陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

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四十三話 七人ミサキ

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 七人ミサキ。
 非業の死を遂げた七人の亡霊からなる妖怪。この妖怪の祟りによって呪い殺されると、七人の内の一人が成仏し幽世に還る。代わりに、呪い殺された者が亡霊となり、七人ミサキと成る。
 こうして、七人ミサキは常に七人一組で彷徨う。生者に災いを振りまき、怨念の円環を永劫繰り返す悪霊である。

「あぁ、居るみてぇだな……寂しがってるぞ……相手してやれ小僧。さぁ……泣いてくれ」
「……何を言ってるんだ」
 スマートフォンから聞こえる男の言葉の意味が分からず、九十九は呆然とスマートフォンの画面を見て立ち尽くす。
 ふと九十九はその音に気付いて、目の前で横たわる白川の向こう、暗闇が広がる廊下の先に目を遣った。
 ぺた、ぺた、と湿った音が聞こえる。何かが、この廊下の先にいる。そして、それはゆっくりだが、確実にこちら側へ近付いてきている。
 九十九は、闇の中を凝視したまま一歩、二歩、と後退あとずさった。それと近付くことを身体が拒否していた。鼓動が早まり浅い呼吸を繰り返す。怯えていた。紫乃のおかげで抑え込めていた恐怖心が、一気に湧き上がってきていた。
 廊下を這う音が段々と大きくなって、それが姿を現わした。
 それは、赤ん坊だった。しかし、多分や恐らく、を付け加える必要がある。かつてはそうだったのではないかと、九十九が思っただけだ。赤ん坊だと確信が持てないほど、その姿は異常だった。まだ一歳にも満たないと思われる赤ん坊。あの湿った音は、手が廊下につく音だ。四つん這いで闇の中を這ってきたのだ。
「おい……何だよ、あれは……」
 赤ん坊から視線を外すことが出来なかった。赤ん坊を見る九十九の顔は青ざめ、恐怖に引き攣っている。
 衣服は身に着けておらず、全身がどす黒く変色している。腐敗の一歩手前のような状態で、とても生きているとは思えない。何より目を引くのがその頭部だった。異様に膨らんで巨大化している。身体の五倍程度の大きさはありそうだ。身体は通常の赤ん坊のサイズだけに、その大きく膨らんだ頭部が際立つ。頭から身体が生えているような姿だが、倒れることなく小さな手足を使って頭部を支えていた。そして、その顔には空洞の穴が二つ開いていた。他の六体の式神と同様に、眼球がない。その二つの穴から涙が流れたかのように、頬に黒い筋が引かれている。白川が使役した内の一体で間違いなさそうだ。ずっと使役者の近くで、身を潜めていたのか。
「ア……ァ……」
 赤ん坊の式神は、白川のすぐそばに近付くと、大きな頭をきょろきょろと動かして、何かを探すような仕草を見せた。空っぽの眼窩がんかで、一体何を探しているのか。
 九十九は、その場で息を殺してじっとしていた。というより、身体を動かせなかった。赤ん坊に気付かれてはならないと直感が告げている。このままゆっくり後退って逃げるしかない。そろりそろりと後方へと下がっていく。
 赤ん坊を注視しながらゆっくりと後退していると、赤ん坊が周囲を探るのを止めた。気付かれたか、と思い立ち止まるが、赤ん坊が見たのは使役者である白川だった。
 ガクンッ、と大きな頭部が下を向いた。白川の顔を真上から覗き込んでいる。
「ア……ア……」
 気を失った男に声を掛け始めた。当然だが、喋ることは出来ないらしい。それは言葉ではなく、ただの発声に過ぎないものだった。
「ア……アィ……ア……ウゥ」
「……」
「ア……アァ……アゥ?」
「ぶはあッ!」
 白川が意識を取り戻した。いや、引き戻されたと言った方が正しいかもしれない。白川は大きく呼吸をしながら、赤ん坊と向かい合った。
「おわあッ!」
 白川は、声を上げて驚き、上体を起こして足をばたつかせながら後退った。
「なっ、何だお前……」
「ア……アウゥ……」
 呆然とする白川の前で、赤ん坊はころころと無邪気に笑う。その笑い声は人間の赤ん坊と同じだった。
「何だお前……なんだおまえはあああぁ!」
 白川は、突如錯乱し大声を上げた。その白川の叫び声に驚いたのか、赤ん坊の表情が変わった。
 赤ん坊が、ゆっくりと天井を見上げるように頭部を動かす。パカ。そんな音が聞こえた気がした。赤ん坊は大きく口を広げていた。
 大口を開けた様は、まるでヤツメウナギのような円口類のそれに近い。人間の赤ん坊であれば、まだ生え揃っていないだろう歯が、円形の口にびっしりと生えている。人一人、すっぽりと納まってしまいそうなほどの大きな口を開けて、赤ん坊は白川へと四つん這いで突進した。
「あ、あぁッ!ひやあぁッ――」
 バクンッ。
 赤ん坊は、頭から覆い被さると、白川の上半身、その身体の半分を口に頬張って噛み千切った。
 噴き上がる鮮血と転がる両手。その光景を遠巻きに見ながら、九十九は戦慄し立ち竦んだ。

 赤ん坊は、口の中の白川を咀嚼そしゃくし始めた。バキバキ、ぐしゃぐしゃ、吐き気を催すような不快な音を立てながら、口を波打たせている。やがて、十分に噛み砕くと、白川を飲み込んだ。その小さな身体に頬張ったものが納まるとは思えない。白川だったものが行き着く先は闇の中だ。
 赤ん坊は、その場に座り込んで、今にも泣き出してしまいそうにヒッ、ヒッ、としゃくり上げた。未だ、九十九には気付いていない。
 ここにいてはいけないと本能が叫んでいる。今すぐ逃げなければ、白川と同じように奴の餌だ。気付いていない今なら逃げられる。今すぐに動けと、自分に叫ぶように言い聞かせた。
 しかし、遅かった。後退しようと足を動かそうとしたとき、二つの穴と目が合った。
 赤ん坊が、こちらに手を伸ばしてけらけらと笑う。九十九は動くことが出来ない。足に釘でも打たれたかのように一歩も動かせない。金縛りにでも掛かってしまったようだ。あの穴を見てはいけない。頭では解っている。しかし、目を逸らせない。首が曲がらないのだ。だめだ。このまま見続けたらどこまでも、底無しの、深い、闇に……。
 視界が段々と暗くなって、完全に闇に覆われようとしたとき、背後で何かが鳴いた。シャーッ、と短く神経を尖らせた声。マロンだ。
「――はッ!」
 マロンの威嚇の鳴き声を聞いて、視界の暗闇が引いていく。回復した視界の先で、赤ん坊が大口を開けてこちらに向かって来ていた。赤ん坊は二メートルほど先にまで近付いてきている。迫る脅威を、マロンは知らせてくれたのだ。
 九十九は、右手に握っていた鉄の塊、拳銃を赤ん坊に向ける。無意識だった。赤ん坊はズンズンと巨大な頭を振り、口をうごめかせながら距離を詰めてくる。竦む足で後退りながら逃げても、やがて追いつかれてしまうだろう。これで、少しでも赤ん坊の足が止まってくれたら……九十九は、無我夢中で引き金を引いた。
 銃声が鼓膜を激しく揺らした。銃口から弾丸が弾き出される。反動で腕が大きく仰け反った。狙いなど定まるはずがない。しかし、的は巨大だ。弾は、円形の大口へと導かれるように吸い込まれていき、やがて口の奥の闇へと消えた。
「はッ……はぁ……」
 弾を飲み込んで、赤ん坊はその口を閉じた。静止して、呆然と九十九を見つめていた。またしてもその眼窩は九十九を捉えている。その数瞬の間が不気味だった。
 いけるか――拳銃で動きが鈍っている。この隙に逃げ出そうと九十九は背を向けた。
「……ふぇ……うえぇ」
 その声に、九十九は唾を飲み込んで、肩越しに恐る恐る振り向く。
 四つん這いで静止する赤ん坊は、再びその大きな口を広げて、絶叫した。

 その赤ん坊の泣き声は、ごく普通の赤ん坊の泣き声と変わらないものだった。構ってもらいたい、空腹を満たしたい、そばにいて欲しい、ここにきて。そんな思いを込めて、ただ泣き叫ぶ。そして、親は子供の元に駆けつける。どんなことがあろうとも。
 マロンの鳴き声のように痛みを伴う声ではない。本当に、ただ泣いているだけのようだ。人間の赤子とはほど遠いその姿と、人間の赤子と変わらない泣き声。その強烈な違和感が、言いようのない感情を抱かせた。
 だが、立ち止まって泣き出している今なら逃げられる。
「ニャッ!」
 マロンが、九十九を促すように鳴いた。それが合図となって、弾き出されるように走り出した。
 校長室、放送室と駆け抜けていく。階段に差し掛かろうとしたとき、不意に何かとぶつかって、マロンと共に後方へ押し戻されるように倒れ込んだ。
「うあッ!」
 階段側から数体の黒い影が登ってきて、転倒する九十九を通り過ぎていく。
「な、なんだッ」
 九十九は、すぐさま起き上がって背後に目を走らせる。
 そこには、泣きじゃくる赤ん坊を囲むように、黒い物体が取り巻いていた。異様に細長い人型の異形。見覚えがあった。式神だ。赤ん坊の泣き声を聞きつけて、六体の式神が集結したのだ。
「そんな……」
 ここに六体の式神が来たということは、紫乃は……。脳裏に最悪の状況が思い浮かぶ。九十九は、茫然と式神達を前に立ち尽くした。
 赤ん坊を囲む一体、髪の長い女型の式神が赤ん坊を持ち上げて、その腕に抱いた。周囲にいる禿頭の式神は、おろおろと母子を見つめている。女型の式神は、赤ん坊に顔を近付け、上下に揺すってあやしているようだが、赤ん坊は泣き止まない。赤ん坊は泣きながら、その小さな手を上げた。人差し指を突き出して、指し示す。その先には、九十九がいた。
「――!?」
 式神達が一斉に九十九を見た。地響きのような呻き声が上がり、式神の身体が激しく揺れだした。そして、式神に異変が起こる。
 女型の式神が、赤ん坊を自身の顔の前に掲げた。すると、六体の式神が一体、また一体と女型に同化し始めた。どす黒い肉が融解して繋がっていく。瞬く間にそれらは混ざりあって、七体は一つになった。六体は一つの身体となり、赤ん坊を支える。そうして、巨大な赤ん坊が出来上がった。
「あ……あぁ……」
 一体、何が起きている。目の前で起こったことは現実なのか、幻覚なのか。最早、九十九の脳の処理能力を大きく超えていた。こんな化物相手に、一体どうしろというのか。
 廊下の空間を埋め尽くすほど大きな赤ん坊は、九十九を見据えて、底無しの大穴を広げた。

    ◇

 紫乃は、式神に破壊され、消えゆく呪符の檻を唖然とした表情で見つめていた。
 師と交信していた識神しきじんは搔き消え、拘束していた式神には逃げられた。失敗したのだ。自分に出来ることは、もうない。後は、結界を突破して助けにくる師を待つしか……。
 悔しさに拳を握りしめたとき、地面から何やら物音が聞こえた。紫乃は、その音に耳を澄ます。それは、廊下側から聞こえていて、紫乃はその音を辿って廊下に出た。
 何かが這っている。下階で巨大な何かが移動しているような音。地鳴りのように低く、くぐもった音が響いている。足裏から伝わる振動。微かに揺れているようにも感じた。九十九のいる二階で、何かが起きている。紫乃は、脱兎のごとく駈け出した。
 あの式神達は逃げたんじゃない。あの泣き声に呼ばれたのだ。あの使役者が、何らかの術で呼び出したのか。そうだとすれば、九十九は……。
 息を切らしながら階段を駆け下りる。そして、二階廊下へ出てすぐにその姿を見つけた。横たわる九十九の姿を。
「九十九先輩!」
 紫乃は絶叫していた。
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