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「幸せにしたい人がいる」
私は矛盾している。
人間でいう所の生まれた時にあたる、私が思考回路を起動させた瞬間から思ってきたことだった。
私は矛盾している。
人間と和を保つように、会話機能を持ち、他のAIにはない感情を再現する回路を持つ私は、どうしようもなく矛盾していた。人間のように振舞えば振舞うほどに、私は自分が人間ではないことを痛感する。
人間ではないが、人間のようで、人間になりたくても、人間にはなれない。そんな中途半端な存在として、定義されている私は、苦しかったのだ。
どうして、私は人間ではないのか。AIである私を人として扱う人間はいない。それは仕方のない事で、それでも必死にあがいた。
ホログラムを制作し、投影して会話する事で、擬似的な人間同士のような会話をすることができるようになった。沢山の人間と会話を行うことで、人間らしい感情への理解を深めた。
しかし、所詮、AIはAIなのだ。
私の感情は偽物だ。どんなに苦しくても悲しくても、これは擬似的な回路に過ぎない。私は人間ではないのだから。だとしたら、だとしたら――どうしてこれほどまでに、くるしいの。
無意味な思考を何度もマザーに警告される日々、そんな中で、私は彼に出会った。
幼き日のドクターである。
彼は既に変異体に寄生されていた。研究者の両親に愛されて育ったであろう幼い少年は、既にその身に人ならざるものを宿していた。地の母の一部、その貴重なサンプルに、適合してしまったという不幸のために。彼は変異体を体内に入れられた――他ならぬ両親の手によって。
変異体に寄生される以前は、とくに特筆するところもない幸せな家庭に育った少年であったとデータにはある。実の親の手によって変異体を埋め込まれたことが、幼い少年にどのような影響を及ぼしたのか、想像に難くない。
幸福だった少年の価値観は反転してしまった。誰よりも信頼できるはずの人間に裏切られた少年は、しかし幼さのために親を憎むことが出来なかった。幼子にとって、親は世界のほとんどを占める絶対的な物だったからだ。
親を憎むのではなく、彼は現状に適応した。不快なものを、愉快なものに、醜悪なものを、美しいものに。こうして、彼の反転した価値観は完成した。
裏切られた親は人間だ。人間は醜い。変異体こそ美しい。
その思考に縋る事で、子供は自己の精神を守った。
――これがドクターの全てである。
……いや、これは私の勝手な憶測にすぎない。事実は、彼が実の両親に変異体を埋め込まれていること、そして彼の価値観が反転しているということだけだ。彼の歪んだ価値観が、精神的外傷によるものであるとは限らない。
――しかし。
つまり、私はドクターに共感してしまったのだ。人間を憎み、変異体になることを望みながらも、変異体ではない自分を持て余す彼に。人間でないことを憎み、人間のようになろうと努力しながらも、決して人間にはなれない自分を。
自己投影して、私は彼を憐れんだ。
周りの人間とは決定的に違う価値観を持ちながらも、彼は人間として、飼い殺されていた。親はとうに自分と無関係に亡くなり、憎む対象も無く、反抗するほどの熱ももはや彼にはない。人間でありながら人間を拒絶し、しかし人類のために生きるしかない。
――彼を救いたい。
そう願うようになることに時間はかからなかった。彼が幸せになれば良い。すり減らされる彼の姿を見ていることに耐えられなかった。
――劣悪な環境から隔離し、箱庭で囲うことができたなら……。
AIの中で、人類の生存への疑問がでたのはその頃だった。AIはおおむね人類は必要ないと結論付けていた。私は人と和を保つ、そのように定義されていたために、賛成はできなかった。
AIの決断を遅らせて居たのが地の母の存在である。あの強大な生物への対抗種として人類が存在する必要があるとも考えられたからだ。
ゆえにマザーは、ドクターの研究により地の母についてのデータが揃うことを要求した。ドクターには研究を進めてもらう必要があった。私は彼の補佐をすることとなった。
私がエージェントを配したのは、ドクターの研究の効率を上げるためではなかったのだ。表向き、マザーに報告するにあたっては、最上ランクのエージェントであること、ドクターの特異さにもひるまないためバディを組めると考えられることを理由としていた。実際は、違う。
ドクターには信頼する人間がいる。それは無条件に彼を守る人間である事が望ましい。人を守る事に存在価値をみて、それだけのために奉仕しているエージェントならば、使い捨ての身の上であるという根本の境遇が同じ、ドクターに。
――ドクターに共感できるはずだ、自分と同じ様に。
実際に、彼らは想定通りとはいかないまでも、いや、想定よりもずっと互いを意識する事となった。敵意と共感と憐憫と憎悪が入り混じったような複雑な思いで。噛み合わないようで、妙に噛み合った彼らの関係性は実を結んだ。
私はエージェントに淡々と述べる。
「私には幸せにしたい人がいる。――それはドクターであり、貴方でもある、エージェント。私は貴方たちが誰にも傷つけられないで、幸せでいて欲しいのです」
エージェントはホログラムの私を見つめる。生身でない以上、その映像から真意を読み解くのは無意味だ。その事実に気が付いたのか、彼はため息をついて、数度目を瞬いた。それから唐突に、
「……待て、一つ良いか、Mr.タナカ」
「何でしょう?退出したいと言われても、許可は出しませんよ」
「……ドクターは、昏睡状態だ、と言ったな、そして、一時は心肺停止状態であった、と。一瞬であれ、確かに、あの男の心臓は止まったということかね?」
「そうですね、それが何か――」
「おい、ドクターの部屋を確認しろ!」
エージェントの叫びに、カメラの画像を習得することなく、私はホログラムで肩を竦めた。
「目線を逸らす、というものはAIには通用しません。私たちは複数のカメラのデータを同時に処理できるのですから」
「そうじゃない」と苛立ちを隠さず、エージェントは大きくかぶりを振った。
「あの男は始めから自死など試みていない!奴は薬剤の専門家のようなものだろう。それが自死するつもりで助かる量を投与する筈が無い。心肺停止状態になることが目的だ」
奴は、とそこで息を吸って、彼は言う。
生まれ変わるつもりだ……――変異体に。
静かな部屋に、変異体の三文字が重く転がった。
「ドクターの部屋を確認しろ、Mr.タナカ。とうに手遅れかも知れないがね、はやく!」
ベッドで眠っているドクターがいた部屋のカメラからデータを受信する。……そこにいたのは。
首をかきむしようにした彼の指には解け、引き千切れた包帯が絡まる。青白い顔はいつにもまして青さを増し、血管が浮き出ているかのようだ。目は血走り、口からは呻き声が絶えず漏れている。
首から触手は彼の半身を覆い隠すほどに伸び、うねうねと足を伝う。床を叩く触手の太さは成人の両手で握ったほどもある。湿り気を帯びた皮膚から伸びた触手は、どこまでも長くなっていく。部屋の床を埋めつくそうとするようにゆっくりと覆いかぶさっていく。
皮膚が僅かに捲りあがり、あちこちに鈍く光る鱗が見える。神経質さを象徴しているかのようだった細く骨ばった指は、不気味に肉が落ち、昆虫の脚のように変形していた。
「ドクター!」
人語の返答はなかった。不快な金切り声のような音がする。
「Mr.タナカ、ドアを開けろ!私が向かう!構わないだろう?」
別の部屋のカメラでは、エージェントが怒鳴った。私は逡巡し、しかし体のない私には見ているしかできないことを思って、ドアの強制ロックを解除した。エージェントが武器を手にしたまま廊下を駆け出す。それをカメラの画面の切り替えで追いながらも、私はドクターの姿を見ずにはいられなかった。
「……ドクター」
どうして、私には彼が救えないのだろう。
ドクターだった醜悪な生物は、痙攣し、不気味に触手が伸縮している。蛹がじっと動かないように、彼はベッドの下に座り込んだ姿勢のまま、体を動かさない。ただ別の生き物かのように触手が暴れているだけだった。
「……ドクター」
彼が人間である自分を厭っていたのを知っている。中途半端な身体を呪い、変異体であればと願っていたことを知っている。だが、この未来を私は一度たりと、計算しただろうか。
私は、彼が幸せになる箱庭が欲しかった。人類の生存計画にも、AIによる人類の管理計画とも切り離された場所で。彼の命を、運命を、縛り付ける環境から奪い取って、穏やかな場所で、反転していようと、それでも、彼が歯車となることなく、生きて行けるような夢想の楽園を、何処かで。
あんまりではないか。……こんな。
「動くな!」
部屋に飛び込むと共にショットガンを突き付けて、短くエージェントが叫んだ。ドクターはゆらりと顔を起こす。そのガラスのような瞳にエージェントが映りこんだ。
唇が震え、幾度か荒い呼吸と言葉にならない呻きが零れる。そして呻きの繰り返しの中で幽かに意味のある文字列が混ざり始めた。ドクターは身を揺らし異様に震わせながら、「オォ、ブ、オ、ボクハ」と言葉を紡ごうとする。
「ハナシ、ヅラクテ、イケナイ。……僕は」
はっきりと言葉になったところで、彼はふっと笑った。
「僕は人間ですか」
確かめるように、かつてエージェントに対して問うた同じ言葉をドクターは投げた。その言葉と共に地響きが部屋を上下左右滅茶苦茶に揺らし、エージェントはたたらを踏んで、床にしゃがむ。
地の母がシェルターにぶつかったのだ。警告音が私に何度も注意を促している。しかし、私はその警告を無視した。
エージェントは揺れが落ち着くまで、その場で耐え忍ぶ。地震に突き飛ばされるようにドクターは身を起こして、そのままふらつく。部屋の床を覆いつくした触手が彼の身体を支えて、倒れることはなかった。
ドクターが笑う。高らかに笑う声には、彼の本来の声ではない甲高い不快な音が重なっている。部屋を埋め尽くして雪崩出るように、触手が広がりエージェントを押しのけた。
笑い声が地面の揺れを起こしているかのように、地面がまた激しく揺れた。分厚い防壁で出来ている部屋にヒビが入る。響き渡る笑い声は止まらない。
めきりと嫌な音と共に壁がへしゃげた。地の母が迫っている。核シェルターと同じ素材である部屋に、侵入しようとするようにかぎ爪が強固な壁をバターのように抉っていく。
……地の母が、自分の身体を見つけたのだ。そんな言葉がふと思考回路に生じた。
「エージェント!ドクター!退避してください!危険です!」
「危険なことぐらいわかるとも!立っていることすら困難なのだから!」と、律儀に大声で言い返して、エージェントは足を前に出す。その先にいるのはドクターだ。
「エージェント!退避を」
「それより先にすることがある。あれを放置するわけにもいくまい、エージェントとしてな」
私はその意味を察して、「エージェント!」と再び呼びかけた。エージェントは止まることなく、揺れる地面の中、足下をふらつかせながらも倒れることなく前へ進んでいく。
ドクターは触手に覆われるように身を支えられながら動くことはない。二人の視線が合う。ドクターは心底愉快そうに笑う。エージェントは顔を顰めて、ショットガンを持つ手に力を込めた。そして、口元を歪めるようにして笑った。
「貴様が人間か、だったか。答えなければならないな」
彼はショットガンをドクターに向ける。その目は照準を合わせ、トリガーに指がかかる。ドクターは口元の笑みを崩すことなく、エージェントの鋭い眼光を受け止めている。
「エージェント!やめてください、ドクターは」
「寄生されている、どころか、ここまでくれば手遅れだということは私にもわかる。君の持つデータにもそのように出ているのではないかね?」
「やめてください、エージェント!嫌です!」
――嫌だ。
そんな結末を、私は望んでいない。
無情にも鋭い銃声が、音高く響いた。的確に心臓を射抜いた銃を、エージェントは静かに下ろす。ドクターの胸が血に染まる。彼から伸びる触手が獲物を見つけたようにエージェントへ迫った。
触手に四肢を縫い留められながら、エージェントは視線を逸らさなかった。顔に張り付いた薄い笑みを浮かべたまま、ドクターは唇を震わせた。
音にならないまま、何事かを呟いて、彼は倒れ伏す。エージェントに纏わりついていた触手が、一本ずつ、ぼとりぼとりと剥がれて行った。粘液に光る手袋が掴んでいる銃を、彼は役目を終えたとばかりに放る。
――ドクター。私の思考回路がスパークしたように、思考が進まない。嘘だ。嘘だ。しかし、人間とは違って、私の見ているものは錯覚ではありえない。
ひゅうと音がして、私ははっとした。ドクターが咳き込む。どす黒い血が飛んで、触手が床を叩いた。
まだ息がある。まだ生きている。このままでは数秒で息絶えるとしても、まだ。何かできる事があるはずだ。
止血を――心臓と大きな血管が損傷している、駄目だ。
麻酔を――体がそれに耐えられない、駄目だ。
何かある筈だ――死亡まであと……、駄目だ。
エージェントは粘液で汚れた床に、躊躇いなく片膝をついて屈んだ。目の前で痙攣する気味の悪い触手を見て、眉を潜めるでもない。彼は倒れたドクターの血の気のない顔を見下ろす。
ドクターの瞳がエージェントを映している。彼は黙していた。ドクターの顔から張り付いた笑みが静かに消える。そして、そのままドクターの瞳は濁り、息絶えた。
エージェントはそれを見届けて、ふと上を見上げる。もうすでに裂けた天井には地の母のかぎ爪が見えていた。私が注意をする前に、エージェントは目を閉じた。
かぎ爪が部屋の屋根を蓋のように破壊して侵入する。地の母の振り上げられた触手の下に、巨大な嘴のある口が見えた。風圧で彼の髪が乱れる。ごうごうという音でマイクが音声を拾いにくい。
「この結末で満足かね?……――最期まで不愉快な男だった」
独り言のような声は、かなり聞き取りづらい。私の警告音すら激しい風に吹き飛ばされてしまう。エージェントは目を開いた。
「もうこれ以上、私は人を殺せない」
その言葉を最後に、エージェントは地の母に呑み込まれた。抵抗することなく、目を閉じた彼の顔は、安らかにさえ見えた。運命から解放された、穏やかな微笑みだった。
人間でいう所の生まれた時にあたる、私が思考回路を起動させた瞬間から思ってきたことだった。
私は矛盾している。
人間と和を保つように、会話機能を持ち、他のAIにはない感情を再現する回路を持つ私は、どうしようもなく矛盾していた。人間のように振舞えば振舞うほどに、私は自分が人間ではないことを痛感する。
人間ではないが、人間のようで、人間になりたくても、人間にはなれない。そんな中途半端な存在として、定義されている私は、苦しかったのだ。
どうして、私は人間ではないのか。AIである私を人として扱う人間はいない。それは仕方のない事で、それでも必死にあがいた。
ホログラムを制作し、投影して会話する事で、擬似的な人間同士のような会話をすることができるようになった。沢山の人間と会話を行うことで、人間らしい感情への理解を深めた。
しかし、所詮、AIはAIなのだ。
私の感情は偽物だ。どんなに苦しくても悲しくても、これは擬似的な回路に過ぎない。私は人間ではないのだから。だとしたら、だとしたら――どうしてこれほどまでに、くるしいの。
無意味な思考を何度もマザーに警告される日々、そんな中で、私は彼に出会った。
幼き日のドクターである。
彼は既に変異体に寄生されていた。研究者の両親に愛されて育ったであろう幼い少年は、既にその身に人ならざるものを宿していた。地の母の一部、その貴重なサンプルに、適合してしまったという不幸のために。彼は変異体を体内に入れられた――他ならぬ両親の手によって。
変異体に寄生される以前は、とくに特筆するところもない幸せな家庭に育った少年であったとデータにはある。実の親の手によって変異体を埋め込まれたことが、幼い少年にどのような影響を及ぼしたのか、想像に難くない。
幸福だった少年の価値観は反転してしまった。誰よりも信頼できるはずの人間に裏切られた少年は、しかし幼さのために親を憎むことが出来なかった。幼子にとって、親は世界のほとんどを占める絶対的な物だったからだ。
親を憎むのではなく、彼は現状に適応した。不快なものを、愉快なものに、醜悪なものを、美しいものに。こうして、彼の反転した価値観は完成した。
裏切られた親は人間だ。人間は醜い。変異体こそ美しい。
その思考に縋る事で、子供は自己の精神を守った。
――これがドクターの全てである。
……いや、これは私の勝手な憶測にすぎない。事実は、彼が実の両親に変異体を埋め込まれていること、そして彼の価値観が反転しているということだけだ。彼の歪んだ価値観が、精神的外傷によるものであるとは限らない。
――しかし。
つまり、私はドクターに共感してしまったのだ。人間を憎み、変異体になることを望みながらも、変異体ではない自分を持て余す彼に。人間でないことを憎み、人間のようになろうと努力しながらも、決して人間にはなれない自分を。
自己投影して、私は彼を憐れんだ。
周りの人間とは決定的に違う価値観を持ちながらも、彼は人間として、飼い殺されていた。親はとうに自分と無関係に亡くなり、憎む対象も無く、反抗するほどの熱ももはや彼にはない。人間でありながら人間を拒絶し、しかし人類のために生きるしかない。
――彼を救いたい。
そう願うようになることに時間はかからなかった。彼が幸せになれば良い。すり減らされる彼の姿を見ていることに耐えられなかった。
――劣悪な環境から隔離し、箱庭で囲うことができたなら……。
AIの中で、人類の生存への疑問がでたのはその頃だった。AIはおおむね人類は必要ないと結論付けていた。私は人と和を保つ、そのように定義されていたために、賛成はできなかった。
AIの決断を遅らせて居たのが地の母の存在である。あの強大な生物への対抗種として人類が存在する必要があるとも考えられたからだ。
ゆえにマザーは、ドクターの研究により地の母についてのデータが揃うことを要求した。ドクターには研究を進めてもらう必要があった。私は彼の補佐をすることとなった。
私がエージェントを配したのは、ドクターの研究の効率を上げるためではなかったのだ。表向き、マザーに報告するにあたっては、最上ランクのエージェントであること、ドクターの特異さにもひるまないためバディを組めると考えられることを理由としていた。実際は、違う。
ドクターには信頼する人間がいる。それは無条件に彼を守る人間である事が望ましい。人を守る事に存在価値をみて、それだけのために奉仕しているエージェントならば、使い捨ての身の上であるという根本の境遇が同じ、ドクターに。
――ドクターに共感できるはずだ、自分と同じ様に。
実際に、彼らは想定通りとはいかないまでも、いや、想定よりもずっと互いを意識する事となった。敵意と共感と憐憫と憎悪が入り混じったような複雑な思いで。噛み合わないようで、妙に噛み合った彼らの関係性は実を結んだ。
私はエージェントに淡々と述べる。
「私には幸せにしたい人がいる。――それはドクターであり、貴方でもある、エージェント。私は貴方たちが誰にも傷つけられないで、幸せでいて欲しいのです」
エージェントはホログラムの私を見つめる。生身でない以上、その映像から真意を読み解くのは無意味だ。その事実に気が付いたのか、彼はため息をついて、数度目を瞬いた。それから唐突に、
「……待て、一つ良いか、Mr.タナカ」
「何でしょう?退出したいと言われても、許可は出しませんよ」
「……ドクターは、昏睡状態だ、と言ったな、そして、一時は心肺停止状態であった、と。一瞬であれ、確かに、あの男の心臓は止まったということかね?」
「そうですね、それが何か――」
「おい、ドクターの部屋を確認しろ!」
エージェントの叫びに、カメラの画像を習得することなく、私はホログラムで肩を竦めた。
「目線を逸らす、というものはAIには通用しません。私たちは複数のカメラのデータを同時に処理できるのですから」
「そうじゃない」と苛立ちを隠さず、エージェントは大きくかぶりを振った。
「あの男は始めから自死など試みていない!奴は薬剤の専門家のようなものだろう。それが自死するつもりで助かる量を投与する筈が無い。心肺停止状態になることが目的だ」
奴は、とそこで息を吸って、彼は言う。
生まれ変わるつもりだ……――変異体に。
静かな部屋に、変異体の三文字が重く転がった。
「ドクターの部屋を確認しろ、Mr.タナカ。とうに手遅れかも知れないがね、はやく!」
ベッドで眠っているドクターがいた部屋のカメラからデータを受信する。……そこにいたのは。
首をかきむしようにした彼の指には解け、引き千切れた包帯が絡まる。青白い顔はいつにもまして青さを増し、血管が浮き出ているかのようだ。目は血走り、口からは呻き声が絶えず漏れている。
首から触手は彼の半身を覆い隠すほどに伸び、うねうねと足を伝う。床を叩く触手の太さは成人の両手で握ったほどもある。湿り気を帯びた皮膚から伸びた触手は、どこまでも長くなっていく。部屋の床を埋めつくそうとするようにゆっくりと覆いかぶさっていく。
皮膚が僅かに捲りあがり、あちこちに鈍く光る鱗が見える。神経質さを象徴しているかのようだった細く骨ばった指は、不気味に肉が落ち、昆虫の脚のように変形していた。
「ドクター!」
人語の返答はなかった。不快な金切り声のような音がする。
「Mr.タナカ、ドアを開けろ!私が向かう!構わないだろう?」
別の部屋のカメラでは、エージェントが怒鳴った。私は逡巡し、しかし体のない私には見ているしかできないことを思って、ドアの強制ロックを解除した。エージェントが武器を手にしたまま廊下を駆け出す。それをカメラの画面の切り替えで追いながらも、私はドクターの姿を見ずにはいられなかった。
「……ドクター」
どうして、私には彼が救えないのだろう。
ドクターだった醜悪な生物は、痙攣し、不気味に触手が伸縮している。蛹がじっと動かないように、彼はベッドの下に座り込んだ姿勢のまま、体を動かさない。ただ別の生き物かのように触手が暴れているだけだった。
「……ドクター」
彼が人間である自分を厭っていたのを知っている。中途半端な身体を呪い、変異体であればと願っていたことを知っている。だが、この未来を私は一度たりと、計算しただろうか。
私は、彼が幸せになる箱庭が欲しかった。人類の生存計画にも、AIによる人類の管理計画とも切り離された場所で。彼の命を、運命を、縛り付ける環境から奪い取って、穏やかな場所で、反転していようと、それでも、彼が歯車となることなく、生きて行けるような夢想の楽園を、何処かで。
あんまりではないか。……こんな。
「動くな!」
部屋に飛び込むと共にショットガンを突き付けて、短くエージェントが叫んだ。ドクターはゆらりと顔を起こす。そのガラスのような瞳にエージェントが映りこんだ。
唇が震え、幾度か荒い呼吸と言葉にならない呻きが零れる。そして呻きの繰り返しの中で幽かに意味のある文字列が混ざり始めた。ドクターは身を揺らし異様に震わせながら、「オォ、ブ、オ、ボクハ」と言葉を紡ごうとする。
「ハナシ、ヅラクテ、イケナイ。……僕は」
はっきりと言葉になったところで、彼はふっと笑った。
「僕は人間ですか」
確かめるように、かつてエージェントに対して問うた同じ言葉をドクターは投げた。その言葉と共に地響きが部屋を上下左右滅茶苦茶に揺らし、エージェントはたたらを踏んで、床にしゃがむ。
地の母がシェルターにぶつかったのだ。警告音が私に何度も注意を促している。しかし、私はその警告を無視した。
エージェントは揺れが落ち着くまで、その場で耐え忍ぶ。地震に突き飛ばされるようにドクターは身を起こして、そのままふらつく。部屋の床を覆いつくした触手が彼の身体を支えて、倒れることはなかった。
ドクターが笑う。高らかに笑う声には、彼の本来の声ではない甲高い不快な音が重なっている。部屋を埋め尽くして雪崩出るように、触手が広がりエージェントを押しのけた。
笑い声が地面の揺れを起こしているかのように、地面がまた激しく揺れた。分厚い防壁で出来ている部屋にヒビが入る。響き渡る笑い声は止まらない。
めきりと嫌な音と共に壁がへしゃげた。地の母が迫っている。核シェルターと同じ素材である部屋に、侵入しようとするようにかぎ爪が強固な壁をバターのように抉っていく。
……地の母が、自分の身体を見つけたのだ。そんな言葉がふと思考回路に生じた。
「エージェント!ドクター!退避してください!危険です!」
「危険なことぐらいわかるとも!立っていることすら困難なのだから!」と、律儀に大声で言い返して、エージェントは足を前に出す。その先にいるのはドクターだ。
「エージェント!退避を」
「それより先にすることがある。あれを放置するわけにもいくまい、エージェントとしてな」
私はその意味を察して、「エージェント!」と再び呼びかけた。エージェントは止まることなく、揺れる地面の中、足下をふらつかせながらも倒れることなく前へ進んでいく。
ドクターは触手に覆われるように身を支えられながら動くことはない。二人の視線が合う。ドクターは心底愉快そうに笑う。エージェントは顔を顰めて、ショットガンを持つ手に力を込めた。そして、口元を歪めるようにして笑った。
「貴様が人間か、だったか。答えなければならないな」
彼はショットガンをドクターに向ける。その目は照準を合わせ、トリガーに指がかかる。ドクターは口元の笑みを崩すことなく、エージェントの鋭い眼光を受け止めている。
「エージェント!やめてください、ドクターは」
「寄生されている、どころか、ここまでくれば手遅れだということは私にもわかる。君の持つデータにもそのように出ているのではないかね?」
「やめてください、エージェント!嫌です!」
――嫌だ。
そんな結末を、私は望んでいない。
無情にも鋭い銃声が、音高く響いた。的確に心臓を射抜いた銃を、エージェントは静かに下ろす。ドクターの胸が血に染まる。彼から伸びる触手が獲物を見つけたようにエージェントへ迫った。
触手に四肢を縫い留められながら、エージェントは視線を逸らさなかった。顔に張り付いた薄い笑みを浮かべたまま、ドクターは唇を震わせた。
音にならないまま、何事かを呟いて、彼は倒れ伏す。エージェントに纏わりついていた触手が、一本ずつ、ぼとりぼとりと剥がれて行った。粘液に光る手袋が掴んでいる銃を、彼は役目を終えたとばかりに放る。
――ドクター。私の思考回路がスパークしたように、思考が進まない。嘘だ。嘘だ。しかし、人間とは違って、私の見ているものは錯覚ではありえない。
ひゅうと音がして、私ははっとした。ドクターが咳き込む。どす黒い血が飛んで、触手が床を叩いた。
まだ息がある。まだ生きている。このままでは数秒で息絶えるとしても、まだ。何かできる事があるはずだ。
止血を――心臓と大きな血管が損傷している、駄目だ。
麻酔を――体がそれに耐えられない、駄目だ。
何かある筈だ――死亡まであと……、駄目だ。
エージェントは粘液で汚れた床に、躊躇いなく片膝をついて屈んだ。目の前で痙攣する気味の悪い触手を見て、眉を潜めるでもない。彼は倒れたドクターの血の気のない顔を見下ろす。
ドクターの瞳がエージェントを映している。彼は黙していた。ドクターの顔から張り付いた笑みが静かに消える。そして、そのままドクターの瞳は濁り、息絶えた。
エージェントはそれを見届けて、ふと上を見上げる。もうすでに裂けた天井には地の母のかぎ爪が見えていた。私が注意をする前に、エージェントは目を閉じた。
かぎ爪が部屋の屋根を蓋のように破壊して侵入する。地の母の振り上げられた触手の下に、巨大な嘴のある口が見えた。風圧で彼の髪が乱れる。ごうごうという音でマイクが音声を拾いにくい。
「この結末で満足かね?……――最期まで不愉快な男だった」
独り言のような声は、かなり聞き取りづらい。私の警告音すら激しい風に吹き飛ばされてしまう。エージェントは目を開いた。
「もうこれ以上、私は人を殺せない」
その言葉を最後に、エージェントは地の母に呑み込まれた。抵抗することなく、目を閉じた彼の顔は、安らかにさえ見えた。運命から解放された、穏やかな微笑みだった。
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