出て、二階のろうかを進み、『奥さまの間』の前まで来た。
そして鍵束からチャリン、チャリンと音をたててカギを探してドアを開け、へやの中に入った。
クイーンは、なぜか入室しない。
「そうか、クイーン。おまえは外で待つんだな?」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんとは、そのとおりという意味だ。
しばらくしてダンナさまは奥さまの間からろうかへ出てきてドアを閉め、厳重にカギをかけた。
「さあ、これで万全だ」
「にゃーごー」
クイーンは笑顔ではない。
「クイーンはカギが心配なのか? だったら、」
ダンナさまは自分のへやに戻りつつ、鍵束から奥さまの間のカギだけを外し、おのれの着ているタキシードのポケットに入れた。
「ふう、これでもう安心だ」
ダンナさまは気持ちがすっきりしたのか、階段を降りて地上一階へ着くと、エントランスホールを通り、そのままテラスへ出た。クイーンもついてきた。
見事に白一色に統一されているテラスに立ち、緑の木々や芝生、色とりどりの草花におおわれた広大な庭を見わたしながら、ダンナさまは深呼吸だ。
「ふう。自然っていいものだな」
しかしクイーンは、わざわざダンナさまの視界に入る場所まで来ると、首をかしげた。
「ぬわーん」
「んん? クイーン、どうした?」
クイーンは首を左右に振っている。
「ふうむ。クイーンは、あのままでは、『心の平和』は危険だと言うのかい?」
「にゃにゃーん」
クイーンはうなずいた。
ダンナさまはお屋敷を振り返り、二階の『奥さまの間』を見上げた。
よく言えば慎重な、実をいえば心配性なダンナさまは不安になってきた。
「クイーン、いまはふたりきりだから遠慮はいらぬ。よし、試してみよう!」
「にゃにーん」
「クイーン。『心の平和』を盗み出せるかい?」
「にゃーん」
クイーンはすぐさまかけだした。
そして、お屋敷の外かべに取り付き、スルスルとよじ登っていく。
あっという間に二階のバルコニーにたどり着いたクイーンは、鉢植えの向こうにある排気口のフタを前足で外した。
そして室内へ消えた。
「ふうむ、すばやいなあ」
ダンナさまは感心した。クイーンの名探偵ぶりについては、よく知っていた。
今は亡き妻の生前に、よく聞かせてもらっていたからだ。
たとえば、お屋敷が広すぎて、なにをどこに置いたのか、だれにもわからなくなってしまうことがよくあった。
出発時間が迫っているのに、亡き奥さまやメイドたちが手分けして探しても出てこない。どうしても見つからない。
そんなとき、えてして新入りの使用人に疑いの目が向けられてしまうのだが、無実の罪を着せるのは良くないことだ。
トラブルになる前に、奥さまは、愛猫クイーンに助けを求めるのだ。
「クイーン、お願い。今度は、わたしのブローチが無くなったの。真珠が入ったお気に入りのブローチ。一体どこにいっちゃったのか、わからないの。助けてクイーン。あなたに真珠のブローチを見つけてほしいの」
「にゃーん!」
クイーンは『奥さまの間』の中へ入ると、すばやく内部を見回した。
ダンナさまは、どこに家宝『心の平和』を隠したか?
「第一候補は、奥さまがかつて、『心の平和』を隠していた場所だわにゃん」
長くだれも入室していない奥さまの間は、うっすらとほこりが積もっている。
しかし一直線に、ほこりが無い部分がある。
「にゃーん。ここはさっき、ダンナさまが急いで歩いたから、ほこりが吹き飛ばされたのだわにゃん」
クイーンは、ほこりが無い部分をかべにむかってすすんだ。
「このあたり、ほこりが払ってあるわね」
ほこりが無い奥さまの肖像画あたりがあやしいのは、一目瞭然だ。
サッとクイーンは化粧棚に飛び乗り、かべにかかった肖像画を入れた額縁を、前足を使って持ち上げてみた。
「やっぱりにゃーん」
額縁に隠されていたかべにフックがあり、『心の平和』をはめこんだリングがかかっていた。
あまりにも単純明快な隠し場所だ。これなら怪盗ルサンチマンどころか、三流のどろぼうでさえ気が付くはずだ。
素直で、真っ直ぐな心を持って成長したダンナさまに、そもそも隠しごとは向いてないのだ。
それは奥さまも同じだった。
クイーンの脳裏に、ありし日の奥さまがよみがえった。
「あーっ! そうだったわ。わたしここに隠してたこと、さっぱり忘れてた! ありがとうクイーン!」
額縁の裏に隠したフックから、真珠のブローチを取り出した奥さまは、満面の笑みを浮かべ、ぎゅううっとクイーンを抱きしめてくれた。
クイーンにとっても、奥さまとの日々は、かけがえのない良き想い出だ。
クイーンは『心の平和』を口にくわえ、いま来たばかりの経路を引き返し、テラスで待つダンナさまのもとへ瞬く間に戻ってきた。
往復で、五分かかったか、かからなかったかだ。
「クイーン、もう帰ってきたのか? リングは、『心の平和』は見つかったのかい?」
クイーンは、いましがたダンナさまが隠したばかりの『心の平和』を、ダンナさまが差し出した手のひらにていねいに置いた。
「な、なんと! こんなに早く見つけたのか!」
「にゃーん」
「い、いとも簡単に見つけ出したね、クイーン。さすがは、ねこ探偵だ!」
「みゅうみゅう」
「こうやって、いつも妻を助けてくれていたんだね。ありがとうクイーン」
「にゃにゃーん」
クイーンの名探偵ぶりを目の当たりにしたダンナさまは、思考をめぐらせた。
テラスの白いデッキチェアに長いあしを組んで考えこむ姿が、すこぶる絵になるダンナさまを、クイーンはうっとりして眺めた。
他人をだましたり、隠し事をすることができなくても、ダンナさまは、お屋敷のスーパースターなのだ。
「ぐるぐるにゃー」
「うーーむ。どこか他の場所に隠さねばならないな。どこがいいかなあ」
「にゃん」
「まるで、わたしとクイーンの知恵比べだね」
「ごろごろにゃーん」
「そうだ! 思いついたぞ」
アイデアを思いついたダンナさまは、勇んで立ち上がった。
「クイーン。しばし、ここで待っていてくれ。『心の平和』を隠してくるよ。わたしとクイーンの知恵比べ、楽しくなってきだぞ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまが楽しげにテラスからお屋敷内に入っていく後姿を、クイーンは悠然と見送った。
しばらくすると屋上に、ダンナさまの姿が見えた。
お屋敷の三階にあたる屋上は、天空ガーデンと名付けられた草の緑と花が色とりどりに咲き乱れる庭園になっている。
ダンナさまは指輪をどこにかくそうかと、天空ガーデンのなかをあれやこれや考えながら行き来している。
天空ガーデンは亡き奥さまの愛した庭園であり、ダンナさまのいいつけで、奥さまの生前そのままに保たれているのだ。
テラスからクイーンが見上げていると、ダンナさまは、庭師の泰蔵さんにおつかいを依頼しているようすだ。
「ふむふむにゃん」
泰蔵さんは屋上から去り、ダンナさまは天空ガーデンにある納屋に向かおうとしている。
どうやらダンナさまは、外出を命じた泰蔵さんが知らぬうちに、納屋のなかに『心の平和』を隠すつもりのようだ。
「『敵をあざむくのは味方から』かしらにゃん」
そのとき、屋上から下を見おろしたダンナさまと、クイーンは目が合った。
「にゃりませんにゃん!」
クイーンは駆けだした。
ねこの身体能力は驚異的であり、人間と比較すれば圧倒的にすぐれており、超能力者のレベルにある。
だからクイーンにとって、外かべをよじ登り、屋上へたどりつく程度のことは平気なのだ。つゆほどもつかれない。
クイーンは雨どいを伝ってスルルスルルといとも簡単に屋上へ上がると、そのまま納屋へ向かって走った。
そしてダンナさまが見ている目の前で、木造の納屋のとびらに爪をかけて駆けあがり、前足でスライド
ストッパーを滑らせ、なんの苦も無く、いたってスムーズに納屋のとびらを開けた。
「にゃーん」
納屋では心もとないことを、クイーンは、事前にダンナさまに警告したのだ。
ダンナさまは、納屋の中をのぞいた。
「ふむ。ここは狭すぎるな。家宝を隠すには、安全な場所ではないな。やめたほうがいいのだな? そうだな、クイーン?」
「にゃにゃーん」
「では他にしよう」
ダンナさまは納屋のとびらを閉めた。
納屋のとびらを開けてから、クイーンは強烈な違和感を覚えていたが、ダンナさまがとびらを閉めると、その妙なひっかかりは収まった。
ダンナさまが階下へ向かいながらクイーンに話しかけようとしているので、クイーンは急いでダンナさまを追った。
「ふむふむ。そうか、納戸も駄目なんだな。じゃあ、いったいどうすればいいのだクイーン? どこにかくせば妻の形見は安全なのだ?」
ダンナさまは、ため息をついている。
「にゃあああ~ん」
クイーンは、わざとゆっくり、スローな返事をかえした。
「そうだなクイーン。焦りは禁物だな。お茶でも飲みながら、時間をかけてじっくり考えよう。なにしろ相手は天下をむこうに暴れまわっている大どろぼう、怪盗ルサンチマンだからな」
「にゃにゃーん」
ダンナさまは階段を降りる途中、二階で出くわしたメイドのカスミにお茶の手配を依頼した。
カスミは、数ヶ月前からこのお屋敷に勤めはじめた新しいメイドさんだ。比較的若い女性で、まだまだ融通が利かないことが多々ある。だから、しらすちゃんは、カスミを苦手にしているのだ。
クイーンは、ダンナさまから用を言いつかるカスミを、じっくり観察した。
カスミが去ったあと、ダンナさまとクイーンは、再び一階の『タペストリーの間』に入り、いつもの席に腰かけた。
「よおっし、クイーン。ヤル気が出てきたぞ! わたしも無い知恵をしぼってみるかな。それともクイーン、なにか良いアイデアがあるのかい? 亡き妻はクイーンのことを、史上最高の『ねこ探偵』だと評していたからな」
「みゅーう」
少し待ってくださいとでも言うように、クイーンはその場から消えた。
ダンナさまが優雅にダージリンティーのファーストフラッシュを飲んでいると、
「にゃーん」
クイーンが現れた。
口に、なにかをくわえている。
「ああ!」
ダンナさまは驚いた。
「ああ、そうか、クイーンはこれを提案したいのだね?」
「にゃにゃーん」
○
翌朝。
ダンナさまの邸宅は、旧伯爵邸と呼ばれていたが、同じ敷地内の、本館から少し離れた場所に、使用人の住む一軒家が数軒あった。
かつて東西南北各ゲートにあった門番小屋を、今ふうにたてかえた住居だ。
西門の近くには、家族向きに改築した平屋があった。
「いってきまーす!」
濃紺の制服に身を包んだ女の子が、元気に走り出した。
「さっち、いってらっしゃーい。学芸会の劇、必ず観に行くからね。落ち着いてがんばるのよ!」
「うん」
女の子の名前は木月さちか。中学二年生。愛称はさっち。
快活で、エネルギッシュ。マッシュ・ショートの髪はナチュラルで、さっちによく似合っている。ピンと背筋が伸びた走る姿勢が絵になる。
見送っているのはお屋敷の料理人、木月カエデコさんだ。
さっちが、使用人用のお勝手口から、塀の外へ出ようとしたそのときだ。
「にゃーん」
おチビなねこちゃんが現れた。
「あ、しらすちゃん、おはよう」
「にゃっ」
しらすちゃんは、さっちの制服スカートのすそをくわえて、いまさっちが出てきたばかりのおうちの方向へ引っ張った。
「あらどうしたの? しらすちゃん、わたしこれから学校へ行かなきゃならないの。きょうは学芸会だから、遅刻したくないのよ。わかってね?」
そう言うとさっちは、しらすちゃんを抱き上げようとした。
しかししらすちゃんは、スカートのすそをしっかりくわえたまま離さない。
「しらすちゃん、どうしたの? わたし足止めされちゃうの? どうにもこうにも動いてくれないの?」
そう、そのとおり。しらすちゃんは断じて動かない。
さっちが困っていると、もう一匹のねこが悠然と登場した。
「あ、クイーン。ちょうどよかった、しらすちゃんをどうにかして! このままじゃあ、わたし学芸会に遅刻しちゃう!」
するとクイーンは、しらすちゃんの目の前にやってきた。
そしてぐううっと、優艶さに満ちた顔をしらすちゃんに近づけ、口から口へ、大切なものをわたした。
するとしらすちゃんは、さっちの体をスルスルスルっとかけのぼり、ヒョイっと肩にとびのって、さっちに顔を近づけた。
「どうしたの、しらすちゃん?」
しらすちゃんは、口から半分のぞかせていたリングを、さっちの両の手のひらへ、しっかりと置いてあげた。
「あっ! リングね!」
さっちは満面の笑みを浮かべて、リングを大事に受け取った。
「このリング、きょうの学芸会の劇で、どうしても必要だったの。わたし、うっかりして持っていくの忘れるところだったわ。クイーンとしらすちゃん、ふたりして、わたしに届けてくれたのね? 助かったわ、どうもありがとう!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんとは、OK、そのとおりよ、という意味だ。
肩から飛び降りたしらすちゃんは満足して、クイーンとともに満面の笑みでさっちを送り出した。
「わたし遅刻しそうだから、もう行かなきゃ。じゃあね。クイーン、しらすちゃん、いってきます!」
「にゃーん」
「にゃーん」
笑顔で二匹に手を振りながら、さっちは門外へ元気いっぱいかけさっていった。
二匹はうしろすがたを温かい気持ちで見送った。
さっちのお母さん・カエデコさんは、お屋敷で料理人として働いている。だから、クイーンのことも、よく知っているのだ。よってカエデコさんの娘であるさっちも、クイーンやしらすちゃんをよく知っていた。
そして、子猫にしらすちゃんと名付けたのは、カエデコさんなのだ。
残り物の無塩しらすを与えると、よろこんで食べるので、カエデコさんが、しらすちゃんと命名したのだ。
クイーンとしらすちゃんは、休けい時間に帰宅するカエデコさんに連れられて、いっしょにおうちにおじゃますることが多々あった。だから、さっちがどこにリングをしまってるかぐらいは、当たり前のように知っていたのだ。
学芸会の劇に使うリング――といっても当然ながら本物ではなくイミテーション・リングであるが――を、クイーンと連携してさっちに届けることができて、しらすちゃんはうれししかった。
「クイーンにゃん。さっちは遅刻せずに、学校に到着できるかしらにゃん?」
「しらすちゃん、優しいのね。さっちは、あなたが思っているよりしっかりしてるから大丈夫よ」
「にゃん」
「さっちの劇がうまくいけばいいわね」
「そうにゃーん」
しらすちゃんはあまえるように返事をした。
「にゃーん」
クイーンはいつもしらすちゃんをやさしくうけいれてくれる。
リングは、劇の練習時には、カエデコさん手作りの紙製のリングを使っていた。
だが、さっちが主役のお姫様役だと知ったカエデコさんは、本物そっくりのイミテーション・リングをレンタルショップに申しこんで借りてくれたのだ。
「大好きなさっちの役に立ててうれしいにゃーん」
「しらすちゃん、お手柄ね。名探偵への第一歩よ」
「ごろごろにゃーん」
「ところでね、しらすちゃん」
「なあに?」
「内緒のお話しがあるの」
「なーににゃん?」
「実はね、……」
クイーンはきのうの出来事を話した。
クイーンとダンナさまはふたり、ひたいを寄せ合い思案していた。ちょうどしらすちゃんがお昼寝をしている頃だ。
ダンナさまはクイーンにいった。
「よし、ヤル気が出てきたぞ。わたしも無い知恵をしぼってみようかな。それともクイーン、なにか良いアイデアがあるのかい?」
「みゃーん」
少し待ってくださいとでも言うように、クイーンはその場から消えた。
ダンナさまが閑麗なたたずまいで、ダージリンティーのファーストフラッシュを口にしていると、「にゃーん」とクイーンが現れた。
「ああ!」
ダンナさまは驚いた。クイーンはリングをくわえていたからだ。
一瞬、本物と見まごうばかりのリングだ。ピカピカとかがやいている。しかし、幼少期から本物に囲まれて生活してきたダンナさまにとっては、本物のリングでないことは一目瞭然だ。
だが、一般の人々にとっては、本物のリングとニセモノのリングの違いはわからないはずだ。
「ああ、そうか。クイーンは、イミテーションリングを提案したいのだね?」
「にゃにゃーん」
クイーンからダンナさまに渡されたリングは本物ではなく、イミテーションリングだったのだ。
「そうか、そうか。念のため、イミテーションリングを用意しておくという手があるのだな? さすがは名探偵クイーンだ。イミテーションリングなら、盗まれても大丈夫だものな」
「にゃーん」
「でかした、クイーン。ナイスアイデアだ。感心したよ。よし、決めた。イミテーションを使おう」
さっそくダンナさまは、奥さまが生前に懇意にしていた宝石商を呼んだ。
「今夜にも、わが家宝と瓜二つのイミテーションリングが欲しい」
ダンナさまは、そう宝石商にリクエストしたのだ。
「ええええ? クイーン、じゃあ、イミテーションリングは、さっちの学芸会用のものと、ダンナさまが入手したものと、合計ふたつあったの?」
しらすちゃんは、クイーンにそうたずねた。
「それが違うのよね。宝石商からは『すぐには用意できない』との返事だったのよ」
「え?」しらすちゃんの目は点になった。「ということは、」
「そうよ、しらすちゃん」
「じゃあ、さっき、わたしがさっちにわたしたリングは?」
「本物よ」
「きゃあ!」
「どう? 本物のリングの輝きは?」
「きゃあ! クイーン、どうしてそんなことを?」
「だってね。考えてみなさい。もし、お屋敷に怪盗ルサンチマンが忍びこんで、本物のリングが盗まれたらこまるでしょ? 唯一無二の奥さまの形見なんですから。だから、お屋敷にある本物のリングと、カエデコさんが借りた学芸会用のイミテーションリングを、念のためにわたし、すりかえといたのよ」
「ええええっ? ビックラこいたにゃん!」
しらすちゃんがこれほど驚いたのは。この十一ヶ月で初めて。すなわち、生まれて初めての経験だ。
「じゃあクイーン。さっきわたしがさっちにわたしたのは、ほんとうに本物のリングだったのにゃん?」
「そうよ、しらすちゃん。本物のリングと、イミテーションリングのちがいがあなたにわかって?」
「うーーん。そういえば、本物のほうが、紫のかがやきが濃かったような気がするにゃん……」
「そうよ、よくわかったわね。名探偵を目ざすあなたにとっては、またとない貴重な経験になったでしょう?」
「にゃにゃーん」
クイーンは、さっちが学芸会で使うイミテーションリングをダンナさまにわたし、代わりに、ダンナさまの本物のリングをさっちの宝箱に戻しておいたのだ。
さっちの宝箱とは、さっちが中学校の美術の授業で作った木製のもので、さっちがデザインした唐草模様が掘り込まれてある。宝箱の中には浜辺で集めた貝殻や光る石など、さっちが幼稚園に上がる前からの想い出の品々が詰まっているのだ。
そしてさっちの宝箱は、いつも居間のテーブルのど真ん中に置きっぱなしだったのだから、探すまでもないのだ。
「じゃあクイーン? だったら、ダンナさまさえ、本物のリングがどこに隠されているのかは知らないの?」
「そうよ。知っているのは、世界であなたとわたしだけよ、しらすちゃん」
「にゃーん! さすがは名探偵にゃん!」
しらすちゃんは興奮した。
そう。クイーンは名探偵なのだ。
しかも、麗しき名探偵なのだ。そしてしらすちゃんは、クイーンのような名探偵を目ざしているのだ。
しらすちゃんは生後十一か月の子ねこにしては、かなりの物知りだと、他のねこさんたちから褒められたりする。もし人間として生まれてきたなら、天才児ともてはやされたかもしれない。
でも、クイーンの頭脳と経験は、しらすちゃんのはるか上をいく。
しらすちゃんはいつも思っていた。ほんとうの、本物の天才とは、クイーンのようなねこのことをいうのだ。較べることなど、できようはずもない。
クイーンは、抜群の推理力、卓越した運動神経、そしてだれも敵わない優雅さ。この三拍子そろったねこ探偵なのだ。
そうなのだ。クイーンは、ただの探偵ではない。
華麗なるねこ探偵なのだ。
○
翌朝。
お屋敷内は、朝から多くのお客さまたちでごったがえしていた。
「ああ、学芸会がきのうで良かったわ。さっちの劇は大成功だったから」
すぐ近くに立っているカエデコさんがそうつぶやいたのを、しらすちゃんは聞きのがさなかった。
「にゃーん」
「もし学芸会がきょう開かれたなら、休みをもらって、さっち主演の劇を見に行くことはできなだったわ」
それほど急な来客があったのだ。
まだ朝の九時だったが、見知らぬ男性が四人、『大広間サルーン』に通されていた。
ダンナさまは使用人たちを集めた。
ダンナさまと、初見の恰幅のいいご老人のふたりが座の中央に腰かけている。
ダンナさまはみなを見まわしてから、こう言った。
「みな集ったようだな。では会議を始めよう」
しらすちゃんはサルーンに屹立する円柱のかげに隠れながらも、一同を見わたすことができる位置にいた。
「しらすちゃん、なにかが起こるにちがいないわ」と、クイーンが探偵見習中のしらすちゃんを呼び寄せてくれたのだ。
会議の参加者は、全部で二匹と九人。
うち、しらすちゃんが知っていたのは二匹と五人。残りの四人は初めて見た。いったいどこのだれだろうか。
知っている二匹とは、敬愛してやまないクイーンと、しらすちゃん自身。
そして九名の人間の中心に座しているダンナさまのかたわらで、クイーンは悠然と横たわっていた。
さすがは女王さま、貫禄たっぷりだ。寝そべっているのに、だらしなくない。それどころか気品たっぷりだ。
あの気高さ、上品さは、さすがクイーンだ。ダンナさまにひけをとらず、一同の中心にどんと構えている。しらすちゃんは感心した。
ダンナさまは、よく通るバリトンボイスで語った。
「……みんなに集ってもらったのは他でもない。いま世間を賑わせている『怪盗ルサンチマン』については、様々なニュースで聞き知っていると思う。実は、ついに我が屋敷に、怪盗ルサンチマンから脅迫状が届いた」
なんということでしょう! しらすちゃんは引っくり返るほど驚いた。
人間たちも、騒然としている。
怪盗ルサンチマンとは、ここ数年、日本じゅうを騒がせている大どろぼうだ。おそらくは男性であろうという以外、まったく正体不明なのだ。
新聞やネット、テレビのニュースで名前を見ない日はないほど有名だ。なにしろ盗みに入る前に、必ずや事前に脅迫状を送りつけ、いついつ何を盗みに入るか宝の持ち主に告知するらしい。
だから脅迫状は、日本社会に対する挑戦状でもある。
しかもねらった獲物は必ず強奪している凄腕の持ち主。
天下無敵だと評判の大どろぼうなのだ。
ダンナさまはふところから白い書状を取り出し、みんなに見せた。どうやら新聞や雑誌の文字を切り貼りして作成した脅迫状だ。
「……そしてだな。怪盗ルサンチマンからの脅迫状には、『あす正午、屋敷に隠された秘宝中の秘宝『心の平和』をいただきに参上する』、と記されてある。みな知ってのとおり、『心の平和』は我が家の家宝だ。そしてこの書状はきのう届いたので、ルサンチマンが現れるのは、きょうの正午だ」
みんなは、さらにどよめいた。
そのどよめきのさなか、クイーンはダンナさまのひざの上の特等席を離れ、ぴょーんと飛び降りた。そしてみんなの背後へと、テクテクと歩いて移動した。円柱のかげにしらすちゃんがいるからだ。
「にゃーん」
クイーンがよびかけた。
「にゃーん」
しらすちゃんはいつものお返事だ。
しらすちゃんは、かたわらにやってきてくれたクイーンにたずねた。
「ねえクイーン。クイーンは『心の平和』って知ってる?」
「知ってるわ。しらすちゃんがきのう、さっちにわたしたリングよ。あのリングの主石が『心の平和』なのよ」
「きゃあ、そうだったにゃん!」
「『心の平和』は、ダンナさまが一番大切になされている宝石よ。だって亡き奥さまの形見なのですから」
「奥さまの!」
しらすちゃんが生まれる直前に奥さまはお亡くなりになってしまったので、しらすちゃんは奥さまに直接お会いしたことはない。
でも、とても優しくて、心豊かな方だったと耳にしたことが何度もあった。
「ね、しらすちゃん。『心の平和』の主石は、アメジスト。別名、紫水晶よ。アメジストには、歴史と伝統があってね。ルネッサンス時代のヨーロッパでは、すでに代表的な宝石として価値が認められていたわ。そしてアメジストのなかでも『心の平和』は、秘宝中の秘宝だったの」
「どうしてにゃん?」
「なぜって、それはね。『心の平和』の吸い込まれるようなパープルの輝きを見ていると、どんな苦しいことがあっても、どんな哀しいことがあっても、見ている者の心を癒し、落ち着かせてくれるからよ」
「わあ、すごいにゃん」
「ロシア帝国の有名な女帝・エカテリーナ二世が、生前、もっとも愛用していた宝石が『心の平和』なの。エカテリーナ二世は波乱万丈の人生を送った人よ。荒れ狂う時代の波に翻弄され、苦悩の生涯を送った人だから、『心の平和』はどうしても手放せなかったのよ」
「なーるほどにゃん」
「だからいま、奥さまを亡くされてつらい毎日をすごしていらっしゃるダンナさまにとって、決して手放せない大事な宝石なの」
「そうね、そのとおりにゃん」
「しかもね、しらすちゃん。アメジストは、奥さまの誕生石よ。『心の平和』は、おふたりが婚約なされたときに、ダンナさまが奥さまにお贈りした想い出の品なのよ。だから『心の平和』は、ただの宝石ではないの。おふたりにとって、心に残る大切な想い出の品なのよ、わかって?」
「くーーん、そうなのにゃん!」
しらすちゃんも、『心の平和』の重要さが理解できた。
「でだ。集ってもらったみんなに、まずご紹介したいかたがいる」
ダンナさまが引き続き話しはじめたので、みなは静粛にした。
「こちらは、亡き祖父の知人であり、わたしも親しくさせていただいている福井山金吾先生だ」
ダンナさまは、隣に腰かけている威厳あるご老人を見やった。
ご老人が座るイスの脇に杖が立てかけてあるのは、あしがお悪いからだろう。かなりお年を召されている。
「金吾先生は、すでに引退なされていらっしゃるが、我が国の犯罪捜査における第一人者だ」
耳の上にだけ白い髪が残されている福井山金吾氏は、立派なスリーピースを着用していた。濃紺の生地に、白の縦縞チョークド・ストライプが入っている赫々たるスーツ姿だが、ややお腹まわりがきつ そうだ。久し振りに着込んだのかもしれない。
「今回、我が屋敷に怪盗ルサンチマンから脅迫状が届けられるにおよび、豊富なご経験をお持ちの金吾先生にご協力をいただくことにしたのです。では金吾先生、みなにむけて、ひとことお願いします」
齢七十代後半ほどだろうか、太り気味のご老人が発した。
「では、まずみなさま、どうぞお座りください」
ダンナさまを中心に半円状にイスが並べられていたので、みんなは腰かけた。みんなが座ったのは金の縁取りが施された革張りのイスで、来客用の高級品だ。
ご老人は話しはじめた。
「コホン、コホン。それでは座ったまま失礼します。ただいまご紹介にあずかりました福井山金吾です。十年ほど前まで警視総監をしておりました」
元警視総監と聞き、人間たちはどよめいた。かつて我が国の警察機構のトップに君臨していた人物なのだ。
「また退官後は、東京大学法学部で、院生たちに指導もしておりました」
ますます人間たちはどよめいた。
人間というものは、権威に弱いのだ。
「そして先日、今回の変事の知らせを受け、ご相談に乗らせていただきました。警察に正式に警護を依頼すれば、事が公になってしまう。でも、事を大袈裟に騒ぎ立てるマスコミの餌食にはなりたくないとのご意向でした。よって、亡きお祖父様に生前、大変お世話になった私・福井山金吾が非公式ながら、老骨に鞭打って参上した次第です」
金吾氏は、このような内容を、たどたどしい口調で、つっかえひっかえしながら何とか語り終えた。
背中がいささか曲がり、ノドが弱り、体力は衰えたとはいえ、慇懃な立ち居ふるまいは堂々としたものであった。
しかし金吾氏が、お腹の周囲がはちきれそうなのを無理して一礼したところ、ボタンが三個、外れて飛んでしまった。
「あうっ」
とんだ失態だが、しらすちゃんは見て見ぬフリをすることにした。
「にゃん」
ダンナさまは、みんなを見回し、よくとおる声でこう言った。
「ところで、きょう、この屋敷に初めてお越しになった方々も少なくない。だれがだれかわからねば警備も不都合だろう。よって使用人のみんなに客人を紹介したいし、客人にもみんなを紹介したい。だが、わたしも初めてお会いした人たちもいる。だから自己紹介がよいだろう。使用人のみんなからひとりずつ、あいさつがてら、全員にむけて自己紹介してください」
自己紹介と聞いて、人間たちはざわついた。みんなトップバッターは避けたいのか、周囲をジロジロうかがう様子だ。
するとクイーンは、おののく人間たちの目の前を悠然かつ流麗によこぎった。
そして、優雅なステップを踏んで広間の中央に戻り、ダンナさまのひざの上に颯爽と飛び乗った。
「まずみなさんに、名探偵クイーンを紹介しよう」
「にゃーん」とクイーンはみなにあいさつをした。
「亡き妻の愛したクイーン・コッドローだ。いまや、我が愛猫だ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまは愛おしそうにクイーンの頭を撫でた。クイーンは、広間の中心から、威風堂々と人間たちを見回している。
クイーンの堂々とした立ち居ふるまいに、しらすちゃんは感心し、ほれぼれした。
「亡き妻の飼い猫だったクイーンは、我が家の大切な守り神だ。今回の事件でも、存分に活躍してもらえるだろう」
「にゃーん」
クイーンはヤル気じゅうぶんだ。
そしてクイーンは、威厳たっぷりに胸を張り、狼狽する人間たちが半円状に座る内側をトコトコ歩き、ある男性の前に堂々と立ち止まった。
「にゃーん」
クイーンは、男性を指名しているようだ。
大柄の男性で、長靴を履いている。ダンナさまはいった。
「クイーンが、まず泰蔵さんをご指名のようだね。では年齢順にしよう」
すると総白髪で、長身の男性が一礼してから口を開いた。
「わしゃ、庭師の佐郷泰蔵です。今年で六十五歳になり申す。先々代、現在のダンナさまのお祖父さまの代から庭師としてお仕えしております」
しらすちゃんが知るかぎり、泰蔵さんは熱心な仕事人である。日頃は無口だが、草花の話を始めると止まらなくなる。
そして泰蔵さんは、亡き奥さまの大のお気に入りだった屋上の天空ガーデンを、ダンナさまの言いつけどおり、丹念に手をかけて、奥さま生前のまま守っている。
「泰蔵さん、住まいはどちらですか?」
そう金吾氏がたずねたので、泰蔵さんはありのままを答えた。
「お屋敷の屋上――三階にあたる屋上に、天空ガーデンがありましての。そのガーデンの奥に納屋がありまして、納屋の脇に個人向けの住まいを与えられておりまする。あそこに住んでおりますと、わしが世話しちょる天空ガーデンの木々や草花の生育状態が、よおおくわかるのですじゃ」
「ほほう、興味深いの」
「ぜひ、後ほどご散策くだされ」
泰蔵さんはにっこり笑みをみせた。草花が大好きなのだ。
クイーンはトコトコと華麗なステップを踏み、皆の注目を一身に集めた。そして次に、小柄な老人の前に立ち止まった。
「にゃーん」
つぎにクイーンは、この小柄な老人を指名したのだ。老人は濃紺色のキャップを取って一礼すると、はげ頭だった。
「井村貞六です。ダンナさまが車を出すときの運転手をしております。年齢は、今年で五十二歳になり申す。わたしは、ダンナさまのお父さまの代からお仕えてしておりまする」
貞六さんは、謹厳実直という形容がぴったりのお抱え運転手さんで、ダンナさまからの信頼も厚い。
「お屋敷の敷地内、最南端に位置する使用人向けの住居に、ありがたく住まわせていただいておりまする」
かつての南門の門番小屋を改装した一軒家に住んでいるのだ。
次は、さっちのお母さんの順番だわ。そうしらすちゃんが予想したとおり、クイーンはカエデコさんの前にやってきた。
「にゃーん」
クイーンは、とびっきりの麗しい声で、カエデコさんを指名した。
「木月カエデコです。四十七歳です。料理人としてこちらのお屋敷に十年ほど勤めております。ダンナさまのおはからいで、敷地の西外れにある一軒家に、ひとり娘とともに居住しております。どうもありがとうございます」
そう言って、カエデコさんは頭を下げた。
「ほう、娘さんとともにの。おいくつかの?」と金吾氏は問うた。
「はい。娘のさちかは、今年で中学二年生になりました。十四歳です」
「うむ、ありがとう」
次は最後、クイーンはメイドの前に立ち止まった。
「にゃーん」
「ええっと」
大柄で太めの新しいメイドは、うつむきかげんのまま、モゾモゾと聞き取りにくい声で話した。
「アタシ、メイドの小吾田カスミ、三十四歳。三カ月前から働き始めて、地下の使用人部屋に住んでマス。アタシ無口なので……以上デス」
なんとも素っ気ないあいさつだ。でも無口なら仕方ない。愛想がなくとも、仕事をテキパキこなしているなら仕方ないか。
でもこのメイドは、クイーンといっしょにお屋敷に入ろうとしたしらすちゃんを、一度ならず、木の枝で引っぱたいて追い払おうとした。まったくもってひどい人間だと、しらすちゃんは、カスミを大の苦手にしている。
本音をいわせてもらえれば、一刻も早くこの場から出て行ってほしい。
しらすちゃんはそう願った。
するとしらすちゃんの思いが通じたのか、カスミは、ちょこんとヒザを曲げる西ヨーロッパふうの気取ったおじぎをすると、大広間から出て行こうとした。
「ニャーゴー!」
すかさずクイーンが通せんぼした。
カスミは舌打ちした。
「カスミさん、ここにいてくださいね」
カスミは、やんわりと金吾氏にたしなめられた。
するとダンナさまが口を開いた。
「では次に、きょう初めて我が屋敷におこしになった方々、こちらも年齢順にごあいさつしてください」
きょう、初めてしらすちゃんが見た面々だ。名探偵を目ざすしらすちゃんにとって、願ってもない人間観察の機会だ。
クイーンはすらりと伸びた四肢をかろやかに使って進み、初見者のなかで最年長と思われる男の前に立ち止まった。
「にゃーん」
しらすちゃんは、見知らぬ男を観察した。
まだ九月なのに、室内でも脱がないトレンチコートのエリを立て、幅広のリボンで飾られたクラシカルな帽子を室内でもかぶりつづけるさまは、いかにも気どり屋だ。それともほんとうのおしゃれというものがわかってないだけか。
全身を統一している色が、もし、ド派手なショッキングピンクでさえなければ、おしゃれといえなくもない。カッコつけながら男は口を開いた。
「フッ。ワタシは、私立探偵、ラニグチ・イワオだ。年齢は四十四歳。どうだ、カッコいいだろ?」
そういうと、その場でラニグチはクルッと一回転した。するとタバコくささが広間じゅうに広がった。ダンナさまも金吾氏も、咳き込んでいるではないか。
しらすちゃんは憤慨した。口のなかにも、ピンクのスーツにもコートにも、タバコの臭いが染み付いているのだ。
ラニグチはいやらしげな表情を浮かべ、こう続けた。
「ワタシは、手が早いことで有名だ。ま、この名探偵ラニグチが来た以上、この事件、すでに解決したも同然だな。みんなの衆、大舟に乗ったつもりでご安心あれ。ヨ・ロ・シ・ク!」
しらすちゃんは吹き出しそうになった。
手が早い? ふふふ、なによ、この探偵。人間のことばをきちんと理解して使っているのかしら? いや、それとも正しく自己申告したのかしらにゃん? 相当、いやらしそうな目つきをしている。
探偵らしくいかにも如才なく、目端が利きそうだが、どうも小ずるいところがありそう。この男、要注意だわにゃん。しらすちゃんはもう一度、目を凝らしてラニグチ・イワオの風貌を確認した。
なんてキザったらしい。それに『私立』探偵というのが、どうにもうさんくさい。
もし人間にねこの話しことばがつうじるのなら、「我がクイーンは、伯爵家お抱えの名探偵なのよ!」
しらすちゃんは、そう言い返してやりたかった。
次にクイーンは、サッと半袖のTシャツ男の前に飛んだ。この男もいかにもあやしそうだ。クイーンは指名の鳴き声を上げた。
「にゃーん」
クイーンに指名され、Tシャツ姿の若い男が口を開いた。
「おうオレの順番かあ? じゃあ、オレ、言うよ。オレは、臨時ボディーガードのキナバ・ユウイチ。三十三歳だ。趣味は、筋トレと、渋谷の日焼けサロン通い。どう? イケテルだろ?」
いかにもチャラチャラした態度でそう言うと、茶髪を短く刈り上げた髪形のキナバは、真っ黒に日焼けした腕を曲げて、筋肉を隆起させた。ムキムキの筋肉を見せびらかそうとしているのか、キナバの上半身は白のTシャツ一枚のみだ。
「オレ様キナバ・ユウイチが来たからには、もはや、宝石の安全は保証されたも同然だ。怪盗が来ようが、津波が来ようが、宝石を必ず護ってみせよう。ふはははは」
あらあら。ここは山の手の台地の上、しかも高台に立地してるのよ。海岸線からも河川からも遠く離れてるのに、どうやって津波が押し寄せるのかしら?
しらすちゃんは、どこからどうみてもチャラ男であるキナバをいぶかしみ、鋭くにらみつけた。
そうともしらずキナバは、ふてぶてしいようすで続けた。
「ええっと。それとォ、オレ様のもうひとつの趣味は、とにかく、よく食べること。なにもかもね。ね、料理人さん、きょうのお昼ご飯、オレたちさ、ここで喰えるんだろ? オレ、三人前は喰うから。じゅうぶん用意しといてくれ。ハッ!」
かけ声とともに、キナバはふたたび、二の腕の筋肉を盛り上げた。
キナバの二の腕の筋肉はたしかに発達している。だからキナバのからだはたくましいのだが、ただしボディーガードとしてなら、背たけはかなり低めだ。
実はこの人、背が低いというおのれのコンプレックスをぬぐいさるため、筋トレに励んでいるのかしらにゃん。
しかもキナバはそこそこの年齢だが、今回、臨時のボディーガードとしてやとわれたとのことだ。では、日頃はいったい何をしている人なのだろうか? しらすちゃんは疑問に思った。
「じまんじゃないが、オレ様は手グセが悪くて有名だ。よおく覚えとけよ」
え? 何をじまんしてるの、この人? 手グセが悪いって、他人のものを盗むっていう意味でしょ?
キナバも要注意だわと、しらすちゃんは心した。
いまや司会者の貫禄を漂わすクイーンは、最後の男に近づいたが、一瞥してプイとソッポを向いた。
そこには、おかしな格好をした若者が立っていた。白のランニングシャツは、どう見ても下着のままだし、はいているズボンはパジャマのようだ。
「じゃあいうねー。オレはぁ、イムラ・サダイチロウぅ。二十二歳ィー。叔父サンといっしょにぃ住んでるゥー」
語尾を伸ばすしゃべりかたが、今ドキの若者ふうで、カッコよいとでも思っているのだろうか?
しらすちゃんには、聞くにたえなかった。
実直な運転手・井村貞六さんは独身で、長年独り暮らしだったが、いつのまにか甥のサダイチロウも同居しはじめたらしい。
サダイチロウはボサボサ頭で、寝癖だらけ。まるで不審者だ。脇腹をポリポリ掻きながら話す様子は、見るにたえない。
「オレェー、別に学校なんてクソウゼエとこなんか通ってねえしィ。それに仕事なんて、チョーまじウゼエから働く気になんかなんねえしィ。でもアパート借りたりしたらぁ、カネかかんだろ? だからさァー、チョッと前から叔父さんとこにぃ、勝手に転がりこんでぇ、住まわせてもらってるゥ。悪いかよ? 悪かねえだロォ?」
サダイチロウは、憎々しげな表情のまま続けた。
「オレが日頃ナニしてるかだってェ? 日長、へやにこもってネットの動画とゲームにハマッテっからさァ、うん、たいてい朝方までよう。だからいつもは寝てんだよこの時間。マジ眠いったらありゃしねえぇ。フワアっ~」
そういい終わると、サダイチロウは片手でおのれの腹部をモゾモゾモゾと掻(か)きながら、大あくびした。
しらすちゃんは、サダイチロウに、ダサイチロウとアダ名を付けた。ダサイチロウはこの場に、なんのために呼ばれたのだろうか?
「しもうたな……」
不肖の甥っ子をまったく場違いな所に連れて来てしまい、貞六さんは面目ないと恥ずかしげにうつむき、おのれの額を押さえている。
ダサイチロウは、存在そのものがTPOに反しているのだ。ウワサは聞いていたが、初めて見た。用心用心。
ダサイチロウみたいな男は、野放しにするより、しっかりと監視の目が行き届くこの場所に連れて来て正解だわ。
そうしらすちゃんは思った。
あまりにも問題を起しそうな人間ばかりなので、しらすちゃんの神経は研ぎ澄まされてきたのだ。
「ところでェー」
ダサイチロウは、まだ何か言おうとしている。
「用心棒として知っておきたいんだけどォー。『心の平和』はぁー、お屋敷のどこに隠してあるんスカァー?」
ダサイチロウのあまりの非礼ぶりに、しらすちゃんはキレた。
「シャー!」
そう叫んだしらすちゃんは、全力で赤い絨毯をけり、ダサイチロウの前に仁王立ちした。
「シャアア!」
ダサイチロウはいまだ寝ぼけているのか、愛らしい子ねこにすごまれて、キョトンとしている。
「ふむ」金吾氏は目を丸くして言った。「これはこれは、なんともまあ、カワイイ子ねこちゃんだね」
「あっ。わたしの知り合いなんです」
カエデコさんがあわててかけよって、しらすちゃんを抱き上げた。
「しらすちゃんっていう名前なんです」
カエデコさんは、しらすちゃんを落ち着かせようと、ふんわりと抱きしめて、優しくおでこを撫でてくれた。
「にゃーん」
とびっきりの甘え声でしらすちゃんは返した。
「なんとも愛らしい子ねこちゃんだ」
目を細めた金吾氏は、しらすちゃんをほめてくれた。
「みゃーん」
みなに紹介してもらったしらすちゃんは、一人前になれた気がした。うれしくてうれしくて、ちいさなノドをゴロゴロ鳴らした。
「かわいいー」
人びとは、しらすちゃんのかわいい仕草に目を奪われている。
その間に、ダンナさまと金吾氏は、何やら目配せをした。
「コホン、ならば発表しよう」
金吾氏は、おごそかに発表した。
「『心の平和』は、ワインセラーにある」
人間たちはどよめいた。
○
チクチクチッチ、チクチクチッチ。
巨大な壁かけ時計の針は正常に動いている。
ところが大広間の人間たちは皆、無言でイスに座ったままだ。
ただし、カエデコさんと、クイーンと、しらすちゃんだけは大広間を抜け、階下に下りることができた。
「ふうう」
おのれの仕事場であり、いつもの居場所であるキッチンへ入ったカエデコさんはホッとして、大きく深呼吸した。
「やあね、あそこいるだけで疲れちゃうわ。ね、しらすちゃん?」
「にゃーん」
キッチンへは入らず、手前のろうかでクイーンとしらすちゃんは立ち止まった。食べ物をあつかう場所には入らないきまりなのだ。
「でも、いくら疲れていようが、料理人に休けい時間なんて無いのよね。これからみなさんの昼食を仕度しなければならないの。かなりたいへんだわ」
「くーーん」
「いつも余裕をもって食材は購入しているから、買い置きはちゃんとあるけどね」
「にゃーん」
「で、幸いなことに、きょうは土曜日」
カエデコさんは腰をかがめて、ろうかにいるクイーンとしらすちゃんに目線を合わせると、こう頼んだ。
「クイーン、しらすちゃん、お願い。うちの子、呼んできて!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんは、OKという意味であり、しらすちゃんは、いつもあこがれのクイーンのマネをする。だから二匹の返事は、よく二重奏になるのだ。
クイーンとしらすちゃんはかけだした。
敷地内は、文字どおり、まさに自分の庭である。
二匹は、広大な緑の芝生をかけぬけ、さっちを呼びに行った。
芝はいつも泰蔵さんがていねいに刈りこんでいるから、走り心地が飛びっきりグーなのだ。
木月家にかけこんだ二匹は、さっちを見つけた。
「くーん」
「くーん」
「どうしたの? クイーンもしらすちゃんも息せき切って」
ベッドの上で気ままに寝転がり、まだまだのんびりしていたかったさっちは目をこすった。
「あ? もしかしてお母さんが呼んでる? わたしを?」
さっちは、自分を指さした。
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
「あーあー。さっき起きたばっかりなのに、仕方ないなあ」
ベッドからフラフラと起き上がったさっちは、しぶしぶトレーナーとジャージを重ね着した。
「ねえ、クイーン、しらすちゃん。わたし、こんな格好でいいかな?」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
クイーンとしらすちゃんとさっちは、大きな庭を横切って、タタタタ、タタタ、と本館へ向かってかけていった。
さっちは日頃、なぎなたのけいこで身体をきたえているので、長い距離を走ってもそれほどつかれないのだ。
キッチンに入ったさっちは、さっそくお母さんを手伝った。野菜洗いや、ジャガイモの皮むきなどだ。
当初はイヤイヤながらといった風情だったさっちも、血は争えず、やってる間に楽しくなってきた。いつのまにやら鼻唄を歌っている。
「ねえお母さん。もっと洗う野菜ない? もっとおジャガの皮むきもしたい」
そうリクエストするまでに入れ込んでいる。
「じゃあね、えーっと、」
とにかくカエデコさんは忙しかった。
でもしらすちゃんは、ただ見ているだけだ。いつもとても世話になっているカエデコさんを手伝うことができないのが、どうしようもなく残念だ。本心は、手伝いたくて、手伝いたくてたまらないのに!
「にゃそぅ」
仕方なく、クイーンとともに大広間に戻った。
チクチクチッチ、チクチクチッチ。
ただ、ときだけが無為に過ぎていく。
待てど暮らせど何も起こらない。
事件が発生しないまま、ついに正午を過ぎた。
「ねえクイーン。怪盗ルサンチマンは、脅迫状で予告した正午になっても現れないわ。どうしてなの?」
「なぜなのかしらね、しらすちゃん。でも、わたしの予感は、全然収まらないのよ。それどころか強まるばかり」
「ねこのしらせね?」
「そうよ。わたしが思うに――、すでにルサンチマンは、とっく出現しているのじゃないかしら」
「きゃあ!」
しらすちゃんはびっくりした。
「怪盗ルサンチマンという男は、予告したことは確実に実行するらしいから」
「ああクイーン、どうしましょうにゃん」
「でも、しらすちゃん。あなたは、お昼寝の時間よ」
「はいにゃーん」
しらすちゃんは、大広間の円柱の影でお昼寝した。
ねこという動物は通常、一日二十四時間のうち、十四時間から二十時間ほど眠るのだ。子ねこは、もっと眠るのだ。
熟睡したあと、しらすちゃんは大広間を出て、芝生の上でごろんと寝転がったり、ちょうちょさんたちとたわむれて遊んだ。
「やっぱり、お外で遊ぶって気持ちいいにゃーん」
すると、そろそろ西の空が真っ赤に染まってきた。
「とっくに事件は解決したかしらにゃん」
しらすちゃんはそう思い、ちょうちょさんたちに別れを告げて、人間たちが集うお屋敷に戻った。
しらすちゃんは大広間に入ると、人間たちをかきわけ、クイーンをさがした。
すると窓際に座って、雅やかに顔を掻いているクイーンを見つけたので、しらすちゃんは笑顔で寄っていった。
「クイーン、にゃ~ん」
「しらすちゃん、にゃ~ん」
「クイーン、もう事件は解決したにゃん?」
「いいえ、まだよ。夕方になったけども、まだ事件が発生しないのよ。まだ、なにも盗まれてないの」
「そうなの? 怪盗ルサンチマンは、もう宝石をあきらめたのかしらにゃん」
「しっ! しらすちゃん、声を落として! 怪盗ルサンチマンは脅迫状に書いたままを、必ず実行するおそろしい男なの。だから正午の時点で、やっぱり、このお屋敷にもぐりこんでいるはずよ!」
「きゃあ、やっぱりそうにゃん?」
しらすちゃんは、目が点になった。
――危機は確実に迫っているのだ。
そんなことも知らず、私立探偵ラニグチが、ショッキングピンクのすそをヒラヒラさせて、退屈そうにつぶやいている。
「こんなに警戒が厳重だからナ。さすがの怪盗ルサンチマンもさ、とっくにお宝どろぼう、ギブアップしたんだろうなあ」
「ふふふふ。オレの二の腕を見たら、どんな怪盗もシッポをまいて逃げ出すのさ。あはははは!」
筋肉じまんのキナバも、ヒマそうに二の腕をさすっている。ヒマすぎるのか、その場で腕立て伏せと、腹筋、背筋を鍛え始めた。
こうしてさらに数時間経過した。
夕方の五時半を過ぎてもまったく動きがないものの、人間達はみんな、屋敷に居残っていた。
もともとの予定では、祖父の代からの知人である元警視総監の金吾氏だけが、邸宅で夕食をともにするはずだったのに、急遽、予定は変更になった。
全員分の夕食を提供することになったのだ。
ということは大忙しなのはカエデコさんである。
客人のみなさんにお出しした三時のおやつで使用した食器類を、どうにか片付け終わったばかりだったのに。
「クイーン、しらすちゃん! またお願いしてもいい? もう一回、うちへ走って、さっち呼んできて!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
クイーンとしらすちゃんは、暮れなずむ夕陽に照らされる大きな庭を走った。
なんて素晴らしい夕焼けなのだろう!
あたりいったいは、くまなくあかね色にそまっている。そう、目に入るすべてが、燃えるようにうつくしくかがやいているのだ。どこまでも巨大で、心をふるわすほど美しく、完璧な夕陽だった。
「にゃーん!」
疾走しながらも夕陽に見とれたしらすちゃんは、自分がいったい何のために走っているのか危うく忘れそうになった。しかし、われわれ人間にとってみれば、そんなしらすちゃんが一番かわゆいのであった、なにもかも忘れるほど!
夢のような夕焼けに、赤々とそまった広大な庭を横断したクイーンとしらすちゃんは、さっちのへやにかけこんだ。
「くーん」
「くーん」
へやに再び現れた二匹に、さっちは問いかけた。
「あれっ? どうしたの、また二匹そろって。もしかして、またお母さんがわたしを呼んでるの? クイーンもしらすちゃんも、大忙しね?」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
再度の召集だ。
「ああ。せっかくゲームはじめたばかりなのに、仕方ないなあ」
寝転がっていたベッドから起き上がったさっちは、ゲーム機の電源を切った。
「よーし。いっちょ、やるか! クイーン、しらすちゃん、いっしょに行こう!」
「にゃーん」
「にゃーん」
クイーンとしらすちゃんとさっちは、かけだした。
燃えるような夕陽が、どこまでも続く広大な庭に沈んでいく絶景の真ん前を横切って、タッタ、タッタとかけていった。
時が止まるほど美しい夕焼けだった。
○
ようやく夕食後のデザートタイムが終わったころあいだった。
広々とした大広間に、人間たちはしょざいなげに立ったり、座ったりしていた。
しらすちゃんからすれば、ムダな動きばかりだ。
私立探偵ラニグチと、筋肉じまんのキナバが窓際でなにやら立ち話をしている。小声なのがどうにも怪しい。
しらすちゃんはふたりの背後にまわって、コソコソ話に聞き耳を立てた。
「……おい、キナバ。知ってるなら教えてくれ。ワインセラーって、お屋敷のどこにあるか知ってるか?」
「えっ? ワインセラーの場所? ……そんなこと、オレにわかるわけねえだろ? しかもだな、ラニグチさんよ」
「む? どうした?」
「お宝をワインセラーに隠したってのは、ガセネタだってウワサだぜ」
「何だと? ウソだっていうのか?」
「そうだ。『敵をあざむくのは味方から』っていうだろ。警備の常識だ」
「なーるほどなあ。ということは、逆に、お宝がワインセラーには無いってことだけは確実になったわけだ」
すると、いきなり大広間が真っ暗になった。
「停電だ!」
だれかが叫んだ。
混乱しているので、叫んだのはだれだかわからない。
しらすちゃんは、すかさずかべを見上げた。壁かけ時計で、時刻を確認するのだ。
――午後八時十一分。
『しらすちゃん。名探偵を目ざすなら、押さえるべきことをひとつずつ確実に押さえていくべきなのよ。どんなちいさなことでもいいからね』
しらすちゃんはクイーンから、そうアドバイスをもらっていた。ねこは夜目が利くから、暗闇でも時計を読めるのだ。
「うわあ!」
「きゃあ!」
「痛っ!」
「ぶつかるなコンニャロー!」
何がどうなってるのか、夜目が利かない人間たちにはわからない。
暗闇の中、人々はうろたえ、デタラメに走り出そうとしてはイスのあしにけつまずいたり、だれだかわからないだれかにぶつかったり、もう大あわてだ。
「どけどけ!」
「どくのはそっちだ、ア、イテテテ……」
こんなていたらくじゃ、怪盗ルサンチマンも腹のなかで大笑いしてるのじゃなかろうか?
人間たちが足早に行き来する騒音が響いた。階段からも足音が聞こえる。
大広間にいたはずのクイーンも、サッとどこかへ走り去ってしまったようだ。
「ようし、わたしも!」
しらすちゃんは名探偵になりたいのだ。だから覚悟を決めた。そして、うたがわしいと目をつけていたある男の後を追った。
ねこは夜目がきくので、暗かろうが明るかろうが、尾行などお手のものだ。
しらすちゃんが追いかけることにした人間は、この界隈でダントツの金欠男・井村ダサイチロウだ。
停電であたりが真っ暗になり、しばらく復旧しなさそうだと感じると、とたんに元気になったダサイチロウは、暗闇をいとわず走りだしたのだ。
あやしい。いかにもあやしい。
クイーンのような名探偵を目ざすしらすちゃんとしては、ダサイチロウを追いかけずにいられない。
初めて来た人がすぐ迷子になってしまう、迷路のように広いお屋敷内がこんなに暗いのにもかかわらず、ダサイチロウは一直線に大広間を突っきり、となりの『晩餐の間』に侵入した。
晩餐の間には高価な絵画や調度品が、山のようにたくさんかざってある。盗み出せば大金になるものばかりだ。
「わたし、決心した! ダサイチロウがおかしなマネをしたら、有無を言わさず、かみついてやるにゃん」
決意を新たにしたしらすちゃんは、ダサイチロウを追走しながらも身構えた。
しかしダサイチロウは、晩餐の間も一気にかけぬけていくではないか。
「おかしいにゃん。どうしてかしらにゃん」
クビをひねりつつ、しらすちゃんも晩餐の間を通りすぎた。
すると意外や意外、なぜかダサイチロウは使用人専用の階段をつかって、地下へかけおりていく。
「どこへ行くつもりにゃん? こわいけど、わたし、追いかける。だってねこ探偵をめざしてるんだもん!」
しらすちゃんは、勇気を出してダサイチロウをたった一匹で追いかけた。
「わたし、こわいけど、がんばるにゃん!」
しらすちゃんは単身、階段をかけおり、地下一階にたどりついた。
そのときだ。
「ぎゃああっ!」
男のものとも女のものともいえない悲鳴が聞こえた。しらすちゃんはおどろきのあまり、ビクッと立ち止まった。
「しまったにゃん」
しらすちゃんが立ち止まったので、走りつづけたダサイチロウは、地階に伸びる真っ暗なろうかの先へ消えてしまった。
しらすちゃんは、あやしい男を見失ってしまったのだ。
でもしらすちゃんは、めげずに考えた。
「いまの悲鳴は、いったいどこからにゃん?」
さっきの悲鳴は、どうやら地下一階の、ここからもう少し先にあるワインセラーから聞こえたようだ。
しらすちゃんは、ワインセラーへ向かってろうかを走り出そうとした、その瞬間。
かけだしざま、だれかわからないが人間とすれちがった。
「きゃあ、危ないにゃん! ふみつけられたら、わたし、ペッチャンコになっちゃうにゃん」
その人間はドンドンドンと、ものすごい勢いで、階段をかけあがっていった。
「わたし、どっちにいくべきかしら。いますれちがった人間をおいかけるべきか? それとも、ワインセラーに行くべきか」
ゆっくり考えてるひまはない。いますぐ決断すべきなのだ。
「よおっし!」
しらすちゃんは思いきって、こころを決めた。
「わたし、まっすぐすすむにゃん!」
しらすちゃんは、すれ違った人間に構わず、ろうかを奥へと走った。全速力でだ。そして、なぜか扉が半開きになっているワインセラーにかけ入った。
すると、なんとそこには、クイーンがいるではないか。
しらすちゃんはおどろきのあまり、ことばを失った。
ねこは暗がりでも、よく目が見えるのだ。ワインセラーには、クイーン以外、動物も人間もだれもいない。
「にゃーん」
びっくりして、固まっているしらすちゃんに対し、クイーンはやさしく声をかけてくれた。
「クイーンにゃん!」
「しらすちゃん、一足遅かったわ。わたしとしたことが、人間に逃げられちゃったの。くやしいわ」
見上げると、ワインセラーの壁かけ時計は、八時三十一分を指している。
「人間? いまわたし、だれかわからない人間とすれちがったにゃん!」
「そうなの? だったらその人間は、使用人出入口から、とっくに屋外へ逃げ出してるかもしれないわ」
「でもその人間は、階段で上へ昇っていったにゃん。このろうかの奥に使用人出入口があることを知らなかったのかもしれないわにゃん」
「そうね。わたしたちも、とにかく一階へ上がりましょう」
「はいにゃん!」
クイーンとしらすちゃんは、連れ立ってろうかを走り、使用人用の階段のすぐ手前まで来た。
その先は半地下のキッチンになっており、停電する前までは、カエデコさんとさっちが食器洗いをしていたはずだ。
キッチンの先には、使用人向けの出入口があり、クイーンやしらすちゃんも、よく出入りしている。
すると突然、明かりが灯った。
お屋敷内の電気が復旧したのだ。
「あ、クイーン。しらすちゃん」
さっちがキッチンから顔をのぞかせた。
「にゃーん」とクイーンが返事をし、
「にゃーん」としらすちゃんもつづいた。
「ねえお母さん。ここにクイーンとしらすちゃんがいるわよ」
「なになに」
エプロンで手を拭きながらカエデコさんも現れた。
「あら、いつもの仲良しペアさん、こんばんは」
「みゅう」
「みゅう」
「さっち。きっとクイーンとしらすちゃんは、わたしたちを心配して、ここまで来てくれたのよ。幸いキッチンは半地下だから、月明かりが入ってね、完全には真っ暗にはならなかったわ。さっきの停電中、ドタドタ足音がしたけど、キッチンへはだれも現れず、使用人出入口はだれも通らなかったけどね」
「くーん」
「くーん」
「まあかわいい。クイーンも、しらすちゃんも、夜目が利くから便利でいいわね。まるで超能力者ね」
そういうと、さっちは、おチビなしらすちゃんを軽々と抱きかかえてくれた。
「くんくーん」
「ねえさっち。この停電中に、もしかしたらとんでもないことが起こっていたかもしれないわ」
カエデコさんがそういった。
「ええっ? お母さん、怖いこといわないでよ」
さっちは、しらすちゃんをギュっと抱き締めた。
「みゃーん」
そのとき館内放送が聞こえた。
「――福井山金吾です。電気が復旧しました。みなさん急いで大広間サルーンにお集まりください」
深刻な声だ。
カエデコさんは、ほらねっていう顔をしている。二匹とふたりは、連れ立って階段を昇り、大広間にむかった。停電は復旧し、屋敷内は元通り、どこも灯りがともっている。
「いったいなにがおこったにゃん?」
しらすちゃんは、ふるえる足で、大広間に入った。
午後八時三十六分。
ようやく全員が、元いた大広間に集合した。
みんなは、朝九時の状態と同じように半円状に座った。クイーンとしらすちゃんは、円柱の影にいた。
「しらすちゃん、だれひとりとして欠けてないわね」
「にゃにゃーん」
「停電があってから、きっかり二十五分が経過しているわ」
さすがクイーンは名探偵。押さえるべき事柄をきちんと把握している。
すると渋い顔の金吾氏が口を開いた。
「みなさん、たいへんなことが発生しました」
金吾氏の隣に座っているダンナさまは、顔面蒼白だ。
金吾氏は苦虫を噛みつぶしたように続けた。
「停電のあいだに、『心の平和』が盗まれたのです。警備を司る者として、慙愧の念に耐えません。これから、ひとりひとり尋問いたします。ですから今から、だれひとり室外へ出ることは許可しません」
みんなにどよめきが走った。金吾氏は目を怒らせている。
「では、おひとり、おひとり、順番に尋問いたす」
しなやかにかけだしたクイーンは、真っ先にこの男の前に立ち止まった。
「ニャーゴー」
しらすちゃんもあとに続いた。
「ニャーゴー」
第一の容疑者・ダサイチロウだ。
「えっ。オレ? オレは……」
「あなたは先程の停電のさいちゅう、どこにいましたか?」
金吾氏は、キラリと目を光らせた。鋭い眼光だ。
「オレはね、オレは、えーーと、うーーんと」
明らかに、ダサイチロウはとまどっている。なんとか時間をかせぎ、言いのがれを考えているようにしか見えない。
「しらすちゃん、あれはウソツキのよくやる行動だわよね」
クイーンは小声で、しらすちゃんに耳打ちしてくれた。
「にゃ~~ん」
「にゃ~ん」
すると突如飛び上がったクイーンは、ダサイチロウが小脇に抱えていた上着を、下へ向かって叩きつけた。
「あっ、やめろ!」
ダサイチロウは叫んだが、時すでに遅し。
じゅうたんに落下した上着のポケットから、小銭がジャラジャラと、音をたてて飛び散った。
「にゃん。いまはまだ九月よ。上着を着込むには、不自然に早すぎるのよ」
「すごいわ、クイーンにゃん」
「察するに、ダサイチロウは、もともと何かを失敬するために、上着を持参したのよ」
「そのとおりにゃん」
盗んだ小銭が、みんなの見ている前で、ジャラジャラとまきちらされたのだ。動かぬしょうこだ。
「ヌ、盗んでないさ。いくら無職でも、もともと小銭ぐらい持っててオカシクねえだろ?」
ダサイチロウは、うろたえて言いわけしている。
クイーンは落ちた小銭を一枚、口にくわえ上げ、サッとダンナさまに届けた。あっという間の早業だ。
ダンナさまは、手渡された硬貨を観察した。
「ふむ。このコインは日本円ではなく、ユーロだな」
となりに座るダンナさまから硬貨を手渡された金吾氏はコインを一瞥すると、ダサイチロウに問うた。
「サダイチロウさん。あなたはパスポートを持っていますか?」
「えっ、パスポート? 何で、何でそんなこと訊くんだ?」
「あなたは最近、海外旅行をしましたか?」
「無職で金欠のオレが、海外なんて行けるわけねーだろ!」
「じゃあ、どうしてヨーロッパ連合の通貨・ユーロ硬貨を持っているのかな?」
金吾氏は鋭い語調で容赦なくたたみかけ、ダサイチロウは見るからにしどろもどろになった。
「え? ユーロ? ――そ、それは、ええっと、さっき停電のとき、地下の執事室で、チョビット出来心が起きてさ。ジャラジャラとポッケに突っ込んでしまった。ゴメン、ほんの出来心だ。許してくれ。チェッ。あんな停電さえなけりゃあ、こんなめに遭わされることもなかったのになあ」
「キミ! ほんとうに出来心かね?」
金吾氏は手きびしい。尋問に手馴れたようすだ。
「ちっ。もうこうなったら洗いざらいホントのこと話すよ。話せばいいんだろ、話せばよ。執事室はさ、去年、執事さんが亡くなった時そのままだってウワサで聞いたから、絶対金目のモノがあるんじゃないかって、オレはもともと目をつけてたのさ! 慧眼だろ、慧眼!」
「イムラ・ダサイチロウ。後であなたには本署まで来てもらう」
いつのまにか元警視総監まで、アダ名で呼んでいた。
「チェっつ。わかったよう。行けばいいんだろ、行けばよう」
そう言うと不肖の甥・ダサイチロウは、ダダっ子のように半身をゆさぶった。
次にクイーンは、筋肉モリモリのボディーガード、キナバ・ユウイチの前に立ちふさがった。
「ニャーゴー」
しらすちゃんも急いでクイーンのあとについていき、勇躍、キナバの面前に立ち止まった。
「ニャーゴー」
金吾氏は落ち着いた口調で質問した。
「キナバ・ユウイチさん、正直にこたえてください。あなたは停電中、どこへ行っていましたか?」
「えっ? 下だよ下」
吐き出すようにキナバは答えた。
「ウソをつくんじゃない。キナバ、アンタは二階にいたね?」
そう指摘したのは、キナバの隣に座っている怪しげな私立探偵ラニグチだ。いまだにショッキングピンクのトレンチコートを羽織っている気障な男だ。
「何だと? オレをウソツキだっていうのか!」
「ああ、ワタシは確かにアンタを二階で見た」
「じゃあきくけどサ、オレを二階で見たってことは、ラニグチさんよ、アンタこそ、どうして二階にいたんだ? へ? 言ってみろよ!」
「そ、それは……、くそう、そんなのオマエのようなあやしいヤロウに白状する筋合いはネエだろ!」
キナバとラニグチは、ののしりあいをおっぱじめた。
「ほらみろ、オメエも言えないじゃんかよ」
「じゃあキナバ、オマエはなぜ二階にいたんだ?」
「それは二階の奥さまのへやも生前そのままだってウワサで聞いたから、迷わず向かったんだよ! オマエだってそうだろ、このコソ泥ヘボ探偵!」
「ああっ。キナバ、オマエって男は人間の恥だな! ボディーガードのくせに、奥さまの間に盗みに入ったのか? あきれてモノも言えないぞ」
「ラニグチよ。オマエもさ、どうせあわよくばを狙ったんだろ? このキザったらしくて、いけ好かないクソ親父め!」
「なんだとキナバ! オレ様にはな、とんでもなく崇高な目的があったんだ! オレ様はダンナさまの『心の平和』が心配だったからこそ、監視の目を光らせるために二階へ上がったんだ。ボディーガードごときの、ハンパ野郎といっしょにしないでくれるかな」
「じゃあ、どうしてさっきは二階にいた理由を答えられなかったんだ。え? 私立探偵風情がよう」
「う、う、うう……このお!」
もめていたふたりは、とっくみあう寸前、互いのポケットに奇妙な隆起を発見した。いかにも不自然だ。
「なんだ? ポッケのそのふくらみは?」
「そっちこそ、あやしい野郎め! そのポケットのなかに、なにか隠してやがるな? まさか?」
悪党ふたりはすかさず、互いのポケットに、互いの手を突っ込んだ。
「おい、やめろ!」
「他人のポッケに手をつっこむんじゃねえ!」
互いに有無を言わさずポケットから何かを取り出した。
「ああ!」
みんなの目がクギ付けになった。
ラニグチの手には立派な置時計、キナバの手には高級な腕時計が光っているではないか!
ともに、ひと目で高価だとわかる高級品であり、ラニグチやキナバの私物だとは到底、思えない。
「て、てめえラニグチ、探偵づらしてダンナさまの時計を盗んだのか?」
「それはこっちのセリフだキナバ。盗人たけだけしいとは、オマエのことじゃねえか! そういえばさっき、自分で自分が手グセが悪いって豪語してやがったな! この愚か者めが」
「オレは腕時計を失敬しただけだ。置時計を盗んだオメエのほうがよっぽど性質が悪い」
「なんだとコソ泥め! 腕時計のほうが高価なんだ、だからオマエのほうが罪が重いんだ!」
「オメエに較べりゃあ、おれは微罪だ」
「ちがう! テメエのほうが重罪人だ! この悪党め」
ふたりは、どちらが、より高価なものを盗んだか、どちらの犯罪性がより重いのか、なじりあっている。
「しらすちゃん。あのふたり、目クソ鼻クソを笑うの関係ね。うふふふ」
「さすがクイーン、たとえが面白いわ」
ラニグチもキナバも開き直った表情で、さらに相手を烈しく罵倒した。
「ふふん、ラニグチめ。テメエは目の付け所が悪いんだよ。置時計なんか重いだけで、たいしてカネにはならねえんだよ! 盗むモノを間違えやがったな!」
「なんだと! キナバめ。腕時計なんてモノはな、日本じゅうどこにでも転がってんだヨ。それをだな、年代物の置時計の価値を知らねえとは、どろぼうの風下にもおけねえな。サッサとクタばっちまえ!」
「おい、こら。オレは置き引きの名人だ。オマエのような、ただのどろぼうなんかじゃねえんだぞ!」
「オレのほうが収穫高は高いんだ、だから能率の高いオレのほうが盗みのプロなんだよ、このド素人が!」
「ナニ? どろぼうとしての生産性が高いのはオレ様のほうだぞ!」
「なにを! ぬすっととしての技量は、はるかにオレ様のほうが上だ!」
「そんなはずないだろ? オレ様はだな、窃盗という犯罪の効率性を重視した新しいタイプの犯罪者なんだ。テメエなんぞ古クセエ!」
「なんだと! テメエは犯罪経験が浅いだけだろっ? どろぼうとして、オレ様の経験に匹敵する輩は、この世で怪盗ルサンチマンだけだぞ!」
熱くなった悪党ふたりは、いつの間にか悪党じまんの応酬だ。
そしてここまで両人の会話を黙って聞いていた金吾氏は、威厳たっぷり、おもむろに口を開いた。
「もうよかろう。奥さまの間のドアノブから指紋を採取すれば、お前たちの悪行は白日のもとに晒されよう。両名とも、あとで本署まで来てもらうぞ」
「く、っくう……」
「オマエのせいだぞウソツキ探偵め」
たがいにたがいを威嚇しつつ、くやしそうにしながらも、やっとふたりは口を閉じた。
次にメイドのカスミの前へ、クイーンが立ち止まろうとしたとき、突然、カスミが大きな声でわめき散らした。
「アンタら親子があやしい! アタシさ、いままで温情かけてあげてたから言わなかったけどさ、アンタら様子が変なんだよ!」
カスミは、ものすごい剣幕で木月親子をニラみつけた。
「だいいち、どうしてここに娘を連れて来てるのさ?」
「それはお客様が多くても、だれも手伝ってくれないから、食器洗いとか、野菜の皮むきとかを手伝ってもらっていたんです」
カエデコさんは、手伝ってくれないカスミを暗に批判しているのだ。
「ダンナさまに無断で? こどもをキッチンに入れることについて、了承は得たの? おかし過ぎるわ、この親子!」
カスミは、まさに飛びかからんばかり、猛獣の勢いだ。「ちなみにアタシは停電中、このへやから一歩も外に出ませんでしたから、無実ですぅ」
「わたしも疑う者ではありませんが、念のため調べましょう」
落ち着いた声で金吾氏はそう言ったあと、手を打った。
すると、金吾氏より十歳ほど若く見える男性、――とはいえ六十代半ばであろうか――、引き締まった体型の男性が大広間に入ってきた。黒ブチのメガネに、パリッとした黒のスーツが決まっている。
あとでクイーンがダンナさまに教えてもらったところによると、この部下こそ現役の警視総監、我が国の警察機構のトップ中のトップに立つ人物なのだ。
「ははっ、金吾先生。どのようなご用件でしょうか?」
「下山田君。この母子のすまいを、直ちに捜索しなさい!」
「ははっ。家宅捜査でございますね。畏まりましてございます」
「ニャー!」
しらすちゃんは真っ青になって叫んだ。
なぜなら、クイーンからとんでもないことを聞かされていたからだ。
あのときの会話が、あのときの情景とともに、自然としらすちゃんのなかに浮かび上がってきた。
「ねえ、しらすちゃん。あなたにだけは伝えておくわ」
「にゃーん。なんのことにゃん?」
「さっき、さっちにリングを届けてくれたでしょ?」
「はいにゃーん」
クイーンから口にくわえたリングを受け取ったしらすちゃんは、急いでさっちにリングをわたしたのだ。
そしてさっちはリングを学校に持っていき、指にはめて演技をして、学芸会の劇は大成功を収めたのだ。
召使いからお姫様になる役を演じた主役のさっちは、先生方からも、クラスメイトたちからも、保護者たちからも、褒めちぎられ大評判になった。
みんなから絶賛され、学芸会の主演俳優賞を受賞したのだ。
――おそらくそのリングはいま、さっちのおうちのなか、さっちの宝箱のなかに入っているはずだ。
「――実はね。しらすちゃんがさっちにわたしてくれたのは、奥さまの形見、本物のリングだったの」
「え?」
「もしね、お屋敷に怪盗ルサンチマンが忍びこんで、リングが盗まれたら大変でしょ? だからお屋敷にある本物の『心の平和』と、学芸会用のイミテーションリングを、念のためにわたし、すりかえといたのよ」
「にゃーん」
クイーンからその秘密を聞いたとき、しらすちゃんはノンキな返事をしてしまったが、こまったことになった。
だって、このままだと、さっちが犯人にされてしまう!
たいへんだ!
気が動顛したしらすちゃんは、あわをくってクイーンを探したが、どこにもいない。
影もかたちもない。
「ああ。いったいどうしよう。このままだと大好きなさっちが、わたしのせいで逮捕されちゃうわ!」
居ても立ってもいられず、しらすちゃんは大広間を飛び出した。
さっちとカエデコさんのために、走った。必死だ。なりふりかまっていられない。
ふたりのためなら、夜道もこわくない!
○
勇気をふりしぼったしらすちゃんは、全速力で、駆けにかけた。
ひとりで暗くて広い庭を横切り、さっちの家へ向かおうとした。
しかし、手遅れだった。
暗闇の中、無数の懐中電灯の群れが接近してきた。
しらすちゃんは、下山田警視総監に率いられた制服警官たちがドヤドヤと戻ってくるのに出くわしただけだった。
五十名を超える警官たちによる家宅捜査は、あっけないほど素早く終了してしまったのだ。
「にゃんと!」
制服警官たちは、威風堂々と、お屋敷へもどっている。仕方なく、しらすちゃんもあとに続いた。
五十余人の警官たちは大広間にズカズカと侵入した。
「金吾先生。われわれは木月家で、リングを発見しました」
下山田警視総監は、恭しく金吾氏にリングを手わたした。
「ああ、にゃん……」
そりゃそうだ。まったく隠していないから、すぐに見つかったのだ。
なぜならさっちの宝箱は、居間のテーブルのど真ん中に置きっぱなしなのだから、大人数が懐中電灯で探すまでもないのだ。
カスミは目ざとく叫んだ。
「『心の平和』よ! 犯人はあの親子よ!」
「引っ捕らえよ!」
金吾氏は名奉行のごとく堂々と命じた。
「承知!」
下山田警視総監は最敬礼で応じた。
しかし大広間といえども、さすがにオトナ五十人は入り過ぎだ。ギュウギュウ詰めの制服警官たちは、たがいにぶつかり合い、たがいのくつをふみあって、思うように身動きが取れない。
それでも五十余人の警官たちはなんとか懸命に突進し、よってたかって、カエデコさんとさっちを捕まえた。
ふたりはしらすちゃんの見ている前で、両腕をからめとられ、残念ながら自由を奪われてしまった。
「誤解です! そのリングは、学芸会の劇で、こどもが使ったものです!」
「だまらっしゃいどろぼうネコ! アンタら親子の不正は、アタシがとっくに見抜いていたのさ! アハハハ!」
カスミは勝ちほこって大笑いした。男のような攻撃的な声だ。
「ちがうわ! わたしもさっちも、どろぼうなんかじゃありません!」
「そうよ! お母さんもわたしも、宝石を盗んでなんかいません!」
母子は反論したが、制服警官たちはいっさい聞き入れず、ふたりに手錠をかけようとした。
その瞬間。
警官たちの面前を、目にも鮮やかな白・グレー・シルバーの稲妻が、華麗に突っ切った。
と思いきや、金吾氏が手のひらに載せていた宝石を、クイーンがうばい取った。
目にも止まらぬ驚異的な素早さで、 パクンと、口にくわえたのだ。
「ああ!」
「証拠の指輪をかっさらったぞ!」
「追え!」
「あのネコだあっ!」
といえども五十余名で押しかけた制服警官たちは、そもそもキュウキュウ詰めで窮しており、容易に身動きがとれない。
するとクイーンはそのまま、大広間の空中に飛び上がった。
しなやかに伸び上がっている。
黄金のシャンデリアに照らされ、煌びやかな光沢を放つクイーンが、まばゆく宙を舞う姿は、心を奪われるほど神々しい。
この世のものとは思えない優婉な踊りは、気品に溢れ、なおかつドラマチックだ。
神々に奉納する舞踏そのものだ。
大広間のときが止まった瞬間だった。
「……なんと美しい」
下山田警視総監は、あんぐりと口を大きく開けた。
「……神々の舞いもさもあらん」
金吾氏は驚嘆し、息を呑んだ。
「……あんれまあ!」
警官たちはクイーンの美しさに見とれ、我を忘れて棒立ちになった。
皆の心が釘付けになり、すべての動作は完全に停止した。
魔法の舞いだ。
みなの身体が強力な接着剤で固まってしまったようだ。
ひらりと舞ったクイーンは、深紅のじゅうたんの上に軽快に着地すると、音もたてずに移動した。そして口にくわえていたリングを、ダンナさまの手のひらの上に、丁重に載せて差し上げた。
見るまでもないといった様子で、ダンナさまは言っい放った。
「なんだ。これはイミテーションリングだ。本物じゃない」
「にゃーん」
さすがはクイーンだ。日本一の名探偵だ。しらすちゃんはあっけにとられた。
「何だ、君たちは! ニセモノと本物のちがいも判断つかないのかね? 全員、下がりなさい!」
金吾氏は怒り心頭だ。
「ははっ。金吾先生、たいへん失礼致しました。まことに申し訳ゴザイマセン」
五十余名の制服警官たちは、下山田警視総監を先頭に、すごすご退室していった。
こうしてさっち母子の疑いは晴れたが、しかし謎は深まるばかりだ。
キナバやワニグチは、もともと悪い人相をますます歪めて訝しんだ。
「じゃあ、犯人はだれなんだ?」
「いったい全体、『心の平和』は今、どこにあるんだ?」
そのとき、クイーンはダンナさまのひざの上から飛び降りた。
桜花爛漫といおうか、色あざやかな羽模様を持つ一羽の蝶が華麗に空を舞うように、クイーンはきらめく銀色のかがやきをまきちらしながら、瞬時に移動した。
きらびやかな光の輪が、燦々と光沢を放った。ねこの移動速度は時速四十八キロ。人間が逃げようにも、まったくもって無理である。
気がついた時には、クイーンは、メイドのカスミの右手の手袋を口にくわえていた。
「あ。このネコ、いったい何しようってぇの? こら! 離しなさい!」
あわを食ったカスミが、慌てて手を引っ込めたところ、右手の白い手袋が脱げてしまった。
「ああ!」
みんなは驚いた。
「にゃあ!」
クイーンは、人間たちになにかを伝えようとしている。
カスミの手には、出来たばかりの二つの傷があった。まだ噛みたてホヤホヤ、ネコの犬歯にグサリと噛まれた二つの跡から血がにじんでいる。
クイーンは、カスミが落とした白い手袋をくわえると、さっちに渡した。
さっちは手袋を確認した。
「この手袋には、歯形はついてないわ。ということは、カスミさんの手にある歯形は、今の今、ついたものではない証拠ね。先に歯形がついて、そのあとに手袋を嵌めた、という順序になるわ。ということは――」
いったんことばを切ると、さっちはカスミを見すえた。
「――カスミさん、あなたはこの白手袋を使って、手にできたばかりの傷あとを隠してたのね?」
さっちはメイドに問うた。
「ニャー」
そう鳴くと、クイーンはその場で、おのれのエレガントな口を大きく広げた。
カスミの手の傷あとは、クイーンの犬歯と、見事に合致しているではないか!
「にゃーごー」
ダンナさまは、カスミの手にくっきりついた歯形を見て言った。
「それはクイーンに噛まれた跡だ。おかしいな。クイーンは人を噛むようなねこじゃないのに。なにかきっと、まっとうな理由があるはずだ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまのもとに舞い戻ったクイーンは、あきらかに、おおきく賛成の意思を表示している。
威厳たっぷりに金吾氏は指摘した。
「ゴホン、ゴホン。そういえば、この気高きねこ――クイーンは先程、地下室の灯りがついた時に、ワインセラーから出てきた。わしが地下の『執事の間』から館内放送をする直前に目撃したぞ。ということはだ。カスミさんとやら、あなたウソをついたね? あなたは停電中、地下に忍びこんでいたんだ!」
クイーンは口を大きく広げ、犬歯を見せて笑った。
「ニャーゴー」
「わたしたちも、クイーンが地階にいたことは知っています!」
カエデコさんも主張した。
さっちは、カスミを睨み返した。
「カスミさん、あなたはウソをついたわね? 停電でお屋敷が真っ暗になったとき、あなたは地下にいたのね!」
「うう……」
追いこまれたカスミは言葉に詰まった。
「これではっきりしたわ。カスミさん。あなたは、ワインセラーにいたのよ! 『心の平和』を盗むために! 」
さっちはそう宣告した。
「な、な、何の証拠があってそんなこと言うの? う、うう」
カスミは、アタフタし、シドロモドロになっている。
さっちは、クイーンにたずねた。
「クイーン。あなた、真犯人を見たのね?」
「にゃにゃーん」
イエスのサインだ。
「真犯人はだあれ?」
クイーンはみんなの前を颯爽と横切った。満場の視線を一身に浴びながら、悠然とカスミの前に立ち止まった。
「にゃにゃ~ん」
みんなはどよめいた。
名探偵クイーンは、カスミが真犯人だと断定したのだ。
「うそよ、うそ! ぜったいうそに決まってる! ネコになんかホントのことがわかるもんですか!」
カスミはかたくなに抵抗した。
「いったい何の証拠があってそんなこと言うのサ!」
クイーンは、ニイッとおのれの犬歯をみんなに見せた。
「どうやらその傷あとが、あなたが犯人である証拠のようですな」
いかにもおのれが真犯人を見つけた、とでも言いたそうにラニグチは言った。
クイーンはしなやかに移動した。そして、さっちが手に持つ白手袋を、これ見よがしにクンクンとかいだ。
それを見てさっちはたずねた。
「カスミさん。あなた、まだまだ暑いこの時期に、なんで手袋なんてしてたの? まだ九月なのに! 傷口をかくす以外の理由はひとつもないはずよ。どうしてよ? なぜ手袋をしていたのか教えてください」
「そ、それはねぇ、ええっと、ええと、ラテックスアレルギーって症候群があってサぁ、だからよ。子供のアンタなんかにゃ、どーせわかんないだろうけどォー」
未成年者をバカにするようなトゲを含んだ言い方に、さっちは色をなした。
「いいえちがいます。ラテックスアレルギーであれば、逆にこんな手袋なんてはめることができません!」
「ち、ち、ちがうわよ、絶対ちがいますぅ~~だ。疾病ある人間をいじめないでくださいぃー」
カスミは、あくまでも抵抗した。
するとさっちは、こう言いかえした。
「わたし、中学のクラスメイトがラテックスアレルギーだから知ってるんです! ラテックスアレルギーならこんな手袋は使えません。カスミさん、あなたは指紋をつけないために手袋してたんでしょ?」
カスミはうろたえた。
「あ、あ、あ! ……わ、わたしが宝石を盗んだって証拠はひとつもないんですから、いい加減なこというと侮辱罪で訴えるわよ!」
金吾氏は大きく一回、手を打った。
すぐに十歳年下の下山田警視総監が現れ、敬礼した。
「お呼びでしょうか、金吾先生」
「どうだね? 下山田くん」
「それがお屋敷じゅうどこを探しても、『心の平和』は見つかりません」
現役の警視総監は申し訳なさそうに、そう答えた。
「メイドが住んでいる地下の使用人部屋も探したか?」
「はい。カスミのへやも隈なく探しましたが、見当たりません」
「うむ、下がってよい」
「ははっ」
敬礼した下山田警視総監は再び退出した。
するとしらすちゃんのもとに、クイーンが悠々とした足取りで寄ってきた。
「しらすちゃん、人間たちは『心の平和』を捜しているけど、なかなか見つけられないようね」
「はいにゃん、そうみたいにゃん。でも、どこにあるのかしらにゃん? クイーン、知ってるのにゃん?」
「ええ。今度は、しらすちゃん。あなたに大きな手柄を立ててもらうわよ」
「え? ほんとうにゃん?」
「あのイジワルなメイドの、もう片方の手袋をひんむいてやりなさい」
「にゃにゃ~~ん」OKの返事だ。
クイーンに背中を押されて勇気百倍、勇躍飛び出したしらすちゃんは、目にもとまらぬスピードでメイドに近づくと、ササッとメイドの身体をよじ登った。
「あ、この子ねこ、何をしようっていうのさ!」
おののくカスミをしりめに、しらすちゃんは、カスミが左手につけている手袋をサッと引き抜いた。
「ああっ!」
みんなは仰天した。
左手の手袋をひきはがすと、キラリと光る紫のかがやきが大広間全体に光の輪を投げかけた。
「おおおっ!」
みなは息をのんだ。
これぞ本物のかがやきだ。
カスミは左手の小指に、盗み出したばかりの『心の平和』をはめていたのだ。手袋で、まんまとかくしていたのだ。
「あ! 『心の平和』だわ!」さっちは叫ぶように言った。「やっぱりカスミさん、あなたが盗んだのね!」
「う、うう……」
いままで果敢に言い返していたカスミは、ついに言い返せなくなってしまった。
「いい加減に白状しなさい!」
さっちは詰め寄った。
「ニャーゴー」
さっちとクイーンは、ついにカスミを追いつめた。
「ニャーゴー」
しらすちゃんも微力ながら、しっぽを怒らせてカスミの前に立ちはだかった。
とうとう観念したのか、カスミは急にしおらしくなった。
「カスミさん。どうしてこんなことをしたんだ? え?」
金吾氏は詰問した。
「ア、 アタシは、悪い男にそそのかされて……。そ、それはアンタよ!」
カスミは、おマヌケ男三人衆――ラニグチ、キナバ、ダサイチロウ――がブラブラしているあたりを指さした。
男三人はビクッとした。
「いかがわしい探偵さんよ! あんた手が早いって、さっき自己申告してたよな!」
キナバが、ここぞとばかりにラニグチをなじった。
「ハアァ? ナニを言うか? オレじゃないゾ、オマエだろっキナバ!」
「ちがう、オレじゃない。オレはこんな女と喋ったことなんてない。どうせオメエだろ、ダサイチロウ!」
「おれの名前はサダイチロウだ、無礼者! それにアンタだろっラニグチさんよ! アンタは一目見たときから悪党面だった」
「ぬわんだと? あんな不細工な女、オレの好みじゃない! 最初から徹頭徹尾、信用置けないのはオマエだ!」
「なにを? このオタンコナスビ!」
「ナスビはオメエだ、この筋肉バカめ!」
三人のナスビたちは、互いに互いを罵った。
「アタシ、この男に脅されていたんです!」
メイドは、指をさして訴えた。
「『怪盗騒ぎが世の中を席巻してるから、脅迫状を送れば、ビビッたダンナさまは必ず『心の平和』を隠したへやへ直行するはずだ。さすれば隠し場所が手に取るようにわかるにちげえねえ』って、アタシ、そう、そそのかされたの!」
三人の新参者たちは罵倒しあい、ついには取っ組み合いを始めそうになったそのときだった。
「うひゃあ!」
朝一番の会議で金吾氏がみんなにあいさつした際に、しらすちゃんが見ている前で、金吾氏のお腹から外れて飛んだボタン三個は、きょうもカスミが掃除をサボったため、赤いじゅうたんの上に落ちたままになっていた。
ところが、三人のあやしい男たちそれぞれが一個ずつボタンを踏んでしまい、つるっと滑ってコロリと転倒してしまった。
ゴッチーーーンン!
「うぐえっ」
「あ痛ててて……」
「あたたた……」
しらすちゃんは感嘆した。
「にゃあお。もしかして、もしかすると、ボタンが三つプチって飛んだのは、三人組の正体を看破していた金吾氏の神ワザだったのかしらにゃん?」
だとしたら老いたとはいえ、金吾氏はさすがである。
大広間が混乱を見せる中、だれにも気づかれぬように、おもむろにカスミは後退してゆく。こっそりひっそり忍び足だ。
人間たちは、ぶざまな三人の争いに気を取られてしまい、カスミがこの場から秘かに逃げ去ろうとしていることを察知できない。
そのときだ。大広間を横断して、鮮烈な銀白色の閃光が走った。
華麗なるクイーンが、走りざま飛び上がり、怒涛の勢いでカスミの顔面に食いついた。
「ああつ!」
人間たちは目を見張った。
クイーンが食いついた物体は、フリルつきの制服を着たメイドの首の上に載っていたが、すでにカスミの顔面では無かった。
「みゃあーお」
クイーンが噛みついたものは、実にメイドの顔面ではなく、覆面《ふくめん》だった。ぼろぼろっと、ほおの部分が赤じゅうたんの上に落ちた。噛み落とされた覆面の跡からは、ヒゲっつらの一部が見えた。
「ふふふふ」
カスミは笑い声を上げた。
「わはははは」
傲慢不遜なその笑い声は、徐々に男の声に変わっていく。
「うはははハハハハ、よく気がついたな」
なにを思ってか、メイドは、ふてぶてしく笑いながらおのれの顔面に手をかけた。
そして、おのれの顔をおおっていた覆面を、両手で引きちぎり、破り捨てた。
「ねこ探偵クイーン、褒めてやる。この怪盗ルサンチマンさまを、よくぞここまで追い詰めたとはな!」
怪人の両眼は爛々と光り輝き、大天狗を想起させる赤ら顔は、周囲の空間すべてを威圧する悪のオーラを発散させた。
人間たちは驚きのあまり声も出ない。
三人の愚か者たちも吃驚仰天して、こんにゃくゼリーのように、ナよっと凝固している。
「にゃん、にゃん。さすがは変装の達人・怪盗ルサンチマンだけど、なんだかファニーでユーモラスだわにゃん」
赤鬼のようにいかつい顔つきの怪盗ルサンチマンは、相変わらず可愛いメイド服に身を包んでいる。その姿は、しらすちゃんにとっては、今にも吹き出しそうなぐらい場違いで滑稽だ。
「みゃーお」
クイーンは、怪盗ルサンチマンの眼前に立ちふさがった。
すると自称私立探偵ラニグチがしゃしゃり出た。
「さては、さっき屋敷を停電させたのはオマエだな、怪盗ルサンチマン! どうやって停電させた?」
「ふふふふ。吾輩はブレイカーを落としただけだ。メイドカスミに化けた我輩は、すでに三カ月間も、この屋敷で働いてんだよ。ブレイカーのある電気室の場所を、メイドが知らぬはずなかろうが!」
堂々と白状した怪盗ルサンチマンに対し、さっちは冷静に指摘した。
「灯りが消えたとき、すぐに『停電だ!』って叫んだの、あなたでしょ?、怪盗ルサンチマン。だれかがスイッチを押し間違えたとか、他の理由で暗くなっただけかもしれないのに、瞬時に停電だって決めつけたのは、思い返してみるとかなりおかしいわ。絶対に変だったわ」
「むっ」
怪盗ルサンチマンは身構えた。図星なのだ。
さっちは追及の手をゆるめない。
「怪盗ルサンチマン。あなた、大広間にいるみんなを混乱させようとして、わざと停電だって大声で叫んだのね? しかもあの叫び声、だれの声かもわからなかったし、男女どちらの声かも判別できなかったわ」
怪盗ルサンチマンは感心して言った。
「てめえ、ガキのくせして鋭いな。停電だとわかれば、警護責任者である金吾氏が、『心の平和』のほんとうの隠し場所へ直行するだろうと、吾輩は睨んだのさ」
怪盗ルサンチマンは、ふてぶてしく続けた。
「フフフフ。そして吾輩の読みの通りに事が運んだ。停電だと吾輩が叫んだら、案の定、金吾氏はお宝の隠し場所へ向かった。果たして隠し場所は、――やっぱりワインセラーだったゼ」
「だからワインセラーは、一体どこにあんだ?」とキナバ。
「そうそう、それを早く言え!」と苛立つラニグチ。
「あんたたちふたり、本物のオバカだな。ワインセラーは、どこの屋敷でも地下にあんだよお!」
メイド服を着たままの怪盗ルサンチマンは、そう言い放つと見得を切った。
「みゃあ!」
本来は怖いはずなのに、赤ら顔の赤鬼がメイド服のままポーズを決めるなんて、おかしくって、おかしくって、しらすちゃんは吹きだした。
「みゃみゃああ」
「なんと! 地下だったか!」
そう叫ぶと、ラニグチは歯ぎしりした。
「しゃったあ! オレ様としたことが……」
キナバは地団太をふんだ。
「二階に行ってしまった!」
「オレ様としたことが」
ラニグチとキナバは仲良くほぞをかんだ。
怪盗ルサンチマンは仁王立ちして咆えた。
「停電を起こしたのは吾輩だ! あんなのブレーカーに小細工すればわけもないことだ。フフハハハ! 吾輩は怪盗ルサンチマンだぞ! ナめんじゃない!」
怪盗は、大広間に轟き渡る大音声で凄んでみせた。
「シャア!」
怪盗に負けじと、われらがクイーンはしっぽを逆立てた。
クイーンに勇気づけられたさっちも、こう言い返した。
「さあ、怪盗ルサンチマン。『心の平和』を返しなさい!」
「貧乏な家に生まれ育った吾輩が、大がつく金持ちから、たかが宝石一個盗んだぐらいで目くじら立てるんじゃない!」
怪盗はついに開き直った。
「怪盗ルサンチマン。あなたはね、物を観る目が一方的で、単純すぎるわ」
カエデコさんが口を開いた。
「いいこと。『心の平和』は、亡き奥さまの、大事な想い出の品なのよ! ダンナさまにとっては、ただの宝石じゃないの。あなたは人の心をふみにじる酷いことをしているの! いい年齢して気がつかないの?」
カエデコさんはそう熱弁した。
「う、うう……」
カエデコさんの剣幕に、赤鬼はたじろいでいる。
するとクイーンは、怪盗ルサンチマンの足元で、ルサンチマンの体臭を嗅ぐそぶりをみせた。
「わかったわ!」
さっちは声を上げた。
「男女の体臭は異なるのよ! だからクイーンは、あなたが女性じゃなく男性だって見破ったの! 嗅ぎ破ったって表現したほうが正確かしら」
「にゃにゃーん!」
さっちとクイーンは、ついに怪盗ルサンチマンを追い詰めた。
「にゃにゃーーん」
当然しらすちゃんも、クイーンとさっちの味方だ。
運転手の貞六さんは言った。
「どうりでけったいなメイドだと思っておったわい。いつも香水の匂いをプンプンさせとってな。さては男の体臭を、香水で誤魔化そうとしておったのだな」
「パヒュームのウワサを聞いて、あのメイド、ダンナさまをたらしこむつもりなんだって思ってたゼ」
不肖の甥っ子ダサイチロウが、抜け抜けとそう言った。
「そうかあ、そうだったのか」庭師の泰蔵さんも感想を洩らした。
「ということはじゃ。屋上の天空ガーデンに残っておった残り香は、あんたの香水じゃったんだな。あんた、納戸の中も調べておったのか! 天空ガーデンは奥さまの想い出深い場所じゃが、宝石なぞ隠しておらんぞ。あきれたわ」
納戸のなかに宝石をかくさずにおいて、ほんとうに良かったと、ダンナさまとクイーンはそれぞれ胸を撫で下ろし、たがいに目配せしあった。ダンナさまが『心の平和』あやうく納戸にかくそうとしたこと、これはふたりだけの秘密になりそうだ。
「フフ、フん。奥さまの想い出のある場所は、『心の平和』の隠し場所にもってこいだからな。吾輩は当然のことながら、調べさせてもらったゾイ」
怪盗ルサンチマンは、あくまで傲岸不遜な態度だ。
老いた庭師は言った。
「怪盗ルサンチマンよ。おぬし、香水の匂いで男臭さを消し去ろうとしたのじゃろうが、名探偵クイーンには通じなかったようじゃの」
「にゃーん」
クイーンはあくまで優雅に応じた。
さっちも指摘した。
「それに停電中に、ワインセラーでクイーンに噛みつかれた悲鳴は、あなただったのね、怪盗ルサンチマン。だからあの悲鳴も、男性か女性か、いったいどちらの声か判断できなかったわ」
「にゃーん」
しらすちゃんはさっちに同意した。さらにさっちは畳みかけた。
「それに、いつも無口なふりをしていたのは、声が低いから女性じゃないって気付かれないようにするためねだったのね? そうでしょ!」
「にゃにゃーん」
しらすちゃんはさけんだ。さっちの名探偵ぶりも大したものだ。
「フフ、フン。おまえたち、意外とやるじゃないか、ねこ探偵クイーンと、さっち、そしてチビねこよ」
怪盗ルサンチマンはじろっと、しらすちゃんをにらみつけた。
「ミャワー」
しらすちゃんは、しっぽを逆立てて警戒した。でもいつの間にか、我らが名探偵クイーンの姿が見えなくなっている。
「うみゃー」
「あら、クイーンがいないわ」
「どこへ行ったのかしらクイーン」
みんなはクイーンを探したが、見つけることができない。
「クイーンめが。吾輩に怖れをなして、とうとう、どこかへ逃げ失せやがったか。フハハハハ!」
正体を見破られたとはいえ、怪盗ルサンチマンは、勝ちほこった大笑いだ。
すると突如として何者かが、みんなの死角になっていたシャンデリアの上から飛び降り、怪盗ルサンチマンの頭上に舞い降りた。
「クイーンよ!」
さっちは叫んだ。
「にゃーん!」
そう叫びながらクイーンは、ルサンチマンの左手に食いついた。
「あっ! やめろっ!」
するりと怪盗の小指からリングは抜け落ち、クイーンがしっかりと口にくわえ、そのままダンナさまのもとへ走った。
「なにをする!」
怪盗ルサンチマンは叫んだが、もう後の祭りだ。
こうしてクイーンは目にも鮮やかに、ダンナさまに本物の『心の平和』を返すことができた。
「ああ、我が想い出が還ってきた。ありがとうクイーン。やっぱりおまえが一番頼りになるよ」
感激したダンナさまは、感謝の意を込めて、クイーンの頭を撫でた。
「にゃーん」
クイーンは満足そうに微笑んだ。いつものように、気品たっぷりに。
「メイドカスミ。実体は怪盗ルサンチマン。窃盗未遂の現行犯で逮捕する」
しわがれ声でそう宣言した後、金吾氏は大きく手を打った。
「うおおおっ!」
「怪盗ルサンチマンめえっ!」
それは同時だった。下山田警視総監に率いられた五十余人の制服警官たちが三方のとびらを開けて、大広間へ雪崩をうって突入してきた。大広間はもう、てんやわんやの大騒ぎだ。
クイーンは、再びしらすちゃんのもとに来てくれた。
「クイーンにゃん。おーしえて、にゃん」
「そんなあどけない表情でなあに? しらすちゃん」
「あのね、クイーン。今朝の自己紹介のとき、ダンナさまは『クイーン・コッドロー』って、クイーンを紹介なされたわ。コッドローってなあに?」
「『たらこ』っていう意味よ。わたしの本名なの」
「えええ? 本名は『クイーンたらこ』なの? びっくり。初めて知ったわ!」
「わたし、海で獲れたての、無塩のたらこが大好きなのよねえ。でも、人間たちが勝手に命名しただけよ。これからもクイーンって呼んでちょうだい」
「はいにゃーん」
しらすちゃんは安心した。そして、さらにクイーンにたずねた。
「そういえばクイーン? あとひとつ謎が残ってるにゃん」
「なあに、しらすちゃん? なんでもきいていいわよ」
「ええっとにゃん。あのリングにゃん。さっき、制服警官たちが金吾氏に手わたしたでしょ? さっちのおうちから持って来たリングを!」
「そうだったわね、しらすちゃん」
「わたし、にゃ~~んと不思議なの。本物にすりかえたはずのリングが、どうしてまた学芸会用のイミテーションリングに戻ってたの? さっちとカエデコさんが逮捕されそうになって大ピンチだったから、わたし、ほんとうにあせったにゃん」
しらすちゃんは、さっきの冷や汗を思い返した。
「わたし、あんなにハラハラしたの、生まれて初めてだったから、泣きそうになったにゃん」
「ああ、あれね。わたしが金吾氏からリングを奪って、ダンナさまにおわたしする直前、空中に飛び上がって、みんなに舞踏をお見せしたでしょう?」
「にゃん」
しらすちゃんは、クイーンの華麗な舞いを思い出した。
しらすちゃんだけでなく、五十余名の制服警官をふくめ、あの場にいた全員が目を奪われたすばらしい舞いだった。
「下山田警視総監は、口をあんぐりと開けていたにゃん」
ケンカしていた三人組も、金吾氏も、さっちも、カエデコさんも、ダンナさままでが、華やかなクイーンの舞踏に釘づけになっていた。人間世界を超越した優婉典雅な踊りは、繊細かつ大胆、この世のものとは思えなかった。
「あっ。もしかして?」
「そうよ、しらすちゃん。空中で舞い踊っているあいだに、わたしは口の中で、本物の『心の平和』と、イミテーションをすりかえたのよ」
「す、すごいわ、すごいわクイーン! やっぱりクイーンこそ本物の名探偵よ! しびれるわ」
クイーンは返事の代わりに、しらすちゃんにウインクした。とてつもない魅力にあふれる、とびっきりのウインクだ。
人間たちの大捕り物帖は、まだまだ終わる気配はない。警官の人数が多すぎて、しっちゃかめっちゃかになり、だれも前へすすめないのだから終わる気配もない。
上機嫌のダンナさまは、カエデコさんとさっちを招き寄せ、笑顔でなにやら話し込んでいる。
ダンナさまからのオファーに対して、カエデコさんはこう返事をした。
「ダンナさま、それはいくら何でももったいないです。さっちはまだ中学生です。本物のリングなんてつけるとバチが当たりますし、それに、いたずらに甘やかすのは教育上、好ましくありません」
「そうか、そうか。カエデコさんが、それほどまでに言うのなら、ならばこうしよう。一カ月レンタルだという、このイミテーションリングをわたしが業者から買い取り、きょうの記念にさっちに差し上げよう。そしてさっちも、二月が誕生日だというではないか。さっちが成長して、成人式を迎える日には、きょうのお礼として、新しく本物のアメジストのリングをプレゼントしよう」
「わあ、うれしい! ありがとう、ダンナさま!」
さっちは満開の笑顔を見せた。
「なになに、家宝を守ってくれたお礼だよ。こちらこそ、どうもありがとう。お礼をいわせてもらうよ」
ダンナさまに褒められて、さっちは会心のガッツポーズだ。
ダンナさまは久し振りに満面の笑みを浮かべた。
「君たちのおかげで元気が出てきたよ。カエデコさん、さっち、クイーン、そしてしらすちゃん。どうもありがとう」
「にゃん! わたしまで褒められちゃったにゃん!」
しらすちゃんは舞い上がった。
さらにだ。さっちには、お母さんから最高のご褒美が待っていた。考えうるかぎり、この世で最高の特別な贈りものだ。
しらすちゃんは、大好きなカエデコさんに呼びかけられた。
「ねえ、しらすちゃん」
「にゃーん」
返事をしたしらすちゃんは、カエデコさんをくりくりした両目で見あげた。
カエデコさんはいったんかがんで、しらすちゃんを抱き上げた。
「どう、さっち? しらすちゃんを、うちで飼わない?」
カエデコさんは、しらすちゃんをさっちに抱かせた。
「いいの? お母さん?」
さっちは、しらすちゃんを抱っこしながら、いまだ半信半疑だ。
カエデコさんは、さっちの目の奥をじっと見つめてこう言った。
「お母さんが忙しいの知ってるでしょ? だからさっちがひとりで全部、面倒見られるならね。そしてお母さんにガミガミいわれる前に、学校の宿題できるなら」
「りょうかいよ、お母さん。わたしもう中学二年生になったから、ひとりで宿題できるし、ひとりでしらすちゃんの面倒しっかり見るから」
「しらすちゃんを大事にしてね」
「わかったわ。やったあ! お母さん大好き!」
さっちは、大喜びでお母さんに抱きついた。
大好きなふたりの間にぎゅうっと挟まれて、しらすちゃんから、よろこびに満ちた声があふれでた。
「にゃーん」
「ねえ、しらすちゃん。わたしたちの飼いねこになってくださるかしら?」
カエデコさんは、しらすちゃんに問いかけた。
「にゃにゃーん」しらすちゃんはおおよろこびでうけいれた。
笑顔のクイーンは、あまいあまい祝福のひとことを、愛おしげにしらすちゃんに授けてくれた。「にゃん、にゃにゃーん」
さっちは、しらすちゃんをおうちで飼えるのだ。
「ばんざーい!」
こうしてしらすちゃんは、飼いねこになった。
大広間では大騒動が続き、怪盗ルサンチマンは捕縛されたのか、それとも逃げおおせたのかもわからない。ひそかにトンズラをはかる盗人三人衆を巻き込んでの大騒ぎだ。
そんな人間たちを横目に見ながら、クイーンはしらすちゃんに言った。
「あら。ようやく、わたしの悪い予感は消え失せたわ。ようやくこれで、『心の平和』は安泰だわ。もう大丈夫よ」
「よかったにゃん」
「しらすちゃん。飼いねこになっても、おうちはわたしと同じ敷地内にあるから、これからもいっしょにあそべるわね、うふふふ。これからもよろしくね、しらすちゃん」
クイーンは、しらすちゃんの鼻に柔らかなキスをしてくれた。しらすちゃんの大好きなハナチューだ。
「にゃーーん!」
しらすちゃんは満ちたりた。
そしてしらすちゃんはこの夜、さっちにお風呂に入れてもらった。すでに、きょうから立派な飼いねこなのだ。
しらすちゃんはさっちとカエデコさんにはさまれて、同じかけぶとんのなかにもぐって、いっしょに眠った。
「にゃーん」
暖かで、安心できる寝床だった。
この一日は大冒険をして、とびっきり満足した。
しらすちゃんは幸せを噛みしめた。
「にゃにゃーん」
○
読者のみなさんは、この伝説をご存知だろうか?
新しい飼いねこをおうちに迎え入れた最初の夜にだけ、おうちのみんなは、新しい飼いねこと同じ夢を見るという。その夢の中で、人間とねこは、おなじことばで通じあえるのだ。
同じふとんにくるまれて眠ったしらすちゃんと、さっち、カエデコさんはこの夜、同じ夢を見た。
――夢の中で、しらすちゃんたち三名は、愛する名探偵クイーンを囲んでいた。
「ねえクイーン。謎解きが、まだだわ」
好奇心旺盛なさっちがそう問いかけた。
「そうね」
クイーンは優雅なかおつきで応じた。
「種明かししてちょうだいな」
カエデコさんもクイーンにお願いしている。
「にゃーん」
しらすちゃんも愛くるしくたのんだ。
「クイーンは、いつからメイドカスミがあやしいって気づいてたの?」
さっちがそう質問した。
クイーンは答えた。
「それはね。実は、ダンナさまとわたしが『心の平和』の隠し場所を検討していたおりにね、いっしょに、屋上へ行ったの」
「三階の天空ガーデンね?」
「そうよ。そして納屋のとびらを開けたときに、強烈な違和感を覚えたの。あれは生きている草花が、自然に発する匂いではなかったわ。納屋で『心の平和』を探しまわったカスミの香水の匂いだったのよ」
クイーンは皆にそう語った。
「怪盗ルサンチマンは、納屋まで行って、『心の平和』を探しまわってたのね!」さっちはあきれている。「そもそも、いつもは、『心の平和』はどこにあったの?」
「そして停電中に、いったい何が起こったの?」
カエデコさんもたずねた。
「ではお話しするわね」
クイーンはあらたまって言った。
「はいにゃん」
「はいにゃん」
「はいにゃん」
しらすちゃんとさっちとカエデコさんは、三名ともねこの姿になり、まったく同じように愛くるしく返事をした。
クイーンは語りはじめた。
「もともとダンナさまは、『心の平和』をずっと身につけていたの。奥さまの薬指にぴったりのサイズだったのを、ご自分の左手の小指にはめて、ズレ落ちないように、その上に手袋をなされていたわ」
「にゃん」
「にゃん」
「にゃん」
「そして、変装の名人・怪盗ルサンチマンは、『心の平和』を盗むために、メイドのカスミに化けて、三カ月も前からお屋敷にもぐりこんでいたの」
「三カ月も前から!」
「あなどれない怪盗ね」
「そうよ、危険などろぼうだったわ。でも『心の平和』がどこにあるか、いっこうにわからない。隠し場所の見当もつかない怪盗ルサンチマンは、あせってきたのね。だから宝のありかを知る手がかりを得ようとして、ダンナさまへ脅迫状を送ったのよ。そして脅迫状を受け取ったダンナさまは、『心の平和』をどこに隠せばよいか、考えあぐねてわたしに相談したの」
「ダンナさまから相談を受けるなんて、クイーンは、すごいにゃん」
「すごいにゃん」
「すごにゃん」
「最終的にわたしはダンナさまに、イミテーションリングを使いましょうって、提案したわ」
「なんと、クイーンが、ダンナさまにイミテーションリングをすすめたのね?」カエデコさんは驚いた。「じゃあイミテーションリングは、わたしがさっちのためにレンタルしたものと、ダンナさまが手配したものと、二つあったの?」
カエデコさんからの鋭い質問に、クイーンはこう答えた。
「ところがね、カエデコさん。ダンナさまは宝石商を呼んだけど、宝石商はイミテーションリングを手配できなかったの。だからイミテーションリングはカエデコさんが事前にレンタルしていたひとつだけなのよ」
「そうなのね」カエデコさんはうなずいた。「じゃあ本物のリングが、いったん盗まれてしまったのね」
「ところがね。真相は異なるの」
クイーンはそう言った。
「にゃそ?」
「にゃそ?」
「にゃそ?」
意外そうな三人に、クイーンは言った。
「元警視総監の福井山金吾氏とダンナさまは、警護について相談なされたわ。その結果、今朝早くから、『心の平和』は地下のワインセラーに隠してあったの。でも、わたしは、それをひそかに、誰にもいわずにイミテーションリングにすりかえておいたの」
「にゃんと!」
「にゃんと!」
「にゃんと!」
「クイーン、どうしてすりかえたの?」
「それはね、わたしはイミテーションリングを餌(えさ)にして、犯人をつかまえようとしたからよ」
「なるほどにゃん」
「なるにゃん」
「にゃん」
「果たして、停電中の真っ暗なワインセラーに忍び込んできた人間が、ひとりいたわ。怪盗にちがいない。わたしは身構えたわ」
クイーンは、いったん間を置いた。さっちは、ゴクリとツバをのみこんだ。
「なんだか、こわいにゃん」しらすちゃんはガタガタ震えた。
「こわいにゃん」
「こわにゃん」
「真っ暗なワインセラーへ、物音もたてず、ひっそり忍びこんできた人間は、女性の服装をしていたわ。だから、わたしとしたことが一瞬、油断してしまったの。でもどろぼうには、男性並みのパワーとスピードがあったわ。だから残念ながら捕まえることができずに逃げられてしまったのよ。でも、イミテーションを盗んだ手をガブリと噛んで、怪盗の手に、ワインセラーにしのびこんだ証拠を残したにゃん」
「にゃにゃ、にゃんと!」
「にゃにゃんと!」
「にゃんと!」
「怪盗ルサンチマンは、イミテーションリングにおびき出されたってわけかああ」
さっちは感嘆している。
「ということは、メイドカスミに変装していた怪盗ルサンチマンが、停電中に地下のワインセラーに侵入して盗み出したものは、イミテーションリングだったのね」
カエデコさんは腑に落ちた様子でたずねた。
「じゃあクイーン、本物の『心の平和』は、停電中、どこにあったの?」
「それは、ずっと、このおうち、――カエデコさんとさっちのおうちのなかにあったのよ。いつものとおりよ。居間のテーブルの上に置いてある、さっちの宝箱の中に入れたままだったわ」
ここでカエデコさんには、大きな疑問が残った。
「じゃあクイーン。さっちの宝箱のなかのリングは、一体いつから本物の『心の平和』になっていたの?」
「学芸会当日の朝からよ」
「きゃあ!」
「きゃあ!」
驚いてカエデコさんとさっちは叫んだ。
「じゃあ、わたし、本物の『心の平和』をつけて、舞台で王女様役を演じたの?」
「そうにゃん!」
こともなげにクイーンは肯いた。
「きゃあ!」
「きゃあ!」
「せっかくのさっちの主演舞台だから、由緒ある本物の宝石のほうが良かったでしょ?」
そういって、クイーンは平然としている。
「はああ~。もし演じる前に本物の『心の平和』だって知ってたら、わたし、演技どころじゃなく、生きた心地しなかったかも」
さっちは茫然自失の状態で、あきれている。
「じゃあ、もしかして、あれれ?」
カエデコさんは考え込んだ。
「ワインセラーに隠して、メイドカスミに化けた怪盗ルサンチマンが盗んだものは、イミテーションリングだったのね?」
「そうよ。そしてさっちのおうちにあったものが本物よ」とクイーン。
「でも、五十余人の警官がこの家から持ち出したリング。あれは、あのとき大広間で、みんなの前で、ダンナさまがイミテーションリングだって断言なされたわ」
カエデコさんの疑問に、クイーンはさらりと答えた。
「そうよ、あれはダンナさま一流の腹芸よ」
「腹芸?」
さっちは小首をかしげた。
「それにゃあに?」
しらすちゃんはたずねた。
クイーンはこう解説した。
「演技って言ってもいいわね。あの場において、宝石の真贋を見極める能力が一番確かなのはだれかしら?」
「それはダンナさまをおいて他にいないわ」とさっち。
「そうよ。ダンナさまは、宝石の鑑定士さん顔負けの鑑定眼をお持ちなのよ」
そう語るクイーンは、だれよりもダンナさまのことをよく知っているのだ。
「はいにゃん」
しらすちゃんもうなずいた。
「宝石を見る目が一番確かだと、万人が認めるダンナさまがイミテーションだと断定なされたから、みんな、イミテーションリングだと信じたの。あれは、ダンナさまの咄嗟のお芝居なのよ」
涼しげに、クイーンはそう言いきった。
「え? あれが演技だったの?」
さっちは、目をパチクリさせて驚いた。
「そうよ。ダンナさまの自然かつ流麗な受け答えに魅了されて、わたし、惚れ惚れしちゃったわ」
そう言って、クイーンはうっとり目を細めた。
「にゃーん、どうしてダンナさまはそんな嘘をついたの?」
そう質問したしらすちゃんに、クイーンは答えた。
「だって、あのままじゃあ、さっちもカエデコさんも逮捕されちゃうでしょ?」
「あああ!」
さっちも、カエデコさんも、驚きの声を上げた。
「そういうことなの?」
「そうよ。五十名もの警察官に囲まれてたから、わたしの力をもってしても、あなたがたふたりを逃亡させることはさすがに出来なかったわ」とクイーン。
「ダンナさまは瞬間的に嘘をついて、わたしたち親子を守ってくださったのね!」
カエデコさんは、こころの底から驚きの表情だ。
「大ピンチに立たされたわたしとお母さんを、ダンナさまはたったひとことで救ってくださったのね!」
さっちは胸を打たれた。
「最優秀主演俳優賞は、わたしじゃなくてダンナさまだった! わたしたち親子を守るため、嘘をついてくださった!」
「そうなの。ダンナさまは、つくづく素晴らしいお人柄なの」
クイーンはしみじみそう語った。
「素晴らしいにゃん!」
しらすちゃんは飛び上がった。
「そうよ、しらすちゃん。格好いいダンナさまでしょ?」
「はいにゃん!」
しらすちゃんは感激した。外見がかっこいいだけでなく、内面も光り輝いている人間がこの世界にはいるのだ、
するとクイーンはあわてて前足で口を押さえた。
「あっ、いけない。わたし、この話、ダンナさまから口止めされてたんだわ。『だれにも言わないでね』って」
「どうしてにゃん?」
「にゃん?」
「にゃん?」
「『クイーン。この話は、特に、さっちとカエデコさんには内緒にしてね。わたしに対して、必要以上に恩義を感じないで欲しいからね。ふたりには、自由に伸び伸びと暮らしてほしいんだ。だから秘密だね』って、そう言って、ダンナさまはとびっきりのウインクしてくださったわ」
「ああ、ありがたいわ、ダンナさま。尊敬します」
カエデコさんは深く感じ入っている。
「ああ、ダンナさま。感謝します!」
さっちも心を揺さぶられている。そして最後にしらすちゃんは訊いた。
「ねえ、クイーン。心の平和はどこにあるの?」
「心の平和というものは、みんなの胸のうちにあるのよ。うふふ」
「さすがクイーン、素敵にゃん!」
しらすちゃんの心は、平和な気持ちに満たされた。
こうしてみんなにとっても、波乱万丈の一日は幕を閉じた。
木月家を静かに見おろす満天の星空は約束している。明日は早朝から、今年一番の快晴なのだと。
お星さま、ありがとう。
おやすみなさい。
おしまい
牧原しぶき
早朝。
晴れわたるどこまでも広い青空。大気は澄みきっている。
心がほっといやされる。そんな朝だ。
ここは、江戸時代に大名の広大な武家屋敷が建ち並んでいた都内有数のお屋敷街。
この界隈のなかでも、ひときわ異彩を放つお屋敷がここにある。
めずらしく欧米のカントリーハウスを模した大邸宅。赤い八角形のタワーがお屋敷のシンボルだ。
お屋敷と、石だたみの小みちのさかいに建つ石塀の上を、二匹のねこが優雅に歩いていた。
「にゃーん」
小さいねこがないた。小さいねこは、モフモフしてとっても可愛い。抱きしめたくなるほどだ。
「おはようにゃーん」
大きいねこがへんじをかえした。
大きいほうのねこは、ノルウェージャン・フォレスト・キャットの純血種だ。付近に住まうねこたちからも、人間たちからも、クイーンと呼ばれている見目うるわしき飼いねこだ。
その名のとおりクイーンはメスねこである。
全身の毛が女王のドレスのように長い。ついでながらピンと伸ばしたしっぽも長い。
体毛は、白、グレー、シルバーがまざっている。
深い海からとった真珠のようなきらびやかな白。
風雅な薄色の小袖を想起させるグレー。ピカピカかがやきをはなつシルバー。
三色が混ざった体毛は、クイーンの全身をあでやかにおおい、周辺のお屋敷に住まう飼いねこのなかでもナンバーワンの容姿容貌をほこっている。
「にゃーん」
クイーンは歩き方も洗練され、ひとつひとつの動作もすこぶる格調高い。
「クイーンにゃーん」
クイーンの後に続いているのは、小さな一匹の子ねこだ。名前は、しらすちゃん。
しらすちゃんもメスねこだ。
おなかがわは白く、せなかがわは黒い。ひたいが漆黒のハチワレで、おでこの下からがフワフワで、雪のような白さ、ごじまんの純白だ。
とにかくしらすちゃんは、ふわふわモフモフしていて、とっびきり可愛いのだ。
しらすちゃんはまだ生後数ヶ月、よちよちとクイーンについて歩いている。
「クイーン、きょうも、とってもいい天気ね?」
「そうね、しらすちゃん。気分がはればれするいい天気だわ」
ねこは、ねこどうし、ねこのことばで会話できるのだ。ただし、人間たちにとっては、ねこが鳴いてるとしか聴こえない。
立ち止まり、しらすちゃんに振り向いてニコっとえがおで話すクイーンは、なんとも魅力的だ。女王のほほえみというべきか。
しらすちゃんは、うっとりした。
「でもしらすちゃん、西の空をごらんなさい」
「あっ、黒い雲にゃん!」
「そうよ。このお屋敷にもいずれ、邪悪な雨雲が押し寄せるにちがいないわ。用心しましょうね」
「うん。クイーンは、なんでもよく気がつくにゃん」
「ああぁ予感がしてきたわ!」
クイーンはピンと両耳を逆立てた。
「どうしたのクイーン?」
「虫の知らせならぬ『ねこのしらせ』よ」
「ええっ? クイーンには超能力があるの?」
「飼いねこ特有の予感。ダンナさまに良くないことが起こる前ぶれなの」
「クイーンはすごいにゃん!」
「しらすちゃん。わたし、だてにあなたより長く生きてないわ。うふふふ。行くわよ」
クイーンは、塀からお屋敷の庭へと、しなやかに飛び降り、お屋敷に向かって走った。
しらすちゃんもおくれないよう、クイーンの後にピョンと続いた。
どれほど急ごうが、クイーンが疾走するすがたは、あくまで優美だ。
「すてきよ、クイーン」
「ふふふ、しらすちゃん。あなたが走るすがたは、ひたすら愛らしいわ」
クイーンを追いかけるしらすちゃんに、クイーンはやわらかな声をかけた。
クイーンが向かうのは、大邸宅。しらすちゃんが敬愛するクイーンは、この旧伯爵邸で飼われているのだ。
三階だての旧伯爵邸は東西に細長く、中央に、北向きに正面玄関がある。
飼いねこであるクイーンは、表玄関からも自由に出入りできるが、ノラねこのしらすちゃんはそうはいかない。
二匹は建物の裏手にある使用人出入口へ向かった。
クイーンを追って走りつつ、しらすちゃんは言った。
「ああ、クイーン。どうしよう? わたし、心配だわ。あのイジワルな新入りのメイドさんに見つかりたくないの。いつもの優しい料理人さんなら、ごちそうの残り物をくれるかもしれないのに」
「そうね、しらすちゃん。わたしもあの新しいメイドのカスミさん、あまり好きになれないわ。よくいえば仕事に忠実なんだろうけど、もうすこし気をきかせてくれてもいいのにね」
「うん。わたしね、カスミさんにイカツい顔でフン!だとか、キッ!とだとかにらまれるの、ほんとうにこわいの」
二匹は進んだ。待っているのは、さあ、怖いメイドか、優しい料理人さんか? 可能性はふたつにひとつだ。
果たして、二匹が使用人出入口まであと数メートルのところまで走ってくると、
「にゃ~ん!」
しらすちゃんに、笑顔があふれでた。
ちょうど木月カエデコさんの姿が見えたのだ。
お屋敷つきの料理人であるカエデコさんの親しみやすい風貌は、おだやかな性格を反映している。
きちんとアイロンが当たった濃紺のワンピースに、フリルのついた白色エプロンとカチューシャ。カエデコさんは常に清潔な制服で、こざっぱり身なりを整えている。そしてやや小柄のカエデコさんには、短髪がよく似合う。
クイーンは安心した。
「しらすちゃん、きょうは大丈夫ね!」
「うん、クイーンありがとうにゃん」
「じゃあ、わたしはダンナさまが待ってるから、なかへ入るわね」
「はいにゃん」
しらすちゃんは甘えるようにノドを鳴らし、クイーンを見上げた。
「またあとでね、しらすちゃん」
そう言うと、クイーンは使用人出入口から邸宅内に入った。
「にゃん」
「あらクイーンおかえり。おチビちゃんもいるのね」
二匹に気づいたカエデコさんは、いつものようににこやかに話しかけた。
「にゃん、にゃん」
「あら、しらすちゃん、おなかが減ってるのね? じゃあ、ちょっとここで待っててね。何か持ってきてあげるから」
そういい残すと、カエデコさんはいったん半地下にあるキッチンへ入り、すぐ、白身魚の骨まわりを、しらすちゃん専用の容器に入れて戻ってきてくれた。
「はいどうぞ、しらすちゃん」
カエデコさんはしらすちゃんが食べやすいように、専用の容器をそっと地面に置いてくれた。
「にゃーん」
うれしいにゃーんといったようすで、しらすちゃんは無心になって食べはじめた。
同じ頃、クイーンはどうしていたか?
あとでクイーンから聞いたところによると、お屋敷内では、とんでもない事件が発生していたのだ。
クイーンは、建物の西のはしの『使用人出入口』から中へ入った。
キッチンへは向かわず、『配膳室』から『晩餐の間』へと向かった。
ちょうどそのころ、いつもどおり、二階の寝室から一階の『エントランスホール』に向かって、ダンナさまが、しずしずと中央階段を下りてきた。
絵に描いたようなイケメンだ。
ダンナさまは、旧伯爵家のあととり息子としてこの屋敷で生まれ育った。年齢よりもはるかに若々しく見える。背は高く、180センチはある。
目鼻立ちが整った美男子で、モデルか俳優にもなろうかという端麗な容姿の持ち主である。
朝起きてから夜パジャマに着替えるまでずっと、タキシードで正装し、髪形は七三分けで、キリッと決まっている。
常に余裕を持ったエレガントな立ち居ふるまいで、旧伯爵家の当主として申し分のない品の良さと、生まれもっての高貴さをただよわせている。
ダンナさまは優雅な身のこなしで階段を下りている。
絢爛豪華な大理石づくりの化粧階段にも、赤いふんわりしたじゅうたんが敷きつめられている。
ダンナさまは、大理石づくりの巨大なエントランスホールを抜け、ゴージャスで広々とした『晩餐の間』へ入った。
晩餐の間は、ひとつひとつの調度品が重厚でエレガントなムードをかもしだし、凡人なら入口で立ちすくむほどの威圧感を発している。
北側のかべには、人の背たけよりも高い額縁がところせましとかかげられ、周辺の美術館にくらべても、圧倒的に貴重な絵画が、あまた飾られている。
南側のかべは総ガラス張りになっており、晩餐の間から、緑豊かでどこまでも続く広大な庭が見渡せる。
ダンナさまは屋敷内にいるかぎり、三度の食事と三時のおやつは晩餐の間で取ることにしていた。
ダンナさまは悠々たる身のこなしで、いつもの席に座った。
目の前にあるのは、シミひとつ無い純白のテーブルクロスを載せた二十メートルもの長さをほこる純銀製のテーブルだ。
ダンナさまのかたわらの床の上には、すでにクイーンが控えていた。
「にゃーーん」
「ああクイーン、おはよう」
給仕はいない。食事とおやつの時間は、朝八時、昼十二時、午後三時、午後七時と決まっていて、その時間ぴったりに、ダンナさまとクイーンの食事は用意されてなくてはならないのだ。
「じゃあクイーン、いただこうか」
「にゃーん」
ダンナさまとクイーンは、そろって朝ごはんを食べはじめた。
給仕する者がいないのは、ダンナさまが生まれる以前からお屋敷に仕えていた執事が、昨年の秋に交通事故で亡くなってしまったからだ。ダンナさまの目の前で、ダンナさまの愛妻とともに。
ダンナさまの両親は高齢のためすでに亡くなっており、大学生のひとり娘は海外に留学中なので、ダンナさまはクイーンがいなければひとりぼっちになってしまう。
「にゃ~ん」
だからクイーンはダンナさまを独りぼっちにしないよう、三食とおやつの時間には、必ず晩餐の間に戻ってくることにしているのだ。
「おいしいかいクイーン? たくさんお食べ」
時折クイーンを見やりつつ、ダンナさまは半じゅくたまごの黄身をシルバーのスプーンで食しおわり、白身は、慣れた手つきでクイーンの皿の上に落としてあげた。
「にゃーん」
クイーンは、もともとダンナさまと同じ料理を、ねこ向けに特別に無塩で調理した食事をいただいている。そのためクイーンは、おなかまわりが気になり始めており、これ以上食べると肥満になるおそれがあるのだ。
でも、こういったチョッとしたやりとりがダンナさまの精神状態を悪化させないためには必要だと感じていた。
「にゃ~~ん」
だから、ありがたくいただくことにしている。
食事が終わるとダンナさまとクイーンは連れ立って晩餐の間を出た。そしていつものように、となりの『大広間サルーン』を通る。
「クイーン、きょうもいい天気だね」
「にゃにゃーん」
大広間サルーンにも床から天井にまで届くグラスウォールが広がり、果てしなく広がる緑の庭に南面している。
庭の青い芝生は燦々たる日の光を受け、キラキラと輝いている。
ダンナさまとクイーンは大広間を抜け、これまた豪勢な『タペストリーの間』に入った。
張り出しの窓からきらびやかな朝の光がふりそそぎ、ダンナさまの悲しみをすこしでも和らげることができようか。
床には赤じゅうたんが敷きつめられ、数々の瀟洒な調度品が置かれ、かべには著名な絵画が見える。
ひとつのこらず、すべては先祖代々から受け継いだものだ。
ダンナさまは、金のふちどりのあるいつもの赤いイスに腰かけた。
「にゃーん」
クイーンは、見目よく組まれたダンナさまの長いあしの上にチョコンと飛び乗った。
「どれどれ」
マホガニー製の丸いティー・テーブルに置かれた郵便物を見るのが、ダンナさまの日課なのだ。
「ごろごろごろにゃん」
ダンナさまが郵便物を見ているあいだ、クイーンはうっすらと目を閉じてしあわせにひたるのだ。
しかし今朝は、なにかがおかしい。
ダンナさまのひざのふるえで、クイーンは察知した。
とある郵便物――手紙のようなものを手にしてからだ、ダンナさまのふるえが止まらないのは!
クイーンが手紙をのぞきこむと、白い紙に、なにやら文字が切りはりしてあり、ダンナさまの両手がぶるぶるとふるえている。
クイーンは、人間が使う文字ナルモノは読めないが、気配でわかった。
大変なことが書かれてあるのだ。
「……きょ、脅迫状だ!」
立ち上がったダンナさまのひざから、クイーンは飛びおりた。
顔色が一変したダンナさまは、タペストリーの間を離れ、クイーンもあとに続いた。
「なんということだ! 怪盗ルサンチマンが、わが家宝の指輪をぬすみにくるなんて……」
怪盗ルサンチマンとは、ここ数年、世間をさわがしている大どろぼうで、だれも正体を見たものがいない謎の人物だ。
警察はどうしてもつかまえることができず、怪盗ルサンチマンはやりたい放題。ねらった獲物は百発百中で盗んでしまう凄腕の盗っ人だ。
怪盗ルサンチマンは正体不明の怪人物なので、対策をたてるのもむずかしいのだ。
あおざめた表情のダンナさまは、いっきに階段をかけあがり、自分のへや『ダンナさまの間』へ入った。クイーンもいっしょだ。
クイーンは、こんなにも泡を喰ったダンナさまを、初めて目にした。
キングサイズベッドのあるへやの奥へかけこんだダンナさまは、サイドテーブルを見やった。
「ふう、まだあるぞ。ふう、良かった!」
「にゃーん」
亡き奥さまを懐かしむダンナさまは毎夜毎夜、寝る前にながめているので、家宝のリングを入れている宝石箱は、サイドテーブルの上に置いたままだった。
ダンナさまは宝石箱を手に取り、パカンとフタを開けた。
「あっ。無い!」
宝石箱はからっぽだ。
「た、たいへんだっ!」
動揺したダンナさまは宝石箱をベッドになげすて、着こんでいるタキシードじゅうのポケットをまさぐった。
「無い! 無い! 無いぞ、無いぞ、リングがどこにも無いぞ!」
果たして、どのポケットにも何も入っていない。
ダンナさまは顔面蒼白だ。
「あ、あ。亡き妻の想い出のリングが……」
そのときクイーンは飛びあがった。
サイドテーブルに足をつき、反転してサッとのびあがり、ダンナさまの左手にチュッとキスをした。
「クイーン、どうした? ああ、そういう意味か」
ようやく合点したダンナさまは、キスをされた左手にはめている純白の手袋を外した。
「ああ、なんだ。わたしとしたことが!」
ダンナさまは左手の小指に、家宝のリングをはめたままだったのだ。
「クイーン、ありがとう。教えてくれたんだな」
「にゃーん」
ダンナさまは、いまや心の支えとなっている家宝『心の平和』を、肌身離さず身につけているのだ。亡き奥さまの形見の品なのだから。
「それにしてもだ。クイーン、聞いてくれ」
「にゃーん」
ダンナさまは、おのれの小指にはめたリングをみつめたまま語った。
「『心の平和』は、もともと奥さまの薬指のサイズに合わせていたから、わたしの小指には大き過ぎて、いつどこで落としてしまうかしれたものではない。
だから、怪盗ルサンチマンからの脅迫状の期限が過ぎるまでは、身につけるよりも、屋敷のなかのどこか安全な場所にかくそうと思う。どこがいいかな?」
「にゃーご」
ダンナさまはサイドテーブルの引き出しを開けて、鍵束を取り出した。
「よし、クイーン。ついてきてくれ」
「にゃーん」
ダンナさまは自分のへやを出て、二階のろうかを進み、『奥さまの間』の前まで来た。
そして鍵束からチャリン、チャリンと音をたててカギを探してドアを開け、へやの中に入った。
クイーンは、なぜか入室しない。
「そうか、クイーン。おまえは外で待つんだな?」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんとは、そのとおりという意味だ。
しばらくしてダンナさまは奥さまの間からろうかへ出てきてドアを閉め、厳重にカギをかけた。
「さあ、これで万全だ」
「にゃーごー」
クイーンは笑顔ではない。
「クイーンはカギが心配なのか? だったら、」
ダンナさまは自分のへやに戻りつつ、鍵束から奥さまの間のカギだけを外し、おのれの着ているタキシードのポケットに入れた。
「ふう、これでもう安心だ」
ダンナさまは気持ちがすっきりしたのか、階段を降りて地上一階へ着くと、エントランスホールを通り、そのままテラスへ出た。クイーンもついてきた。
見事に白一色に統一されているテラスに立ち、緑の木々や芝生、色とりどりの草花におおわれた広大な庭を見わたしながら、ダンナさまは深呼吸だ。
「ふう。自然っていいものだな」
しかしクイーンは、わざわざダンナさまの視界に入る場所まで来ると、首をかしげた。
「ぬわーん」
「んん? クイーン、どうした?」
クイーンは首を左右に振っている。
「ふうむ。クイーンは、あのままでは、『心の平和』は危険だと言うのかい?」
「にゃにゃーん」
クイーンはうなずいた。
ダンナさまはお屋敷を振り返り、二階の『奥さまの間』を見上げた。
よく言えば慎重な、実をいえば心配性なダンナさまは不安になってきた。
「クイーン、いまはふたりきりだから遠慮はいらぬ。よし、試してみよう!」
「にゃにーん」
「クイーン。『心の平和』を盗み出せるかい?」
「にゃーん」
クイーンはすぐさまかけだした。
そして、お屋敷の外かべに取り付き、スルスルとよじ登っていく。
あっという間に二階のバルコニーにたどり着いたクイーンは、鉢植えの向こうにある排気口のフタを前足で外した。
そして室内へ消えた。
「ふうむ、すばやいなあ」
ダンナさまは感心した。クイーンの名探偵ぶりについては、よく知っていた。
今は亡き妻の生前に、よく聞かせてもらっていたからだ。
たとえば、お屋敷が広すぎて、なにをどこに置いたのか、だれにもわからなくなってしまうことがよくあった。
出発時間が迫っているのに、亡き奥さまやメイドたちが手分けして探しても出てこない。どうしても見つからない。
そんなとき、えてして新入りの使用人に疑いの目が向けられてしまうのだが、無実の罪を着せるのは良くないことだ。
トラブルになる前に、奥さまは、愛猫クイーンに助けを求めるのだ。
「クイーン、お願い。今度は、わたしのブローチが無くなったの。真珠が入ったお気に入りのブローチ。一体どこにいっちゃったのか、わからないの。助けてクイーン。あなたに真珠のブローチを見つけてほしいの」
「にゃーん!」
クイーンは『奥さまの間』の中へ入ると、すばやく内部を見回した。
ダンナさまは、どこに家宝『心の平和』を隠したか?
「第一候補は、奥さまがかつて、『心の平和』を隠していた場所だわにゃん」
長くだれも入室していない奥さまの間は、うっすらとほこりが積もっている。
しかし一直線に、ほこりが無い部分がある。
「にゃーん。ここはさっき、ダンナさまが急いで歩いたから、ほこりが吹き飛ばされたのだわにゃん」
クイーンは、ほこりが無い部分をかべにむかってすすんだ。
「このあたり、ほこりが払ってあるわね」
ほこりが無い奥さまの肖像画あたりがあやしいのは、一目瞭然だ。
サッとクイーンは化粧棚に飛び乗り、かべにかかった肖像画を入れた額縁を、前足を使って持ち上げてみた。
「やっぱりにゃーん」
額縁に隠されていたかべにフックがあり、『心の平和』をはめこんだリングがかかっていた。
あまりにも単純明快な隠し場所だ。これなら怪盗ルサンチマンどころか、三流のどろぼうでさえ気が付くはずだ。
素直で、真っ直ぐな心を持って成長したダンナさまに、そもそも隠しごとは向いてないのだ。
それは奥さまも同じだった。
クイーンの脳裏に、ありし日の奥さまがよみがえった。
「あーっ! そうだったわ。わたしここに隠してたこと、さっぱり忘れてた! ありがとうクイーン!」
額縁の裏に隠したフックから、真珠のブローチを取り出した奥さまは、満面の笑みを浮かべ、ぎゅううっとクイーンを抱きしめてくれた。
クイーンにとっても、奥さまとの日々は、かけがえのない良き想い出だ。
クイーンは『心の平和』を口にくわえ、いま来たばかりの経路を引き返し、テラスで待つダンナさまのもとへ瞬く間に戻ってきた。
往復で、五分かかったか、かからなかったかだ。
「クイーン、もう帰ってきたのか? リングは、『心の平和』は見つかったのかい?」
クイーンは、いましがたダンナさまが隠したばかりの『心の平和』を、ダンナさまが差し出した手のひらにていねいに置いた。
「な、なんと! こんなに早く見つけたのか!」
「にゃーん」
「い、いとも簡単に見つけ出したね、クイーン。さすがは、ねこ探偵だ!」
「みゅうみゅう」
「こうやって、いつも妻を助けてくれていたんだね。ありがとうクイーン」
「にゃにゃーん」
クイーンの名探偵ぶりを目の当たりにしたダンナさまは、思考をめぐらせた。
テラスの白いデッキチェアに長いあしを組んで考えこむ姿が、すこぶる絵になるダンナさまを、クイーンはうっとりして眺めた。
他人をだましたり、隠し事をすることができなくても、ダンナさまは、お屋敷のスーパースターなのだ。
「ぐるぐるにゃー」
「うーーむ。どこか他の場所に隠さねばならないな。どこがいいかなあ」
「にゃん」
「まるで、わたしとクイーンの知恵比べだね」
「ごろごろにゃーん」
「そうだ! 思いついたぞ」
アイデアを思いついたダンナさまは、勇んで立ち上がった。
「クイーン。しばし、ここで待っていてくれ。『心の平和』を隠してくるよ。わたしとクイーンの知恵比べ、楽しくなってきだぞ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまが楽しげにテラスからお屋敷内に入っていく後姿を、クイーンは悠然と見送った。
しばらくすると屋上に、ダンナさまの姿が見えた。
お屋敷の三階にあたる屋上は、天空ガーデンと名付けられた草の緑と花が色とりどりに咲き乱れる庭園になっている。
ダンナさまは指輪をどこにかくそうかと、天空ガーデンのなかをあれやこれや考えながら行き来している。
天空ガーデンは亡き奥さまの愛した庭園であり、ダンナさまのいいつけで、奥さまの生前そのままに保たれているのだ。
テラスからクイーンが見上げていると、ダンナさまは、庭師の泰蔵さんにおつかいを依頼しているようすだ。
「ふむふむにゃん」
泰蔵さんは屋上から去り、ダンナさまは天空ガーデンにある納屋に向かおうとしている。
どうやらダンナさまは、外出を命じた泰蔵さんが知らぬうちに、納屋のなかに『心の平和』を隠すつもりのようだ。
「『敵をあざむくのは味方から』かしらにゃん」
そのとき、屋上から下を見おろしたダンナさまと、クイーンは目が合った。
「にゃりませんにゃん!」
クイーンは駆けだした。
ねこの身体能力は驚異的であり、人間と比較すれば圧倒的にすぐれており、超能力者のレベルにある。
だからクイーンにとって、外かべをよじ登り、屋上へたどりつく程度のことは平気なのだ。つゆほどもつかれない。
クイーンは雨どいを伝ってスルルスルルといとも簡単に屋上へ上がると、そのまま納屋へ向かって走った。
そしてダンナさまが見ている目の前で、木造の納屋のとびらに爪をかけて駆けあがり、前足でスライド
ストッパーを滑らせ、なんの苦も無く、いたってスムーズに納屋のとびらを開けた。
「にゃーん」
納屋では心もとないことを、クイーンは、事前にダンナさまに警告したのだ。
ダンナさまは、納屋の中をのぞいた。
「ふむ。ここは狭すぎるな。家宝を隠すには、安全な場所ではないな。やめたほうがいいのだな? そうだな、クイーン?」
「にゃにゃーん」
「では他にしよう」
ダンナさまは納屋のとびらを閉めた。
納屋のとびらを開けてから、クイーンは強烈な違和感を覚えていたが、ダンナさまがとびらを閉めると、その妙なひっかかりは収まった。
ダンナさまが階下へ向かいながらクイーンに話しかけようとしているので、クイーンは急いでダンナさまを追った。
「ふむふむ。そうか、納戸も駄目なんだな。じゃあ、いったいどうすればいいのだクイーン? どこにかくせば妻の形見は安全なのだ?」
ダンナさまは、ため息をついている。
「にゃあああ~ん」
クイーンは、わざとゆっくり、スローな返事をかえした。
「そうだなクイーン。焦りは禁物だな。お茶でも飲みながら、時間をかけてじっくり考えよう。なにしろ相手は天下をむこうに暴れまわっている大どろぼう、怪盗ルサンチマンだからな」
「にゃにゃーん」
ダンナさまは階段を降りる途中、二階で出くわしたメイドのカスミにお茶の手配を依頼した。
カスミは、数ヶ月前からこのお屋敷に勤めはじめた新しいメイドさんだ。比較的若い女性で、まだまだ融通が利かないことが多々ある。だから、しらすちゃんは、カスミを苦手にしているのだ。
クイーンは、ダンナさまから用を言いつかるカスミを、じっくり観察した。
カスミが去ったあと、ダンナさまとクイーンは、再び一階の『タペストリーの間』に入り、いつもの席に腰かけた。
「よおっし、クイーン。ヤル気が出てきたぞ! わたしも無い知恵をしぼってみるかな。それともクイーン、なにか良いアイデアがあるのかい? 亡き妻はクイーンのことを、史上最高の『ねこ探偵』だと評していたからな」
「みゅーう」
少し待ってくださいとでも言うように、クイーンはその場から消えた。
ダンナさまが優雅にダージリンティーのファーストフラッシュを飲んでいると、
「にゃーん」
クイーンが現れた。
口に、なにかをくわえている。
「ああ!」
ダンナさまは驚いた。
「ああ、そうか、クイーンはこれを提案したいのだね?」
「にゃにゃーん」
○
翌朝。
ダンナさまの邸宅は、旧伯爵邸と呼ばれていたが、同じ敷地内の、本館から少し離れた場所に、使用人の住む一軒家が数軒あった。
かつて東西南北各ゲートにあった門番小屋を、今ふうにたてかえた住居だ。
西門の近くには、家族向きに改築した平屋があった。
「いってきまーす!」
濃紺の制服に身を包んだ女の子が、元気に走り出した。
「さっち、いってらっしゃーい。学芸会の劇、必ず観に行くからね。落ち着いてがんばるのよ!」
「うん」
女の子の名前は木月さちか。中学二年生。愛称はさっち。
快活で、エネルギッシュ。マッシュ・ショートの髪はナチュラルで、さっちによく似合っている。ピンと背筋が伸びた走る姿勢が絵になる。
見送っているのはお屋敷の料理人、木月カエデコさんだ。
さっちが、使用人用のお勝手口から、塀の外へ出ようとしたそのときだ。
「にゃーん」
おチビなねこちゃんが現れた。
「あ、しらすちゃん、おはよう」
「にゃっ」
しらすちゃんは、さっちの制服スカートのすそをくわえて、いまさっちが出てきたばかりのおうちの方向へ引っ張った。
「あらどうしたの? しらすちゃん、わたしこれから学校へ行かなきゃならないの。きょうは学芸会だから、遅刻したくないのよ。わかってね?」
そう言うとさっちは、しらすちゃんを抱き上げようとした。
しかししらすちゃんは、スカートのすそをしっかりくわえたまま離さない。
「しらすちゃん、どうしたの? わたし足止めされちゃうの? どうにもこうにも動いてくれないの?」
そう、そのとおり。しらすちゃんは断じて動かない。
さっちが困っていると、もう一匹のねこが悠然と登場した。
「あ、クイーン。ちょうどよかった、しらすちゃんをどうにかして! このままじゃあ、わたし学芸会に遅刻しちゃう!」
するとクイーンは、しらすちゃんの目の前にやってきた。
そしてぐううっと、優艶さに満ちた顔をしらすちゃんに近づけ、口から口へ、大切なものをわたした。
するとしらすちゃんは、さっちの体をスルスルスルっとかけのぼり、ヒョイっと肩にとびのって、さっちに顔を近づけた。
「どうしたの、しらすちゃん?」
しらすちゃんは、口から半分のぞかせていたリングを、さっちの両の手のひらへ、しっかりと置いてあげた。
「あっ! リングね!」
さっちは満面の笑みを浮かべて、リングを大事に受け取った。
「このリング、きょうの学芸会の劇で、どうしても必要だったの。わたし、うっかりして持っていくの忘れるところだったわ。クイーンとしらすちゃん、ふたりして、わたしに届けてくれたのね? 助かったわ、どうもありがとう!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんとは、OK、そのとおりよ、という意味だ。
肩から飛び降りたしらすちゃんは満足して、クイーンとともに満面の笑みでさっちを送り出した。
「わたし遅刻しそうだから、もう行かなきゃ。じゃあね。クイーン、しらすちゃん、いってきます!」
「にゃーん」
「にゃーん」
笑顔で二匹に手を振りながら、さっちは門外へ元気いっぱいかけさっていった。
二匹はうしろすがたを温かい気持ちで見送った。
さっちのお母さん・カエデコさんは、お屋敷で料理人として働いている。だから、クイーンのことも、よく知っているのだ。よってカエデコさんの娘であるさっちも、クイーンやしらすちゃんをよく知っていた。
そして、子猫にしらすちゃんと名付けたのは、カエデコさんなのだ。
残り物の無塩しらすを与えると、よろこんで食べるので、カエデコさんが、しらすちゃんと命名したのだ。
クイーンとしらすちゃんは、休けい時間に帰宅するカエデコさんに連れられて、いっしょにおうちにおじゃますることが多々あった。だから、さっちがどこにリングをしまってるかぐらいは、当たり前のように知っていたのだ。
学芸会の劇に使うリング――といっても当然ながら本物ではなくイミテーション・リングであるが――を、クイーンと連携してさっちに届けることができて、しらすちゃんはうれししかった。
「クイーンにゃん。さっちは遅刻せずに、学校に到着できるかしらにゃん?」
「しらすちゃん、優しいのね。さっちは、あなたが思っているよりしっかりしてるから大丈夫よ」
「にゃん」
「さっちの劇がうまくいけばいいわね」
「そうにゃーん」
しらすちゃんはあまえるように返事をした。
「にゃーん」
クイーンはいつもしらすちゃんをやさしくうけいれてくれる。
リングは、劇の練習時には、カエデコさん手作りの紙製のリングを使っていた。
だが、さっちが主役のお姫様役だと知ったカエデコさんは、本物そっくりのイミテーション・リングをレンタルショップに申しこんで借りてくれたのだ。
「大好きなさっちの役に立ててうれしいにゃーん」
「しらすちゃん、お手柄ね。名探偵への第一歩よ」
「ごろごろにゃーん」
「ところでね、しらすちゃん」
「なあに?」
「内緒のお話しがあるの」
「なーににゃん?」
「実はね、……」
クイーンはきのうの出来事を話した。
クイーンとダンナさまはふたり、ひたいを寄せ合い思案していた。ちょうどしらすちゃんがお昼寝をしている頃だ。
ダンナさまはクイーンにいった。
「よし、ヤル気が出てきたぞ。わたしも無い知恵をしぼってみようかな。それともクイーン、なにか良いアイデアがあるのかい?」
「みゃーん」
少し待ってくださいとでも言うように、クイーンはその場から消えた。
ダンナさまが閑麗なたたずまいで、ダージリンティーのファーストフラッシュを口にしていると、「にゃーん」とクイーンが現れた。
「ああ!」
ダンナさまは驚いた。クイーンはリングをくわえていたからだ。
一瞬、本物と見まごうばかりのリングだ。ピカピカとかがやいている。しかし、幼少期から本物に囲まれて生活してきたダンナさまにとっては、本物のリングでないことは一目瞭然だ。
だが、一般の人々にとっては、本物のリングとニセモノのリングの違いはわからないはずだ。
「ああ、そうか。クイーンは、イミテーションリングを提案したいのだね?」
「にゃにゃーん」
クイーンからダンナさまに渡されたリングは本物ではなく、イミテーションリングだったのだ。
「そうか、そうか。念のため、イミテーションリングを用意しておくという手があるのだな? さすがは名探偵クイーンだ。イミテーションリングなら、盗まれても大丈夫だものな」
「にゃーん」
「でかした、クイーン。ナイスアイデアだ。感心したよ。よし、決めた。イミテーションを使おう」
さっそくダンナさまは、奥さまが生前に懇意にしていた宝石商を呼んだ。
「今夜にも、わが家宝と瓜二つのイミテーションリングが欲しい」
ダンナさまは、そう宝石商にリクエストしたのだ。
「ええええ? クイーン、じゃあ、イミテーションリングは、さっちの学芸会用のものと、ダンナさまが入手したものと、合計ふたつあったの?」
しらすちゃんは、クイーンにそうたずねた。
「それが違うのよね。宝石商からは『すぐには用意できない』との返事だったのよ」
「え?」しらすちゃんの目は点になった。「ということは、」
「そうよ、しらすちゃん」
「じゃあ、さっき、わたしがさっちにわたしたリングは?」
「本物よ」
「きゃあ!」
「どう? 本物のリングの輝きは?」
「きゃあ! クイーン、どうしてそんなことを?」
「だってね。考えてみなさい。もし、お屋敷に怪盗ルサンチマンが忍びこんで、本物のリングが盗まれたらこまるでしょ? 唯一無二の奥さまの形見なんですから。だから、お屋敷にある本物のリングと、カエデコさんが借りた学芸会用のイミテーションリングを、念のためにわたし、すりかえといたのよ」
「ええええっ? ビックラこいたにゃん!」
しらすちゃんがこれほど驚いたのは。この十一ヶ月で初めて。すなわち、生まれて初めての経験だ。
「じゃあクイーン。さっきわたしがさっちにわたしたのは、ほんとうに本物のリングだったのにゃん?」
「そうよ、しらすちゃん。本物のリングと、イミテーションリングのちがいがあなたにわかって?」
「うーーん。そういえば、本物のほうが、紫のかがやきが濃かったような気がするにゃん……」
「そうよ、よくわかったわね。名探偵を目ざすあなたにとっては、またとない貴重な経験になったでしょう?」
「にゃにゃーん」
クイーンは、さっちが学芸会で使うイミテーションリングをダンナさまにわたし、代わりに、ダンナさまの本物のリングをさっちの宝箱に戻しておいたのだ。
さっちの宝箱とは、さっちが中学校の美術の授業で作った木製のもので、さっちがデザインした唐草模様が掘り込まれてある。宝箱の中には浜辺で集めた貝殻や光る石など、さっちが幼稚園に上がる前からの想い出の品々が詰まっているのだ。
そしてさっちの宝箱は、いつも居間のテーブルのど真ん中に置きっぱなしだったのだから、探すまでもないのだ。
「じゃあクイーン? だったら、ダンナさまさえ、本物のリングがどこに隠されているのかは知らないの?」
「そうよ。知っているのは、世界であなたとわたしだけよ、しらすちゃん」
「にゃーん! さすがは名探偵にゃん!」
しらすちゃんは興奮した。
そう。クイーンは名探偵なのだ。
しかも、麗しき名探偵なのだ。そしてしらすちゃんは、クイーンのような名探偵を目ざしているのだ。
しらすちゃんは生後十一か月の子ねこにしては、かなりの物知りだと、他のねこさんたちから褒められたりする。もし人間として生まれてきたなら、天才児ともてはやされたかもしれない。
でも、クイーンの頭脳と経験は、しらすちゃんのはるか上をいく。
しらすちゃんはいつも思っていた。ほんとうの、本物の天才とは、クイーンのようなねこのことをいうのだ。較べることなど、できようはずもない。
クイーンは、抜群の推理力、卓越した運動神経、そしてだれも敵わない優雅さ。この三拍子そろったねこ探偵なのだ。
そうなのだ。クイーンは、ただの探偵ではない。
華麗なるねこ探偵なのだ。
○
翌朝。
お屋敷内は、朝から多くのお客さまたちでごったがえしていた。
「ああ、学芸会がきのうで良かったわ。さっちの劇は大成功だったから」
すぐ近くに立っているカエデコさんがそうつぶやいたのを、しらすちゃんは聞きのがさなかった。
「にゃーん」
「もし学芸会がきょう開かれたなら、休みをもらって、さっち主演の劇を見に行くことはできなだったわ」
それほど急な来客があったのだ。
まだ朝の九時だったが、見知らぬ男性が四人、『大広間サルーン』に通されていた。
ダンナさまは使用人たちを集めた。
ダンナさまと、初見の恰幅のいいご老人のふたりが座の中央に腰かけている。
ダンナさまはみなを見まわしてから、こう言った。
「みな集ったようだな。では会議を始めよう」
しらすちゃんはサルーンに屹立する円柱のかげに隠れながらも、一同を見わたすことができる位置にいた。
「しらすちゃん、なにかが起こるにちがいないわ」と、クイーンが探偵見習中のしらすちゃんを呼び寄せてくれたのだ。
会議の参加者は、全部で二匹と九人。
うち、しらすちゃんが知っていたのは二匹と五人。残りの四人は初めて見た。いったいどこのだれだろうか。
知っている二匹とは、敬愛してやまないクイーンと、しらすちゃん自身。
そして九名の人間の中心に座しているダンナさまのかたわらで、クイーンは悠然と横たわっていた。
さすがは女王さま、貫禄たっぷりだ。寝そべっているのに、だらしなくない。それどころか気品たっぷりだ。
あの気高さ、上品さは、さすがクイーンだ。ダンナさまにひけをとらず、一同の中心にどんと構えている。しらすちゃんは感心した。
ダンナさまは、よく通るバリトンボイスで語った。
「……みんなに集ってもらったのは他でもない。いま世間を賑わせている『怪盗ルサンチマン』については、様々なニュースで聞き知っていると思う。実は、ついに我が屋敷に、怪盗ルサンチマンから脅迫状が届いた」
なんということでしょう! しらすちゃんは引っくり返るほど驚いた。
人間たちも、騒然としている。
怪盗ルサンチマンとは、ここ数年、日本じゅうを騒がせている大どろぼうだ。おそらくは男性であろうという以外、まったく正体不明なのだ。
新聞やネット、テレビのニュースで名前を見ない日はないほど有名だ。なにしろ盗みに入る前に、必ずや事前に脅迫状を送りつけ、いついつ何を盗みに入るか宝の持ち主に告知するらしい。
だから脅迫状は、日本社会に対する挑戦状でもある。
しかもねらった獲物は必ず強奪している凄腕の持ち主。
天下無敵だと評判の大どろぼうなのだ。
ダンナさまはふところから白い書状を取り出し、みんなに見せた。どうやら新聞や雑誌の文字を切り貼りして作成した脅迫状だ。
「……そしてだな。怪盗ルサンチマンからの脅迫状には、『あす正午、屋敷に隠された秘宝中の秘宝『心の平和』をいただきに参上する』、と記されてある。みな知ってのとおり、『心の平和』は我が家の家宝だ。そしてこの書状はきのう届いたので、ルサンチマンが現れるのは、きょうの正午だ」
みんなは、さらにどよめいた。
そのどよめきのさなか、クイーンはダンナさまのひざの上の特等席を離れ、ぴょーんと飛び降りた。そしてみんなの背後へと、テクテクと歩いて移動した。円柱のかげにしらすちゃんがいるからだ。
「にゃーん」
クイーンがよびかけた。
「にゃーん」
しらすちゃんはいつものお返事だ。
しらすちゃんは、かたわらにやってきてくれたクイーンにたずねた。
「ねえクイーン。クイーンは『心の平和』って知ってる?」
「知ってるわ。しらすちゃんがきのう、さっちにわたしたリングよ。あのリングの主石が『心の平和』なのよ」
「きゃあ、そうだったにゃん!」
「『心の平和』は、ダンナさまが一番大切になされている宝石よ。だって亡き奥さまの形見なのですから」
「奥さまの!」
しらすちゃんが生まれる直前に奥さまはお亡くなりになってしまったので、しらすちゃんは奥さまに直接お会いしたことはない。
でも、とても優しくて、心豊かな方だったと耳にしたことが何度もあった。
「ね、しらすちゃん。『心の平和』の主石は、アメジスト。別名、紫水晶よ。アメジストには、歴史と伝統があってね。ルネッサンス時代のヨーロッパでは、すでに代表的な宝石として価値が認められていたわ。そしてアメジストのなかでも『心の平和』は、秘宝中の秘宝だったの」
「どうしてにゃん?」
「なぜって、それはね。『心の平和』の吸い込まれるようなパープルの輝きを見ていると、どんな苦しいことがあっても、どんな哀しいことがあっても、見ている者の心を癒し、落ち着かせてくれるからよ」
「わあ、すごいにゃん」
「ロシア帝国の有名な女帝・エカテリーナ二世が、生前、もっとも愛用していた宝石が『心の平和』なの。エカテリーナ二世は波乱万丈の人生を送った人よ。荒れ狂う時代の波に翻弄され、苦悩の生涯を送った人だから、『心の平和』はどうしても手放せなかったのよ」
「なーるほどにゃん」
「だからいま、奥さまを亡くされてつらい毎日をすごしていらっしゃるダンナさまにとって、決して手放せない大事な宝石なの」
「そうね、そのとおりにゃん」
「しかもね、しらすちゃん。アメジストは、奥さまの誕生石よ。『心の平和』は、おふたりが婚約なされたときに、ダンナさまが奥さまにお贈りした想い出の品なのよ。だから『心の平和』は、ただの宝石ではないの。おふたりにとって、心に残る大切な想い出の品なのよ、わかって?」
「くーーん、そうなのにゃん!」
しらすちゃんも、『心の平和』の重要さが理解できた。
「でだ。集ってもらったみんなに、まずご紹介したいかたがいる」
ダンナさまが引き続き話しはじめたので、みなは静粛にした。
「こちらは、亡き祖父の知人であり、わたしも親しくさせていただいている福井山金吾先生だ」
ダンナさまは、隣に腰かけている威厳あるご老人を見やった。
ご老人が座るイスの脇に杖が立てかけてあるのは、あしがお悪いからだろう。かなりお年を召されている。
「金吾先生は、すでに引退なされていらっしゃるが、我が国の犯罪捜査における第一人者だ」
耳の上にだけ白い髪が残されている福井山金吾氏は、立派なスリーピースを着用していた。濃紺の生地に、白の縦縞チョークド・ストライプが入っている赫々たるスーツ姿だが、ややお腹まわりがきつ そうだ。久し振りに着込んだのかもしれない。
「今回、我が屋敷に怪盗ルサンチマンから脅迫状が届けられるにおよび、豊富なご経験をお持ちの金吾先生にご協力をいただくことにしたのです。では金吾先生、みなにむけて、ひとことお願いします」
齢七十代後半ほどだろうか、太り気味のご老人が発した。
「では、まずみなさま、どうぞお座りください」
ダンナさまを中心に半円状にイスが並べられていたので、みんなは腰かけた。みんなが座ったのは金の縁取りが施された革張りのイスで、来客用の高級品だ。
ご老人は話しはじめた。
「コホン、コホン。それでは座ったまま失礼します。ただいまご紹介にあずかりました福井山金吾です。十年ほど前まで警視総監をしておりました」
元警視総監と聞き、人間たちはどよめいた。かつて我が国の警察機構のトップに君臨していた人物なのだ。
「また退官後は、東京大学法学部で、院生たちに指導もしておりました」
ますます人間たちはどよめいた。
人間というものは、権威に弱いのだ。
「そして先日、今回の変事の知らせを受け、ご相談に乗らせていただきました。警察に正式に警護を依頼すれば、事が公になってしまう。でも、事を大袈裟に騒ぎ立てるマスコミの餌食にはなりたくないとのご意向でした。よって、亡きお祖父様に生前、大変お世話になった私・福井山金吾が非公式ながら、老骨に鞭打って参上した次第です」
金吾氏は、このような内容を、たどたどしい口調で、つっかえひっかえしながら何とか語り終えた。
背中がいささか曲がり、ノドが弱り、体力は衰えたとはいえ、慇懃な立ち居ふるまいは堂々としたものであった。
しかし金吾氏が、お腹の周囲がはちきれそうなのを無理して一礼したところ、ボタンが三個、外れて飛んでしまった。
「あうっ」
とんだ失態だが、しらすちゃんは見て見ぬフリをすることにした。
「にゃん」
ダンナさまは、みんなを見回し、よくとおる声でこう言った。
「ところで、きょう、この屋敷に初めてお越しになった方々も少なくない。だれがだれかわからねば警備も不都合だろう。よって使用人のみんなに客人を紹介したいし、客人にもみんなを紹介したい。だが、わたしも初めてお会いした人たちもいる。だから自己紹介がよいだろう。使用人のみんなからひとりずつ、あいさつがてら、全員にむけて自己紹介してください」
自己紹介と聞いて、人間たちはざわついた。みんなトップバッターは避けたいのか、周囲をジロジロうかがう様子だ。
するとクイーンは、おののく人間たちの目の前を悠然かつ流麗によこぎった。
そして、優雅なステップを踏んで広間の中央に戻り、ダンナさまのひざの上に颯爽と飛び乗った。
「まずみなさんに、名探偵クイーンを紹介しよう」
「にゃーん」とクイーンはみなにあいさつをした。
「亡き妻の愛したクイーン・コッドローだ。いまや、我が愛猫だ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまは愛おしそうにクイーンの頭を撫でた。クイーンは、広間の中心から、威風堂々と人間たちを見回している。
クイーンの堂々とした立ち居ふるまいに、しらすちゃんは感心し、ほれぼれした。
「亡き妻の飼い猫だったクイーンは、我が家の大切な守り神だ。今回の事件でも、存分に活躍してもらえるだろう」
「にゃーん」
クイーンはヤル気じゅうぶんだ。
そしてクイーンは、威厳たっぷりに胸を張り、狼狽する人間たちが半円状に座る内側をトコトコ歩き、ある男性の前に堂々と立ち止まった。
「にゃーん」
クイーンは、男性を指名しているようだ。
大柄の男性で、長靴を履いている。ダンナさまはいった。
「クイーンが、まず泰蔵さんをご指名のようだね。では年齢順にしよう」
すると総白髪で、長身の男性が一礼してから口を開いた。
「わしゃ、庭師の佐郷泰蔵です。今年で六十五歳になり申す。先々代、現在のダンナさまのお祖父さまの代から庭師としてお仕えしております」
しらすちゃんが知るかぎり、泰蔵さんは熱心な仕事人である。日頃は無口だが、草花の話を始めると止まらなくなる。
そして泰蔵さんは、亡き奥さまの大のお気に入りだった屋上の天空ガーデンを、ダンナさまの言いつけどおり、丹念に手をかけて、奥さま生前のまま守っている。
「泰蔵さん、住まいはどちらですか?」
そう金吾氏がたずねたので、泰蔵さんはありのままを答えた。
「お屋敷の屋上――三階にあたる屋上に、天空ガーデンがありましての。そのガーデンの奥に納屋がありまして、納屋の脇に個人向けの住まいを与えられておりまする。あそこに住んでおりますと、わしが世話しちょる天空ガーデンの木々や草花の生育状態が、よおおくわかるのですじゃ」
「ほほう、興味深いの」
「ぜひ、後ほどご散策くだされ」
泰蔵さんはにっこり笑みをみせた。草花が大好きなのだ。
クイーンはトコトコと華麗なステップを踏み、皆の注目を一身に集めた。そして次に、小柄な老人の前に立ち止まった。
「にゃーん」
つぎにクイーンは、この小柄な老人を指名したのだ。老人は濃紺色のキャップを取って一礼すると、はげ頭だった。
「井村貞六です。ダンナさまが車を出すときの運転手をしております。年齢は、今年で五十二歳になり申す。わたしは、ダンナさまのお父さまの代からお仕えてしておりまする」
貞六さんは、謹厳実直という形容がぴったりのお抱え運転手さんで、ダンナさまからの信頼も厚い。
「お屋敷の敷地内、最南端に位置する使用人向けの住居に、ありがたく住まわせていただいておりまする」
かつての南門の門番小屋を改装した一軒家に住んでいるのだ。
次は、さっちのお母さんの順番だわ。そうしらすちゃんが予想したとおり、クイーンはカエデコさんの前にやってきた。
「にゃーん」
クイーンは、とびっきりの麗しい声で、カエデコさんを指名した。
「木月カエデコです。四十七歳です。料理人としてこちらのお屋敷に十年ほど勤めております。ダンナさまのおはからいで、敷地の西外れにある一軒家に、ひとり娘とともに居住しております。どうもありがとうございます」
そう言って、カエデコさんは頭を下げた。
「ほう、娘さんとともにの。おいくつかの?」と金吾氏は問うた。
「はい。娘のさちかは、今年で中学二年生になりました。十四歳です」
「うむ、ありがとう」
次は最後、クイーンはメイドの前に立ち止まった。
「にゃーん」
「ええっと」
大柄で太めの新しいメイドは、うつむきかげんのまま、モゾモゾと聞き取りにくい声で話した。
「アタシ、メイドの小吾田カスミ、三十四歳。三カ月前から働き始めて、地下の使用人部屋に住んでマス。アタシ無口なので……以上デス」
なんとも素っ気ないあいさつだ。でも無口なら仕方ない。愛想がなくとも、仕事をテキパキこなしているなら仕方ないか。
でもこのメイドは、クイーンといっしょにお屋敷に入ろうとしたしらすちゃんを、一度ならず、木の枝で引っぱたいて追い払おうとした。まったくもってひどい人間だと、しらすちゃんは、カスミを大の苦手にしている。
本音をいわせてもらえれば、一刻も早くこの場から出て行ってほしい。
しらすちゃんはそう願った。
するとしらすちゃんの思いが通じたのか、カスミは、ちょこんとヒザを曲げる西ヨーロッパふうの気取ったおじぎをすると、大広間から出て行こうとした。
「ニャーゴー!」
すかさずクイーンが通せんぼした。
カスミは舌打ちした。
「カスミさん、ここにいてくださいね」
カスミは、やんわりと金吾氏にたしなめられた。
するとダンナさまが口を開いた。
「では次に、きょう初めて我が屋敷におこしになった方々、こちらも年齢順にごあいさつしてください」
きょう、初めてしらすちゃんが見た面々だ。名探偵を目ざすしらすちゃんにとって、願ってもない人間観察の機会だ。
クイーンはすらりと伸びた四肢をかろやかに使って進み、初見者のなかで最年長と思われる男の前に立ち止まった。
「にゃーん」
しらすちゃんは、見知らぬ男を観察した。
まだ九月なのに、室内でも脱がないトレンチコートのエリを立て、幅広のリボンで飾られたクラシカルな帽子を室内でもかぶりつづけるさまは、いかにも気どり屋だ。それともほんとうのおしゃれというものがわかってないだけか。
全身を統一している色が、もし、ド派手なショッキングピンクでさえなければ、おしゃれといえなくもない。カッコつけながら男は口を開いた。
「フッ。ワタシは、私立探偵、ラニグチ・イワオだ。年齢は四十四歳。どうだ、カッコいいだろ?」
そういうと、その場でラニグチはクルッと一回転した。するとタバコくささが広間じゅうに広がった。ダンナさまも金吾氏も、咳き込んでいるではないか。
しらすちゃんは憤慨した。口のなかにも、ピンクのスーツにもコートにも、タバコの臭いが染み付いているのだ。
ラニグチはいやらしげな表情を浮かべ、こう続けた。
「ワタシは、手が早いことで有名だ。ま、この名探偵ラニグチが来た以上、この事件、すでに解決したも同然だな。みんなの衆、大舟に乗ったつもりでご安心あれ。ヨ・ロ・シ・ク!」
しらすちゃんは吹き出しそうになった。
手が早い? ふふふ、なによ、この探偵。人間のことばをきちんと理解して使っているのかしら? いや、それとも正しく自己申告したのかしらにゃん? 相当、いやらしそうな目つきをしている。
探偵らしくいかにも如才なく、目端が利きそうだが、どうも小ずるいところがありそう。この男、要注意だわにゃん。しらすちゃんはもう一度、目を凝らしてラニグチ・イワオの風貌を確認した。
なんてキザったらしい。それに『私立』探偵というのが、どうにもうさんくさい。
もし人間にねこの話しことばがつうじるのなら、「我がクイーンは、伯爵家お抱えの名探偵なのよ!」
しらすちゃんは、そう言い返してやりたかった。
次にクイーンは、サッと半袖のTシャツ男の前に飛んだ。この男もいかにもあやしそうだ。クイーンは指名の鳴き声を上げた。
「にゃーん」
クイーンに指名され、Tシャツ姿の若い男が口を開いた。
「おうオレの順番かあ? じゃあ、オレ、言うよ。オレは、臨時ボディーガードのキナバ・ユウイチ。三十三歳だ。趣味は、筋トレと、渋谷の日焼けサロン通い。どう? イケテルだろ?」
いかにもチャラチャラした態度でそう言うと、茶髪を短く刈り上げた髪形のキナバは、真っ黒に日焼けした腕を曲げて、筋肉を隆起させた。ムキムキの筋肉を見せびらかそうとしているのか、キナバの上半身は白のTシャツ一枚のみだ。
「オレ様キナバ・ユウイチが来たからには、もはや、宝石の安全は保証されたも同然だ。怪盗が来ようが、津波が来ようが、宝石を必ず護ってみせよう。ふはははは」
あらあら。ここは山の手の台地の上、しかも高台に立地してるのよ。海岸線からも河川からも遠く離れてるのに、どうやって津波が押し寄せるのかしら?
しらすちゃんは、どこからどうみてもチャラ男であるキナバをいぶかしみ、鋭くにらみつけた。
そうともしらずキナバは、ふてぶてしいようすで続けた。
「ええっと。それとォ、オレ様のもうひとつの趣味は、とにかく、よく食べること。なにもかもね。ね、料理人さん、きょうのお昼ご飯、オレたちさ、ここで喰えるんだろ? オレ、三人前は喰うから。じゅうぶん用意しといてくれ。ハッ!」
かけ声とともに、キナバはふたたび、二の腕の筋肉を盛り上げた。
キナバの二の腕の筋肉はたしかに発達している。だからキナバのからだはたくましいのだが、ただしボディーガードとしてなら、背たけはかなり低めだ。
実はこの人、背が低いというおのれのコンプレックスをぬぐいさるため、筋トレに励んでいるのかしらにゃん。
しかもキナバはそこそこの年齢だが、今回、臨時のボディーガードとしてやとわれたとのことだ。では、日頃はいったい何をしている人なのだろうか? しらすちゃんは疑問に思った。
「じまんじゃないが、オレ様は手グセが悪くて有名だ。よおく覚えとけよ」
え? 何をじまんしてるの、この人? 手グセが悪いって、他人のものを盗むっていう意味でしょ?
キナバも要注意だわと、しらすちゃんは心した。
いまや司会者の貫禄を漂わすクイーンは、最後の男に近づいたが、一瞥してプイとソッポを向いた。
そこには、おかしな格好をした若者が立っていた。白のランニングシャツは、どう見ても下着のままだし、はいているズボンはパジャマのようだ。
「じゃあいうねー。オレはぁ、イムラ・サダイチロウぅ。二十二歳ィー。叔父サンといっしょにぃ住んでるゥー」
語尾を伸ばすしゃべりかたが、今ドキの若者ふうで、カッコよいとでも思っているのだろうか?
しらすちゃんには、聞くにたえなかった。
実直な運転手・井村貞六さんは独身で、長年独り暮らしだったが、いつのまにか甥のサダイチロウも同居しはじめたらしい。
サダイチロウはボサボサ頭で、寝癖だらけ。まるで不審者だ。脇腹をポリポリ掻きながら話す様子は、見るにたえない。
「オレェー、別に学校なんてクソウゼエとこなんか通ってねえしィ。それに仕事なんて、チョーまじウゼエから働く気になんかなんねえしィ。でもアパート借りたりしたらぁ、カネかかんだろ? だからさァー、チョッと前から叔父さんとこにぃ、勝手に転がりこんでぇ、住まわせてもらってるゥ。悪いかよ? 悪かねえだロォ?」
サダイチロウは、憎々しげな表情のまま続けた。
「オレが日頃ナニしてるかだってェ? 日長、へやにこもってネットの動画とゲームにハマッテっからさァ、うん、たいてい朝方までよう。だからいつもは寝てんだよこの時間。マジ眠いったらありゃしねえぇ。フワアっ~」
そういい終わると、サダイチロウは片手でおのれの腹部をモゾモゾモゾと掻(か)きながら、大あくびした。
しらすちゃんは、サダイチロウに、ダサイチロウとアダ名を付けた。ダサイチロウはこの場に、なんのために呼ばれたのだろうか?
「しもうたな……」
不肖の甥っ子をまったく場違いな所に連れて来てしまい、貞六さんは面目ないと恥ずかしげにうつむき、おのれの額を押さえている。
ダサイチロウは、存在そのものがTPOに反しているのだ。ウワサは聞いていたが、初めて見た。用心用心。
ダサイチロウみたいな男は、野放しにするより、しっかりと監視の目が行き届くこの場所に連れて来て正解だわ。
そうしらすちゃんは思った。
あまりにも問題を起しそうな人間ばかりなので、しらすちゃんの神経は研ぎ澄まされてきたのだ。
「ところでェー」
ダサイチロウは、まだ何か言おうとしている。
「用心棒として知っておきたいんだけどォー。『心の平和』はぁー、お屋敷のどこに隠してあるんスカァー?」
ダサイチロウのあまりの非礼ぶりに、しらすちゃんはキレた。
「シャー!」
そう叫んだしらすちゃんは、全力で赤い絨毯をけり、ダサイチロウの前に仁王立ちした。
「シャアア!」
ダサイチロウはいまだ寝ぼけているのか、愛らしい子ねこにすごまれて、キョトンとしている。
「ふむ」金吾氏は目を丸くして言った。「これはこれは、なんともまあ、カワイイ子ねこちゃんだね」
「あっ。わたしの知り合いなんです」
カエデコさんがあわててかけよって、しらすちゃんを抱き上げた。
「しらすちゃんっていう名前なんです」
カエデコさんは、しらすちゃんを落ち着かせようと、ふんわりと抱きしめて、優しくおでこを撫でてくれた。
「にゃーん」
とびっきりの甘え声でしらすちゃんは返した。
「なんとも愛らしい子ねこちゃんだ」
目を細めた金吾氏は、しらすちゃんをほめてくれた。
「みゃーん」
みなに紹介してもらったしらすちゃんは、一人前になれた気がした。うれしくてうれしくて、ちいさなノドをゴロゴロ鳴らした。
「かわいいー」
人びとは、しらすちゃんのかわいい仕草に目を奪われている。
その間に、ダンナさまと金吾氏は、何やら目配せをした。
「コホン、ならば発表しよう」
金吾氏は、おごそかに発表した。
「『心の平和』は、ワインセラーにある」
人間たちはどよめいた。
○
チクチクチッチ、チクチクチッチ。
巨大な壁かけ時計の針は正常に動いている。
ところが大広間の人間たちは皆、無言でイスに座ったままだ。
ただし、カエデコさんと、クイーンと、しらすちゃんだけは大広間を抜け、階下に下りることができた。
「ふうう」
おのれの仕事場であり、いつもの居場所であるキッチンへ入ったカエデコさんはホッとして、大きく深呼吸した。
「やあね、あそこいるだけで疲れちゃうわ。ね、しらすちゃん?」
「にゃーん」
キッチンへは入らず、手前のろうかでクイーンとしらすちゃんは立ち止まった。食べ物をあつかう場所には入らないきまりなのだ。
「でも、いくら疲れていようが、料理人に休けい時間なんて無いのよね。これからみなさんの昼食を仕度しなければならないの。かなりたいへんだわ」
「くーーん」
「いつも余裕をもって食材は購入しているから、買い置きはちゃんとあるけどね」
「にゃーん」
「で、幸いなことに、きょうは土曜日」
カエデコさんは腰をかがめて、ろうかにいるクイーンとしらすちゃんに目線を合わせると、こう頼んだ。
「クイーン、しらすちゃん、お願い。うちの子、呼んできて!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
にゃにゃーんは、OKという意味であり、しらすちゃんは、いつもあこがれのクイーンのマネをする。だから二匹の返事は、よく二重奏になるのだ。
クイーンとしらすちゃんはかけだした。
敷地内は、文字どおり、まさに自分の庭である。
二匹は、広大な緑の芝生をかけぬけ、さっちを呼びに行った。
芝はいつも泰蔵さんがていねいに刈りこんでいるから、走り心地が飛びっきりグーなのだ。
木月家にかけこんだ二匹は、さっちを見つけた。
「くーん」
「くーん」
「どうしたの? クイーンもしらすちゃんも息せき切って」
ベッドの上で気ままに寝転がり、まだまだのんびりしていたかったさっちは目をこすった。
「あ? もしかしてお母さんが呼んでる? わたしを?」
さっちは、自分を指さした。
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
「あーあー。さっき起きたばっかりなのに、仕方ないなあ」
ベッドからフラフラと起き上がったさっちは、しぶしぶトレーナーとジャージを重ね着した。
「ねえ、クイーン、しらすちゃん。わたし、こんな格好でいいかな?」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
クイーンとしらすちゃんとさっちは、大きな庭を横切って、タタタタ、タタタ、と本館へ向かってかけていった。
さっちは日頃、なぎなたのけいこで身体をきたえているので、長い距離を走ってもそれほどつかれないのだ。
キッチンに入ったさっちは、さっそくお母さんを手伝った。野菜洗いや、ジャガイモの皮むきなどだ。
当初はイヤイヤながらといった風情だったさっちも、血は争えず、やってる間に楽しくなってきた。いつのまにやら鼻唄を歌っている。
「ねえお母さん。もっと洗う野菜ない? もっとおジャガの皮むきもしたい」
そうリクエストするまでに入れ込んでいる。
「じゃあね、えーっと、」
とにかくカエデコさんは忙しかった。
でもしらすちゃんは、ただ見ているだけだ。いつもとても世話になっているカエデコさんを手伝うことができないのが、どうしようもなく残念だ。本心は、手伝いたくて、手伝いたくてたまらないのに!
「にゃそぅ」
仕方なく、クイーンとともに大広間に戻った。
チクチクチッチ、チクチクチッチ。
ただ、ときだけが無為に過ぎていく。
待てど暮らせど何も起こらない。
事件が発生しないまま、ついに正午を過ぎた。
「ねえクイーン。怪盗ルサンチマンは、脅迫状で予告した正午になっても現れないわ。どうしてなの?」
「なぜなのかしらね、しらすちゃん。でも、わたしの予感は、全然収まらないのよ。それどころか強まるばかり」
「ねこのしらせね?」
「そうよ。わたしが思うに――、すでにルサンチマンは、とっく出現しているのじゃないかしら」
「きゃあ!」
しらすちゃんはびっくりした。
「怪盗ルサンチマンという男は、予告したことは確実に実行するらしいから」
「ああクイーン、どうしましょうにゃん」
「でも、しらすちゃん。あなたは、お昼寝の時間よ」
「はいにゃーん」
しらすちゃんは、大広間の円柱の影でお昼寝した。
ねこという動物は通常、一日二十四時間のうち、十四時間から二十時間ほど眠るのだ。子ねこは、もっと眠るのだ。
熟睡したあと、しらすちゃんは大広間を出て、芝生の上でごろんと寝転がったり、ちょうちょさんたちとたわむれて遊んだ。
「やっぱり、お外で遊ぶって気持ちいいにゃーん」
すると、そろそろ西の空が真っ赤に染まってきた。
「とっくに事件は解決したかしらにゃん」
しらすちゃんはそう思い、ちょうちょさんたちに別れを告げて、人間たちが集うお屋敷に戻った。
しらすちゃんは大広間に入ると、人間たちをかきわけ、クイーンをさがした。
すると窓際に座って、雅やかに顔を掻いているクイーンを見つけたので、しらすちゃんは笑顔で寄っていった。
「クイーン、にゃ~ん」
「しらすちゃん、にゃ~ん」
「クイーン、もう事件は解決したにゃん?」
「いいえ、まだよ。夕方になったけども、まだ事件が発生しないのよ。まだ、なにも盗まれてないの」
「そうなの? 怪盗ルサンチマンは、もう宝石をあきらめたのかしらにゃん」
「しっ! しらすちゃん、声を落として! 怪盗ルサンチマンは脅迫状に書いたままを、必ず実行するおそろしい男なの。だから正午の時点で、やっぱり、このお屋敷にもぐりこんでいるはずよ!」
「きゃあ、やっぱりそうにゃん?」
しらすちゃんは、目が点になった。
――危機は確実に迫っているのだ。
そんなことも知らず、私立探偵ラニグチが、ショッキングピンクのすそをヒラヒラさせて、退屈そうにつぶやいている。
「こんなに警戒が厳重だからナ。さすがの怪盗ルサンチマンもさ、とっくにお宝どろぼう、ギブアップしたんだろうなあ」
「ふふふふ。オレの二の腕を見たら、どんな怪盗もシッポをまいて逃げ出すのさ。あはははは!」
筋肉じまんのキナバも、ヒマそうに二の腕をさすっている。ヒマすぎるのか、その場で腕立て伏せと、腹筋、背筋を鍛え始めた。
こうしてさらに数時間経過した。
夕方の五時半を過ぎてもまったく動きがないものの、人間達はみんな、屋敷に居残っていた。
もともとの予定では、祖父の代からの知人である元警視総監の金吾氏だけが、邸宅で夕食をともにするはずだったのに、急遽、予定は変更になった。
全員分の夕食を提供することになったのだ。
ということは大忙しなのはカエデコさんである。
客人のみなさんにお出しした三時のおやつで使用した食器類を、どうにか片付け終わったばかりだったのに。
「クイーン、しらすちゃん! またお願いしてもいい? もう一回、うちへ走って、さっち呼んできて!」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
クイーンとしらすちゃんは、暮れなずむ夕陽に照らされる大きな庭を走った。
なんて素晴らしい夕焼けなのだろう!
あたりいったいは、くまなくあかね色にそまっている。そう、目に入るすべてが、燃えるようにうつくしくかがやいているのだ。どこまでも巨大で、心をふるわすほど美しく、完璧な夕陽だった。
「にゃーん!」
疾走しながらも夕陽に見とれたしらすちゃんは、自分がいったい何のために走っているのか危うく忘れそうになった。しかし、われわれ人間にとってみれば、そんなしらすちゃんが一番かわゆいのであった、なにもかも忘れるほど!
夢のような夕焼けに、赤々とそまった広大な庭を横断したクイーンとしらすちゃんは、さっちのへやにかけこんだ。
「くーん」
「くーん」
へやに再び現れた二匹に、さっちは問いかけた。
「あれっ? どうしたの、また二匹そろって。もしかして、またお母さんがわたしを呼んでるの? クイーンもしらすちゃんも、大忙しね?」
「にゃにゃーん」
「にゃにゃーん」
再度の召集だ。
「ああ。せっかくゲームはじめたばかりなのに、仕方ないなあ」
寝転がっていたベッドから起き上がったさっちは、ゲーム機の電源を切った。
「よーし。いっちょ、やるか! クイーン、しらすちゃん、いっしょに行こう!」
「にゃーん」
「にゃーん」
クイーンとしらすちゃんとさっちは、かけだした。
燃えるような夕陽が、どこまでも続く広大な庭に沈んでいく絶景の真ん前を横切って、タッタ、タッタとかけていった。
時が止まるほど美しい夕焼けだった。
○
ようやく夕食後のデザートタイムが終わったころあいだった。
広々とした大広間に、人間たちはしょざいなげに立ったり、座ったりしていた。
しらすちゃんからすれば、ムダな動きばかりだ。
私立探偵ラニグチと、筋肉じまんのキナバが窓際でなにやら立ち話をしている。小声なのがどうにも怪しい。
しらすちゃんはふたりの背後にまわって、コソコソ話に聞き耳を立てた。
「……おい、キナバ。知ってるなら教えてくれ。ワインセラーって、お屋敷のどこにあるか知ってるか?」
「えっ? ワインセラーの場所? ……そんなこと、オレにわかるわけねえだろ? しかもだな、ラニグチさんよ」
「む? どうした?」
「お宝をワインセラーに隠したってのは、ガセネタだってウワサだぜ」
「何だと? ウソだっていうのか?」
「そうだ。『敵をあざむくのは味方から』っていうだろ。警備の常識だ」
「なーるほどなあ。ということは、逆に、お宝がワインセラーには無いってことだけは確実になったわけだ」
すると、いきなり大広間が真っ暗になった。
「停電だ!」
だれかが叫んだ。
混乱しているので、叫んだのはだれだかわからない。
しらすちゃんは、すかさずかべを見上げた。壁かけ時計で、時刻を確認するのだ。
――午後八時十一分。
『しらすちゃん。名探偵を目ざすなら、押さえるべきことをひとつずつ確実に押さえていくべきなのよ。どんなちいさなことでもいいからね』
しらすちゃんはクイーンから、そうアドバイスをもらっていた。ねこは夜目が利くから、暗闇でも時計を読めるのだ。
「うわあ!」
「きゃあ!」
「痛っ!」
「ぶつかるなコンニャロー!」
何がどうなってるのか、夜目が利かない人間たちにはわからない。
暗闇の中、人々はうろたえ、デタラメに走り出そうとしてはイスのあしにけつまずいたり、だれだかわからないだれかにぶつかったり、もう大あわてだ。
「どけどけ!」
「どくのはそっちだ、ア、イテテテ……」
こんなていたらくじゃ、怪盗ルサンチマンも腹のなかで大笑いしてるのじゃなかろうか?
人間たちが足早に行き来する騒音が響いた。階段からも足音が聞こえる。
大広間にいたはずのクイーンも、サッとどこかへ走り去ってしまったようだ。
「ようし、わたしも!」
しらすちゃんは名探偵になりたいのだ。だから覚悟を決めた。そして、うたがわしいと目をつけていたある男の後を追った。
ねこは夜目がきくので、暗かろうが明るかろうが、尾行などお手のものだ。
しらすちゃんが追いかけることにした人間は、この界隈でダントツの金欠男・井村ダサイチロウだ。
停電であたりが真っ暗になり、しばらく復旧しなさそうだと感じると、とたんに元気になったダサイチロウは、暗闇をいとわず走りだしたのだ。
あやしい。いかにもあやしい。
クイーンのような名探偵を目ざすしらすちゃんとしては、ダサイチロウを追いかけずにいられない。
初めて来た人がすぐ迷子になってしまう、迷路のように広いお屋敷内がこんなに暗いのにもかかわらず、ダサイチロウは一直線に大広間を突っきり、となりの『晩餐の間』に侵入した。
晩餐の間には高価な絵画や調度品が、山のようにたくさんかざってある。盗み出せば大金になるものばかりだ。
「わたし、決心した! ダサイチロウがおかしなマネをしたら、有無を言わさず、かみついてやるにゃん」
決意を新たにしたしらすちゃんは、ダサイチロウを追走しながらも身構えた。
しかしダサイチロウは、晩餐の間も一気にかけぬけていくではないか。
「おかしいにゃん。どうしてかしらにゃん」
クビをひねりつつ、しらすちゃんも晩餐の間を通りすぎた。
すると意外や意外、なぜかダサイチロウは使用人専用の階段をつかって、地下へかけおりていく。
「どこへ行くつもりにゃん? こわいけど、わたし、追いかける。だってねこ探偵をめざしてるんだもん!」
しらすちゃんは、勇気を出してダサイチロウをたった一匹で追いかけた。
「わたし、こわいけど、がんばるにゃん!」
しらすちゃんは単身、階段をかけおり、地下一階にたどりついた。
そのときだ。
「ぎゃああっ!」
男のものとも女のものともいえない悲鳴が聞こえた。しらすちゃんはおどろきのあまり、ビクッと立ち止まった。
「しまったにゃん」
しらすちゃんが立ち止まったので、走りつづけたダサイチロウは、地階に伸びる真っ暗なろうかの先へ消えてしまった。
しらすちゃんは、あやしい男を見失ってしまったのだ。
でもしらすちゃんは、めげずに考えた。
「いまの悲鳴は、いったいどこからにゃん?」
さっきの悲鳴は、どうやら地下一階の、ここからもう少し先にあるワインセラーから聞こえたようだ。
しらすちゃんは、ワインセラーへ向かってろうかを走り出そうとした、その瞬間。
かけだしざま、だれかわからないが人間とすれちがった。
「きゃあ、危ないにゃん! ふみつけられたら、わたし、ペッチャンコになっちゃうにゃん」
その人間はドンドンドンと、ものすごい勢いで、階段をかけあがっていった。
「わたし、どっちにいくべきかしら。いますれちがった人間をおいかけるべきか? それとも、ワインセラーに行くべきか」
ゆっくり考えてるひまはない。いますぐ決断すべきなのだ。
「よおっし!」
しらすちゃんは思いきって、こころを決めた。
「わたし、まっすぐすすむにゃん!」
しらすちゃんは、すれ違った人間に構わず、ろうかを奥へと走った。全速力でだ。そして、なぜか扉が半開きになっているワインセラーにかけ入った。
すると、なんとそこには、クイーンがいるではないか。
しらすちゃんはおどろきのあまり、ことばを失った。
ねこは暗がりでも、よく目が見えるのだ。ワインセラーには、クイーン以外、動物も人間もだれもいない。
「にゃーん」
びっくりして、固まっているしらすちゃんに対し、クイーンはやさしく声をかけてくれた。
「クイーンにゃん!」
「しらすちゃん、一足遅かったわ。わたしとしたことが、人間に逃げられちゃったの。くやしいわ」
見上げると、ワインセラーの壁かけ時計は、八時三十一分を指している。
「人間? いまわたし、だれかわからない人間とすれちがったにゃん!」
「そうなの? だったらその人間は、使用人出入口から、とっくに屋外へ逃げ出してるかもしれないわ」
「でもその人間は、階段で上へ昇っていったにゃん。このろうかの奥に使用人出入口があることを知らなかったのかもしれないわにゃん」
「そうね。わたしたちも、とにかく一階へ上がりましょう」
「はいにゃん!」
クイーンとしらすちゃんは、連れ立ってろうかを走り、使用人用の階段のすぐ手前まで来た。
その先は半地下のキッチンになっており、停電する前までは、カエデコさんとさっちが食器洗いをしていたはずだ。
キッチンの先には、使用人向けの出入口があり、クイーンやしらすちゃんも、よく出入りしている。
すると突然、明かりが灯った。
お屋敷内の電気が復旧したのだ。
「あ、クイーン。しらすちゃん」
さっちがキッチンから顔をのぞかせた。
「にゃーん」とクイーンが返事をし、
「にゃーん」としらすちゃんもつづいた。
「ねえお母さん。ここにクイーンとしらすちゃんがいるわよ」
「なになに」
エプロンで手を拭きながらカエデコさんも現れた。
「あら、いつもの仲良しペアさん、こんばんは」
「みゅう」
「みゅう」
「さっち。きっとクイーンとしらすちゃんは、わたしたちを心配して、ここまで来てくれたのよ。幸いキッチンは半地下だから、月明かりが入ってね、完全には真っ暗にはならなかったわ。さっきの停電中、ドタドタ足音がしたけど、キッチンへはだれも現れず、使用人出入口はだれも通らなかったけどね」
「くーん」
「くーん」
「まあかわいい。クイーンも、しらすちゃんも、夜目が利くから便利でいいわね。まるで超能力者ね」
そういうと、さっちは、おチビなしらすちゃんを軽々と抱きかかえてくれた。
「くんくーん」
「ねえさっち。この停電中に、もしかしたらとんでもないことが起こっていたかもしれないわ」
カエデコさんがそういった。
「ええっ? お母さん、怖いこといわないでよ」
さっちは、しらすちゃんをギュっと抱き締めた。
「みゃーん」
そのとき館内放送が聞こえた。
「――福井山金吾です。電気が復旧しました。みなさん急いで大広間サルーンにお集まりください」
深刻な声だ。
カエデコさんは、ほらねっていう顔をしている。二匹とふたりは、連れ立って階段を昇り、大広間にむかった。停電は復旧し、屋敷内は元通り、どこも灯りがともっている。
「いったいなにがおこったにゃん?」
しらすちゃんは、ふるえる足で、大広間に入った。
午後八時三十六分。
ようやく全員が、元いた大広間に集合した。
みんなは、朝九時の状態と同じように半円状に座った。クイーンとしらすちゃんは、円柱の影にいた。
「しらすちゃん、だれひとりとして欠けてないわね」
「にゃにゃーん」
「停電があってから、きっかり二十五分が経過しているわ」
さすがクイーンは名探偵。押さえるべき事柄をきちんと把握している。
すると渋い顔の金吾氏が口を開いた。
「みなさん、たいへんなことが発生しました」
金吾氏の隣に座っているダンナさまは、顔面蒼白だ。
金吾氏は苦虫を噛みつぶしたように続けた。
「停電のあいだに、『心の平和』が盗まれたのです。警備を司る者として、慙愧の念に耐えません。これから、ひとりひとり尋問いたします。ですから今から、だれひとり室外へ出ることは許可しません」
みんなにどよめきが走った。金吾氏は目を怒らせている。
「では、おひとり、おひとり、順番に尋問いたす」
しなやかにかけだしたクイーンは、真っ先にこの男の前に立ち止まった。
「ニャーゴー」
しらすちゃんもあとに続いた。
「ニャーゴー」
第一の容疑者・ダサイチロウだ。
「えっ。オレ? オレは……」
「あなたは先程の停電のさいちゅう、どこにいましたか?」
金吾氏は、キラリと目を光らせた。鋭い眼光だ。
「オレはね、オレは、えーーと、うーーんと」
明らかに、ダサイチロウはとまどっている。なんとか時間をかせぎ、言いのがれを考えているようにしか見えない。
「しらすちゃん、あれはウソツキのよくやる行動だわよね」
クイーンは小声で、しらすちゃんに耳打ちしてくれた。
「にゃ~~ん」
「にゃ~ん」
すると突如飛び上がったクイーンは、ダサイチロウが小脇に抱えていた上着を、下へ向かって叩きつけた。
「あっ、やめろ!」
ダサイチロウは叫んだが、時すでに遅し。
じゅうたんに落下した上着のポケットから、小銭がジャラジャラと、音をたてて飛び散った。
「にゃん。いまはまだ九月よ。上着を着込むには、不自然に早すぎるのよ」
「すごいわ、クイーンにゃん」
「察するに、ダサイチロウは、もともと何かを失敬するために、上着を持参したのよ」
「そのとおりにゃん」
盗んだ小銭が、みんなの見ている前で、ジャラジャラとまきちらされたのだ。動かぬしょうこだ。
「ヌ、盗んでないさ。いくら無職でも、もともと小銭ぐらい持っててオカシクねえだろ?」
ダサイチロウは、うろたえて言いわけしている。
クイーンは落ちた小銭を一枚、口にくわえ上げ、サッとダンナさまに届けた。あっという間の早業だ。
ダンナさまは、手渡された硬貨を観察した。
「ふむ。このコインは日本円ではなく、ユーロだな」
となりに座るダンナさまから硬貨を手渡された金吾氏はコインを一瞥すると、ダサイチロウに問うた。
「サダイチロウさん。あなたはパスポートを持っていますか?」
「えっ、パスポート? 何で、何でそんなこと訊くんだ?」
「あなたは最近、海外旅行をしましたか?」
「無職で金欠のオレが、海外なんて行けるわけねーだろ!」
「じゃあ、どうしてヨーロッパ連合の通貨・ユーロ硬貨を持っているのかな?」
金吾氏は鋭い語調で容赦なくたたみかけ、ダサイチロウは見るからにしどろもどろになった。
「え? ユーロ? ――そ、それは、ええっと、さっき停電のとき、地下の執事室で、チョビット出来心が起きてさ。ジャラジャラとポッケに突っ込んでしまった。ゴメン、ほんの出来心だ。許してくれ。チェッ。あんな停電さえなけりゃあ、こんなめに遭わされることもなかったのになあ」
「キミ! ほんとうに出来心かね?」
金吾氏は手きびしい。尋問に手馴れたようすだ。
「ちっ。もうこうなったら洗いざらいホントのこと話すよ。話せばいいんだろ、話せばよ。執事室はさ、去年、執事さんが亡くなった時そのままだってウワサで聞いたから、絶対金目のモノがあるんじゃないかって、オレはもともと目をつけてたのさ! 慧眼だろ、慧眼!」
「イムラ・ダサイチロウ。後であなたには本署まで来てもらう」
いつのまにか元警視総監まで、アダ名で呼んでいた。
「チェっつ。わかったよう。行けばいいんだろ、行けばよう」
そう言うと不肖の甥・ダサイチロウは、ダダっ子のように半身をゆさぶった。
次にクイーンは、筋肉モリモリのボディーガード、キナバ・ユウイチの前に立ちふさがった。
「ニャーゴー」
しらすちゃんも急いでクイーンのあとについていき、勇躍、キナバの面前に立ち止まった。
「ニャーゴー」
金吾氏は落ち着いた口調で質問した。
「キナバ・ユウイチさん、正直にこたえてください。あなたは停電中、どこへ行っていましたか?」
「えっ? 下だよ下」
吐き出すようにキナバは答えた。
「ウソをつくんじゃない。キナバ、アンタは二階にいたね?」
そう指摘したのは、キナバの隣に座っている怪しげな私立探偵ラニグチだ。いまだにショッキングピンクのトレンチコートを羽織っている気障な男だ。
「何だと? オレをウソツキだっていうのか!」
「ああ、ワタシは確かにアンタを二階で見た」
「じゃあきくけどサ、オレを二階で見たってことは、ラニグチさんよ、アンタこそ、どうして二階にいたんだ? へ? 言ってみろよ!」
「そ、それは……、くそう、そんなのオマエのようなあやしいヤロウに白状する筋合いはネエだろ!」
キナバとラニグチは、ののしりあいをおっぱじめた。
「ほらみろ、オメエも言えないじゃんかよ」
「じゃあキナバ、オマエはなぜ二階にいたんだ?」
「それは二階の奥さまのへやも生前そのままだってウワサで聞いたから、迷わず向かったんだよ! オマエだってそうだろ、このコソ泥ヘボ探偵!」
「ああっ。キナバ、オマエって男は人間の恥だな! ボディーガードのくせに、奥さまの間に盗みに入ったのか? あきれてモノも言えないぞ」
「ラニグチよ。オマエもさ、どうせあわよくばを狙ったんだろ? このキザったらしくて、いけ好かないクソ親父め!」
「なんだとキナバ! オレ様にはな、とんでもなく崇高な目的があったんだ! オレ様はダンナさまの『心の平和』が心配だったからこそ、監視の目を光らせるために二階へ上がったんだ。ボディーガードごときの、ハンパ野郎といっしょにしないでくれるかな」
「じゃあ、どうしてさっきは二階にいた理由を答えられなかったんだ。え? 私立探偵風情がよう」
「う、う、うう……このお!」
もめていたふたりは、とっくみあう寸前、互いのポケットに奇妙な隆起を発見した。いかにも不自然だ。
「なんだ? ポッケのそのふくらみは?」
「そっちこそ、あやしい野郎め! そのポケットのなかに、なにか隠してやがるな? まさか?」
悪党ふたりはすかさず、互いのポケットに、互いの手を突っ込んだ。
「おい、やめろ!」
「他人のポッケに手をつっこむんじゃねえ!」
互いに有無を言わさずポケットから何かを取り出した。
「ああ!」
みんなの目がクギ付けになった。
ラニグチの手には立派な置時計、キナバの手には高級な腕時計が光っているではないか!
ともに、ひと目で高価だとわかる高級品であり、ラニグチやキナバの私物だとは到底、思えない。
「て、てめえラニグチ、探偵づらしてダンナさまの時計を盗んだのか?」
「それはこっちのセリフだキナバ。盗人たけだけしいとは、オマエのことじゃねえか! そういえばさっき、自分で自分が手グセが悪いって豪語してやがったな! この愚か者めが」
「オレは腕時計を失敬しただけだ。置時計を盗んだオメエのほうがよっぽど性質が悪い」
「なんだとコソ泥め! 腕時計のほうが高価なんだ、だからオマエのほうが罪が重いんだ!」
「オメエに較べりゃあ、おれは微罪だ」
「ちがう! テメエのほうが重罪人だ! この悪党め」
ふたりは、どちらが、より高価なものを盗んだか、どちらの犯罪性がより重いのか、なじりあっている。
「しらすちゃん。あのふたり、目クソ鼻クソを笑うの関係ね。うふふふ」
「さすがクイーン、たとえが面白いわ」
ラニグチもキナバも開き直った表情で、さらに相手を烈しく罵倒した。
「ふふん、ラニグチめ。テメエは目の付け所が悪いんだよ。置時計なんか重いだけで、たいしてカネにはならねえんだよ! 盗むモノを間違えやがったな!」
「なんだと! キナバめ。腕時計なんてモノはな、日本じゅうどこにでも転がってんだヨ。それをだな、年代物の置時計の価値を知らねえとは、どろぼうの風下にもおけねえな。サッサとクタばっちまえ!」
「おい、こら。オレは置き引きの名人だ。オマエのような、ただのどろぼうなんかじゃねえんだぞ!」
「オレのほうが収穫高は高いんだ、だから能率の高いオレのほうが盗みのプロなんだよ、このド素人が!」
「ナニ? どろぼうとしての生産性が高いのはオレ様のほうだぞ!」
「なにを! ぬすっととしての技量は、はるかにオレ様のほうが上だ!」
「そんなはずないだろ? オレ様はだな、窃盗という犯罪の効率性を重視した新しいタイプの犯罪者なんだ。テメエなんぞ古クセエ!」
「なんだと! テメエは犯罪経験が浅いだけだろっ? どろぼうとして、オレ様の経験に匹敵する輩は、この世で怪盗ルサンチマンだけだぞ!」
熱くなった悪党ふたりは、いつの間にか悪党じまんの応酬だ。
そしてここまで両人の会話を黙って聞いていた金吾氏は、威厳たっぷり、おもむろに口を開いた。
「もうよかろう。奥さまの間のドアノブから指紋を採取すれば、お前たちの悪行は白日のもとに晒されよう。両名とも、あとで本署まで来てもらうぞ」
「く、っくう……」
「オマエのせいだぞウソツキ探偵め」
たがいにたがいを威嚇しつつ、くやしそうにしながらも、やっとふたりは口を閉じた。
次にメイドのカスミの前へ、クイーンが立ち止まろうとしたとき、突然、カスミが大きな声でわめき散らした。
「アンタら親子があやしい! アタシさ、いままで温情かけてあげてたから言わなかったけどさ、アンタら様子が変なんだよ!」
カスミは、ものすごい剣幕で木月親子をニラみつけた。
「だいいち、どうしてここに娘を連れて来てるのさ?」
「それはお客様が多くても、だれも手伝ってくれないから、食器洗いとか、野菜の皮むきとかを手伝ってもらっていたんです」
カエデコさんは、手伝ってくれないカスミを暗に批判しているのだ。
「ダンナさまに無断で? こどもをキッチンに入れることについて、了承は得たの? おかし過ぎるわ、この親子!」
カスミは、まさに飛びかからんばかり、猛獣の勢いだ。「ちなみにアタシは停電中、このへやから一歩も外に出ませんでしたから、無実ですぅ」
「わたしも疑う者ではありませんが、念のため調べましょう」
落ち着いた声で金吾氏はそう言ったあと、手を打った。
すると、金吾氏より十歳ほど若く見える男性、――とはいえ六十代半ばであろうか――、引き締まった体型の男性が大広間に入ってきた。黒ブチのメガネに、パリッとした黒のスーツが決まっている。
あとでクイーンがダンナさまに教えてもらったところによると、この部下こそ現役の警視総監、我が国の警察機構のトップ中のトップに立つ人物なのだ。
「ははっ、金吾先生。どのようなご用件でしょうか?」
「下山田君。この母子のすまいを、直ちに捜索しなさい!」
「ははっ。家宅捜査でございますね。畏まりましてございます」
「ニャー!」
しらすちゃんは真っ青になって叫んだ。
なぜなら、クイーンからとんでもないことを聞かされていたからだ。
あのときの会話が、あのときの情景とともに、自然としらすちゃんのなかに浮かび上がってきた。
「ねえ、しらすちゃん。あなたにだけは伝えておくわ」
「にゃーん。なんのことにゃん?」
「さっき、さっちにリングを届けてくれたでしょ?」
「はいにゃーん」
クイーンから口にくわえたリングを受け取ったしらすちゃんは、急いでさっちにリングをわたしたのだ。
そしてさっちはリングを学校に持っていき、指にはめて演技をして、学芸会の劇は大成功を収めたのだ。
召使いからお姫様になる役を演じた主役のさっちは、先生方からも、クラスメイトたちからも、保護者たちからも、褒めちぎられ大評判になった。
みんなから絶賛され、学芸会の主演俳優賞を受賞したのだ。
――おそらくそのリングはいま、さっちのおうちのなか、さっちの宝箱のなかに入っているはずだ。
「――実はね。しらすちゃんがさっちにわたしてくれたのは、奥さまの形見、本物のリングだったの」
「え?」
「もしね、お屋敷に怪盗ルサンチマンが忍びこんで、リングが盗まれたら大変でしょ? だからお屋敷にある本物の『心の平和』と、学芸会用のイミテーションリングを、念のためにわたし、すりかえといたのよ」
「にゃーん」
クイーンからその秘密を聞いたとき、しらすちゃんはノンキな返事をしてしまったが、こまったことになった。
だって、このままだと、さっちが犯人にされてしまう!
たいへんだ!
気が動顛したしらすちゃんは、あわをくってクイーンを探したが、どこにもいない。
影もかたちもない。
「ああ。いったいどうしよう。このままだと大好きなさっちが、わたしのせいで逮捕されちゃうわ!」
居ても立ってもいられず、しらすちゃんは大広間を飛び出した。
さっちとカエデコさんのために、走った。必死だ。なりふりかまっていられない。
ふたりのためなら、夜道もこわくない!
○
勇気をふりしぼったしらすちゃんは、全速力で、駆けにかけた。
ひとりで暗くて広い庭を横切り、さっちの家へ向かおうとした。
しかし、手遅れだった。
暗闇の中、無数の懐中電灯の群れが接近してきた。
しらすちゃんは、下山田警視総監に率いられた制服警官たちがドヤドヤと戻ってくるのに出くわしただけだった。
五十名を超える警官たちによる家宅捜査は、あっけないほど素早く終了してしまったのだ。
「にゃんと!」
制服警官たちは、威風堂々と、お屋敷へもどっている。仕方なく、しらすちゃんもあとに続いた。
五十余人の警官たちは大広間にズカズカと侵入した。
「金吾先生。われわれは木月家で、リングを発見しました」
下山田警視総監は、恭しく金吾氏にリングを手わたした。
「ああ、にゃん……」
そりゃそうだ。まったく隠していないから、すぐに見つかったのだ。
なぜならさっちの宝箱は、居間のテーブルのど真ん中に置きっぱなしなのだから、大人数が懐中電灯で探すまでもないのだ。
カスミは目ざとく叫んだ。
「『心の平和』よ! 犯人はあの親子よ!」
「引っ捕らえよ!」
金吾氏は名奉行のごとく堂々と命じた。
「承知!」
下山田警視総監は最敬礼で応じた。
しかし大広間といえども、さすがにオトナ五十人は入り過ぎだ。ギュウギュウ詰めの制服警官たちは、たがいにぶつかり合い、たがいのくつをふみあって、思うように身動きが取れない。
それでも五十余人の警官たちはなんとか懸命に突進し、よってたかって、カエデコさんとさっちを捕まえた。
ふたりはしらすちゃんの見ている前で、両腕をからめとられ、残念ながら自由を奪われてしまった。
「誤解です! そのリングは、学芸会の劇で、こどもが使ったものです!」
「だまらっしゃいどろぼうネコ! アンタら親子の不正は、アタシがとっくに見抜いていたのさ! アハハハ!」
カスミは勝ちほこって大笑いした。男のような攻撃的な声だ。
「ちがうわ! わたしもさっちも、どろぼうなんかじゃありません!」
「そうよ! お母さんもわたしも、宝石を盗んでなんかいません!」
母子は反論したが、制服警官たちはいっさい聞き入れず、ふたりに手錠をかけようとした。
その瞬間。
警官たちの面前を、目にも鮮やかな白・グレー・シルバーの稲妻が、華麗に突っ切った。
と思いきや、金吾氏が手のひらに載せていた宝石を、クイーンがうばい取った。
目にも止まらぬ驚異的な素早さで、 パクンと、口にくわえたのだ。
「ああ!」
「証拠の指輪をかっさらったぞ!」
「追え!」
「あのネコだあっ!」
といえども五十余名で押しかけた制服警官たちは、そもそもキュウキュウ詰めで窮しており、容易に身動きがとれない。
するとクイーンはそのまま、大広間の空中に飛び上がった。
しなやかに伸び上がっている。
黄金のシャンデリアに照らされ、煌びやかな光沢を放つクイーンが、まばゆく宙を舞う姿は、心を奪われるほど神々しい。
この世のものとは思えない優婉な踊りは、気品に溢れ、なおかつドラマチックだ。
神々に奉納する舞踏そのものだ。
大広間のときが止まった瞬間だった。
「……なんと美しい」
下山田警視総監は、あんぐりと口を大きく開けた。
「……神々の舞いもさもあらん」
金吾氏は驚嘆し、息を呑んだ。
「……あんれまあ!」
警官たちはクイーンの美しさに見とれ、我を忘れて棒立ちになった。
皆の心が釘付けになり、すべての動作は完全に停止した。
魔法の舞いだ。
みなの身体が強力な接着剤で固まってしまったようだ。
ひらりと舞ったクイーンは、深紅のじゅうたんの上に軽快に着地すると、音もたてずに移動した。そして口にくわえていたリングを、ダンナさまの手のひらの上に、丁重に載せて差し上げた。
見るまでもないといった様子で、ダンナさまは言っい放った。
「なんだ。これはイミテーションリングだ。本物じゃない」
「にゃーん」
さすがはクイーンだ。日本一の名探偵だ。しらすちゃんはあっけにとられた。
「何だ、君たちは! ニセモノと本物のちがいも判断つかないのかね? 全員、下がりなさい!」
金吾氏は怒り心頭だ。
「ははっ。金吾先生、たいへん失礼致しました。まことに申し訳ゴザイマセン」
五十余名の制服警官たちは、下山田警視総監を先頭に、すごすご退室していった。
こうしてさっち母子の疑いは晴れたが、しかし謎は深まるばかりだ。
キナバやワニグチは、もともと悪い人相をますます歪めて訝しんだ。
「じゃあ、犯人はだれなんだ?」
「いったい全体、『心の平和』は今、どこにあるんだ?」
そのとき、クイーンはダンナさまのひざの上から飛び降りた。
桜花爛漫といおうか、色あざやかな羽模様を持つ一羽の蝶が華麗に空を舞うように、クイーンはきらめく銀色のかがやきをまきちらしながら、瞬時に移動した。
きらびやかな光の輪が、燦々と光沢を放った。ねこの移動速度は時速四十八キロ。人間が逃げようにも、まったくもって無理である。
気がついた時には、クイーンは、メイドのカスミの右手の手袋を口にくわえていた。
「あ。このネコ、いったい何しようってぇの? こら! 離しなさい!」
あわを食ったカスミが、慌てて手を引っ込めたところ、右手の白い手袋が脱げてしまった。
「ああ!」
みんなは驚いた。
「にゃあ!」
クイーンは、人間たちになにかを伝えようとしている。
カスミの手には、出来たばかりの二つの傷があった。まだ噛みたてホヤホヤ、ネコの犬歯にグサリと噛まれた二つの跡から血がにじんでいる。
クイーンは、カスミが落とした白い手袋をくわえると、さっちに渡した。
さっちは手袋を確認した。
「この手袋には、歯形はついてないわ。ということは、カスミさんの手にある歯形は、今の今、ついたものではない証拠ね。先に歯形がついて、そのあとに手袋を嵌めた、という順序になるわ。ということは――」
いったんことばを切ると、さっちはカスミを見すえた。
「――カスミさん、あなたはこの白手袋を使って、手にできたばかりの傷あとを隠してたのね?」
さっちはメイドに問うた。
「ニャー」
そう鳴くと、クイーンはその場で、おのれのエレガントな口を大きく広げた。
カスミの手の傷あとは、クイーンの犬歯と、見事に合致しているではないか!
「にゃーごー」
ダンナさまは、カスミの手にくっきりついた歯形を見て言った。
「それはクイーンに噛まれた跡だ。おかしいな。クイーンは人を噛むようなねこじゃないのに。なにかきっと、まっとうな理由があるはずだ」
「にゃにゃーん」
ダンナさまのもとに舞い戻ったクイーンは、あきらかに、おおきく賛成の意思を表示している。
威厳たっぷりに金吾氏は指摘した。
「ゴホン、ゴホン。そういえば、この気高きねこ――クイーンは先程、地下室の灯りがついた時に、ワインセラーから出てきた。わしが地下の『執事の間』から館内放送をする直前に目撃したぞ。ということはだ。カスミさんとやら、あなたウソをついたね? あなたは停電中、地下に忍びこんでいたんだ!」
クイーンは口を大きく広げ、犬歯を見せて笑った。
「ニャーゴー」
「わたしたちも、クイーンが地階にいたことは知っています!」
カエデコさんも主張した。
さっちは、カスミを睨み返した。
「カスミさん、あなたはウソをついたわね? 停電でお屋敷が真っ暗になったとき、あなたは地下にいたのね!」
「うう……」
追いこまれたカスミは言葉に詰まった。
「これではっきりしたわ。カスミさん。あなたは、ワインセラーにいたのよ! 『心の平和』を盗むために! 」
さっちはそう宣告した。
「な、な、何の証拠があってそんなこと言うの? う、うう」
カスミは、アタフタし、シドロモドロになっている。
さっちは、クイーンにたずねた。
「クイーン。あなた、真犯人を見たのね?」
「にゃにゃーん」
イエスのサインだ。
「真犯人はだあれ?」
クイーンはみんなの前を颯爽と横切った。満場の視線を一身に浴びながら、悠然とカスミの前に立ち止まった。
「にゃにゃ~ん」
みんなはどよめいた。
名探偵クイーンは、カスミが真犯人だと断定したのだ。
「うそよ、うそ! ぜったいうそに決まってる! ネコになんかホントのことがわかるもんですか!」
カスミはかたくなに抵抗した。
「いったい何の証拠があってそんなこと言うのサ!」
クイーンは、ニイッとおのれの犬歯をみんなに見せた。
「どうやらその傷あとが、あなたが犯人である証拠のようですな」
いかにもおのれが真犯人を見つけた、とでも言いたそうにラニグチは言った。
クイーンはしなやかに移動した。そして、さっちが手に持つ白手袋を、これ見よがしにクンクンとかいだ。
それを見てさっちはたずねた。
「カスミさん。あなた、まだまだ暑いこの時期に、なんで手袋なんてしてたの? まだ九月なのに! 傷口をかくす以外の理由はひとつもないはずよ。どうしてよ? なぜ手袋をしていたのか教えてください」
「そ、それはねぇ、ええっと、ええと、ラテックスアレルギーって症候群があってサぁ、だからよ。子供のアンタなんかにゃ、どーせわかんないだろうけどォー」
未成年者をバカにするようなトゲを含んだ言い方に、さっちは色をなした。
「いいえちがいます。ラテックスアレルギーであれば、逆にこんな手袋なんてはめることができません!」
「ち、ち、ちがうわよ、絶対ちがいますぅ~~だ。疾病ある人間をいじめないでくださいぃー」
カスミは、あくまでも抵抗した。
するとさっちは、こう言いかえした。
「わたし、中学のクラスメイトがラテックスアレルギーだから知ってるんです! ラテックスアレルギーならこんな手袋は使えません。カスミさん、あなたは指紋をつけないために手袋してたんでしょ?」
カスミはうろたえた。
「あ、あ、あ! ……わ、わたしが宝石を盗んだって証拠はひとつもないんですから、いい加減なこというと侮辱罪で訴えるわよ!」
金吾氏は大きく一回、手を打った。
すぐに十歳年下の下山田警視総監が現れ、敬礼した。
「お呼びでしょうか、金吾先生」
「どうだね? 下山田くん」
「それがお屋敷じゅうどこを探しても、『心の平和』は見つかりません」
現役の警視総監は申し訳なさそうに、そう答えた。
「メイドが住んでいる地下の使用人部屋も探したか?」
「はい。カスミのへやも隈なく探しましたが、見当たりません」
「うむ、下がってよい」
「ははっ」
敬礼した下山田警視総監は再び退出した。
するとしらすちゃんのもとに、クイーンが悠々とした足取りで寄ってきた。
「しらすちゃん、人間たちは『心の平和』を捜しているけど、なかなか見つけられないようね」
「はいにゃん、そうみたいにゃん。でも、どこにあるのかしらにゃん? クイーン、知ってるのにゃん?」
「ええ。今度は、しらすちゃん。あなたに大きな手柄を立ててもらうわよ」
「え? ほんとうにゃん?」
「あのイジワルなメイドの、もう片方の手袋をひんむいてやりなさい」
「にゃにゃ~~ん」OKの返事だ。
クイーンに背中を押されて勇気百倍、勇躍飛び出したしらすちゃんは、目にもとまらぬスピードでメイドに近づくと、ササッとメイドの身体をよじ登った。
「あ、この子ねこ、何をしようっていうのさ!」
おののくカスミをしりめに、しらすちゃんは、カスミが左手につけている手袋をサッと引き抜いた。
「ああっ!」
みんなは仰天した。
左手の手袋をひきはがすと、キラリと光る紫のかがやきが大広間全体に光の輪を投げかけた。
「おおおっ!」
みなは息をのんだ。
これぞ本物のかがやきだ。
カスミは左手の小指に、盗み出したばかりの『心の平和』をはめていたのだ。手袋で、まんまとかくしていたのだ。
「あ! 『心の平和』だわ!」さっちは叫ぶように言った。「やっぱりカスミさん、あなたが盗んだのね!」
「う、うう……」
いままで果敢に言い返していたカスミは、ついに言い返せなくなってしまった。
「いい加減に白状しなさい!」
さっちは詰め寄った。
「ニャーゴー」
さっちとクイーンは、ついにカスミを追いつめた。
「ニャーゴー」
しらすちゃんも微力ながら、しっぽを怒らせてカスミの前に立ちはだかった。
とうとう観念したのか、カスミは急にしおらしくなった。
「カスミさん。どうしてこんなことをしたんだ? え?」
金吾氏は詰問した。
「ア、 アタシは、悪い男にそそのかされて……。そ、それはアンタよ!」
カスミは、おマヌケ男三人衆――ラニグチ、キナバ、ダサイチロウ――がブラブラしているあたりを指さした。
男三人はビクッとした。
「いかがわしい探偵さんよ! あんた手が早いって、さっき自己申告してたよな!」
キナバが、ここぞとばかりにラニグチをなじった。
「ハアァ? ナニを言うか? オレじゃないゾ、オマエだろっキナバ!」
「ちがう、オレじゃない。オレはこんな女と喋ったことなんてない。どうせオメエだろ、ダサイチロウ!」
「おれの名前はサダイチロウだ、無礼者! それにアンタだろっラニグチさんよ! アンタは一目見たときから悪党面だった」
「ぬわんだと? あんな不細工な女、オレの好みじゃない! 最初から徹頭徹尾、信用置けないのはオマエだ!」
「なにを? このオタンコナスビ!」
「ナスビはオメエだ、この筋肉バカめ!」
三人のナスビたちは、互いに互いを罵った。
「アタシ、この男に脅されていたんです!」
メイドは、指をさして訴えた。
「『怪盗騒ぎが世の中を席巻してるから、脅迫状を送れば、ビビッたダンナさまは必ず『心の平和』を隠したへやへ直行するはずだ。さすれば隠し場所が手に取るようにわかるにちげえねえ』って、アタシ、そう、そそのかされたの!」
三人の新参者たちは罵倒しあい、ついには取っ組み合いを始めそうになったそのときだった。
「うひゃあ!」
朝一番の会議で金吾氏がみんなにあいさつした際に、しらすちゃんが見ている前で、金吾氏のお腹から外れて飛んだボタン三個は、きょうもカスミが掃除をサボったため、赤いじゅうたんの上に落ちたままになっていた。
ところが、三人のあやしい男たちそれぞれが一個ずつボタンを踏んでしまい、つるっと滑ってコロリと転倒してしまった。
ゴッチーーーンン!
「うぐえっ」
「あ痛ててて……」
「あたたた……」
しらすちゃんは感嘆した。
「にゃあお。もしかして、もしかすると、ボタンが三つプチって飛んだのは、三人組の正体を看破していた金吾氏の神ワザだったのかしらにゃん?」
だとしたら老いたとはいえ、金吾氏はさすがである。
大広間が混乱を見せる中、だれにも気づかれぬように、おもむろにカスミは後退してゆく。こっそりひっそり忍び足だ。
人間たちは、ぶざまな三人の争いに気を取られてしまい、カスミがこの場から秘かに逃げ去ろうとしていることを察知できない。
そのときだ。大広間を横断して、鮮烈な銀白色の閃光が走った。
華麗なるクイーンが、走りざま飛び上がり、怒涛の勢いでカスミの顔面に食いついた。
「ああつ!」
人間たちは目を見張った。
クイーンが食いついた物体は、フリルつきの制服を着たメイドの首の上に載っていたが、すでにカスミの顔面では無かった。
「みゃあーお」
クイーンが噛みついたものは、実にメイドの顔面ではなく、覆面《ふくめん》だった。ぼろぼろっと、ほおの部分が赤じゅうたんの上に落ちた。噛み落とされた覆面の跡からは、ヒゲっつらの一部が見えた。
「ふふふふ」
カスミは笑い声を上げた。
「わはははは」
傲慢不遜なその笑い声は、徐々に男の声に変わっていく。
「うはははハハハハ、よく気がついたな」
なにを思ってか、メイドは、ふてぶてしく笑いながらおのれの顔面に手をかけた。
そして、おのれの顔をおおっていた覆面を、両手で引きちぎり、破り捨てた。
「ねこ探偵クイーン、褒めてやる。この怪盗ルサンチマンさまを、よくぞここまで追い詰めたとはな!」
怪人の両眼は爛々と光り輝き、大天狗を想起させる赤ら顔は、周囲の空間すべてを威圧する悪のオーラを発散させた。
人間たちは驚きのあまり声も出ない。
三人の愚か者たちも吃驚仰天して、こんにゃくゼリーのように、ナよっと凝固している。
「にゃん、にゃん。さすがは変装の達人・怪盗ルサンチマンだけど、なんだかファニーでユーモラスだわにゃん」
赤鬼のようにいかつい顔つきの怪盗ルサンチマンは、相変わらず可愛いメイド服に身を包んでいる。その姿は、しらすちゃんにとっては、今にも吹き出しそうなぐらい場違いで滑稽だ。
「みゃーお」
クイーンは、怪盗ルサンチマンの眼前に立ちふさがった。
すると自称私立探偵ラニグチがしゃしゃり出た。
「さては、さっき屋敷を停電させたのはオマエだな、怪盗ルサンチマン! どうやって停電させた?」
「ふふふふ。吾輩はブレイカーを落としただけだ。メイドカスミに化けた我輩は、すでに三カ月間も、この屋敷で働いてんだよ。ブレイカーのある電気室の場所を、メイドが知らぬはずなかろうが!」
堂々と白状した怪盗ルサンチマンに対し、さっちは冷静に指摘した。
「灯りが消えたとき、すぐに『停電だ!』って叫んだの、あなたでしょ?、怪盗ルサンチマン。だれかがスイッチを押し間違えたとか、他の理由で暗くなっただけかもしれないのに、瞬時に停電だって決めつけたのは、思い返してみるとかなりおかしいわ。絶対に変だったわ」
「むっ」
怪盗ルサンチマンは身構えた。図星なのだ。
さっちは追及の手をゆるめない。
「怪盗ルサンチマン。あなた、大広間にいるみんなを混乱させようとして、わざと停電だって大声で叫んだのね? しかもあの叫び声、だれの声かもわからなかったし、男女どちらの声かも判別できなかったわ」
怪盗ルサンチマンは感心して言った。
「てめえ、ガキのくせして鋭いな。停電だとわかれば、警護責任者である金吾氏が、『心の平和』のほんとうの隠し場所へ直行するだろうと、吾輩は睨んだのさ」
怪盗ルサンチマンは、ふてぶてしく続けた。
「フフフフ。そして吾輩の読みの通りに事が運んだ。停電だと吾輩が叫んだら、案の定、金吾氏はお宝の隠し場所へ向かった。果たして隠し場所は、――やっぱりワインセラーだったゼ」
「だからワインセラーは、一体どこにあんだ?」とキナバ。
「そうそう、それを早く言え!」と苛立つラニグチ。
「あんたたちふたり、本物のオバカだな。ワインセラーは、どこの屋敷でも地下にあんだよお!」
メイド服を着たままの怪盗ルサンチマンは、そう言い放つと見得を切った。
「みゃあ!」
本来は怖いはずなのに、赤ら顔の赤鬼がメイド服のままポーズを決めるなんて、おかしくって、おかしくって、しらすちゃんは吹きだした。
「みゃみゃああ」
「なんと! 地下だったか!」
そう叫ぶと、ラニグチは歯ぎしりした。
「しゃったあ! オレ様としたことが……」
キナバは地団太をふんだ。
「二階に行ってしまった!」
「オレ様としたことが」
ラニグチとキナバは仲良くほぞをかんだ。
怪盗ルサンチマンは仁王立ちして咆えた。
「停電を起こしたのは吾輩だ! あんなのブレーカーに小細工すればわけもないことだ。フフハハハ! 吾輩は怪盗ルサンチマンだぞ! ナめんじゃない!」
怪盗は、大広間に轟き渡る大音声で凄んでみせた。
「シャア!」
怪盗に負けじと、われらがクイーンはしっぽを逆立てた。
クイーンに勇気づけられたさっちも、こう言い返した。
「さあ、怪盗ルサンチマン。『心の平和』を返しなさい!」
「貧乏な家に生まれ育った吾輩が、大がつく金持ちから、たかが宝石一個盗んだぐらいで目くじら立てるんじゃない!」
怪盗はついに開き直った。
「怪盗ルサンチマン。あなたはね、物を観る目が一方的で、単純すぎるわ」
カエデコさんが口を開いた。
「いいこと。『心の平和』は、亡き奥さまの、大事な想い出の品なのよ! ダンナさまにとっては、ただの宝石じゃないの。あなたは人の心をふみにじる酷いことをしているの! いい年齢して気がつかないの?」
カエデコさんはそう熱弁した。
「う、うう……」
カエデコさんの剣幕に、赤鬼はたじろいでいる。
するとクイーンは、怪盗ルサンチマンの足元で、ルサンチマンの体臭を嗅ぐそぶりをみせた。
「わかったわ!」
さっちは声を上げた。
「男女の体臭は異なるのよ! だからクイーンは、あなたが女性じゃなく男性だって見破ったの! 嗅ぎ破ったって表現したほうが正確かしら」
「にゃにゃーん!」
さっちとクイーンは、ついに怪盗ルサンチマンを追い詰めた。
「にゃにゃーーん」
当然しらすちゃんも、クイーンとさっちの味方だ。
運転手の貞六さんは言った。
「どうりでけったいなメイドだと思っておったわい。いつも香水の匂いをプンプンさせとってな。さては男の体臭を、香水で誤魔化そうとしておったのだな」
「パヒュームのウワサを聞いて、あのメイド、ダンナさまをたらしこむつもりなんだって思ってたゼ」
不肖の甥っ子ダサイチロウが、抜け抜けとそう言った。
「そうかあ、そうだったのか」庭師の泰蔵さんも感想を洩らした。
「ということはじゃ。屋上の天空ガーデンに残っておった残り香は、あんたの香水じゃったんだな。あんた、納戸の中も調べておったのか! 天空ガーデンは奥さまの想い出深い場所じゃが、宝石なぞ隠しておらんぞ。あきれたわ」
納戸のなかに宝石をかくさずにおいて、ほんとうに良かったと、ダンナさまとクイーンはそれぞれ胸を撫で下ろし、たがいに目配せしあった。ダンナさまが『心の平和』あやうく納戸にかくそうとしたこと、これはふたりだけの秘密になりそうだ。
「フフ、フん。奥さまの想い出のある場所は、『心の平和』の隠し場所にもってこいだからな。吾輩は当然のことながら、調べさせてもらったゾイ」
怪盗ルサンチマンは、あくまで傲岸不遜な態度だ。
老いた庭師は言った。
「怪盗ルサンチマンよ。おぬし、香水の匂いで男臭さを消し去ろうとしたのじゃろうが、名探偵クイーンには通じなかったようじゃの」
「にゃーん」
クイーンはあくまで優雅に応じた。
さっちも指摘した。
「それに停電中に、ワインセラーでクイーンに噛みつかれた悲鳴は、あなただったのね、怪盗ルサンチマン。だからあの悲鳴も、男性か女性か、いったいどちらの声か判断できなかったわ」
「にゃーん」
しらすちゃんはさっちに同意した。さらにさっちは畳みかけた。
「それに、いつも無口なふりをしていたのは、声が低いから女性じゃないって気付かれないようにするためねだったのね? そうでしょ!」
「にゃにゃーん」
しらすちゃんはさけんだ。さっちの名探偵ぶりも大したものだ。
「フフ、フン。おまえたち、意外とやるじゃないか、ねこ探偵クイーンと、さっち、そしてチビねこよ」
怪盗ルサンチマンはじろっと、しらすちゃんをにらみつけた。
「ミャワー」
しらすちゃんは、しっぽを逆立てて警戒した。でもいつの間にか、我らが名探偵クイーンの姿が見えなくなっている。
「うみゃー」
「あら、クイーンがいないわ」
「どこへ行ったのかしらクイーン」
みんなはクイーンを探したが、見つけることができない。
「クイーンめが。吾輩に怖れをなして、とうとう、どこかへ逃げ失せやがったか。フハハハハ!」
正体を見破られたとはいえ、怪盗ルサンチマンは、勝ちほこった大笑いだ。
すると突如として何者かが、みんなの死角になっていたシャンデリアの上から飛び降り、怪盗ルサンチマンの頭上に舞い降りた。
「クイーンよ!」
さっちは叫んだ。
「にゃーん!」
そう叫びながらクイーンは、ルサンチマンの左手に食いついた。
「あっ! やめろっ!」
するりと怪盗の小指からリングは抜け落ち、クイーンがしっかりと口にくわえ、そのままダンナさまのもとへ走った。
「なにをする!」
怪盗ルサンチマンは叫んだが、もう後の祭りだ。
こうしてクイーンは目にも鮮やかに、ダンナさまに本物の『心の平和』を返すことができた。
「ああ、我が想い出が還ってきた。ありがとうクイーン。やっぱりおまえが一番頼りになるよ」
感激したダンナさまは、感謝の意を込めて、クイーンの頭を撫でた。
「にゃーん」
クイーンは満足そうに微笑んだ。いつものように、気品たっぷりに。
「メイドカスミ。実体は怪盗ルサンチマン。窃盗未遂の現行犯で逮捕する」
しわがれ声でそう宣言した後、金吾氏は大きく手を打った。
「うおおおっ!」
「怪盗ルサンチマンめえっ!」
それは同時だった。下山田警視総監に率いられた五十余人の制服警官たちが三方のとびらを開けて、大広間へ雪崩をうって突入してきた。大広間はもう、てんやわんやの大騒ぎだ。
クイーンは、再びしらすちゃんのもとに来てくれた。
「クイーンにゃん。おーしえて、にゃん」
「そんなあどけない表情でなあに? しらすちゃん」
「あのね、クイーン。今朝の自己紹介のとき、ダンナさまは『クイーン・コッドロー』って、クイーンを紹介なされたわ。コッドローってなあに?」
「『たらこ』っていう意味よ。わたしの本名なの」
「えええ? 本名は『クイーンたらこ』なの? びっくり。初めて知ったわ!」
「わたし、海で獲れたての、無塩のたらこが大好きなのよねえ。でも、人間たちが勝手に命名しただけよ。これからもクイーンって呼んでちょうだい」
「はいにゃーん」
しらすちゃんは安心した。そして、さらにクイーンにたずねた。
「そういえばクイーン? あとひとつ謎が残ってるにゃん」
「なあに、しらすちゃん? なんでもきいていいわよ」
「ええっとにゃん。あのリングにゃん。さっき、制服警官たちが金吾氏に手わたしたでしょ? さっちのおうちから持って来たリングを!」
「そうだったわね、しらすちゃん」
「わたし、にゃ~~んと不思議なの。本物にすりかえたはずのリングが、どうしてまた学芸会用のイミテーションリングに戻ってたの? さっちとカエデコさんが逮捕されそうになって大ピンチだったから、わたし、ほんとうにあせったにゃん」
しらすちゃんは、さっきの冷や汗を思い返した。
「わたし、あんなにハラハラしたの、生まれて初めてだったから、泣きそうになったにゃん」
「ああ、あれね。わたしが金吾氏からリングを奪って、ダンナさまにおわたしする直前、空中に飛び上がって、みんなに舞踏をお見せしたでしょう?」
「にゃん」
しらすちゃんは、クイーンの華麗な舞いを思い出した。
しらすちゃんだけでなく、五十余名の制服警官をふくめ、あの場にいた全員が目を奪われたすばらしい舞いだった。
「下山田警視総監は、口をあんぐりと開けていたにゃん」
ケンカしていた三人組も、金吾氏も、さっちも、カエデコさんも、ダンナさままでが、華やかなクイーンの舞踏に釘づけになっていた。人間世界を超越した優婉典雅な踊りは、繊細かつ大胆、この世のものとは思えなかった。
「あっ。もしかして?」
「そうよ、しらすちゃん。空中で舞い踊っているあいだに、わたしは口の中で、本物の『心の平和』と、イミテーションをすりかえたのよ」
「す、すごいわ、すごいわクイーン! やっぱりクイーンこそ本物の名探偵よ! しびれるわ」
クイーンは返事の代わりに、しらすちゃんにウインクした。とてつもない魅力にあふれる、とびっきりのウインクだ。
人間たちの大捕り物帖は、まだまだ終わる気配はない。警官の人数が多すぎて、しっちゃかめっちゃかになり、だれも前へすすめないのだから終わる気配もない。
上機嫌のダンナさまは、カエデコさんとさっちを招き寄せ、笑顔でなにやら話し込んでいる。
ダンナさまからのオファーに対して、カエデコさんはこう返事をした。
「ダンナさま、それはいくら何でももったいないです。さっちはまだ中学生です。本物のリングなんてつけるとバチが当たりますし、それに、いたずらに甘やかすのは教育上、好ましくありません」
「そうか、そうか。カエデコさんが、それほどまでに言うのなら、ならばこうしよう。一カ月レンタルだという、このイミテーションリングをわたしが業者から買い取り、きょうの記念にさっちに差し上げよう。そしてさっちも、二月が誕生日だというではないか。さっちが成長して、成人式を迎える日には、きょうのお礼として、新しく本物のアメジストのリングをプレゼントしよう」
「わあ、うれしい! ありがとう、ダンナさま!」
さっちは満開の笑顔を見せた。
「なになに、家宝を守ってくれたお礼だよ。こちらこそ、どうもありがとう。お礼をいわせてもらうよ」
ダンナさまに褒められて、さっちは会心のガッツポーズだ。
ダンナさまは久し振りに満面の笑みを浮かべた。
「君たちのおかげで元気が出てきたよ。カエデコさん、さっち、クイーン、そしてしらすちゃん。どうもありがとう」
「にゃん! わたしまで褒められちゃったにゃん!」
しらすちゃんは舞い上がった。
さらにだ。さっちには、お母さんから最高のご褒美が待っていた。考えうるかぎり、この世で最高の特別な贈りものだ。
しらすちゃんは、大好きなカエデコさんに呼びかけられた。
「ねえ、しらすちゃん」
「にゃーん」
返事をしたしらすちゃんは、カエデコさんをくりくりした両目で見あげた。
カエデコさんはいったんかがんで、しらすちゃんを抱き上げた。
「どう、さっち? しらすちゃんを、うちで飼わない?」
カエデコさんは、しらすちゃんをさっちに抱かせた。
「いいの? お母さん?」
さっちは、しらすちゃんを抱っこしながら、いまだ半信半疑だ。
カエデコさんは、さっちの目の奥をじっと見つめてこう言った。
「お母さんが忙しいの知ってるでしょ? だからさっちがひとりで全部、面倒見られるならね。そしてお母さんにガミガミいわれる前に、学校の宿題できるなら」
「りょうかいよ、お母さん。わたしもう中学二年生になったから、ひとりで宿題できるし、ひとりでしらすちゃんの面倒しっかり見るから」
「しらすちゃんを大事にしてね」
「わかったわ。やったあ! お母さん大好き!」
さっちは、大喜びでお母さんに抱きついた。
大好きなふたりの間にぎゅうっと挟まれて、しらすちゃんから、よろこびに満ちた声があふれでた。
「にゃーん」
「ねえ、しらすちゃん。わたしたちの飼いねこになってくださるかしら?」
カエデコさんは、しらすちゃんに問いかけた。
「にゃにゃーん」しらすちゃんはおおよろこびでうけいれた。
笑顔のクイーンは、あまいあまい祝福のひとことを、愛おしげにしらすちゃんに授けてくれた。「にゃん、にゃにゃーん」
さっちは、しらすちゃんをおうちで飼えるのだ。
「ばんざーい!」
こうしてしらすちゃんは、飼いねこになった。
大広間では大騒動が続き、怪盗ルサンチマンは捕縛されたのか、それとも逃げおおせたのかもわからない。ひそかにトンズラをはかる盗人三人衆を巻き込んでの大騒ぎだ。
そんな人間たちを横目に見ながら、クイーンはしらすちゃんに言った。
「あら。ようやく、わたしの悪い予感は消え失せたわ。ようやくこれで、『心の平和』は安泰だわ。もう大丈夫よ」
「よかったにゃん」
「しらすちゃん。飼いねこになっても、おうちはわたしと同じ敷地内にあるから、これからもいっしょにあそべるわね、うふふふ。これからもよろしくね、しらすちゃん」
クイーンは、しらすちゃんの鼻に柔らかなキスをしてくれた。しらすちゃんの大好きなハナチューだ。
「にゃーーん!」
しらすちゃんは満ちたりた。
そしてしらすちゃんはこの夜、さっちにお風呂に入れてもらった。すでに、きょうから立派な飼いねこなのだ。
しらすちゃんはさっちとカエデコさんにはさまれて、同じかけぶとんのなかにもぐって、いっしょに眠った。
「にゃーん」
暖かで、安心できる寝床だった。
この一日は大冒険をして、とびっきり満足した。
しらすちゃんは幸せを噛みしめた。
「にゃにゃーん」
○
読者のみなさんは、この伝説をご存知だろうか?
新しい飼いねこをおうちに迎え入れた最初の夜にだけ、おうちのみんなは、新しい飼いねこと同じ夢を見るという。その夢の中で、人間とねこは、おなじことばで通じあえるのだ。
同じふとんにくるまれて眠ったしらすちゃんと、さっち、カエデコさんはこの夜、同じ夢を見た。
――夢の中で、しらすちゃんたち三名は、愛する名探偵クイーンを囲んでいた。
「ねえクイーン。謎解きが、まだだわ」
好奇心旺盛なさっちがそう問いかけた。
「そうね」
クイーンは優雅なかおつきで応じた。
「種明かししてちょうだいな」
カエデコさんもクイーンにお願いしている。
「にゃーん」
しらすちゃんも愛くるしくたのんだ。
「クイーンは、いつからメイドカスミがあやしいって気づいてたの?」
さっちがそう質問した。
クイーンは答えた。
「それはね。実は、ダンナさまとわたしが『心の平和』の隠し場所を検討していたおりにね、いっしょに、屋上へ行ったの」
「三階の天空ガーデンね?」
「そうよ。そして納屋のとびらを開けたときに、強烈な違和感を覚えたの。あれは生きている草花が、自然に発する匂いではなかったわ。納屋で『心の平和』を探しまわったカスミの香水の匂いだったのよ」
クイーンは皆にそう語った。
「怪盗ルサンチマンは、納屋まで行って、『心の平和』を探しまわってたのね!」さっちはあきれている。「そもそも、いつもは、『心の平和』はどこにあったの?」
「そして停電中に、いったい何が起こったの?」
カエデコさんもたずねた。
「ではお話しするわね」
クイーンはあらたまって言った。
「はいにゃん」
「はいにゃん」
「はいにゃん」
しらすちゃんとさっちとカエデコさんは、三名ともねこの姿になり、まったく同じように愛くるしく返事をした。
クイーンは語りはじめた。
「もともとダンナさまは、『心の平和』をずっと身につけていたの。奥さまの薬指にぴったりのサイズだったのを、ご自分の左手の小指にはめて、ズレ落ちないように、その上に手袋をなされていたわ」
「にゃん」
「にゃん」
「にゃん」
「そして、変装の名人・怪盗ルサンチマンは、『心の平和』を盗むために、メイドのカスミに化けて、三カ月も前からお屋敷にもぐりこんでいたの」
「三カ月も前から!」
「あなどれない怪盗ね」
「そうよ、危険などろぼうだったわ。でも『心の平和』がどこにあるか、いっこうにわからない。隠し場所の見当もつかない怪盗ルサンチマンは、あせってきたのね。だから宝のありかを知る手がかりを得ようとして、ダンナさまへ脅迫状を送ったのよ。そして脅迫状を受け取ったダンナさまは、『心の平和』をどこに隠せばよいか、考えあぐねてわたしに相談したの」
「ダンナさまから相談を受けるなんて、クイーンは、すごいにゃん」
「すごいにゃん」
「すごにゃん」
「最終的にわたしはダンナさまに、イミテーションリングを使いましょうって、提案したわ」
「なんと、クイーンが、ダンナさまにイミテーションリングをすすめたのね?」カエデコさんは驚いた。「じゃあイミテーションリングは、わたしがさっちのためにレンタルしたものと、ダンナさまが手配したものと、二つあったの?」
カエデコさんからの鋭い質問に、クイーンはこう答えた。
「ところがね、カエデコさん。ダンナさまは宝石商を呼んだけど、宝石商はイミテーションリングを手配できなかったの。だからイミテーションリングはカエデコさんが事前にレンタルしていたひとつだけなのよ」
「そうなのね」カエデコさんはうなずいた。「じゃあ本物のリングが、いったん盗まれてしまったのね」
「ところがね。真相は異なるの」
クイーンはそう言った。
「にゃそ?」
「にゃそ?」
「にゃそ?」
意外そうな三人に、クイーンは言った。
「元警視総監の福井山金吾氏とダンナさまは、警護について相談なされたわ。その結果、今朝早くから、『心の平和』は地下のワインセラーに隠してあったの。でも、わたしは、それをひそかに、誰にもいわずにイミテーションリングにすりかえておいたの」
「にゃんと!」
「にゃんと!」
「にゃんと!」
「クイーン、どうしてすりかえたの?」
「それはね、わたしはイミテーションリングを餌(えさ)にして、犯人をつかまえようとしたからよ」
「なるほどにゃん」
「なるにゃん」
「にゃん」
「果たして、停電中の真っ暗なワインセラーに忍び込んできた人間が、ひとりいたわ。怪盗にちがいない。わたしは身構えたわ」
クイーンは、いったん間を置いた。さっちは、ゴクリとツバをのみこんだ。
「なんだか、こわいにゃん」しらすちゃんはガタガタ震えた。
「こわいにゃん」
「こわにゃん」
「真っ暗なワインセラーへ、物音もたてず、ひっそり忍びこんできた人間は、女性の服装をしていたわ。だから、わたしとしたことが一瞬、油断してしまったの。でもどろぼうには、男性並みのパワーとスピードがあったわ。だから残念ながら捕まえることができずに逃げられてしまったのよ。でも、イミテーションを盗んだ手をガブリと噛んで、怪盗の手に、ワインセラーにしのびこんだ証拠を残したにゃん」
「にゃにゃ、にゃんと!」
「にゃにゃんと!」
「にゃんと!」
「怪盗ルサンチマンは、イミテーションリングにおびき出されたってわけかああ」
さっちは感嘆している。
「ということは、メイドカスミに変装していた怪盗ルサンチマンが、停電中に地下のワインセラーに侵入して盗み出したものは、イミテーションリングだったのね」
カエデコさんは腑に落ちた様子でたずねた。
「じゃあクイーン、本物の『心の平和』は、停電中、どこにあったの?」
「それは、ずっと、このおうち、――カエデコさんとさっちのおうちのなかにあったのよ。いつものとおりよ。居間のテーブルの上に置いてある、さっちの宝箱の中に入れたままだったわ」
ここでカエデコさんには、大きな疑問が残った。
「じゃあクイーン。さっちの宝箱のなかのリングは、一体いつから本物の『心の平和』になっていたの?」
「学芸会当日の朝からよ」
「きゃあ!」
「きゃあ!」
驚いてカエデコさんとさっちは叫んだ。
「じゃあ、わたし、本物の『心の平和』をつけて、舞台で王女様役を演じたの?」
「そうにゃん!」
こともなげにクイーンは肯いた。
「きゃあ!」
「きゃあ!」
「せっかくのさっちの主演舞台だから、由緒ある本物の宝石のほうが良かったでしょ?」
そういって、クイーンは平然としている。
「はああ~。もし演じる前に本物の『心の平和』だって知ってたら、わたし、演技どころじゃなく、生きた心地しなかったかも」
さっちは茫然自失の状態で、あきれている。
「じゃあ、もしかして、あれれ?」
カエデコさんは考え込んだ。
「ワインセラーに隠して、メイドカスミに化けた怪盗ルサンチマンが盗んだものは、イミテーションリングだったのね?」
「そうよ。そしてさっちのおうちにあったものが本物よ」とクイーン。
「でも、五十余人の警官がこの家から持ち出したリング。あれは、あのとき大広間で、みんなの前で、ダンナさまがイミテーションリングだって断言なされたわ」
カエデコさんの疑問に、クイーンはさらりと答えた。
「そうよ、あれはダンナさま一流の腹芸よ」
「腹芸?」
さっちは小首をかしげた。
「それにゃあに?」
しらすちゃんはたずねた。
クイーンはこう解説した。
「演技って言ってもいいわね。あの場において、宝石の真贋を見極める能力が一番確かなのはだれかしら?」
「それはダンナさまをおいて他にいないわ」とさっち。
「そうよ。ダンナさまは、宝石の鑑定士さん顔負けの鑑定眼をお持ちなのよ」
そう語るクイーンは、だれよりもダンナさまのことをよく知っているのだ。
「はいにゃん」
しらすちゃんもうなずいた。
「宝石を見る目が一番確かだと、万人が認めるダンナさまがイミテーションだと断定なされたから、みんな、イミテーションリングだと信じたの。あれは、ダンナさまの咄嗟のお芝居なのよ」
涼しげに、クイーンはそう言いきった。
「え? あれが演技だったの?」
さっちは、目をパチクリさせて驚いた。
「そうよ。ダンナさまの自然かつ流麗な受け答えに魅了されて、わたし、惚れ惚れしちゃったわ」
そう言って、クイーンはうっとり目を細めた。
「にゃーん、どうしてダンナさまはそんな嘘をついたの?」
そう質問したしらすちゃんに、クイーンは答えた。
「だって、あのままじゃあ、さっちもカエデコさんも逮捕されちゃうでしょ?」
「あああ!」
さっちも、カエデコさんも、驚きの声を上げた。
「そういうことなの?」
「そうよ。五十名もの警察官に囲まれてたから、わたしの力をもってしても、あなたがたふたりを逃亡させることはさすがに出来なかったわ」とクイーン。
「ダンナさまは瞬間的に嘘をついて、わたしたち親子を守ってくださったのね!」
カエデコさんは、こころの底から驚きの表情だ。
「大ピンチに立たされたわたしとお母さんを、ダンナさまはたったひとことで救ってくださったのね!」
さっちは胸を打たれた。
「最優秀主演俳優賞は、わたしじゃなくてダンナさまだった! わたしたち親子を守るため、嘘をついてくださった!」
「そうなの。ダンナさまは、つくづく素晴らしいお人柄なの」
クイーンはしみじみそう語った。
「素晴らしいにゃん!」
しらすちゃんは飛び上がった。
「そうよ、しらすちゃん。格好いいダンナさまでしょ?」
「はいにゃん!」
しらすちゃんは感激した。外見がかっこいいだけでなく、内面も光り輝いている人間がこの世界にはいるのだ、
するとクイーンはあわてて前足で口を押さえた。
「あっ、いけない。わたし、この話、ダンナさまから口止めされてたんだわ。『だれにも言わないでね』って」
「どうしてにゃん?」
「にゃん?」
「にゃん?」
「『クイーン。この話は、特に、さっちとカエデコさんには内緒にしてね。わたしに対して、必要以上に恩義を感じないで欲しいからね。ふたりには、自由に伸び伸びと暮らしてほしいんだ。だから秘密だね』って、そう言って、ダンナさまはとびっきりのウインクしてくださったわ」
「ああ、ありがたいわ、ダンナさま。尊敬します」
カエデコさんは深く感じ入っている。
「ああ、ダンナさま。感謝します!」
さっちも心を揺さぶられている。そして最後にしらすちゃんは訊いた。
「ねえ、クイーン。心の平和はどこにあるの?」
「心の平和というものは、みんなの胸のうちにあるのよ。うふふ」
「さすがクイーン、素敵にゃん!」
しらすちゃんの心は、平和な気持ちに満たされた。
こうしてみんなにとっても、波乱万丈の一日は幕を閉じた。
木月家を静かに見おろす満天の星空は約束している。明日は早朝から、今年一番の快晴なのだと。
お星さま、ありがとう。
おやすみなさい。
おしまい
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