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浮気男の言い分

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 笛出賀一は部下からのメールに気づいた。律儀な瀬尾平太郎は、企画展が始まって毎日メールをよこしていたが、笛出は毎回たいして内容も見ずに『了解』と返すのが常だった。

 優秀な成績で順調に進んできた瀬尾平太郎と、ギリギリの成績とコネ入社でしがみつくようにしている自分の能力の違いにはいつもイライラさせられるが、笛出自身はそれを『能力の違い』とは思っていない。

 自分は、運が悪いだけなのだ。政略結婚のつもりで口説き落とした部長の娘だったが、部長自身がまさかの早期退職をして、せっかくのコネは何の役にも立たなかった。

 妻は、十人並だったが、子供が生まれて以来、子供を最優先で夫である自分を顧みない。

 自分にないがしろにされながらも明るくふるまう妻の浮気を疑って調べもしたが、そんな気配は全く無かった。証拠が無ければ離婚もできない。

 妻が相手にしてくれないのだから、外にはけ口を求めるのは仕方のない事だ。

 だから、俺は悪くない。

 それが笛出の言い分だった。

 そもそも、笛出は結婚している事を隠していない。それにも関わらず俺になびく女だって悪いのだ。落とせそうな女がいたら声をかけるのは礼儀だし、不思議と笛出は顔立ちが比較的整っているせいか、拒絶される事はあまりない。

 それが天分なのだから仕方が無いのだ。

 例えば、共同研究先の女性研究員、三楽茜。瀬尾の同級生だというあの女だって、こちらから無理強いをしたわけではないのだ。ただ、瀬尾が今少し職場から浮いていて、心配だと話をしたら、気になったのか簡単について来た。

 時折、瀬尾が熱をこめた目で茜の事を見ている事に、笛出は気づいていた。だが、奥手なのか、付き合いが長いせいか、友情以上の感情を表現できずにいる事に、第三者である笛出だけは気がついた。

 あの、無意識に人の劣等感を逆撫でする部下の思う女を奪ったら、瀬尾はどんな顔をするだろう。ちょっとしたいたずら心のつもりだったのは。最初は。

 三楽茜のように、自己評価の低い女というのは笛出の一番得意とするタイプだった。

 容姿だって、平均からみればいい方だが、理想が高すぎて、自分で納得がいっていない。そういう相手に漬け込むのは簡単だ。ひたすら褒めて褒めて褒めちぎればいい。

 高い教育を受け、日々脳を使うような女でも、第三者から容貌を褒められる事には慣れていないようで、照れながらもまんざらでない素振りを見せた。

 笛出は、心にも無い事を言うことにまったく抵抗が無かった。それでその場がしのげれば、何の問題も無い。誰も損をしない。

 自分の心が偽りを言うことに抵抗が無いからだ。

 皮肉にも、己を偽ってでも、何事かをやり過ごすという部分で、笛出と瀬尾はとても似ていたが、二人はそれに気づいてはいなかった。

 二人の違いがあるとするならば、瀬尾は自分の心を偽る事ができなかったという事くらいか。

 しかし、相手を傷つけまいと思うか思わないか。

 笛出は、自分が傷つきさえしなければ、相手はどうなってもかまわないと思うのに対して、瀬尾は、自分が傷つく事で相手に傷ついて欲しくないという部分で、ベクトルは正反対だったのだが。

 笛出が、ここ数日そうしていたように、本文を見ないままスマホをかばんに戻そうとしたその時だった。

「ねーえ」

 事が終わって、惰眠をむさぼっていたはずの女が顔を上げた。

「いいの? 今日も帰らなくて」

 裸のまま、毛布にくるまって外に出てくる様子は無いが、伸びる手が白く、生々しい。

 間接照明にぼんやり照らされると、二割増しで美人に見えるから不思議だ。仕事関連だと後で切るのが面倒で、最近は友人の元彼女を数人渡り歩いている。男との関係にしくじった女は、男なんてこりごり、と、言いながら、声をかけると悪い気がしないのか、元彼の友達、という事で気軽に愚痴がこぼせるのか、簡単に関係を許した。互いに多くを望まないせいか、金さえケチらなければ、関係は良好だ。

「仕事……だからな、しょうがない」

「嘘ばっか、部下に責任ぜーんぶかぶせてサボってるくせに」

「ぼっちの週末が嫌だって言ったのはそっちだろ?」

「あー、まあ、そうだけど」

 妻子のある男と関係を持つことに抵抗を持たないような女は気楽でいい。笛出は思った。

「でも、さすがに明日は行かないとな」

 初日に顔を出しているから、最終日までは行く必要は無いはずだったのが、急に部長が子守がてらのぞきに来るなどと言い出した。

 当番でローテしているので、と、言えば、自分が不在だったとしても咎められる事は無いだろうが、褒められそうなチャンスをみすみす瀬尾にくれてやる必要は無い。

「……一緒に行く?」

「ええ、めんどくさい」

「だよねー」

 初日にも、近くまで連れては行ったが、結局女が着いてくる事は無かった。笛出も、別に自分の仕事として誇りを持ってやっているわけでは無い。

 たとえば、三楽茜のように熱心にやれたら、もう少し違っていたのだろうか、と、少しだけ思う。

 茜は、他の女とは『少しだけ』違っていた。茜の話はおもしろかったし、わかりやすかった。人を見下さないところも気が楽だった。

 しかし、どこか、妻子ある男と関係を持つことに罪悪感を持ってるようでもあった。頭のいい女を組み伏せながら、快楽に流される様を見るのは嗜虐心が満たされた。

 不思議な事に、瀬尾に対してもどこか引け目を感じているようで、そういった、自ら幸せを拒絶するようなところも良かった。

 けれど、もう終わった事だ。

 渋谷で二人いるところを瀬尾に見られてから、ぎくしゃくするようになっていった。何か望みが無いかと尋ねても、否と繰り返すばかりで、妻子と別れてもいいとすら言った。

 笛出は、浮気相手にそうやって気をもたせるような事は無かった。

 ならば、教授に話をしよう、と、言った時に、初めて茜の顔色が変わった。瀬尾に知られた以上、遠からず知られるだろう。教授はどう思うだろうか、君の研究室での立場も微妙なものになるだろう。

 顔色を変えて、思いつめた茜は、全てを消して、自分自身さえも消えた。

 笛出は、女の方から別れたいと言われたのは、思えばコレが初めての事だった。

 茜の消息も気になったが、一番の問題は差し迫った展示会の事だった。事情を知っている瀬尾に全て打ち明けて、協力をあおいだところ、うまくやってくれた。有能な人間が部下である事はありがたい事だ。自分の足元をすくわないでいてくれればなおさらだ。

 企画展示会さえ終われば、共同研究そのものを成果が出ないものとして縁を切ってしまえばいいのだ。

 たとえば、茜が失意で命を絶っていたとしても、それは茜自身の問題であって自分とは関係ないはずだ。

 成人した男女の事だ。俺に否は無いんだ。断じて。

 笛出は、自分を慰めるようにひとりごちていた。

「どうしたの?」

 呆けている笛出に、あきれたように女が声をかけてきた。

「……何でも無い、風呂、入ってくる」

 本当に、茜を始末してしまえばよかったんだろうか、ふと、笛出は思った。否、犯罪はリスクが大きすぎる。

 このまま、茜自身が我が身を恥じて、実家に帰るなり、研究室を辞するなりしてくれればいいのだが。

 自分にとって都合のよい妄想ばかり並べて、笛出は嵐が通り過ぎる事を黙って待つことに決めた。

 世の中は、成るようにしかならないのだから。
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