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第十章 大地の谷

大地の谷 第三節

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年中暗き雲に覆われ、溶岩と毒ガスがそこかしこ流れては吹きだす山の奥。そこに座す神殿の一室で、様々な実験用のフラスコや蒸留器、ビーカーから妖しげな煙が立ち込めていた。

器材を囲んで何かの実験を繰り返している錬金術師アルケミストたち。その中心となる机には、その部屋に似つかわしくない現代的なシリンダが置かれていた。

「進捗はどうかな?」
彼らの作業を見守るザナエルの仮面の下から彼の不気味な声が響いた。錬金術師の一人がおずおずと答える。
「はい、その、色々とやってはいるのですが…何分、我らの世界では存在しないものですし、原理もなにも分からないので中々解析することができず、複製できるかも分からなくて…」

「元よりそこまで出来るほど期待してはおらん。せめてそれから何かのヒントぐらい得られば良い。励みたまえ」
「は、はいっ!」
表情を窺い知れぬ仮面から漏れ出す淡々とした口調がかえって恐怖を煽る。錬金術師は急いで元の作業に戻ると、ザナエルは部屋から出た。

暫く回廊を歩き、多くの信者が祈りを捧げている暗黒の祭壇の様子を外からザナエルは確認する。祭壇に浮かぶ封印の水晶は、既に人の頭よりも大きくなり、今やその中で揺蕩う暗黒は、まるで生き物のような形を成しては脈動していた。

それを確認するザナエルの後ろに、頭を下げるエリクがいた。
「ザナエル様」
「エリクか、何かあったか?」
「大事という訳ではないのですが、どうやらミーナ殿が私達の計画を嗅ぎ付けたようです。前線から離れたルドヴィク王子が次々との解放をなさってます」

廊下の蝋燭の明かりが揺らめき、冷たいザナエルの仮面に表情を作る。
「ほう。素材場を三つも見つかれば流石に勘付くか」
「いかがなさいます?」
「気にしなくて良い。第一、第二の素材は今十分集まっておるし、第三の方もギルバート殿のお陰で随分と進捗が進んだ。いまさら奴らが何をしても間に合わん。寧ろ注意力を分散させるには丁度良い。それに短剣の方はまだ覚醒していないのであろう?」
「ええ」

エリクが懐から例の短剣を取り出す。骨を思わせる不気味な外見は相変わらずだが、それ以外には特に変わりはなく、目を思わせる宝珠だけが静かに闇を中に孕んでいる。
「この様子だとまだ時間はかかりそうだな。ならなお都合が良い。彼らにはせいぜい素材場に目をとどませればよかろう」
「そうですね。ではそのように」
エリクは短剣を懐に慎重にしまう。

「して、巫女殿たちは今どこまで進んでおる」
「報告によれば、今メルテラ山脈を越えようとしているようです」
「メルテラ山脈?」
ザナエルの声はどこか驚きを含んだものだった。
「いかがなさいましたか?」
「いや、なんでもない。メルテラ山脈か…」

手を仮面の顎に当てて暫く考え込むと、自嘲とも嗜虐ともつかぬ笑い声が仮面から発した。
「…くっくっくっ、後顧の憂いを断つには丁度良いタイミングかも知れん」
「ザナエル様?」
「ついて来いエリク」

そう言われて黙ってザナエルについていくエリク。二人はやがてギルバートに当てられた私室へと向かった。
「ギルバート殿に何か用ですか?」
「そういうところだな」
やがて扉の前に止まった二人は、中からギルバートの荒い息遣いが聞こえた。エリクは困惑する。
(お楽しみしてるのか?)

かすかに開いた扉の隙間を覗くと、ベッドでは例の女二人が気持ち良く寝ており、その傍の床に、半裸のギルバートが片腕で腕立てをしていた。
「ギルバート殿、いま宜しいかな」
「ん?ザナエルの旦那か」

床から立ち上がり、そのまま扉を開くギルバート。先ほどまでに体を動かしている割には、汗一つも流していなかった。
「勤勉ですなギルバート殿、鍛錬をなさっておられるのか」
「ああ、たまにこうして体を動かさないと感覚が鈍っちまうからな。それより何か用事か?この前あげた素体に何か不備とか?」

「それについてはご心配なく。こちらで役立てるようにしておるよ。無償に提供してくださったのだから文句が言える訳でもなかろう」
「そっか。あの時も言ったが、ちゃんと気を払って扱えよ。ありゃ外部の遺伝子を組み込んでない純粋なアニマ・ナノマシン群体で、残骸から見つかったものはあの一本だけだ。失くしたらそれっきりだぞ」

「心得ておる。それよりもギルバート殿に一つ頼みたいことがある」
「なんだ?何なりと言ってくれ」
「我とエリクの搬送を頼みたい。場所は、メルテラ山脈と言う所だ」
「! ザナエル様、まさか…っ」

振り返ってエリクに仮面を向けては、ザナエルの陰湿な笑い声が仮面までも笑っているように錯覚させる。
「用事のついでだ、巫女殿たちに直接挨拶するとしよう」


******


『冷徹の雪道』。それは雪がよく降るメルテラ山脈で唯一歩ける山道だが、非常に険しい道のりになっている。たとえ夏でも突如吹雪が吹き荒れることもあり、積もる雪は常に雪崩の危険性を孕んでいる。雪で覆われた地面の下は時に大きな落差が隠され、不注意でここを通る命を冷徹に、無慈悲に奪うことから、このような名称が付けられた。

曇天からしんしんと降る雪の下、高山用の服装を着込んだ連合軍が緩やかながらも一歩一歩雪道の中を歩いていく。ラナとアイシャ、そしてミーナ達が、軍専属の魔法使いと協力して先頭で魔法により道の安全を確保し、カイや騎士達がレクスの指示の元、除雪の手伝いをしていた。

「精霊たちよ、我らの道先を示したまえ――」
ミーナが雪の中に杖を叩いて波紋が拡散すると、光が雪の下に隠された地形を描き出す。

「うえ、こんなところに穴があんのかよ。上から見るだけじゃ全然分からねぇな」
冷や汗かくカイに、同じく道の確保をしているマティが頷く。
「これでもまだマシなものです。深さが山と同じ程の亀裂も時には雪に被せられて見つけ難いのですから、万が一落ちたらまず助かりませんよ」

ミーナが示す道筋に覆う雪を、魔法である程度溶かしていくラナが警告する。
「だから隊列からは絶対に離れないようにね。すぐそこに何が隠れてるのか全然分からないもの」

魔法による除雪の進軍はマナ消耗もあって、有事に備えて必要な時だけ行われる。地面によっては雪を溶かすと泥沼になるか、滑る可能性があるところはカイや騎士達がある程度除雪していき、山や木の上から雪が岩を挟んで落ちる可能性のある場所はアイシャがいつでも結界を張れるよう待機していた。

前方からやや後方に、ウィルフレッドは隊列の様子を見ていた。細い道を通るよう軍隊が長い隊列となっているため、体力の温存と、後方に何かある場合に備えて交替制で除雪と後方対処をやっている。彼はそのままずっと除雪の役で構わなかったが、ラナは彼にもたちのように交替すべきと言った。

(((あまりウィルくんの力に頼りっぱなしではうちの兵士達が怠けてしまうあらね)))
騎士ランブレやボルガ達も次々と説得していた。
(((ラナ様の仰るとおりです。ここはどうか私達に任せてください)))
(((ああ、俺達はそこまでヤワじゃねえぞ)))
ウィルフレッドは小さく笑いながらラナ達の好意を受け止めた。

「大丈夫ルル?」「キュッ」
同じく隊列の後方でついていたエリネ。雪は思いのほか深いところもあり、ルルが迂闊に雪へと嵌らないよう肩に乗せている。標高が高い山もあって、さすがのルルも寒さを感じてはエリネの肩にうずくまっていた。

「きゃっ!?」「キュッ!」
突然、エリネの足が滑って倒れそうになる。
「エリーっ」
すぐ後ろで歩いているウィルフレッドがすかさず彼女を掴んだ。
「大丈夫か」
「うん、ありがとうウィルさん」

「やはり雪の積もった道では歩き難いな」
「それもあるけど、元々雪の積もったところは苦手なんです。ほら私、普段は音やマナなどで周りを認識しているから」
「そうか…音、雪に吸われるんだな」
頷くエリネ。

「ルルも雪が深くなると動きにくくなる時があるから、中々回りの様子を掴められなくて。村の冬にでかける時はいつもお兄ちゃんと一緒なんです」
「そうだったのか」
「はい。でもここはそれだけじゃないような気がします。妙な感触がすると言うか…ちょっと、方向感がおかしくなりそうな気がして」
「ふむ…」

地球の郊外は汚染変異により幻覚物質を放つ場所もあることをウィルフレッドは思い出す。とは言え、自分は何も感じないし、センサも特に異常はない。他の人も体調に問題ないと見ると、感覚の鋭いエリネゆえの現象か、と彼は思いながら彼女の手を掴んでは支えてあげた。

「次の交替までに俺がサポートしよう」
「ごめんなさい。迷惑かけてしまって」
「気にするな。寧ろ俺の方がエリーにずっと迷惑かけてるしな」
それが魔人化後の治療のことを指してるのを理解するエリネ。

「じゃあ、おあいこ様ということで」
「ああ、おあいこ様だな」「キュッ」
二人は互いに微笑むと、エリネはウィルフレッドに支えられながら前進していく。

「そういえばウィルさんは寒くないのですか?さっき支給されたコート貰わなかったですよね」
「ああ、俺の体はこれぐらいなら体温を自動調節できるし、このサイバーコートには暖気機能が付いてるんだ」
「え、本当ですかっ」

「ああ、試して着てみるかい」
「はいっ、ぜひ…あ、でもウィルさん身長高いですから、私が着ると地面を引きずってしまいません?」
「む、確かにそうなるな…」

暫く考え込んだウィルフレッドは腰につけた剣のベルトを緩んで荷台に置き始める。
「ウィルさん?」
「ちょっと待ってくれ」
剣をしっかり荷台に固定したら、彼はコートをはだけてエリネを包む。やんわりとした温かみがコートから、彼の体から伝わってくる。

「これでどうかな」
「うわあ~っ、ほんと、凄くあったかいですっ!」「キュッ!キュキュキュッ!」
コートの中でぬくぬくとするエリネ。ルルもまた、暖かそうなウィルフレッドへと飛び移っては彼の首の方にうずまいた。
「とと…」「ふふ、ルルったらすっかりウィルさんに懐いちゃってますね」
ぬくぬくとしてるルルをウィルフレッドは微笑んでは優しく撫でた。

「ウィルさん、暫くこのまま歩いていいですか?本当に温かくて気持ち良いですから」
「ああ、君が望むなら」
ウィルフレッドは改めてエリネの手をしっかりと握ってサポートしていく。

しんしんと降る雪の中、前の人が踏み開いた道で多少ぬかるみになったり滑り易くなる場所も所々あるが、ウィルフレッドがしっかりと支えたお陰でエリネは難なく前へと進めることができた。握る彼の大きな手から感じる鼓動と感触に、エリネは心強さを感じられた。

「ウィルさんの手、他の方とはちょっと違った感じですね」
「そうなのか?」
「ブラン村ではお兄ちゃんやシスター以外にも、村の皆やレクス様の騎士にこうして補助をしてくれますけど、ウィルさんの手はなんて言うか、一段と逞しい感じでとても安心できます」

ウィルフレッドが軽く微笑む。
「俺の体は普通の人とは違うからな。こんな自分が君の役に立てれば、俺も――」
「めっ!」
突如、エリネが人差し指をビシッと彼の目の前に立て、ウィルフレッドは目を見開く。
「エリー?」

「前から思ってたんですけど、ウィルさん、自分のこと妙に卑下してません?こんな自分とか、そんな後ろめたい言い方はだめですよ」
エリネが強くウィルフレッドの手を握り返す。
「前も言いましたよね、今のウィルさんは私達の世界、私達と一緒にいるんです。私にとってウィルさんは強くて優しく、とても温かい手をしている人なの。そのことをどうか忘れないでくださいね」

自分のコートよりも温かみを感じられたエリネの笑顔が、ウィルフレッドの心を暖める。
「…君の言うとおり、だな。これからは注意するよ。ありがとうエリー。君も、カイやラナ達、そしてシスターにも色々と助けてもらって」
「ですからそれはおあいこ様ですって」「キュウッ」

互いに微笑みながらしっかりと前へと歩く二人。ウィルフレッドはブラン村で出会ったシスターイリスのことを思い出す。この世界に来て、カイとエリネとともに自分を温かく受け入れ、コートの繕いや美味い食事など優しくしてくれたシスター。同時に、旅に出る前に彼女がエリネとカイについて語ったことも思い出す。

「…エリー、差し支えなければ一つ聞いていいか?」
「なんでしょう?」
「君はカイと一緒にシスターに育てられたと言ってたな。カイのことは前に教えてもらったんだが、君のことも教えてもらえるか?出来る範囲で構わないから」
「うん。いいですよ。そんなに大したことでもないですから」
そうは言うものの、自分の手を握るエリネの手に力が僅かに込められているのをウィルフレッドは感じられた。

「シスターから聞いた話だけど、私の両親はブラン村から離れた二人暮らしの農夫で、クラトネに買出しに行く途中で山崩れで亡くなってしまったの」
「山崩れ?」
「うん、その現場を巡礼中のシスターが丁度通りかかって、運よく難を逃れた私を拾ってくれたの。それで先に世話してたカイ兄ちゃんと一緒にシスターのお世話になったんです」
「そうだったのか…すまない。辛い話をさせてしまったな」

エリネは笑顔で顔を横に振った。
「別に大丈夫ですよ。それに…正直言いますと、私、両親のことについてはあまりピンと来ないんです」
「ピンと来ない?」
「前にも言ったように、物心のついた頃から自分はずっとカイ兄さんと一緒にシスターに育てられて、それなりに幸せな生活を送れたの。私にとって親代わりであるシスターと本当のお兄ちゃんみたいなカイ兄ちゃんの方が、本当の家族って感じがして」

また自分の肩に立つルルをそっと撫でるエリネ。
「両親は教会の墓に安置されて、大きくなってからシスターから彼らの話を聞いたんですけど、あの時、自分はあまり感慨とかそういうの感じられなかった。だって声の表情も全く覚えてないし、どのような人なのかも知らないから、あまり気にしてはいなかった。…ただ、両親が自分のことをどのように思っているのかは、少し気になるといえば気になる、かな。そんな感じです」

エリネが小さく苦笑する。
「薄情、と思われるでしょうか。やっぱり」
「まさか、エリーの気持ちはなんとなく理解できるさ。俺も君やカイと同じ孤児なんだから」
「ウィルさんも?」

前方の道を見据えるウィルフレッド。
「ああ、そして君達と同じように育て親の婆さんが一人いたんだ。俺にとって、顔も知らない両親よりも、ずっと育ててくれたその婆さんこそが本当の親だった。長らく彼女の世話になってて、いつしか本当の親なんざもう気にならなくなっていたな」
「そうだったのですか…」
エリネがふと小さく笑い出す。

「どうしたんだ?」
「ううん、ただこうして共通点を見出すと、異世界の人であってもウィルさんはやっぱり私達と全然違わない人ですし、なにより―」
また小さく笑ってはエリネが続く。

「ようやくウィルさんのことを少し知ることができましたから、とても親近感が感じられるなあと思って」
「エリー…」
無意識に、エリネを握る手に力が入る。それを敏感に感じ取られたエリネもまた、優しい笑顔をウィルフレッドに向けた。

「みんなー、ここで一旦休憩だよー」
前方からのレクスの声と共に連合軍の行進が止まる。
「ふう、やっと一息つけますね。実はというとちょっと疲れました」
「なら早いとこ前の人と合流して休憩に入ろう。ルルもな」
「ええ」「キュッ!」

心なしか、お互いに握る手の暖かさがより一層増したと感じながら、二人は前方へと移動していった。



【続く】
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