陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

文字の大きさ
上 下
41 / 53

四十話 更なる闇

しおりを挟む
 廊下を照らす赤橙色の僅かな光を反射して、黒猫の眼が妖しく光っている。裂いたかのような縦長の瞳孔。その瞳に血に塗れてもつれ合う二人の人間を映していた。
 一人は主人と仲の良い人間で、もう一人の赤い髪の人間は――危険だ。自然と耳が倒れて、縦長の瞳孔がぐっと細まった。
 ――先ほど、赤い髪の人間から何かしらの攻撃を受けた。ただの人間がやることだ。どうってことは無いのだが、一瞬消えてしまった。いや、痛くも痒くもない。ちょっとびっくりしただけだ。全然怖くない。ただ、ちょっと怒った。自分の鳴き声で二度も大声を出して苦しんでいたのに、まだどっちが強いか解ってないようだ。やられっぱなしは気に食わない。もう一鳴きしてやろうか。でも、主人の友達が悪い人間とじゃれている。何をやっているんだろう。あの人間は傷つけたく無い。主人から任されているのだ。守ってあげてと。どいて欲しい。どいてくれたら、一鳴きで蹴散らしてやるのに――。
「マロン!――鳴けぇえっ!」
 ――え?いいのか?苦しくなるぞ。それに、主人でもないのに命令するなんて。さっきは従ったわけじゃない。赤い髪の人間が気に食わなかったから鳴いただけだ……従ったわけじゃない。
 でも、必死な顔だ。血がすごい流れて、腫れている。仕方ない。鳴けと言うんだ。死にはしないさ。さあ、行くぞ――。

 マロンは、ちいさな口を目一杯開いて、立派な犬歯を披露した。九十九はすぐさま男の両手首を掴んで抑え込む。
(塞がせねぇっ。聴こうぜ……一緒によ!)
そして、その小さな体躯からは想像出来ないほどの絶叫が、空間を走る。
「ぐぅ……うああ゛あ゛あ゛!」
「うぐあぁああっ!」
 まるで、釘を耳に打ち込まれたかと思うほどの衝撃だった。瞬間的に長い針を耳から脳に向けて刺し貫いたような痛みが襲う。たまらず男の手首を放して両耳を塞いだ。
 キィー――。
「つぅっ!」
 マロンの鳴き声の残響。それ以外には何も聞こえない。腰を折って、耳を塞ぐ手に力を籠める。しかし、残響が消える気配は無い。目を瞑って痛みを堪えた。しばらくこの不快な高音は脳内に居座りそうだった。
(強烈だなっ……)
 九十九は、マロンに指示したことを後悔したが、すぐに思い直した。こうするしか無かったのだ。少しの間、この痛みと不快感は我慢するしかない。だが、お陰で男には相当なダメージを与えたのではないだろうか。なにせ男がマロンの鳴き声による攻撃を受けるのは三度目だ。無事で済んでいるとは思えない。そう、下手をすれば死んで……。
「はっ!あいつはっ……」
 そうだった。何を考えているのだ。殺すことが目的じゃない。ここから出る方法を聞き出さなければ。
 九十九は、頭を上げて男に目を遣った。目の前にいたはずの男がいない。どこだ。首を振って辺りを見回すと、すぐにその姿を見つけた。後方、マロンと対角の位置に横たわって倒れていた。
「ぐぅ……うぅ」
 意識もまだあるようだ。僅かに身悶えて身体をよじらせている。
「っぐ……はぁ……」
 九十九は、痛みと耳に残る残響に耐えながら男に近付いていく。近寄っても、男は起き上がる様子は無い。意識はあるものの、朦朧としているのか九十九に気付いていないようだ。
 横たわる男の前には拳銃とスマートフォンが転がっている。倒れた拍子に落としたものだろう。九十九は、拳銃を恐る恐る拾い上げた。
「……」
 それを手にした瞬間、言いようのない圧迫感に襲われた。
 装飾など一切ない黒塗りのフレーム。掌に沈み込むように重い。子供の頃は同じような玩具を持ってはしゃいでいた。憧れのような感情さえ抱いたものだが、いざ本物を手にしてみると只々恐ろしい。引き金に指を掛け、引くだけで命を奪うことが出来る。手の中で沈黙している鉄の塊。これがフィクションではなく、現実に自分に向けられた事実。そして、これから他人に向けようとしている事実が信じられなかった。昨日までそこにあった当たり前の日常が遠ざかっていくような気がした。
 九十九は、右手でグリップを握り左手を支えるように添えた。勿論殺す為じゃない。この鉄の塊は脅しの道具としても使えるはずだ。
「あんた、生きてるか」
「……うぅ、うあぁ……」
 声を掛けるが、男は顔をしわくちゃにして苦しそうに頭を抱えて藻掻いている。
 九十九は、横たわる男の身体を蹴って仰向けにした。それでもなお、男は耳に手を当てて呻き声を上げている。確かに、あのマロンの鳴き声を三度浴びればこうなるのも仕方ない、と同情した。                         
 しかし、いやでも喋ってもらわなくては困る。銃口を男の頭部に向けて声を荒げた。
「おいっ、起きろ!まだ眠ってもらっちゃ困るんだって」
「うぅ……痛てぇえ……くそ……」
「ちっ、なぁ!お、起きろって……」
 九十九は、銃を構えながら話しかけ続けるも男に変化は無い。ぎゅっと目を瞑って、ただ苦しそうに唸るだけだ。どうやらマロンの絶叫は、男を再起不能にまで追い込んだらしい。
「マジかよ……はぁ」
 脱力して構えていた銃を下ろした。途方に暮れるように立ち尽くす。
 何とかして聞き出さなければ……男が回復するのを少し待とうか。いや、そんな悠長なことはしていられない。紫乃がまだ合流していないということは、式神の修祓を続けているのだ。そこまで時間が掛かるものなのか、もしくは何かしらの不測の事態でも起きたか。どちらにせよ、九十九が急いだ所で何が出来るわけでもない。だが、どうしても気掛かりだった。無事でいてくれればいいが。
 こうなれば力尽くでも叩き起こすしかない。ぶん殴ってでも、幻界から抜け出す方法を聞き出すのだ。そう決心して男に近付こうとした時だった。

――おい。
「――!?」
 不意に聞こえた声に驚愕して身体が跳ね上がった。横たわる男の声ではない。背後から聞こえたような気がしたが、振り返っても人の姿はなかった。空耳だろうか。それにしては妙にはっきりと……。
――返事しろ、白川。
 程なくしてまた声が聞こえた。男の声。空耳ではない。それもすぐ近くだ。九十九は、声のする方へと顔を向けた。
 九十九のすぐ後ろ、真下に落ちているスマートフォン。男が倒れた際に落としたものだ。声はこのスマートフォンから聞こえている。
 九十九は、スマートフォンを拾い上げた。画面は暗転してスリープモードになっている。本体側面にあるボタンを適当に押してスマートフォンを立ち上げると、パスワード入力を求めるロック画面が映し出された。でかでかと表示された時刻は十三時四十六分。時間は止まったままだ。通話中の表示もない。そもそも、ここは幻界と呼ばれる幻術の中で、外界とは遮断されているのではないのか。現に紫乃のスマートフォンは、電源は入るものの表示される時間は止まり、通信機能も使えなかったはずだ。どういうことだ。確かに、このスマートフォンが落ちていた辺りから声が聞こえたが……。
「どうした?なんで喋らねぇ」
「うぉっ!?」
 やはりこれだ。スマートフォンから声が聞こえる。耳を近付けなくても聞こえる大きさ。スピーカーから流れているようだ。しかし、通話表示でも、通話機能のあるメッセンジャーアプリの表示もない。ロック画面のままだ。どういう原理だろう。そもそも、スマートフォンを操作していないのに声が聞こえるのだ。もしかしたら、これも呪術が使われているのかもしれない。
「……お前誰だ。白川はどうした」
 九十九の小さな驚きの声が聞こえたのか、ざらざらと低く擦れた声は、相手を探るような声音で言った。声からは赤髪の男と同質のものを感じさせた。しかし、こちらの方が肝が据わっているように聞こえる。本来の荒々しさを理性で覆い隠し、押さえつけているような表面的な冷静さ。少なくとも、赤髪の男より立場が上の人間のようだ。九十九はにじむ脂汗を拭った。
「……白川って、赤い髪の男のことか?」
「ん……そうだ」
「そいつなら……床の上でのびてるぜ」
「そうか……やっぱり使えなかったな」
 男の声は落胆の色を示すことなく、興味なさそうに淡々と言った。
「あんたは……いや、あんたらは何もんだよ。何が目的でこんなことを――」
「阿原九十九」
 九十九は、息を飲んだ。名前が知られている。いつ調べられたのか。困惑と恐怖に心臓が早鐘を打つ。
「お前は、昨日雷門の前にいたな?あんな夜中に……そこで拾ったはずだ」
 昨日の夜、雷門前で確かにあの金属を拾った。この男は知っている。昨日の九十九の行動を。
「それが必要なんだよ」
「……一体何なんだ、これは……」
 九十九は、スマートフォンを持ち替えると金属が宿る右手を見つめた。手は僅かに震えている。それは、しばらく続いている痺れからか、或いは底知れない恐怖からか。
「それは分からん。その名も、どんな形でどんな模様なのかも……見たことないからな。普通に生きてたらまず見ることはない」
「……いや、わかんねぇ。じゃあ何に使うんだよ」
「ふっ……ちょっとな」
 男は、その用途について濁して語らない。また、金属自体が何なのかも知ることは出来そうになかった。
「渡してくれるだけでもいい。危害を加えるつもりはない」
「おいおい……何言ってんだっ。もう加えられてんだよ。あんたの部下?と侍が襲ってきてるじゃねぇか!」
「あぁ、すぐに引かせる。幻術もすぐに解くさ。転がってる馬鹿叩き起こして、昨日拾ったものを渡してくれ。それで終わりだ」
「……」
 男の提案は魅力的だ。そう出来るものならそうしている。しかし、あの金属はもう九十九の一部なのだ。
「どうした?何黙ってる」
「渡せないんだ」
「……どういうことだ」
 男の声色が変わった。本性を覆い隠す理性にひびが入ったようだ。さらに低く錆ついたかのように擦れている。
「あれは……俺の中にある」
「……そうか。そうなるのか」
 男は平坦に呟く。その声から感情を読み取るのは難しい。ただ、高い関心を寄せていることだけは分かった。 動揺や怒り、想像していた反応との違いに、多少困惑してしまう。二の句が継げず、九十九は押し黙って暗転したディスプレイを見つめた。
「なら……来てもらうしかねぇな」
「ハッ、どうするってんだよ。身体切り開こうとでも?」
「あ?」
「……臣桐会しんどうかい
 白川と呼ばれる男の風貌と所持していた拳銃。紫乃が口にした臣桐会という組織の名。九十九は、半ば確信を持ってスマートフォンの向こう側にいる男に言い放った。
「臣桐会って……あんたら……暴力団か何かだろ」
「……来れば分かることだ」
 九十九に問い詰められても、男の声は取り乱すことなく、あくまで平静だった。
「大人しく来てくれりゃ、悪いようにはしない」
「ふざけんなっ。殺されるかもしれないと分かってて行くわけねぇだろ!さっさと学校元に戻してくれ!」
 男の落ち着いた事務的な態度に、逆に九十九が苛立ちを覚えて語気が強くなってしまう。それは、淡々としている声の中に拒否を許さないという男の意思が含まれている気がして、恫喝されているようにさえ感じてしまうからだ。声を荒げて萎縮を隠した。自覚はしていないものの、今まで会ったどの人間よりも、顔も見たことのないこの男に恐れを抱いていた証拠だった。
 男は、「まあ、落ち着けよ」と九十九の怒声を意に介さず一言で受け流す。駄々をこねる子供をあやすようなその口ぶりに苛立ちが募る。
「なぁ小僧。極道相手に一方的に要求を呑めって言ってんのか?ありえないだろう」
 男は、諭すように言った。
「……俺は従わねぇぞ」
「そうか。残念だ。もうこの会話に意味はねぇな」
 そう、最初から意味などなかった。暴力団が堅気の人間相手にまともな交渉をするはずがない。この男も言い回しこそソフトだが、淡々と事務的に〝さっさとこちらに来い〟としか言っていないのだ。受け入れなければ、強硬手段に簡単に出る。そんな力尽くこそ、奴らの本領発揮といった所だろう。
「……」
 もう話す気はなかった。耳を傾けるべきではなかった、と疲労感が押し寄せた。
 さっさと床に転がっている男を叩き起こし、脱出方法を吐かせよう。早く紫乃と合流しなければ、とスマートフォンを放り投げようとした時、男が口を開いた。
「小僧、ところで……」
「あぁ?」
「白川はお前がやったのか?」
「……」
「いや、違うな。流石にただの小僧一人にやられたとは……考えられんよな。お前と白川以外に、その幻界内に誰かいるのか……」
「……」
 男は、訥々と話し始め、九十九は黙ってその声を聞いていた。
「紛れ込んでるようだな……まぁ、良い。白川には式神を持たせた……小僧、分かるか?」
 異様に四肢の長い男女の化物。赤髪の男が使役した式神は、紫乃が捕らえ修祓に取り掛かっている。
「使役したはずだ……黙って床に転がってるわけねぇからな。お前が相手したのか?そんなわけねぇ。ただの一学生が……七体の式神を?まさかな」
「……七体……?」
 九十九は、記憶の中を探った。
 紫乃が展開した檻の中にいた式神は、禿頭の男性と思われるものが五体と長い黒髪の女性が一体の計六体。さらに記憶を遡る。男が式神を使役する前。式神を使役する為に用いた呪符の数は――七枚だ。
「その式神は七人岬しちにんみさきっていってな。七体一組の……妖怪だ」
「よう……かい……?」
「あぁ、居るみてぇだな……寂しがってるぞ……相手してやれ小僧。さぁ……泣いてくれ」
しおりを挟む

処理中です...