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一章 誰かを救うために世界を変えたとして
見えているものを完璧に疑って
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交番のすぐそばの道を、少年は手を引かれて歩いていた。手を引くのは真っ黒の女。烏の濡れ羽色の髪を切り揃えた、絵画から抜き出してきたような品のある柔らかな立ち振る舞い。
サキユクは立ち止まった少年にあわせて立ち止まり、小首を傾げた。少年が手を引く先の彼女を見上げる。少年が指差すのは黒猫。
「猫ちゃん、可愛いね」
「そう、可愛いですかーーそれは良かった」
サキユクは優しく微笑む。その表情は子供に深い安心感を与える。息を呑むほどに黒い、黒曜石の瞳だった。
⭐︎
交番に人はいなかった。ツムグは人目を引く銀髪を乱して、眉根を寄せる。データベースによればこの時間に若い男性警官がいるはずなのだ。
「で、何を見つけたんですか」
不意に背後から低い声。声を出しかけてツムグは堪えて、後ろを見る前に、全力で包帯のない方の拳を振り抜いた。殴りかかってはみたものの、シナズの筋肉に阻まれて殴った拳の方が痛い。
断っておくが、ツムグは軍人を名乗っても通るほどに筋肉はあるし、近接戦闘も得意であるーーこの大男が纏っている筋肉がおかしい。
「なんでいる!俺は、お前を、撒いたよなぁ!?」
「撒かれましたが、匂いでわかりました」
「……は」
「あっ、冗談ですよ。嫌ですね」
真顔と棒読みと異様な身体能力で、それが冗談かどうかわかるわけないだろ、とツムグは内心毒付いた。爪の先まで腹立たしい男である。
「1人でユメオウ探しですか、相手はもうすでに何人も殺してるんですよ、ツムグ。ホラー映画なら死んでますよ」
「はっ、脇役と一緒にするとは、とんだ侮辱だな。俺1人で事足りる」
シナズは真顔のままだが、その黒々としたがらんどうの瞳が、また言ってるよとでも言いたげに見えるのは、ツムグの被害妄想だろうか。ツムグが見下ろされることに苛立っているのを承知しているだろう大男は、いけしゃあしゃあと近くによって、見下ろしてくる。
空気の温度が2、3度下がるくらいに、ツムグの眼光が鋭くなった。ため息を吐く。眼鏡を直して、彼は鈍く光る金の瞳で大男を見る。
「ーー現実改変能力者は、少なくとも2人いる可能性が高い。あの路地裏でEXT-Rが一丁持っていかれていた」
一様に拳銃を自分に向けて死んでいた構成員たち。派手な死体と、自意識を改変された構成員によって、注意深く観察しなければ見落としていただろう。
10人分の死体のうち1人だけ、握っている拳銃の現実粒子濃度が高かった。
現実粒子ーー現実改変を科学的に説明するために定義された未知の物質、デッドラインで規定している現実性を測る基準だ。
どう改変されたかを知覚することは不可能だが、改変があったか否かを知るための値。
何の改変も受けていない現実を0として、プラスに振れるほど改変が酷く、マイナスに振れるほど固定化され、改変を受け付けない。
たとえば機械で記録しようと、記録している現実そのものが変わってしまう現実改変には無力だ。現実改変があったかどうかは、それこそ自意識が犬に書き換えられるほどの異常でも起こらない限り知覚しようがない。
それすら、例えばどんなに見た目が犬でなくとも、確かに男が犬であると世界の方を書き換えられてしまえばわかりようもないのだ。
ゆえに、現実粒子濃度によって、デッドラインは現実改変を検知する。これは現実を改変されないように留めおくトトノエの力を、科学的に利用したものである。
瞼を閉じれば呼び出せるデッドラインのデータベースを呼び出して、現実粒子を測定したツムグは気がついたのだ。
一丁だけ拳銃に現実改変がなされている。それがどう改変されたかはわからない。しかし、可能性として考えられるのは、改変された銃と認識される何かを残して、本物のEXT-Rを持ち去ったということだーー何のために?
現実改変能力者に対抗するための銃を持ち去る理由は、当然一つ。そしてデッドラインにいる現実改変能力者などという例外のためというよりは、現実改変能力者はユメオウだけではないと捉える方が自然だ。現実改変能力者同士で敵対しているのかもしれない。
これらの思考の流れを欠片も説明せずに、さあわかるだろと言わんばかりに、ツムグは鼻を鳴らした。
聞いているのだかいないのだか、そもそも何の意図があってついてきたのかすら読ませない素知らぬ顔で、シナズは口を開きーー
「るんたるんた」
棒読みである。
交番内で真顔でスキップしている大男は見なかったことにーーしたかった。天井すれすれどころか、頭がぶつかるので小首を傾げたままである。大男には交番は狭いだろうに、鮨詰めで軽やかなステップ。
頑ななまでの仏頂面に、その場から動きようもないスキップは妙な狂気を感じる。ーー相変わらず、意味がわからない男だった。ただの愉快犯だが。
ツムグが冷たい目で無視する前に、唐突に事態は動く。
不意に声がする。鈴の鳴るような声が。
「ーーこんにちは」
ぞわりと背筋が凍る。振り向けば、真っ黒な女。漆黒を印象付けるのは、肩までの艶のある黒髪というよりもーー底のない闇のような瞳。
「はじめまして。サキユクと言います。どうかされました?」
淑やかな女は柔らかく笑って小首を傾げた。その足元には黒猫が座っている。
気配がしなかったーーというより、急に気配が出現したようだった。まるで、ここに誰もいないと錯覚させられていたかのように。
ツムグはほんの一瞬でそこまで思考を巡らせ、躊躇なくEXT-Rーーデッドラインの支給の長銃だーーを構えて、ノータイムで撃った。合わせて三発の銃声。右、左、正面とーーサキユクと名乗った黒い女には掠りもしない。いや、当てるためには撃っていないのだから、当然だった。
EXT-RーーEXTension of Reality。現実性を拡張するためのデッドラインの銃は、装填する弾丸の種類で全く異なる挙動をする。
高濃度の現実粒子を撃ち抜いた方向へ放出する槍弾、現実粒子を付近に充満させる盾弾、現実粒子を増殖させる覆弾ーー未知の相手に対して、使用方法が異なる複数の弾丸から、瞬時に最も効果的なものを選択し、撃つーーこれを1人で行うのは現実的ではない。
故に、デッドラインの構成員に通常単独行動は許されないーー必ず、異なる役目を持つ構成員が複数で、それぞれの役目を果たすのがセオリーである。
この絶対的なセオリーを無視して、未知の相手に対して瞬時に最も効果的なものを選択し、失敗も許されない1人で撃って、それで事足りているのがツムグである。そもそもEXT-Rを使用せずに徒手空拳で戦うシナズという馬鹿みたいなレアケースもいるが。
この女は何者だ。探していたユメオウか?しかし名乗った名前はサキユクだ、現実改変能力者のような目立つ存在に偽名は意味をなさないーー。
ーー何が狙いだ。ツムグの脳を駆け巡る思考。彼は眼鏡を押さえて、眉間に皺を寄せた。
考えろ、何か相手にとっての利益があるはずだ、考えろ、考えろーー考えなければ、何もかも消されるだけーー。考えながらも彼は手を止めない。
「邪魔だ!」
「あーれー」
シナズの頑強にもほどがある身体は突き飛ばした程度でびくともするわけがないのだが、ぐるぐる回ってつき飛ばされてみせた。重機で突っ込んでも微動だにしないように見える彼のことだーーわざと、である。
狭い交番の入り口に大男がいたために、転がり出てしまえばサキユクとの間に丁度壁があるようだった。相手の視界を遮るには絶好の。
ツムグは走りながら眼鏡の奥で目を瞬く。彼はしゃがんでデータベースを呼び出し、その傍らでホルスターから本を取り出して、万年筆を滑らせる。青いインキが迷いなく文字を紡ぐ。
ーー空間を書き換える。この場所にサキユクが現れたということは、すでにこの場所を信頼する理由はなくなった。何を改変されているかーーどこに何の罠があるかわからない以上、現実濃度を測るより上書きしてしまった方が得策だ。
景色は変わらないーーしかし確かにツムグが書き換えた空間だった。シナズが身を屈めて交番をでるが、サキユクは一歩も動かず微笑む。ツムグは叫ぶ。
「見るな!」
どこまでも暗く、出口のない闇のような瞳がシナズを捉える。
花が咲くーーそして、世界が歪む。シナズはぐらりと巨体を揺らした。思考を奪われるように、真っ黒の瞳の光なさに囚われて、動けないのだ。平衡感覚を変えられて、上下が不安定になっていく。
身体への損害でないのだから、なかったことにはできない。認知が狂うだけなのだから、シナズとはいまいち相性が良くない。それでも耐性が一般人とは違うので、その瞬間消える、なんてことにはならなかった。
ツムグは瞬きを繰り返す。眼鏡の奥で鈍い金色が閃く。デッドラインのデータベースを呼び出しながら、見えている情報だけではない大量の情報を処理しながら、一瞬の迷いもなく、思考し、動き続けていた。
彼は舌打ちして、ホルスターの隣のポケットから薬剤を取り出す。細長い筒のようなそれには現実濃度を高め現実改変を阻害する薬液が入っている。デッドラインの構成員が毎夜寝るたびにカプセル内で身体を漬け込まれている、薬液だ。
彼は薬液を雑にーーしかし鋭く投げた。
シナズを助けるためにーーまさか、そんな殊勝な選択をツムグはしない。シナズに目掛けて放られた薬剤は、綺麗に何もない空中に突き立つ。即座に打ち込まれる注射針が、何かにーー認知の上ではいるはずのない何かに、突き立つ。
そしてーーそこにいたのは、少年だった。
ツムグは口角を上げる。
彼は見えているものを完璧に疑って、ずっとデッドラインのデータベースを呼んで、測定していたーー現実濃度を。見つけた現実の歪みこそ、敵の隠しておきたい弱みと目星をつけて。
人間が見えている現実を捨てることは難しいーー錯覚なんてままある生き物にとって、それが確かに現実ならば尚更。しかし彼は、今実際に見えているものを全く信じず、正解を手繰り寄せてみせた。
小さな少年は視線を彷徨わせて、そして頼りない身体で勇気を振り絞るようにして、ーーサキユクの前に両手を広げ、大人の男2人を睨みつけた。
「お姉さんをいじめないで!僕を助けてくれたんだ!」
見下ろすシナズはぴくりとも表情筋は動かず、ツムグは嘲るように嫌な目をするだけ。あまりの反応に泣きそうな顔で、少年は拳を握る。どう考えても、正義は少年の方に存在しそうに見えた。
サキユクは立ち止まった少年にあわせて立ち止まり、小首を傾げた。少年が手を引く先の彼女を見上げる。少年が指差すのは黒猫。
「猫ちゃん、可愛いね」
「そう、可愛いですかーーそれは良かった」
サキユクは優しく微笑む。その表情は子供に深い安心感を与える。息を呑むほどに黒い、黒曜石の瞳だった。
⭐︎
交番に人はいなかった。ツムグは人目を引く銀髪を乱して、眉根を寄せる。データベースによればこの時間に若い男性警官がいるはずなのだ。
「で、何を見つけたんですか」
不意に背後から低い声。声を出しかけてツムグは堪えて、後ろを見る前に、全力で包帯のない方の拳を振り抜いた。殴りかかってはみたものの、シナズの筋肉に阻まれて殴った拳の方が痛い。
断っておくが、ツムグは軍人を名乗っても通るほどに筋肉はあるし、近接戦闘も得意であるーーこの大男が纏っている筋肉がおかしい。
「なんでいる!俺は、お前を、撒いたよなぁ!?」
「撒かれましたが、匂いでわかりました」
「……は」
「あっ、冗談ですよ。嫌ですね」
真顔と棒読みと異様な身体能力で、それが冗談かどうかわかるわけないだろ、とツムグは内心毒付いた。爪の先まで腹立たしい男である。
「1人でユメオウ探しですか、相手はもうすでに何人も殺してるんですよ、ツムグ。ホラー映画なら死んでますよ」
「はっ、脇役と一緒にするとは、とんだ侮辱だな。俺1人で事足りる」
シナズは真顔のままだが、その黒々としたがらんどうの瞳が、また言ってるよとでも言いたげに見えるのは、ツムグの被害妄想だろうか。ツムグが見下ろされることに苛立っているのを承知しているだろう大男は、いけしゃあしゃあと近くによって、見下ろしてくる。
空気の温度が2、3度下がるくらいに、ツムグの眼光が鋭くなった。ため息を吐く。眼鏡を直して、彼は鈍く光る金の瞳で大男を見る。
「ーー現実改変能力者は、少なくとも2人いる可能性が高い。あの路地裏でEXT-Rが一丁持っていかれていた」
一様に拳銃を自分に向けて死んでいた構成員たち。派手な死体と、自意識を改変された構成員によって、注意深く観察しなければ見落としていただろう。
10人分の死体のうち1人だけ、握っている拳銃の現実粒子濃度が高かった。
現実粒子ーー現実改変を科学的に説明するために定義された未知の物質、デッドラインで規定している現実性を測る基準だ。
どう改変されたかを知覚することは不可能だが、改変があったか否かを知るための値。
何の改変も受けていない現実を0として、プラスに振れるほど改変が酷く、マイナスに振れるほど固定化され、改変を受け付けない。
たとえば機械で記録しようと、記録している現実そのものが変わってしまう現実改変には無力だ。現実改変があったかどうかは、それこそ自意識が犬に書き換えられるほどの異常でも起こらない限り知覚しようがない。
それすら、例えばどんなに見た目が犬でなくとも、確かに男が犬であると世界の方を書き換えられてしまえばわかりようもないのだ。
ゆえに、現実粒子濃度によって、デッドラインは現実改変を検知する。これは現実を改変されないように留めおくトトノエの力を、科学的に利用したものである。
瞼を閉じれば呼び出せるデッドラインのデータベースを呼び出して、現実粒子を測定したツムグは気がついたのだ。
一丁だけ拳銃に現実改変がなされている。それがどう改変されたかはわからない。しかし、可能性として考えられるのは、改変された銃と認識される何かを残して、本物のEXT-Rを持ち去ったということだーー何のために?
現実改変能力者に対抗するための銃を持ち去る理由は、当然一つ。そしてデッドラインにいる現実改変能力者などという例外のためというよりは、現実改変能力者はユメオウだけではないと捉える方が自然だ。現実改変能力者同士で敵対しているのかもしれない。
これらの思考の流れを欠片も説明せずに、さあわかるだろと言わんばかりに、ツムグは鼻を鳴らした。
聞いているのだかいないのだか、そもそも何の意図があってついてきたのかすら読ませない素知らぬ顔で、シナズは口を開きーー
「るんたるんた」
棒読みである。
交番内で真顔でスキップしている大男は見なかったことにーーしたかった。天井すれすれどころか、頭がぶつかるので小首を傾げたままである。大男には交番は狭いだろうに、鮨詰めで軽やかなステップ。
頑ななまでの仏頂面に、その場から動きようもないスキップは妙な狂気を感じる。ーー相変わらず、意味がわからない男だった。ただの愉快犯だが。
ツムグが冷たい目で無視する前に、唐突に事態は動く。
不意に声がする。鈴の鳴るような声が。
「ーーこんにちは」
ぞわりと背筋が凍る。振り向けば、真っ黒な女。漆黒を印象付けるのは、肩までの艶のある黒髪というよりもーー底のない闇のような瞳。
「はじめまして。サキユクと言います。どうかされました?」
淑やかな女は柔らかく笑って小首を傾げた。その足元には黒猫が座っている。
気配がしなかったーーというより、急に気配が出現したようだった。まるで、ここに誰もいないと錯覚させられていたかのように。
ツムグはほんの一瞬でそこまで思考を巡らせ、躊躇なくEXT-Rーーデッドラインの支給の長銃だーーを構えて、ノータイムで撃った。合わせて三発の銃声。右、左、正面とーーサキユクと名乗った黒い女には掠りもしない。いや、当てるためには撃っていないのだから、当然だった。
EXT-RーーEXTension of Reality。現実性を拡張するためのデッドラインの銃は、装填する弾丸の種類で全く異なる挙動をする。
高濃度の現実粒子を撃ち抜いた方向へ放出する槍弾、現実粒子を付近に充満させる盾弾、現実粒子を増殖させる覆弾ーー未知の相手に対して、使用方法が異なる複数の弾丸から、瞬時に最も効果的なものを選択し、撃つーーこれを1人で行うのは現実的ではない。
故に、デッドラインの構成員に通常単独行動は許されないーー必ず、異なる役目を持つ構成員が複数で、それぞれの役目を果たすのがセオリーである。
この絶対的なセオリーを無視して、未知の相手に対して瞬時に最も効果的なものを選択し、失敗も許されない1人で撃って、それで事足りているのがツムグである。そもそもEXT-Rを使用せずに徒手空拳で戦うシナズという馬鹿みたいなレアケースもいるが。
この女は何者だ。探していたユメオウか?しかし名乗った名前はサキユクだ、現実改変能力者のような目立つ存在に偽名は意味をなさないーー。
ーー何が狙いだ。ツムグの脳を駆け巡る思考。彼は眼鏡を押さえて、眉間に皺を寄せた。
考えろ、何か相手にとっての利益があるはずだ、考えろ、考えろーー考えなければ、何もかも消されるだけーー。考えながらも彼は手を止めない。
「邪魔だ!」
「あーれー」
シナズの頑強にもほどがある身体は突き飛ばした程度でびくともするわけがないのだが、ぐるぐる回ってつき飛ばされてみせた。重機で突っ込んでも微動だにしないように見える彼のことだーーわざと、である。
狭い交番の入り口に大男がいたために、転がり出てしまえばサキユクとの間に丁度壁があるようだった。相手の視界を遮るには絶好の。
ツムグは走りながら眼鏡の奥で目を瞬く。彼はしゃがんでデータベースを呼び出し、その傍らでホルスターから本を取り出して、万年筆を滑らせる。青いインキが迷いなく文字を紡ぐ。
ーー空間を書き換える。この場所にサキユクが現れたということは、すでにこの場所を信頼する理由はなくなった。何を改変されているかーーどこに何の罠があるかわからない以上、現実濃度を測るより上書きしてしまった方が得策だ。
景色は変わらないーーしかし確かにツムグが書き換えた空間だった。シナズが身を屈めて交番をでるが、サキユクは一歩も動かず微笑む。ツムグは叫ぶ。
「見るな!」
どこまでも暗く、出口のない闇のような瞳がシナズを捉える。
花が咲くーーそして、世界が歪む。シナズはぐらりと巨体を揺らした。思考を奪われるように、真っ黒の瞳の光なさに囚われて、動けないのだ。平衡感覚を変えられて、上下が不安定になっていく。
身体への損害でないのだから、なかったことにはできない。認知が狂うだけなのだから、シナズとはいまいち相性が良くない。それでも耐性が一般人とは違うので、その瞬間消える、なんてことにはならなかった。
ツムグは瞬きを繰り返す。眼鏡の奥で鈍い金色が閃く。デッドラインのデータベースを呼び出しながら、見えている情報だけではない大量の情報を処理しながら、一瞬の迷いもなく、思考し、動き続けていた。
彼は舌打ちして、ホルスターの隣のポケットから薬剤を取り出す。細長い筒のようなそれには現実濃度を高め現実改変を阻害する薬液が入っている。デッドラインの構成員が毎夜寝るたびにカプセル内で身体を漬け込まれている、薬液だ。
彼は薬液を雑にーーしかし鋭く投げた。
シナズを助けるためにーーまさか、そんな殊勝な選択をツムグはしない。シナズに目掛けて放られた薬剤は、綺麗に何もない空中に突き立つ。即座に打ち込まれる注射針が、何かにーー認知の上ではいるはずのない何かに、突き立つ。
そしてーーそこにいたのは、少年だった。
ツムグは口角を上げる。
彼は見えているものを完璧に疑って、ずっとデッドラインのデータベースを呼んで、測定していたーー現実濃度を。見つけた現実の歪みこそ、敵の隠しておきたい弱みと目星をつけて。
人間が見えている現実を捨てることは難しいーー錯覚なんてままある生き物にとって、それが確かに現実ならば尚更。しかし彼は、今実際に見えているものを全く信じず、正解を手繰り寄せてみせた。
小さな少年は視線を彷徨わせて、そして頼りない身体で勇気を振り絞るようにして、ーーサキユクの前に両手を広げ、大人の男2人を睨みつけた。
「お姉さんをいじめないで!僕を助けてくれたんだ!」
見下ろすシナズはぴくりとも表情筋は動かず、ツムグは嘲るように嫌な目をするだけ。あまりの反応に泣きそうな顔で、少年は拳を握る。どう考えても、正義は少年の方に存在しそうに見えた。
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