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第5話
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コンコン、と控えめなノックの音がして、侍女が顔を覗かせた。
「妃殿下。エミリー様より、お届けものでございます」
差し出されたのは、小さなバスケットだった。中には、手作りのクッキーと、一枚のカードが添えられている。震える指でカードを開くと、そこにはエミリーの流麗な文字が並んでいた。
『セリーヌ様へ。いつもお心遣い、ありがとうございます。ブラッド様が、妃殿下は甘いものがお好きだと教えてくださいましたので、お口に合いますかどうか。今度また、ゆっくりお茶でもご一緒できますことを、楽しみにしておりますわ』
丁寧で、完璧な文章。そこには何の悪意も見つけられない。だが、私の目には、それが勝利宣言のように映った。
『ブラッド様が、教えてくださった』
その一文が、毒のように私の全身を蝕んでいく。あなたは、私のことまで彼女に話しているのね。私の好きなもの、私の知らないところで、二人で私の話をして笑っているのね。
バスケットを床に叩きつけたい衝動に駆られた。けれど、私は動けない。私は公爵令嬢セリーヌ。そして、この国の王太子妃。感情のままに行動することは許されない。
私は静かに立ち上がると、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。そして、インク壺にペン先を浸す。
このまま、すべてを諦めて仮面をかぶり続けるのか。それとも、この手で、何かを変えるために行動するのか。
ペン先が、白い紙の上を滑り始める。誰に宛てた手紙なのか自分でもまだわからない。故郷の父へ助けを求めるのか。それとも、ブラッドへの最終通告か。あるいは、エミリーという女の真意を探るための新たな一手か。
一つだけ確かなことがある。私の幸せな結婚生活は終わった。けれど、それは絶望だけを意味するわけではないのかもしれない。
窓の外は、すっかり夜の闇に包まれていた。だが、遠くの空には、一番星が鋭く強く輝き始めている。静かな決意を胸に、私はインクの匂いが立ち上る羊皮紙に、ただじっと視線を落としていた。
あの夜、インクの染みが乾かぬ羊皮紙を前に、私は自分自身に問い続けていた。それは結局、誰にも届けられることなく、暖炉の火にくべられて灰になった。行動を起こすには、もっと決定的で誰の目にも明らかな“何か”が必要だったのだ。
皮肉なことに、その舞台を用意してくれたのは、他の誰でもない私の夫ブラッドだった。
冬の訪れと共に、王城はクリスマスを祝うための準備で華やぎ始めた。回廊には柊と赤いリボンのリースが飾られ、大広間には天井に届きそうなほどの巨大な樅(もみ)の木が運び込まれる。召使いたちの足音も心なしか軽やかで、どこからともなく焼きたてのスパイスクッキーの甘い香りが漂ってくる。
けれど、その浮き立つような喧騒は、私の心を温めるどころか、ますます凍てつかせるだけだった。ブラッドとの関係は、決定的に冷え切っていた。彼はあからさまに私を避け、日中のほとんどをエミリーの屋敷で過ごした。たまに顔を合わせれば、彼の口から出るのはエミリーとアリスの話ばかり。
「エミリーが、新しい暖炉の敷物を探しているんだ。君なら、どこか良い店を知らないか?」
「アリスが乗馬を習い始めた。驚くほど筋がいいんだ。今度、クロエも一緒にどうだろう」
その度に、私は完璧な王太子妃の笑みを浮かべて答える。
「そうですの。お役に立てることがあれば、いつでもお申し付けくださいませ」
彼の瞳には、もう私は映っていなかった。彼の関心は、彼の愛情は、すべてあの母子に注がれていた。侍女たちの噂話が、嫌でも耳に入ってくる。ブラッド殿下は、まるで本当の父親のようにアリスを可愛がり、エミリー様とは恋人同士のように睦まじいと。
「妃殿下。エミリー様より、お届けものでございます」
差し出されたのは、小さなバスケットだった。中には、手作りのクッキーと、一枚のカードが添えられている。震える指でカードを開くと、そこにはエミリーの流麗な文字が並んでいた。
『セリーヌ様へ。いつもお心遣い、ありがとうございます。ブラッド様が、妃殿下は甘いものがお好きだと教えてくださいましたので、お口に合いますかどうか。今度また、ゆっくりお茶でもご一緒できますことを、楽しみにしておりますわ』
丁寧で、完璧な文章。そこには何の悪意も見つけられない。だが、私の目には、それが勝利宣言のように映った。
『ブラッド様が、教えてくださった』
その一文が、毒のように私の全身を蝕んでいく。あなたは、私のことまで彼女に話しているのね。私の好きなもの、私の知らないところで、二人で私の話をして笑っているのね。
バスケットを床に叩きつけたい衝動に駆られた。けれど、私は動けない。私は公爵令嬢セリーヌ。そして、この国の王太子妃。感情のままに行動することは許されない。
私は静かに立ち上がると、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。そして、インク壺にペン先を浸す。
このまま、すべてを諦めて仮面をかぶり続けるのか。それとも、この手で、何かを変えるために行動するのか。
ペン先が、白い紙の上を滑り始める。誰に宛てた手紙なのか自分でもまだわからない。故郷の父へ助けを求めるのか。それとも、ブラッドへの最終通告か。あるいは、エミリーという女の真意を探るための新たな一手か。
一つだけ確かなことがある。私の幸せな結婚生活は終わった。けれど、それは絶望だけを意味するわけではないのかもしれない。
窓の外は、すっかり夜の闇に包まれていた。だが、遠くの空には、一番星が鋭く強く輝き始めている。静かな決意を胸に、私はインクの匂いが立ち上る羊皮紙に、ただじっと視線を落としていた。
あの夜、インクの染みが乾かぬ羊皮紙を前に、私は自分自身に問い続けていた。それは結局、誰にも届けられることなく、暖炉の火にくべられて灰になった。行動を起こすには、もっと決定的で誰の目にも明らかな“何か”が必要だったのだ。
皮肉なことに、その舞台を用意してくれたのは、他の誰でもない私の夫ブラッドだった。
冬の訪れと共に、王城はクリスマスを祝うための準備で華やぎ始めた。回廊には柊と赤いリボンのリースが飾られ、大広間には天井に届きそうなほどの巨大な樅(もみ)の木が運び込まれる。召使いたちの足音も心なしか軽やかで、どこからともなく焼きたてのスパイスクッキーの甘い香りが漂ってくる。
けれど、その浮き立つような喧騒は、私の心を温めるどころか、ますます凍てつかせるだけだった。ブラッドとの関係は、決定的に冷え切っていた。彼はあからさまに私を避け、日中のほとんどをエミリーの屋敷で過ごした。たまに顔を合わせれば、彼の口から出るのはエミリーとアリスの話ばかり。
「エミリーが、新しい暖炉の敷物を探しているんだ。君なら、どこか良い店を知らないか?」
「アリスが乗馬を習い始めた。驚くほど筋がいいんだ。今度、クロエも一緒にどうだろう」
その度に、私は完璧な王太子妃の笑みを浮かべて答える。
「そうですの。お役に立てることがあれば、いつでもお申し付けくださいませ」
彼の瞳には、もう私は映っていなかった。彼の関心は、彼の愛情は、すべてあの母子に注がれていた。侍女たちの噂話が、嫌でも耳に入ってくる。ブラッド殿下は、まるで本当の父親のようにアリスを可愛がり、エミリー様とは恋人同士のように睦まじいと。
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