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二章 理想の自分のために世界を変えたとして

あの酷い底から救われたから

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アルがトトノエと出会ったのは戦場だった。というのも、彼がもともと軍人だったからだ。現実改変の影響で国家が軒並み消失したので、遡って思い出してみたとて、彼には自分がどの国のために戦っていたのか定かではない。

ーー自分が果たして、愛国のためにどのくらいの思いで戦っていたかも遠い。瓦礫、硝煙、血溜まり。彼の記憶にある戦地だが、不幸なことにーーただの戦場にはならなかった。不幸でない戦場などないというのは置いておいても、それは例外的な不運だった。

現実改変能力者がいたのだーーたった1人の異物によって、事態は混沌とした。前を走っていた兵士たちの存在が消えていく、後ろにいたものも、隣にいたものも、跡形もなく、声もなく、刹那に消えていく。

嘘のようだった、たちの悪い冗談のような悪夢が訪れた。

ーー恐ろしかった。殺されるのではない、消えていくのだ。パッと消えて、その瞬間から少しずつ記憶が消えていく。死んだ戦友の記憶が時と共に薄れていくのは恐ろしいが、しかし、そこで起こったのはそれより恐ろしい。

人は忘れられた時に真に死ぬとして、存在が消しゴムをかけられたように消えるその惨状は、人をあまりに容易く幾度も殺すようなものだった。

まるではじめからなかったかのように、僅かな輪郭すら記憶から消えていくーーあまりに恐ろしかった。記憶が砂になって溢れ落ちていくのを、まさまざと感じさせられている。

秒読みされているーーまた一人、友人を、知人を記憶から存在ごと消されてしまう、と。また一人、また一人、数すら忘れさせられて。

取り返しがつかない、自分の力では、何一つ手出しできないまま、大切なものがこの手をすり抜けていき、すり抜けたことすら薄れていく。みるみるうちに、全てが台無しになっていくのだ。

アルは悲鳴をあげた。それを堪える術がなかった。感じたことのない感覚に体が震える。胸をくり抜かれてさらさら記憶の砂が落ちていく冷たさに、体が耐えきれない。

人一人を揺るがすには十分すぎる、精神を切り崩されていく痛み。記憶が、存在がまるごと失われ、心の傷ごと消えていく。何も残らないことが反吐が出るほど気色が悪く、身悶えするほどに忘れていく自分が許せなかった。

誰もが手で触れられたくない根っこの思い出などお構いなしに。抵抗を望むことすら、無意味と嘲笑うように、存在が容易く消えていく。

死への恐怖ほどに具体的に思い描くことのできない、得体の知れない影のような不安がにじり寄って、気づけば足の先にいる気がした。立ち竦んだーー冷や汗が落ちる。アルだけではない、戦地の人間が揃って動揺した。

死を恐れぬ者でもその異常に動けなくなった。死んでなお忘れないと、そうして背負って歩んだ者が軒並み。何より重たく捨てるわけにいかない、命に近しい荷を、乱雑に捨てられていく。理不尽に、忘却させられていく。今、地を踏み締める意味だったものを。

ーーなにより恐ろしいのは、この喪失の恐怖さえ、あと数分もすればなくなって、取り落としたことすら忘れるように感じられることだった。

自分が自分で在る理由が1秒ごとに、粗く削られていく。ごりごりと大切な忘れたくないものが削れ、自分が変質していくようで、息が苦しい。

足が震える。冷や汗が止まらない。アルにとっては死よりも明確な絶望だった。彼の性質が頑なに背負って歩かせる全てを奪っていくのだから。同輩を失ってきた痛みを、忘れたくない、忘れてはならない、一瞬たりと、それなのに。

想いは、決意は、覚悟は、死別は、人間は。ーーそんなものくだらないと否定され、踏み躙られるように、存在は泡のように儚く消えていく。神様がほんの一瞬気まぐれで息を吹きかけて飛ばされる理不尽に、憤る気力も湧かない。体は泥のように重い。

淀んだ空が嘲笑っているようだ。風が甲高く鳴く。震えが止まらない。ここではない場所に逃れたい、だが逃れられる気がしない。喪失が影のように、忘却が呪いのように足に染み付いている。

足を動かすことができない。息をするのさえ躊躇われる。ただ僅かに身じろぎすることさえ、取り落とされていく存在の微かな残滓が消えていくのを早めてしまいそうだ。

アルは足の震えを殺すのに苦心する。何をすればこの喪失を殺せるのかもわからずにいた。周囲の瓦礫が消える、近くの風景がまっさらになる、そしてーー唐突に、喪失は停止した。

ーー恐怖から突然救われた。

遠く、瓦礫のそばに人影が見えた。白が目を引いてーーしかし真白ではなく、黒がまだらに混じったような色彩。

アルはただ息を忘れて、足を繋いでいた恐怖すらとり落として、ふらふらと光に惹かれる虫のように、そちらへ歩いていた。

一歩、足を近づけるたびに、何かが「確か」になっていく。不可視の足場が生まれるように、先程まで身を苛んでいたわけもわからない恐怖は縮んでいく。砂のように溢れていきそうだった記憶は確かに手の中に在る。

死によって分けられた同胞の記憶、あるいは束の間のやすらぎ、温かな語らい。身に刻まれていたはずの時、それら全てが確かに在る。不思議に身に迫るほど確かに感じていた。

アルはゆっくり近づいた。未知への恐れからではなく、踏みしめて確かめるように。決して混ざることない白と黒の色彩を、振り乱して人影は一心に杭を打っている。

蝶が飛ぶ。空から溶け出すように生まれた青い羽。ひらひらと青い蝶が集まり、集まるどころか埋め尽くして波となるように、その人影の周りに纏わりついている。杭を打つために手を振り下ろすたびに、蝶が羽で青い波を打った。

びっしりと埋め尽くすような蝶に視界を取られて見えなかった、杭を打つ手元が見えたーーまごうことなき人間だった。小さい人型を一心不乱に滅多刺ししている。非情に殺している。

美しい人だった。特異な対比の色彩は目を引き、その輪郭は光を放つかのようで。性別など些末に思えるほどに整った造形をしている。アルにはそれを美しいという言葉で形容する以外の言葉を知らない。完成されていて、この世のものでないような、背筋が冷える造形だった。

手元の惨い亡骸が強い美醜のコントラストとなる。ーー計算し尽くされた絵画かのようで。惨劇すら飼い慣らして、芸術に昇華してしまったかのようだった。

現実改変能力者に杭を突き刺して、馬乗りになって打ち込んで、美しい人は立ち上がり振り向いた。圧倒的な存在感ーー見ただけで平伏したくなる、息さえ躊躇う雰囲気。眩しくて直視できないような瞳。

あの時の存在感はトトノエからなくなって見る影もない。失ったからーー現実を守るために存在をすり減らした結果だ。

アルは言葉も紡げず瓦礫の山の上に立ったトトノエを見ていた。信心深いか否かには関わらず、思わず膝をつきたくなるようなーー人智を超えた何かが降臨した、としか表現できないほどの強烈な気配だった。まにせ直視できないほどに眩い。

その場に辛うじて消えずに残った者には、それこそ神のように見えた。得体の知れない理不尽な喪失から救済してくれるような。トトノエの光を帯びるような姿がそれを信じさせてならなかった。

アルはその時トトノエに声をかけられなかった。言葉を投げかけて良いような同じ地平にある存在には到底見えなかった。

彼が後から知った話だが、戦地にいた現実改変能力者は、ただ逃げられずに巻き込まれたのだという。そしてその子は切に願って、縋って、現実を変えた。

戦争がなくなれと願った子供によって、軍隊は壊滅した。現実改変が敵味方関係なく消滅させる。ーーまさに、戦争は綺麗さっぱりなくなったーーはずだった。

世界平和を願ったようなものだった、人が次々消滅する幾分グロテスクな過程を経て、はじめからなかったことになるという漆喰で完璧に塗り固めて。最終的には綺麗に戦争などなかったことになっただろうーートトノエがいなければ。

それに対して実際戦っていた人間としてアルに思うところがないわけではない。やるせない話だと思う。何のために戦ってきたのかと当時の彼なら嘆きたくもなったかもしれない。

命を失い、身体が欠けた同胞があまりに報われない。そして何より苦しかろうと戦地を駆けた自分が報われない。

複雑なアルとは裏腹に、古株のアルよりかなり年上の構成員は、顎髭をなでて、感傷的になっていたものだった。その男は現実改変能力者に同情的だったのでーー誰だって幸福を願って良いし、幸福を掴めるとしたら掴んで何が悪いんだ、と。

トトノエが杭を打って留めたことによって、戦争は生かされた、ともいえる。トトノエの行いは単純な善とは言えない。

ーー今のアルからすれば現実改変能力者は、トトノエが許さないもので、それ以上でも以下でもない。

アルにとっては現実改変能力者に同情するしないなどは些細な話で、正しいか否かも二の次で良くてーートトノエが全てだ。

ーーそう、救われたから。あの酷い底から救われたから。

鮮烈に刻まれた印象が焼きつくように残っている。そして、彼は義理堅い男だった。あらゆる全てを捨てられるほどに義理堅くーーそんな男なら、死に勝る恐怖から、無力な喪失感から、救われたことを捨ておけなかった。

しばらく呆然としていた彼は瓦礫の山のそばで我に返った。そしてトトノエを追いかけた。

彼は命をそのために使うと決めた。もはや現実を繋ぎ止められたのだから、あの時の恐怖はどこにも存在しない。彼はあの身に迫った感覚を思い出すことすらできない。

ーーただとても怖かった、死よりも恐ろしかった、アルの手元に残ったのはそれだけだ。

それなのにーーアルはトトノエの手を取った。天使であれ、悪魔であれ、あの恐怖を殺した恩を、恐怖の仔細を忘れてさえ彼は忘れなかった。

いったい全体どのような絶望感だったか曖昧になっているというのに、トトノエは決してそれを誇りはしないのに、救われたと彼は信じた。トトノエの意図やあの場の惨状などには目を向ける必要などなく。自分が救われたと感じたーーそれだけで全てを捧げる意味があった。

喉が張り付き、緊張で喉が渇く。それでも彼はまっすぐにトトノエを見た。覚悟を届けねば意味がないと、その瞳の青空が言う。

「君がもはや失われた恐怖から、救われたことを恩に着るのなら、この世から失われたものを惜しむ僕と気が合うかも知れないね」

トトノエはそう囁いて微笑む、手を伸べる。

「まだ人手不足でね。ーー歓迎するよ、ようこそ、デッドラインへ」

アルは手を取った。その日から彼はトトノエのために息をしている。


⭐︎


アルは手を伸ばそうとして、我に返った。

意識を失っていたようだ。どれくらい経ったのだろうか。ほんの刹那意識を飛ばしていたのかもしれないし、長いこと気を失っていたのかもしれない。

目の前には相変わらず、黒い兎耳のあまりに暴力的なバニーが立っている。

不意に、変な音がした、何か金属がへしゃげたような重みと硬さのある音。アルはそちらへ首を動かすこともなく、目だけで追おうとしたーーが、その必要はなかった。

ドアが吹き飛んだ。中に向けて吹っ飛んだ金属製の重いドアは、そのまま倒れた。響き渡る轟音、風圧。アルは目を細める。

ドアをぶち開けたのは表情筋が死滅した顔の大男。

「ーーおじゃまします、失礼しましーー」

シナズは停止する。おそらく豪快にドアをぶっ壊してそのまま白々しく退散するはずだった彼は、ぴたりと動きを止めた。

奇行への情熱より驚きが勝ったのだーーもっとも例の如く真顔に感情は読めないが。イノチガケに顔を向け、シナズは口を開いた。

「貴女は……お久しぶりですね」
「誰かしら?興味のない人間の顔は覚えないのよねえ」

イノチガケは言い放って、首元の輝く金の髪をはらい、赤い目を興味なさげに向ける。

「がーん」

感情の欠片も乗らない効果音を口で吐いて、シナズはわざとらしく胸を押さえた。イノチガケは退屈のあまり眠そうな目で、肩を竦めたーーで?とでも言いたげな。

「貴女がすっかり私を忘れていることは、普通に大変ショックなんですが。あんまりだ。忘れられるようなインパクトしか与えられていないなんて」
「わざわざ過去を見て探してやるのも面倒だからしないけれど、どうせ、つまらないから捨てた子でしょう?」

しっしと手を振ることで、強調された豊満な胸が揺れる。

「貴方いかにも、つまらなそうだものーー執着がなくて、必死になれなくて、諦めていそうで」

ーー諦めていそうと同じタイミングでシナズは瞬きする。イノチガケはもう話は終わりとばかりに長い足を動かしてーー気づいた。

血だらけだった男がいないーー死んでいないのが奇跡のようだったのに、明確に意志が死んでいないのが証明されている。この期に及んで生を諦めていなかったどころか、冷静に好機を窺っていたのか。

真っ赤な瞳が細められた。

「ーー逃げられちゃったじゃない、愚昧が邪魔したから。本当に気力だけで生きられそうな良い執念だったのに」

イノチガケは大男の尻をヒールで蹴飛ばした。棒読みの悲鳴があがる。




アルは深く傷ついた腹を押さえ、ふらつく。一瞬駆け出した瞬発力はそう持続しない。血を失いすぎているし、臓物が溢れかねない満身創痍だった。

だがーー運が良かった、というよりは彼の手を打った通りに、構成員たちがもう事態に気づいてそこにいた。アルの有様に目を見開いて駆け寄って支えるのを、まるで他人事のように彼は遠くに感じている。

音という音が厚い膜の向こうにぼやけて聞こえた。傷の痛みは焼きつくされて麻痺したようだ。血を送る心臓の音が激しく強く耳に響き渡り、それしか聞こえなくなる。

これで役目を果たしたと思っても良かった、しかし、これで終わりにするには、彼にはまだ足りない。自分がいてもいなくても、トトノエのあり方は変わらないだろうがーー自分はまだ、トトノエがいつか幸福を得ることを諦めてはいない。

手を固く握る。ーーコインは確かに手の中に在る。彼はひび割れた声で、支えた構成員に言う。

「ーートトノエ様は」

もう来ていると、おそらくそんな言葉だったが、言葉をはっきり聞き取るには、アルの血は失われすぎている。一つ確かなのは、トトノエの所在を聞いて、彼の身体からふっと力が抜けた、というだけ。

ーーそうか、と。言葉は上手く声になることなく、彼はそのまま意識を失った。

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