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二章 理想の自分のために世界を変えたとして
困ったことに泣けませんね
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さてーー時間はやや遡り、ちょうどサキユクの一件が有耶無耶に終わったあたりのことだ。
キッチンでパスタを茹でていたツムグは、不意に首根っこを引っ掴まれて、締まりかけた首に呻いた。シナズを力一杯叩いて、彼は逃れる。
「……な、ん、の用だ、大した用じゃなかったら殺す、大した用でも殺す、言ってみろ」
ぎらりと睨みつけた眼鏡の奥の瞳にたじろぎもせず、シナズは彼を見下ろしながらいつもの真顔で言う。
「出かけます」
「だからなんだって?」
イライラとツムグは眼鏡を直した。ふと大男の手に、ちんまりとーー小さく見えるのは彼が大きいだけだがーー箱がある。寿司折だ。
「スシ?何だ、偉い人間に胡麻を擦りにでも行くのか?」
「いいえーー里帰りです」
「お前に里ってものが存在したんだな……」
冷めた目で吐き捨てたツムグは、大袈裟にため息をついて続けた。
「いちいち俺に言うな、ママじゃないんだぞ、わかるか?」
「ちゃんと明日には帰ってくるので安心してください」
「帰ってくるな」
心底迷惑そうな苦々しい顔をして彼はしっしっと手を振った。
ーーそんなことがあって数時間後、シナズは実家に来ている。生家。ただし、彼は随分と幼い頃にその場所を離れているため、こうしてごく普通のありふれた家が立ち並ぶ通りの中にある、これまたありふれた家に懐かしさはない。
住宅地の昼下がり。平和な陽気だ。通り過ぎたシナズの巨体に、公園の子どもたちが目を丸くしていた。彼は真顔のまま、両手を目一杯振ってみせたーー目立つ不審者である。
公園から聞こえる声も、温かみのある家の壁の色も、屋根の角度も、何もかもーー彼には馴染みがない。
彼は生家を離れたーー幼い子供が離れるなんて自発的にやるには無理があるのでーーどちらかといえば手放されたというのが正解だが。
シナズは実家にあたる家のインターホンを鳴らす。ーー応答なし。気にせず押した、応答はなく、気にも留めずに押し続けた。もはや押すのが目的かのように執拗に。近所迷惑も、不審者でしかないのも、わかっているのかいないのか、彼は真顔で連打する。
シナズは自分がこの普通の街並みに馴染みようがない異質であることを、何より強く自覚している。
きっかけは彼が死んでしまったせいだ。そして、同時に死ななかったせいだった。
死んだのに、死ななかったせいで、その異常のせいで、すっかり親の方がおかしくなってしまった。見てしまったからだ。自分の子供がそれはもう無惨な亡骸になり、そこからまるでゾンビのようにぬるりと起き上がり、けろっとした顔をするのを。
親に真に愛があればその異常を許せたのかはもはや考えても仕方のないことだが、一つ確かなのは死ななかった奇跡は現実的には悪夢みたいな話だろう。九死に一生を得たのではなくて、十死で一生は得なかったのに、生きているなんて。
はじめは厭って。次に憎んで。悪夢に悩まされ。何故自分たちの子供がこんなよくわからない化け物なのだと、まるで親の自分たちが悪かったようではないかと、自分たちも化け物だと思われるのではないかとーーついに殺意を向けたとて。
何度でも無感動に起き上がってくる化け物に、精神の方が先に殺されてしまったのだった。
少なくとも彼の親は、幾度死のうが、どれだけぐちゃぐちゃになろうが死なないシナズが怖くて怖くて、脳の神経が焼き切れてしまった。
そしてーー今も。シナズのしつこいインターホンの連打にドアを開けた男は顔面蒼白になった。
彼は正真正銘、シナズの父親だ。冷や汗で顔中濡らして、血の気のない顔でがたがた震えて何も話せなくなっている。
彼の態度も至極当然の話で、いくら切り刻んでも死なない子供が不気味すぎて手放したら、その手放した息子が掌で首の骨をへし折れそうな感じに馬鹿でかくなって帰ってきたらーー怖いだろう。シンプルに命の危機を感じる。
復讐されるに足る理由は持っていて、かつ復讐されることが容易に想定されるほど、目の前の息子がーー血の繋がってしまっている忌々しい化け物が、「おかしい」ことを知っているのだから。
今にも発作で死にそうになりながら、恐怖に四方から押し潰されてひしゃげたような悲鳴を上げながら、父親はぴしゃりとドアを閉めた。到底、子供を見た親の反応ではなく、殺人鬼でも見たような反応だった。
シナズは彼を瞬きで見送って、ふむと真顔で寿司折を高く掲げる。ーーさて、手土産をどうしたものか。せっかく持ってきたのに。
なお、恐怖で死にそうになっていた親は当然認知しているが、気にした風もない。また鳴らせば良いのだけど、もう少し間をおいた方が良いかなーーなにが良いのかとツッコむ人間がいない。
彼はその場に足を投げ出して座り、地面に蟻を見つける。そして頑固に動かない表情筋のまま、地面にうつ伏せになって、足をパタパタやりだした。寿司折は器用に頭の上である。指先で蟻をつつくようでつつかないあたりでぐるぐる円を書いていた。
その背にかかる掠れた声。
「ーーいよお」
隣家から白髪混じりのグレーの髪の中年男がひらりと手を振る。部屋のドアを開け放しーーというより、玄関に雑に押し込まれたロッキングチェアに座ったまま、ドアを足で開けている。
「良い天気だな、ご機嫌いかが?」
にたりと笑って男は顎髭を撫でた。だらりと下ろした手には酒瓶が握られていて、北方の生まれらしい白い肌は赤みを帯びている。
「ご機嫌は最高ですよ、ミスタ」
頭に寿司折を乗せて無表情のまま言うシナズに、男はそりゃ結構と笑った。だらしない中年男といった風体で、恰幅が良く、顎髭がある顔立ちは厳しいが瞳が人懐っこい。
「ミスタはやめろ、くすぐったくて吐きそうだ」
男は顎髭を撫でて、ひらひらと手を振った。
「元気そうだな、でかいの。ほら、それよこしな。手土産にな、俺が美味しくいただいてやるから心配するな、つまみが欲しかったんだ」
「はいどうぞ、素敵なおじさん」
「ジジイでいいっての」
風を巻き上げる速度で近くに寄ったシナズに目を瞬いて、彼はひらひらと手を振った。
シナズの父親の家の隣の家の男ーーこの男はシナズと別段古い付き合いであるわけではない。なんせ互いに名前を知らない。ーーシナズはいつもの調子で、かつ、会うたびに男がしこたま酔っているからだが。
「せっかくの陽気だ、外で昼寝でもしようと思って、椅子を庭へ蹴り出そうとしてたとこなんだがな。どういうことだ、買った時は入ったのに出せないって」
男は顎髭を引っ張りながら、ぶつぶつ言っている。ロッキングチェアに手をかけてガタガタやっている彼の後ろから、シナズが蹴りをいれた。大した勢いをつけるでもなく、足を出しただけのようでーーしかし、木製の椅子は弾け飛ぶ。
中年男は手の中から消えた椅子に目をぱしぱし瞬いて、それから手を叩いて豪快に笑った。
「ぶっ壊す奴があるか?ーー片付けがいらなくなったぜ、ありがとさん」
窮屈そうに身を屈めて廊下をくぐり、我が物顔で部屋に座り出したシナズを見て、彼は何か言いたげに口を開き、閉じて視線を彷徨わせた。それから、気まずそうな顔で再度口を開く。
「ーーテメェは、本当は親父と仲良くやりたいのか、親父をビビらせたいのかどっちなんだ、あ?」
彼からすればシナズはもう少し上手いやり方があるだろうに上手いやり方がわからずにいるようにも見える。ーー化け物と厭われて、でも歩み寄りたい健気さをその無感情な顔に見ていた。気遣わしげな顔に、シナズは首を傾げる。
「あー……どっちでしょうね?わりとどっちでも良いです。面白いですしね」
「ビビらせたがってんじゃねえよ、馬鹿野郎」
ため息をついた。彼がシナズに同情的なのは出会った頃からずっとだーー持ちたくもない特異な力による不幸のように見えるから。しかし、そうして気を遣うたびにこんな調子なので、何ら気にしてもいない杞憂なのか、ただ傷を隠しているのか、どうにもわからない。ーーわからないのは単に男が酔ってふわふわしているせいなのかもしれないが。
酔いでふらつく男を支えるのかと思いきや、真顔の大男は手を取って社交ダンスかのようにくるくる回った。おいおいと声をあげた中年男の声もくるくる回って遠く近くを繰り返す。
シナズはぱっと手を離して、その場で棒立ちになる。よろけて半ば倒れ伏しながら、堪えられずひいひい笑って、白髪混じりの男はどっかと座り込んだ。
「で、最近、どうよ。デッドラインでは上手くやれてんのか?」
「まあぼちぼちですね、死んだり、殺されたり元気にやってますよ」
真顔で言い放ったシナズに、男は眉を上げてなんだそりゃと言う。男は思い出したように続けた。
「トトノエはまだやってんのか」
「ほう、知り合いなんですね」
シナズは目を瞬く。目の前の男こそが、シナズをデッドラインに引き合わせた男なので、繋がりがあってもおかしくはない。ないがーーかといって、目の前の男からトトノエを崇拝するような言葉を聞いた覚えがない。
「あの白いのとは上手くやれなかったんだよな」
「白いの……?白黒ではなく?」
首を傾げたシナズの様子にあまりピンときた風もなく、彼は笑って軽口を続けた。
「黒いって、腹ん中がか?あいつは腹が黒いっていうより血が青いんだろうよ」
酒瓶を手で弄んで、男は頭を掻いた。
「びっくりするくらい合わなくてな。喧嘩になっちまうーーまあ、一方的に俺がキャンキャン言うだけだが」
死んでも死なないシナズが世間と合わないことを見て、わざわざデッドラインを勧めたようなオヤジである。
彼は普通の人間らしいがーーデッドラインが設立した代の構成員でしかも生存している男を普通の人間と呼んで良いかは別としてーー現実改変能力者に同情的な節があった。特異な力を不運で持ってしまっただけで、力を持たねば普通に生きられたはずなのにーーと、眼差しているところがある。
現実改変を断固として許さないトトノエと合わないのは察するに難くない。
「へえ、仲がよかったようで」
「適当な返事にも程があるだろ。…… デッドラインができた時にいたわけだし、会ったのは古いが、仲良かねェからな。仲良いのは俺というよりーー」
不味いものでも口に突っ込まれたような顔をして、何か言いかけたものの、男はぼんやりと静止した。赤ら顔で眠たげである。ふと思い出すように遠くを見た。
「あいつ、コインでよくーーありゃ、コインで何だったかな、んん??そもそも、あいつの話だったか?違うかもしれねェ、誰の話だ、忘れたな、酒と共にバイバイだ」
指先をぱらぱらやって、男は肩を竦めた。
酔っているこの突拍子のなさがシナズと波長が合っているのかもしれないーーツムグが聞いたら毒づきそうな話だが。
「全くいい加減引っ越したいもんだぜ。陰鬱な隣人はあの調子でこっちが毎日おはようさんって言ったところで、ビクビクして死にそうだから張り合いがない」
「安心しました、あれが私にだけだったら泣いてます」
「大嘘つきめ」
棒読みのシナズに律儀に言って、男は鼻を鳴らす。日課で声をかけるくらいには隣人を気にかけているらしい。だらしない見た目のわりに、まめな男だった。
白々しく引っ越したら寂しくなりますねと、この上ないやる気のなさで言ったシナズに、男は肩を竦める。
「日当たりの良い窓からの穏やかな日差しをカーテンで締め切って、ポップコーン食いながらでかい画面で映画でも見て、毎日ホームビデオ撮って送ってやるよ、寂しくねえようにな」
男はにたりと笑って、酒瓶を床に転がした。
「待ってますね、ダディ」
「誰がダディだ、テメェみたいなでけえ息子こさえた覚えはねェな」
シナズの部屋におさまるには窮屈な背中をばしばし叩いて、愉快そうに男は笑った。
引っ越す、引っ越すといいながら、この飲んだくれが引っ越すそぶりはない。隣に住んでいるシナズの父親を気にかけているのだろう。本人は決して口にしないが、そういう気質の男であることを短い付き合いでもシナズは知っている。
現実改変能力者を自分と同じように捉えて心を寄せられる善良な男であるーーそれが果たして正しいかは別として。
ーーそんな、ことが、あった。
デッドライン襲撃がとりあえず終幕したばかり。あの里帰りと呼んで良いのかわからない里帰りを思い出すのについこの間のようなのにーーしかし、その日シナズが尋ねた部屋から男は消えていた。影も形もなく、消えていた。行方不明ではなくそう思ったのは、ビデオが残っていたからだ。
ビデオカメラに残っていた顛末。果たしてそれが何故残っていたのか、見る分にはあのオヤジが適当な冗談の通りに律儀にビデオを撮ってやろうとしていたようだった。思えばあの男は、シナズと出会った頃から境遇に同情的なのだーー酷く、同情的なのだ。
シナズに言った些細な軽口を、軽口のままにはしておけなかったのだろう。それが的外れだとしてーー彼が心寄せて想像するような繊細さはおそらくシナズにないがーー彼のそのよく言えば思いやりに満ちた態度がシナズは嫌いではない。思いやりに満ちた態度ーー悪く言えばどうなるかは、ツムグに言わせれば、見下しただの、侮辱だの、その辺りになりそうだった。
録画されていたなんでもない光景のおふざけの最後に、なぜ男が消えたのかがはっきり映っていた。ビデオカメラは安物らしくあまり音質は良くない。
男が2人向かい合うように立っている。1人は隣家のオヤジで、彼は柱にもたれかかっている。もう1人はシナズもよく知っている顔だった。
アッシュグレーの髪、冷たさを感じる顔の造形に、眼鏡の向こうには金の瞳が光る。ツムグだーーいや、見た目はそのままだが、それがツムグでないとすぐわかるほどに纏う雰囲気が違った。
ーー口を開くそぶりもなく、立っているだけで強固に周りを寄せ付けないほどに静寂を纏っている男だ。シナズもついこの間、デッドラインへの襲撃で覚えがあった。あの時、ツムグがやけに殺意を向けていた同じ顔の男である、と。
UNツムグは口を開かなかったが、文字が何もない空中に出現した。
『ーー知っているはずだ、トトノエと一緒にいた男を』
オヤジは一瞬目を丸くしたものの、すぐに顔を顰めて首を傾げた。彼はデッドラインにいたのだーー現実改変能力だとすぐ理解したのだろう。
「ーーあん?そうだな、そんな男はーーいなかっただろ」
嘘やハッタリには見えない。映像を見ているシナズは眉を寄せた。はたして、一体全体、UNツムグの狙いは何なのだ、と。
UNツムグは口を開かないまま、手を差し出したーーその手には無惨に砕けた青い蝶の亡骸。その青く輝く羽には見覚えがあるーートトノエが現実を命の形にした、それ。
この間の襲撃の時に手に入れたのだろうか。それを捕らえたとて、トトノエのように現実を留められるわけではない。現実のある一定の情報ーー記憶は得られるかもしれないが。
顎髭をなでた中年男には、何か見えたのか、思い出したように囁く。
「ーーあいつらは仲がよかったよ、あんな最悪な地獄みたいな場所で、幸せみたいな顔してた」
その静かな語りを、黙って見ていた冷えた顔の男の周囲に文字が出現する。
『ーーそうだ、その描写が良い。あんたから見た言葉が欲しかった』
まるでそれで用が済んだとでも言いたげなツムグに瓜二つの顔。閉ざしたままの頑なな口元。
ーーそして、それが最後だった。溢れる文字が映像を埋め尽くし、オヤジを飲み込んでーーそのあとには何もなかった。連れ去った、ではあるまい。そういう希望的観測は、現実改変能力者にするだけ無駄である。
そもそも連れ去るのが目的ならば、この隣家で会話させる意味がないだろう。ーー用済みだから消したのだ。その用とやらは、映像を見たシナズにはさっぱり理解ができなかったのは置いておく。
シナズが覚えているのだから、存在を消されたわけではないというだけ、慰めというには微妙な顛末である。ーー用はないと殺すのを、簡単に想定させたのはあの顔のせいだろうかーー散々シナズを殺している男と同じ顔。
死体が残らなかっただけで、殺されたと理解するべきだろう、デッドラインの常識からすれば。
シナズは何でもないはじめのおふざけに戻った映像を、がらんどうの瞳に映す。我が物顔でテレビの前にいるが、あのオヤジの家であって彼の家でもなんでもないのだが、今更である。手にはポップコーン。楽しく映画でも見ているように。
暗い部屋でループ再生されている映像が流れ続けている。彼はポップコーンを貪り食いながら、無表情のまま俯く。
シナズの目には涙はない。いつも通りの飽きるほどの無表情。何ら変わらず、微動だにせずーーそう、困ったことに。
「困ったことに泣けませんね」
ーーシナズは自身をよく知っていた。
追悼の意を示すのならば、ここで泣いておくのが適当なはずなのだが、涙が出ないものは仕方がない。ショックで泣く気力すら失っただとかそういうわけでもないのだけれど。あのオヤジがどうでも良いわけでも当然ないのだけれど。
むしろ、彼にとっては肉親が碌に意味をなしていないので、綺麗な言い方をすれば最も近しい存在だったのかもしれない。一般的な家族という言葉に一番近い存在だった、彼が全く一般的ではないとして。
ーー少なくとも、あの男くらいだった。シナズを心配しようなどという馬鹿げた骨折り損を大真面目にやっているのは。
何度ぐちゃぐちゃになろうと再生するようなおよそ人間といえない大男が、かつて親にどう扱われて、どういう想いで生きていたのかを、見当違いだろうが何だろうが勝手に思いやらずにはいられないような男だった。
あの男の前にいるのは人の首を捻じ切れそうな大男だというのに、まるでその奥に幼い子供を見ようとするように。シナズの幼い頃など彼は知りもしないし、シナズの親がああなったのは一面では致し方ない部分がないでもないのに、だ。
現実改変能力が常軌を逸しているならば、現実改変能力が理解される場所で過ごした方が良かろうと、わざわざデッドラインをすすめたようなお人好し。
あの現実改変能力に対抗する組織で、現実改変能力を持つことは不幸であると、現実改変能力など持たないのに現実改変能力者に心寄せずにはいられなかったような変わり者。
シナズはあの男を気に入っていた。実家に帰るなどという無意味を繰り返す奇行のついでに必ず話すくらいには。ーーそれなのに。
死んで戻った時に感情を落としてきたのか、生まれ持って持ち合わせがなかったのか、シナズにはわからない。
泣ければよかった、憤ることができればよかった。シナズは別段これまで普通なんて望むだけ無駄なものを望んだことはなかったが、少なくともシナズを普通の方にカテゴライズしようとしたあの男のために、普通の反応が出てこないことが悪いような気がした。
ーーまあ、そもそも真っ暗な部屋で、くだんの人物が消失した映像をかけながらポップコーンをもっしゃもっしゃ食べてる男に、普通も何もないのだが。
シナズは哀れんだーーあの優しい男を、だ。ーーああ、可哀想に。彼が心を砕いたのが自分であったばっかりに、泣いて悲しんでも、苦しく惜しんでももらえないなんて。なんて理不尽。しかも、こうもあっけなく、よくわからない理由で消されるなんて。
ーーせめて名前くらい聞いておけば良かっただろうか。悔いるには彼の眉間に皺は寄らないし、能面の様にのっぺりとした表情があるだけだ。
まあ、あの男なら豪快に笑い飛ばしそうではあるが。気にしたポーズをとったとて、彼の顔にあるべき表情は浮かばない。ないものはない。
すっきりした目に涙を滲ませる術もなし、彼は彼なりに、追悼する気持ちはあるのだ、それが伝わるかは別として。ーーあるいは、これはないのとほぼ同義なのかもしれないが。
ポップコーンを親の仇のように口で粉砕しながら、彼は無感動な瞳で流れ続ける最期の映像を観る。
この映像はあのオヤジがなんとか出し抜いて意図的に残した痕跡なのか、はたまた偶然残ったものをあのツムグと瓜二つの現実改変能力者がさして問題はないと捨て置いただけなのかはわからない。
ーーわからない、が。
「まともでない人間がまともの真似事をしても仕方がないことーーあまりまともな理由で動きたかないんですがね」
デッドラインの地下施設に戻ったシナズは廊下を歩くーーツムグの部屋に向かう、廊下を。ずんずんと迷いなく歩む。
そこに確かな目的を持ったように、奇行を繰り返す男は足を前にやっていた。
キッチンでパスタを茹でていたツムグは、不意に首根っこを引っ掴まれて、締まりかけた首に呻いた。シナズを力一杯叩いて、彼は逃れる。
「……な、ん、の用だ、大した用じゃなかったら殺す、大した用でも殺す、言ってみろ」
ぎらりと睨みつけた眼鏡の奥の瞳にたじろぎもせず、シナズは彼を見下ろしながらいつもの真顔で言う。
「出かけます」
「だからなんだって?」
イライラとツムグは眼鏡を直した。ふと大男の手に、ちんまりとーー小さく見えるのは彼が大きいだけだがーー箱がある。寿司折だ。
「スシ?何だ、偉い人間に胡麻を擦りにでも行くのか?」
「いいえーー里帰りです」
「お前に里ってものが存在したんだな……」
冷めた目で吐き捨てたツムグは、大袈裟にため息をついて続けた。
「いちいち俺に言うな、ママじゃないんだぞ、わかるか?」
「ちゃんと明日には帰ってくるので安心してください」
「帰ってくるな」
心底迷惑そうな苦々しい顔をして彼はしっしっと手を振った。
ーーそんなことがあって数時間後、シナズは実家に来ている。生家。ただし、彼は随分と幼い頃にその場所を離れているため、こうしてごく普通のありふれた家が立ち並ぶ通りの中にある、これまたありふれた家に懐かしさはない。
住宅地の昼下がり。平和な陽気だ。通り過ぎたシナズの巨体に、公園の子どもたちが目を丸くしていた。彼は真顔のまま、両手を目一杯振ってみせたーー目立つ不審者である。
公園から聞こえる声も、温かみのある家の壁の色も、屋根の角度も、何もかもーー彼には馴染みがない。
彼は生家を離れたーー幼い子供が離れるなんて自発的にやるには無理があるのでーーどちらかといえば手放されたというのが正解だが。
シナズは実家にあたる家のインターホンを鳴らす。ーー応答なし。気にせず押した、応答はなく、気にも留めずに押し続けた。もはや押すのが目的かのように執拗に。近所迷惑も、不審者でしかないのも、わかっているのかいないのか、彼は真顔で連打する。
シナズは自分がこの普通の街並みに馴染みようがない異質であることを、何より強く自覚している。
きっかけは彼が死んでしまったせいだ。そして、同時に死ななかったせいだった。
死んだのに、死ななかったせいで、その異常のせいで、すっかり親の方がおかしくなってしまった。見てしまったからだ。自分の子供がそれはもう無惨な亡骸になり、そこからまるでゾンビのようにぬるりと起き上がり、けろっとした顔をするのを。
親に真に愛があればその異常を許せたのかはもはや考えても仕方のないことだが、一つ確かなのは死ななかった奇跡は現実的には悪夢みたいな話だろう。九死に一生を得たのではなくて、十死で一生は得なかったのに、生きているなんて。
はじめは厭って。次に憎んで。悪夢に悩まされ。何故自分たちの子供がこんなよくわからない化け物なのだと、まるで親の自分たちが悪かったようではないかと、自分たちも化け物だと思われるのではないかとーーついに殺意を向けたとて。
何度でも無感動に起き上がってくる化け物に、精神の方が先に殺されてしまったのだった。
少なくとも彼の親は、幾度死のうが、どれだけぐちゃぐちゃになろうが死なないシナズが怖くて怖くて、脳の神経が焼き切れてしまった。
そしてーー今も。シナズのしつこいインターホンの連打にドアを開けた男は顔面蒼白になった。
彼は正真正銘、シナズの父親だ。冷や汗で顔中濡らして、血の気のない顔でがたがた震えて何も話せなくなっている。
彼の態度も至極当然の話で、いくら切り刻んでも死なない子供が不気味すぎて手放したら、その手放した息子が掌で首の骨をへし折れそうな感じに馬鹿でかくなって帰ってきたらーー怖いだろう。シンプルに命の危機を感じる。
復讐されるに足る理由は持っていて、かつ復讐されることが容易に想定されるほど、目の前の息子がーー血の繋がってしまっている忌々しい化け物が、「おかしい」ことを知っているのだから。
今にも発作で死にそうになりながら、恐怖に四方から押し潰されてひしゃげたような悲鳴を上げながら、父親はぴしゃりとドアを閉めた。到底、子供を見た親の反応ではなく、殺人鬼でも見たような反応だった。
シナズは彼を瞬きで見送って、ふむと真顔で寿司折を高く掲げる。ーーさて、手土産をどうしたものか。せっかく持ってきたのに。
なお、恐怖で死にそうになっていた親は当然認知しているが、気にした風もない。また鳴らせば良いのだけど、もう少し間をおいた方が良いかなーーなにが良いのかとツッコむ人間がいない。
彼はその場に足を投げ出して座り、地面に蟻を見つける。そして頑固に動かない表情筋のまま、地面にうつ伏せになって、足をパタパタやりだした。寿司折は器用に頭の上である。指先で蟻をつつくようでつつかないあたりでぐるぐる円を書いていた。
その背にかかる掠れた声。
「ーーいよお」
隣家から白髪混じりのグレーの髪の中年男がひらりと手を振る。部屋のドアを開け放しーーというより、玄関に雑に押し込まれたロッキングチェアに座ったまま、ドアを足で開けている。
「良い天気だな、ご機嫌いかが?」
にたりと笑って男は顎髭を撫でた。だらりと下ろした手には酒瓶が握られていて、北方の生まれらしい白い肌は赤みを帯びている。
「ご機嫌は最高ですよ、ミスタ」
頭に寿司折を乗せて無表情のまま言うシナズに、男はそりゃ結構と笑った。だらしない中年男といった風体で、恰幅が良く、顎髭がある顔立ちは厳しいが瞳が人懐っこい。
「ミスタはやめろ、くすぐったくて吐きそうだ」
男は顎髭を撫でて、ひらひらと手を振った。
「元気そうだな、でかいの。ほら、それよこしな。手土産にな、俺が美味しくいただいてやるから心配するな、つまみが欲しかったんだ」
「はいどうぞ、素敵なおじさん」
「ジジイでいいっての」
風を巻き上げる速度で近くに寄ったシナズに目を瞬いて、彼はひらひらと手を振った。
シナズの父親の家の隣の家の男ーーこの男はシナズと別段古い付き合いであるわけではない。なんせ互いに名前を知らない。ーーシナズはいつもの調子で、かつ、会うたびに男がしこたま酔っているからだが。
「せっかくの陽気だ、外で昼寝でもしようと思って、椅子を庭へ蹴り出そうとしてたとこなんだがな。どういうことだ、買った時は入ったのに出せないって」
男は顎髭を引っ張りながら、ぶつぶつ言っている。ロッキングチェアに手をかけてガタガタやっている彼の後ろから、シナズが蹴りをいれた。大した勢いをつけるでもなく、足を出しただけのようでーーしかし、木製の椅子は弾け飛ぶ。
中年男は手の中から消えた椅子に目をぱしぱし瞬いて、それから手を叩いて豪快に笑った。
「ぶっ壊す奴があるか?ーー片付けがいらなくなったぜ、ありがとさん」
窮屈そうに身を屈めて廊下をくぐり、我が物顔で部屋に座り出したシナズを見て、彼は何か言いたげに口を開き、閉じて視線を彷徨わせた。それから、気まずそうな顔で再度口を開く。
「ーーテメェは、本当は親父と仲良くやりたいのか、親父をビビらせたいのかどっちなんだ、あ?」
彼からすればシナズはもう少し上手いやり方があるだろうに上手いやり方がわからずにいるようにも見える。ーー化け物と厭われて、でも歩み寄りたい健気さをその無感情な顔に見ていた。気遣わしげな顔に、シナズは首を傾げる。
「あー……どっちでしょうね?わりとどっちでも良いです。面白いですしね」
「ビビらせたがってんじゃねえよ、馬鹿野郎」
ため息をついた。彼がシナズに同情的なのは出会った頃からずっとだーー持ちたくもない特異な力による不幸のように見えるから。しかし、そうして気を遣うたびにこんな調子なので、何ら気にしてもいない杞憂なのか、ただ傷を隠しているのか、どうにもわからない。ーーわからないのは単に男が酔ってふわふわしているせいなのかもしれないが。
酔いでふらつく男を支えるのかと思いきや、真顔の大男は手を取って社交ダンスかのようにくるくる回った。おいおいと声をあげた中年男の声もくるくる回って遠く近くを繰り返す。
シナズはぱっと手を離して、その場で棒立ちになる。よろけて半ば倒れ伏しながら、堪えられずひいひい笑って、白髪混じりの男はどっかと座り込んだ。
「で、最近、どうよ。デッドラインでは上手くやれてんのか?」
「まあぼちぼちですね、死んだり、殺されたり元気にやってますよ」
真顔で言い放ったシナズに、男は眉を上げてなんだそりゃと言う。男は思い出したように続けた。
「トトノエはまだやってんのか」
「ほう、知り合いなんですね」
シナズは目を瞬く。目の前の男こそが、シナズをデッドラインに引き合わせた男なので、繋がりがあってもおかしくはない。ないがーーかといって、目の前の男からトトノエを崇拝するような言葉を聞いた覚えがない。
「あの白いのとは上手くやれなかったんだよな」
「白いの……?白黒ではなく?」
首を傾げたシナズの様子にあまりピンときた風もなく、彼は笑って軽口を続けた。
「黒いって、腹ん中がか?あいつは腹が黒いっていうより血が青いんだろうよ」
酒瓶を手で弄んで、男は頭を掻いた。
「びっくりするくらい合わなくてな。喧嘩になっちまうーーまあ、一方的に俺がキャンキャン言うだけだが」
死んでも死なないシナズが世間と合わないことを見て、わざわざデッドラインを勧めたようなオヤジである。
彼は普通の人間らしいがーーデッドラインが設立した代の構成員でしかも生存している男を普通の人間と呼んで良いかは別としてーー現実改変能力者に同情的な節があった。特異な力を不運で持ってしまっただけで、力を持たねば普通に生きられたはずなのにーーと、眼差しているところがある。
現実改変を断固として許さないトトノエと合わないのは察するに難くない。
「へえ、仲がよかったようで」
「適当な返事にも程があるだろ。…… デッドラインができた時にいたわけだし、会ったのは古いが、仲良かねェからな。仲良いのは俺というよりーー」
不味いものでも口に突っ込まれたような顔をして、何か言いかけたものの、男はぼんやりと静止した。赤ら顔で眠たげである。ふと思い出すように遠くを見た。
「あいつ、コインでよくーーありゃ、コインで何だったかな、んん??そもそも、あいつの話だったか?違うかもしれねェ、誰の話だ、忘れたな、酒と共にバイバイだ」
指先をぱらぱらやって、男は肩を竦めた。
酔っているこの突拍子のなさがシナズと波長が合っているのかもしれないーーツムグが聞いたら毒づきそうな話だが。
「全くいい加減引っ越したいもんだぜ。陰鬱な隣人はあの調子でこっちが毎日おはようさんって言ったところで、ビクビクして死にそうだから張り合いがない」
「安心しました、あれが私にだけだったら泣いてます」
「大嘘つきめ」
棒読みのシナズに律儀に言って、男は鼻を鳴らす。日課で声をかけるくらいには隣人を気にかけているらしい。だらしない見た目のわりに、まめな男だった。
白々しく引っ越したら寂しくなりますねと、この上ないやる気のなさで言ったシナズに、男は肩を竦める。
「日当たりの良い窓からの穏やかな日差しをカーテンで締め切って、ポップコーン食いながらでかい画面で映画でも見て、毎日ホームビデオ撮って送ってやるよ、寂しくねえようにな」
男はにたりと笑って、酒瓶を床に転がした。
「待ってますね、ダディ」
「誰がダディだ、テメェみたいなでけえ息子こさえた覚えはねェな」
シナズの部屋におさまるには窮屈な背中をばしばし叩いて、愉快そうに男は笑った。
引っ越す、引っ越すといいながら、この飲んだくれが引っ越すそぶりはない。隣に住んでいるシナズの父親を気にかけているのだろう。本人は決して口にしないが、そういう気質の男であることを短い付き合いでもシナズは知っている。
現実改変能力者を自分と同じように捉えて心を寄せられる善良な男であるーーそれが果たして正しいかは別として。
ーーそんな、ことが、あった。
デッドライン襲撃がとりあえず終幕したばかり。あの里帰りと呼んで良いのかわからない里帰りを思い出すのについこの間のようなのにーーしかし、その日シナズが尋ねた部屋から男は消えていた。影も形もなく、消えていた。行方不明ではなくそう思ったのは、ビデオが残っていたからだ。
ビデオカメラに残っていた顛末。果たしてそれが何故残っていたのか、見る分にはあのオヤジが適当な冗談の通りに律儀にビデオを撮ってやろうとしていたようだった。思えばあの男は、シナズと出会った頃から境遇に同情的なのだーー酷く、同情的なのだ。
シナズに言った些細な軽口を、軽口のままにはしておけなかったのだろう。それが的外れだとしてーー彼が心寄せて想像するような繊細さはおそらくシナズにないがーー彼のそのよく言えば思いやりに満ちた態度がシナズは嫌いではない。思いやりに満ちた態度ーー悪く言えばどうなるかは、ツムグに言わせれば、見下しただの、侮辱だの、その辺りになりそうだった。
録画されていたなんでもない光景のおふざけの最後に、なぜ男が消えたのかがはっきり映っていた。ビデオカメラは安物らしくあまり音質は良くない。
男が2人向かい合うように立っている。1人は隣家のオヤジで、彼は柱にもたれかかっている。もう1人はシナズもよく知っている顔だった。
アッシュグレーの髪、冷たさを感じる顔の造形に、眼鏡の向こうには金の瞳が光る。ツムグだーーいや、見た目はそのままだが、それがツムグでないとすぐわかるほどに纏う雰囲気が違った。
ーー口を開くそぶりもなく、立っているだけで強固に周りを寄せ付けないほどに静寂を纏っている男だ。シナズもついこの間、デッドラインへの襲撃で覚えがあった。あの時、ツムグがやけに殺意を向けていた同じ顔の男である、と。
UNツムグは口を開かなかったが、文字が何もない空中に出現した。
『ーー知っているはずだ、トトノエと一緒にいた男を』
オヤジは一瞬目を丸くしたものの、すぐに顔を顰めて首を傾げた。彼はデッドラインにいたのだーー現実改変能力だとすぐ理解したのだろう。
「ーーあん?そうだな、そんな男はーーいなかっただろ」
嘘やハッタリには見えない。映像を見ているシナズは眉を寄せた。はたして、一体全体、UNツムグの狙いは何なのだ、と。
UNツムグは口を開かないまま、手を差し出したーーその手には無惨に砕けた青い蝶の亡骸。その青く輝く羽には見覚えがあるーートトノエが現実を命の形にした、それ。
この間の襲撃の時に手に入れたのだろうか。それを捕らえたとて、トトノエのように現実を留められるわけではない。現実のある一定の情報ーー記憶は得られるかもしれないが。
顎髭をなでた中年男には、何か見えたのか、思い出したように囁く。
「ーーあいつらは仲がよかったよ、あんな最悪な地獄みたいな場所で、幸せみたいな顔してた」
その静かな語りを、黙って見ていた冷えた顔の男の周囲に文字が出現する。
『ーーそうだ、その描写が良い。あんたから見た言葉が欲しかった』
まるでそれで用が済んだとでも言いたげなツムグに瓜二つの顔。閉ざしたままの頑なな口元。
ーーそして、それが最後だった。溢れる文字が映像を埋め尽くし、オヤジを飲み込んでーーそのあとには何もなかった。連れ去った、ではあるまい。そういう希望的観測は、現実改変能力者にするだけ無駄である。
そもそも連れ去るのが目的ならば、この隣家で会話させる意味がないだろう。ーー用済みだから消したのだ。その用とやらは、映像を見たシナズにはさっぱり理解ができなかったのは置いておく。
シナズが覚えているのだから、存在を消されたわけではないというだけ、慰めというには微妙な顛末である。ーー用はないと殺すのを、簡単に想定させたのはあの顔のせいだろうかーー散々シナズを殺している男と同じ顔。
死体が残らなかっただけで、殺されたと理解するべきだろう、デッドラインの常識からすれば。
シナズは何でもないはじめのおふざけに戻った映像を、がらんどうの瞳に映す。我が物顔でテレビの前にいるが、あのオヤジの家であって彼の家でもなんでもないのだが、今更である。手にはポップコーン。楽しく映画でも見ているように。
暗い部屋でループ再生されている映像が流れ続けている。彼はポップコーンを貪り食いながら、無表情のまま俯く。
シナズの目には涙はない。いつも通りの飽きるほどの無表情。何ら変わらず、微動だにせずーーそう、困ったことに。
「困ったことに泣けませんね」
ーーシナズは自身をよく知っていた。
追悼の意を示すのならば、ここで泣いておくのが適当なはずなのだが、涙が出ないものは仕方がない。ショックで泣く気力すら失っただとかそういうわけでもないのだけれど。あのオヤジがどうでも良いわけでも当然ないのだけれど。
むしろ、彼にとっては肉親が碌に意味をなしていないので、綺麗な言い方をすれば最も近しい存在だったのかもしれない。一般的な家族という言葉に一番近い存在だった、彼が全く一般的ではないとして。
ーー少なくとも、あの男くらいだった。シナズを心配しようなどという馬鹿げた骨折り損を大真面目にやっているのは。
何度ぐちゃぐちゃになろうと再生するようなおよそ人間といえない大男が、かつて親にどう扱われて、どういう想いで生きていたのかを、見当違いだろうが何だろうが勝手に思いやらずにはいられないような男だった。
あの男の前にいるのは人の首を捻じ切れそうな大男だというのに、まるでその奥に幼い子供を見ようとするように。シナズの幼い頃など彼は知りもしないし、シナズの親がああなったのは一面では致し方ない部分がないでもないのに、だ。
現実改変能力が常軌を逸しているならば、現実改変能力が理解される場所で過ごした方が良かろうと、わざわざデッドラインをすすめたようなお人好し。
あの現実改変能力に対抗する組織で、現実改変能力を持つことは不幸であると、現実改変能力など持たないのに現実改変能力者に心寄せずにはいられなかったような変わり者。
シナズはあの男を気に入っていた。実家に帰るなどという無意味を繰り返す奇行のついでに必ず話すくらいには。ーーそれなのに。
死んで戻った時に感情を落としてきたのか、生まれ持って持ち合わせがなかったのか、シナズにはわからない。
泣ければよかった、憤ることができればよかった。シナズは別段これまで普通なんて望むだけ無駄なものを望んだことはなかったが、少なくともシナズを普通の方にカテゴライズしようとしたあの男のために、普通の反応が出てこないことが悪いような気がした。
ーーまあ、そもそも真っ暗な部屋で、くだんの人物が消失した映像をかけながらポップコーンをもっしゃもっしゃ食べてる男に、普通も何もないのだが。
シナズは哀れんだーーあの優しい男を、だ。ーーああ、可哀想に。彼が心を砕いたのが自分であったばっかりに、泣いて悲しんでも、苦しく惜しんでももらえないなんて。なんて理不尽。しかも、こうもあっけなく、よくわからない理由で消されるなんて。
ーーせめて名前くらい聞いておけば良かっただろうか。悔いるには彼の眉間に皺は寄らないし、能面の様にのっぺりとした表情があるだけだ。
まあ、あの男なら豪快に笑い飛ばしそうではあるが。気にしたポーズをとったとて、彼の顔にあるべき表情は浮かばない。ないものはない。
すっきりした目に涙を滲ませる術もなし、彼は彼なりに、追悼する気持ちはあるのだ、それが伝わるかは別として。ーーあるいは、これはないのとほぼ同義なのかもしれないが。
ポップコーンを親の仇のように口で粉砕しながら、彼は無感動な瞳で流れ続ける最期の映像を観る。
この映像はあのオヤジがなんとか出し抜いて意図的に残した痕跡なのか、はたまた偶然残ったものをあのツムグと瓜二つの現実改変能力者がさして問題はないと捨て置いただけなのかはわからない。
ーーわからない、が。
「まともでない人間がまともの真似事をしても仕方がないことーーあまりまともな理由で動きたかないんですがね」
デッドラインの地下施設に戻ったシナズは廊下を歩くーーツムグの部屋に向かう、廊下を。ずんずんと迷いなく歩む。
そこに確かな目的を持ったように、奇行を繰り返す男は足を前にやっていた。
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