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7日目 7月14日 御霊流(みたまなが)し 全てを川の流れと風にゆだねる
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七日目 七月十四日 御霊流し かつてそこに確かにあったものたちへ
雨は未明にやんだ。空のほこりまで全て洗い流したような朝が来た。
玲市が車で出かけたまま帰って来ない。イベントの前日だし用事があるのかもしれない。定時の防災無線では、まだ水死体の身元は判明せず、引き続き捜査を進めているとの放送だった。車の事故などはなさそうだ。
放送が終わってすぐにハジメは物問橋に向かった。開門時間前なのに扉は開いている。それなのに住人は誰もいない。もちろん玲市もだ。観光協会横の広場では、遅れていたテントの設営がもう始まっていた。
橋の上でぼうっとしていると、電線を抱えた数人がやって来た。もう顔見知りの観光協会職員たちだ。
「おう兄ちゃん。手伝いか」
「はあ...まあ」
「協会行きな。やることを教えてくれるから」
彼らは空の部屋に入った。後を付いていく。部屋の境界の壁は天井までない。なのでそこに電線を渡して屋根に提灯をぶら下げるそうだ。やはり住人はいない。荷物は大部分を残したままのようだ。
(うーちゃんに何か聞いてみるか)
階段を降りかけた。すると体の大きな男性が現れた。黒いシャツながら人目で分かるほど泥だらけでびしょ濡れだ。ジーンズの裾にはドクダミの葉がへばりついている。髪はもしゃもしゃで無精ひげが伸び放題だ。彼はむくんだ目でハジメを見た。
「おう、イトコ」
「はあ? あ、その声。もしかして猿?」
素顔はどこにでもいるような壮年男性だ。
「どうしたんだよ? みんなどこ?」
「知らねえのか。ちっ、誰とも会いたくなかったぜ」
彼は足を引きずりながら階段を上がった。
「もう少し早く来たかったんだけどな。つい寝ちまった。バスの本数もありゃしねえ」
玲市の車は施錠済だ。使えなかった。
「ゼロがどこか知ってる? それにその泥...穴にでも落ちた?」
「うるせえ!」
猿はどん、とハジメの肩を突いた。協会の職員たちとは目も合わせない。ずんずんと自分の部屋に行く。開きっぱなしのスーツケースから一旦すべての荷物を放り出した。服が床に散らばる。びしょ濡れの服を脱ぎ捨てた。ハジメなどいないようにパンツまでその場で取り換える。それから改めて数枚だけ拾って入れ直した。
ぽかんと見ているハジメに、軽く舌打ちをした。奥の部屋に行くと色紙と筆ペンを出した。ささっとしたためる。それをハジメに押し付けた。
「これをキツネ野郎に渡しておけ」
「へ? キツネ? 誰」
物問橋はいつから動物園と化したのか。
「馬背キツネも知らねえのか。ゼロは化けてた、ヤツはキツネだ」
「えええ?」
猿はため息をついた。そして部屋を見渡す。窓からは白い朝の光がさしこみ、幾つもの筋になってきらめく。
「女王様は?」
ハジメには聞きたい事がたくさんあった。しかし猿は彼が言葉を続ける前に首を振った。
「港の女は港にしかいねえんだ。俺はその港を目指していくぜ。俺はもう猿じゃねえ。そうよのう。エースのジョニーさんとでも呼んでくれ」
「ふ~ん。どこかで聞いたような良い名前だな」
彼はもうハジメに背中を向けていた。スーツケースが床のくぼみにハマってよろめいた。
「でかいスーツケースだね」
「そりゃお前。人一人の人生を詰めるんだぜ。これから女王...じゃねえ。眠り姫を迎えに行くんだ。早くしないと人が...」
最後は独り言のようだった。後ろ手を振って彼は部屋を出た。
「え~何だよ?」
訳が分からない。職員が入って来た。
「ここの飾りつけするから。うわ~散らかってんな~」
彼は突っ立っているハジメにしっしっと手を振った。
「準備がたてこんでんだよ。設営頼むわ」
「へいへい」
彼は住人には興味が無さそうだ。急いで協会に向かった。いつもなら受付の近辺にいる羽舞の姿がない。
「あの~うーちゃんいますか?」
「外、外! あ、コレ頼みます!」
職員からチラシの束と、かぶるタイプのゼッケンを渡された。緑地に黒くSTAFFと染め抜きがある。
「広場と、テントの中と...もうラックは設置してあるはずだから補充しておいてね」
橋に顔を出したのは数日だ。だが手伝いをしたおかげですっかり顔は売れているらしい。
(まあいいか)
本来なら玲市の仕事なのだろう。手伝いに来ているのだから代わりに動くのはやぶさかではない。大人しくスタッフと化した。一人のスタッフとしてしばらく言われるがままに資材を運び、案内板を設置などしていた。制服の羽舞も見かけた。あちらこちらで走り回っている。ツインテールのリボンも健在だ。声を掛ける暇は無かった。
観光客も増えて来た。駐車場から遊歩道を歩いてやってくる。その中に明らかに不自然なグループがいる。まるで結界を張っているかのようにそこだけ人が避けていて空間ができている。朝の光にはとうてい似つかわしくない四人連れだ。
玲市はサイズの小さなシャツをまとい、ジーンズは泥だらけ。背中に公俊を背負ってよろよろ歩く。後ろに黒づくめの小柄な老女と風船をたくさん腰に括り付けた老人。右手にギプス。
気が付くなりハジメはそちらへ向かった。
「ゼロ! どうしたんだよ」
玲市の顔は青ざめて生気がない。目の下には真っ黒な隈ができているうえ、左頬には殴られた痕、いわゆる青タン。襟で隠れてはいるが、首にも赤い圧迫の痕が残っている。
「ハジメ...頼む。爺ちゃん代わって...」
言われるまでもない。公俊を歩道に下ろす。口がへの字に曲がっている。むすっとしたままハジメの背に移った。
「はあああ~。痛い...」
膝に両手を付き、がっくりと玲市が体を丸めた。そして腹を抑える。
「トイレ行くか?」
「そういうんじゃないんだ」
オバサンは先に歩き始めた。
「夜遅くまではしゃぎ過ぎだよ!」
「どうしたの? 何があったんだ?」
彼女も口を引き結んだ。じろりと玲市を振り返り、またずんずん歩き始める。爺さんはさっきからおとなしく着いては来るものの、左手でずっと風船を撫でながらぶつぶつ呟いている。
「僕は良かれと思って」
玲市の発言に、すかさずオバサンが反応した。
「アンタが良いと思っただけだろう? 結局は相手に自分の思い通りにしてもらおうって魂胆だよ!」
「...そうなのかなあ...」
御徳苑跡に人影がないのを確認したうえで、神社の開門早々に三人を連れて戻って来たのだ。
数日間、色々な準備に走り回って寝不足だ。隙を狙って夜中に橋に忍び込んだりもしている。さらに猿に殴られ蹴られ、首まで絞められた。体のあちこちが痛い。眠気と相まって玲市の体力と気力も限界だった。御霊流しの初日だ。客と職員の橋の出入りも増える。猿と女王が戻ろうが、すぐにどうこうはできないだろう。というか、もう何も考えたくない、考えられない。
住人ご一行は周囲の視線を浴びつつ、橋まで戻った。玲市は手すりにもたれながら背中を丸めて階段を上がった。腹筋を伸ばすと痛い。
「ハジメ...後は頼んだ。もう寝る」
「はあ?」
よろよろと玲市はその場を離れた。公俊の部屋は気まずい。レディは自分のベッドに男を寝かせてくれないだろう。となると猿の部屋しかない。公俊を背負ってどこか怒り顔のハジメを残して、猿と爺さんの部屋に入った。協会の関係者がいるがどうでもよかった。軽く会釈だけする。散らばっている中には泥だらけの服もあった。箪笥代わりのスーツケースがない。
(一度戻ったか)
そういえば駐車場には猿の車が無かった。
(神社からどうやって帰った? まさか歩きとか。女王は?)
神社から橋まで十キロほどある。バス便もあるのだがあまりの眠気でもう思考が停止寸前だった。
(ううぅ...こんな所で寝るとは...)
警察に突き出そうとしたのに返り討ちにあってしまった。そんな相手の寝床である。夢見が悪そうだがもう睡魔が全身に伸し掛かる。それなのに神経が興奮しているのかなかなか寝付けない。
猿の免許証は、ずっと以前に見ていた。貴重品の管理が意外と甘かったのだ。敢えて盗み見ずとも、口の開いた財布が転がっていた事さえある。覚えていたのは名前と記載住所の県名くらいだ。もちろん彼の正体を知っておくのは、公俊の安全を担保する上でも重要ではあった。だがプライバシーを詮索するつもりは毛頭ない。
女王はバッグを手元からなかなか離さなかった。外出には持参する。だが部屋にいる間の方が隙ありだった。そしてやたら重いカバンに銃とナイフを見つけたのだ。猿と話している間、部屋を訪れる玲市にはあまり関わろうとしなかったからだ。
(淑女のナイショを盗み見るなんて、紳士の風上にもおけない。まあキツネ呼ばわりされたしな。馬背キツネならそれくらいやるよ、きっと)
二人が夜に外出した際に玲市が橋に忍び込んだ晩だ。さすがに持ち歩かないだろうと踏んだら案の定だ。
もう二人はいない。戻っては来ないだろう。警察に届ける気持ちはもう無かった。あの凶器は物証になるとしても、女王が不在なのに井乃の事件を蒸し返すのは得策と思えない。井乃が関わった詐欺事件も故郷に晒される。
それでも。
もっと上手くできなかったのか。あれ以上に良い方法があったのでは。自問を繰り返す。何度も、何回も。
爺さんを連れて来たハジメが見たのは、猿のベッドで丸くなって眠っている玲市だった。まるで赤ん坊のようだ。ここに来て初めて、ハジメが見た無防備な姿だった。
ハジメは観光客にやたら声を掛けられる。スタッフゼッケンを付けているから当たり前だ。トイレの場所やらバスの発車時間やら迷子やら。完全に雑務係と化してボランティアに邁進する。ひっきりなしの声出しが、ハジメには楽しかった。気分が高揚するというのか、性に合っているのだろう。
「はいはいトイレは協会の建物か、駐車場ね」
数日ながらもすっかり物問橋周辺に詳しくなった。
「おう兄ちゃん!」
そんな中で笑顔で寄って来たのは車夫だった。
「すっかり板についてるな」
「従兄の代わりなんですが、祭りって感じがいいなぁ~」
車夫は休憩中だと言う。二人で協会の裏へ行った。彼は自動販売機でコーヒーを二つ買い、一つをハジメに寄越した。
「ほれ。頑張っているからな」
「ゴチです!」
冷たいコーヒーが喉を潤す。
「ところでちょっと聞きたいんですが」
ハジメにはずっと気になっていたのだ。
「どうして爺ちゃん以外の人も住んでいられるんです?」
「爺ちゃん? 二人いるぞ」
「公俊の方。俺の名前を言ってなかったっけ? 酒居一、酒が居るのが一番って。俺は孫だよ」
「ああ、屋台村でそんなの聞いたな。それでラーメン馬瀬の従弟か」
そうか、と車夫は目を細めた。太陽の眩さだけではなさそうだ。
「まあ物問橋は文化財とかじゃないってものあるけどな」
昭和の高度成長期に再現された復元物だ。公的お墨付きは何もない。
「婆さんは知らないが、もう一人の爺さんは馬瀬の出身らしいしな」
ハジメはうん、と頷いた。病院で『馬瀬』という苗字に反応していた。おそらく本名なのだろう。
「五人組とか講とか知ってるか?」
オバサンと名乗る相手に婆さんか、と思ったが黙っておこう。前者の単語は歴史の授業で習った気がする。地域の連帯責任を図る制度だ。一緒になって税金を納めるのではなかったか。
「五人組って江戸時代の話じゃなくて?」
「この辺じゃまだあるんだよ。少人数の親睦会とか互助会みたいな。組で道の普請をしたり、農作業の手伝いをしたり。ああ、メシも一緒に喰ったりしてな」
「コウは?」
元々は仏教の教えを講義する会合だ。しかし馬瀬では経済的な結合を意味する。少しずつ皆でお金を出し合って積み立てて、旅行や宴会に使う。天候不順で凶作なら収入の補填に当てる。相互扶助のシステムだ。雪国といっていいほど寒い地域で、長らく経済活動が停滞している馬瀬市だ。相互の助け合いが地域にしっかり根を下ろしている。
公俊以外の住人が居ついても、強引に追い出さないのはそうした助け合いの精神が生きているからだ。爺さんとオバサンは明らかに経済的に豊かではない。
「ちょこちょこ顔は入れ替わってる。それにキレイに使ってるしね。争いごとは苦手なお国柄だし。まあ酒居先生が居るかぎりは目をつぶってやろうかって所だね」
「そうかあ...爺ちゃんってば罪作りなのか役に立ってるのか分かんねえな」
「ラーメン屋が大変ってのは知ってる。あの子はよくやってるよ」
従弟の自分が知らなかった事をどこまで分かっているのだろう。それが顔に出ていたようだ。車夫は笑った。
「向こう三軒まで、冷蔵庫の中身まで知っている町だぞ」
「えぇ~! ツマミを借りに行ったりできる?」
冗談だ、とまた彼は笑った。それだけ地縁が強いのだ。それは悪い事ばかりではない。橋の住人が自活していける。
埃を全て洗い流したような空は青い。綿をちぎった雲が流れる。遊歩道に出ればあの馬瀬岳が見えるだろう。重厚な立たずまいの橋が流れを跨いで聳える。自分のルーツの風景に、確かにハジメは包まれている。物問川で自分は何を問うだろう。
車夫がじゃあな、と立ち去った。入れ替わるように羽舞が駆けて来た。
「あっ、イトコ! お疲れ! 夜、おでん屋に行くからね。ゼロちゃん連れて来て」
ポニーテールを揺らしてハジメの横を駆け抜けた。
(ちゃんと働いてんなあ)
真上から太陽が照らす。腕時計が正午を示す。
「あ」
配食はどうなっているのか。慌ててスタッフゼッケンを脱いだ。そして駐車場のバイクの元へ走った。
何だか男臭い。玲市は夢うつつだ。しかし薄い敷きパッドから猿の残り香を感じてしまう。あんまり気分は良くない。体があちこち痛いままだ。だいたい布団が薄すぎる。
「起きろ」
肩をゆすられた。
「痛い...」
思わず呻いた。目を開けた先に眉をひそめたハジメの顔があった。ペットボトルを手渡される。
「もう夜だぞ。大丈夫か?」
「うう」
唸りながら半身を起こす。室内が黄色の灯りで満ちている。外の壁に下がった提灯のおかげだ。一気に水をあおった。昨日の晩から何も食べていないし、汗まみれで気持ちが悪い。シャツのボタンを胸まではずした。首の圧迫痕が露わになる。ハジメの顔が歪んだ。それを見ないふりをして尋ねる。
「猿は?」
「一度戻ったよ。これ、お前にって頼まれた」
色紙が二枚だ。さっと目を通した玲市はちょっと眉をひそめた。すぐに傍らに押しやる。
「いつ来た? 女王様は?」
「朝。一人だったよ」
「何か言ってた?」
「う~ん。大した事は...。すぐ出かけたよ。スーツケースを空にしてた。港を目指すって」
「え...? 柏崎? 鯨波か?」
長いトンネルを抜けた向こうの海水浴場が頭に浮かんだ。
「さあ? 眠り姫と同伴らしい。女王様には振られたかな」
うう、とまた玲市は唸った。そっと頬に触れると熱を持っているようだ。女王は眠り姫になってしまったのか。床に散らばった猿の服を見ると、中身はほぼ出したようだ。何を詰める為か、空のスーツケースを持ち出したのだ。
「どうしたんだ? 殴られたか。その首、ヤバいな」
「猿と女王様をめぐって喧嘩した...負けた」
「何だそりゃ。それでどうしてやられた奴のベッドで寝る気になるんだか」
「いやその...」
もう何も言えない。口をもごもごさせるばかりだ。
「爺ちゃんズに昼と夜のご飯を運んだから」
「...お世話になります」
「その為に来たんだしな」
ハジメはまだ心配そうに玲市を見ている。殴られたのは頬だが、内出血が顔に広がり、左目の周囲が紫のアイラインを派手に塗ったように変色している。
何で住人揃っていなかったのか、玲市だけ殴られて戻ったのか。聞きたい事はたくさんある。しかし今ではないな、とハジメは判断した。少し時間を置いた方が彼も落ち着くに違いない。
「動けるか?」
「まあまあ」
「うーちゃんがおでん屋に来いってさ」
店名を聞かなくても玲市は頷く。
「分かった。ハジメも行く? 『ケンちゃん』って屋台」
場所は屋台村から少し離れた川沿いだ。神社からは下流になる。
「僕は一度戻るよ。シャワーしてから行く」
「......そうだな」
ちょっと返事に空いた間の意味は何か。ハジメの眉間に微妙な皺が寄っている。
「着替えろよ。爺ちゃんが怒っていたぞ」
「......服のネタをまだ引っ張るのか...。ハジメ、笑っていいんだからな!」
しかし従弟は逆に口角を下げた。視線を落とす。
「サイズの小さな服を借りるなんてなあ。有難いけど切ないよなあ」
鈴木さんの息子のTシャツを思い出す。玲市は大人の服だからまだマシだが。ハジメが何を思い出しているのが見当もつかない玲市も微妙な皺を眉間に浮かべた。ハジメが半笑いで言った。
「あ~爺ちゃん。絵描きさんな。コーヒーを代えてくれってさ」
オバサンの予言が当たったか。好物を苦手にさせてしまった。と一瞬思ったのだが。
「あのコーヒーを飲むとよく眠れるからそっちの方がいいって」
口に含んだ水を噴き出す所だった。無理に飲み込んだせいで激しくむせた。心配と問いかけがないまぜになったハジメの視線を感じるが、完全無視だ。
お互いに含むものを抱えたまま部屋を出た。橋がライトアップされていて明るい。ハジメが言った。
「ライトはタイマーで九時に切れるってさ」
「みたいだね」
それまでは橋が川を照らす。いつもは黒々とした夜の川も流れの模様がゆらゆらと白く輝く。それに乗って菊花を乗せた笹舟が揺れる。数はまだあまり多くないが、ろうそくを灯す舟もあった。
おでん屋の出店場所を正確に伝えた後、いったん二人は別れた。
民家も途切れて暗い畑が続く。国道の灯りに蛾が群れて光をにじませる。車のない駐車場が『ケンちゃん』の営業場所だ。道の反対側がなだらかな岩だらけの斜面で、そこを下ると河原に出られる。
夏でもケンちゃんはおでん一筋だ。赤い提灯にも羽虫が寄って来る。近くの地面から香取線香の薫りが漂うが、出汁の香りも負けていない。数段積みあがったビールのケースがテーブルだ。屋台に作り付けの三人ほど座れる席だけだ。それ以外は立ち飲みか、その辺に座りこんで飲み食いするスタイルだ。夜はまだ寒いくらい涼しい。玲市が到着した時には客はハジメ一人だった。
屋台の主ケンちゃんは口ひげを蓄えた小柄な男性だ。ほぼ白髪だがこの界隈では多分珍しいであろうアフロヘアに近いくるくるパーマだ。茶色のエプロン柄はクマちゃんだった。玲市を見かけると顔をくちゃくちゃにして手を振った。席にいたハジメも振り返る。頬が赤い。食べかけの大根が乗った皿の隣のコップの液体は。
「ハジメ。それ吟醸『馬瀬川』かな?」
「当たり! 屋台でおでん! 呑まないバカいる?」
いや運転が...と声を飲み込んだ。そうだそうだ、とケンちゃんも笑っている。
(代行頼むか)
約束の一週間は今日で終わりだ。玲市なりの怒涛の日々が過ぎ去った。ハジメは玲市の希望以上に動いてくれた。最終日くらい好きにしてもらうのも有りだろう。
座れ、とばかりに自分の横を叩いた。素直に座る。鍋の熱気が顔を包む。多少ふらふらする。夕べ頭を打ったかもしれない。軽い脳震盪でも起こしただろうか。
「今日のおすすめは?」
「時季じゃねえけど大根。味はしみてるよ」
「じゃあそれとコンニャクと...」
選んでいると上目使いのケンちゃんと目があった。
「どうしたのゼロちゃん。顔すごいよ」
「......ぶつけて...」
ハジメが叫ぶ。
「嘘つけぇ!」
「痛っ!」
ばん、とハジメの手が背中を打った。思わず体を丸めるが数回の追撃が来た。声も上ずっているし、もう何杯かお代わりしたようだ。
「ケンカだよ! 猿とキツネが殴り合ったってさあ」
「...やめてくれ...」
ケンちゃんが首をかしげる。
「へえ? ゼロちゃんでも手を出すケンカするの? 意外だなあ」
「...まあ...」
バイクが駐車場に滑り込んだ。黒いフルフェイスを脱ぐ。さらっと短い黒髪が揺れた。安中だった。
相変わらずあまり感情の出ない目で先客二人を見た。勝手に侵入した挙句、穴に落ちたハジメは少し肩を落として曖昧な笑みを浮かべた。それを無視して安中は玲市に近づいた。
「体調は?」
「何とか。夕方まで寝てました」
玲市も目をちょっと細めた。
「髪を切ったんだ...」
「空き時間があったんだ」
御霊流し初日だ。禰宜が暇なはずがない。玲市は少し寂しそうに微笑んだ。
「似合いますよ。少しは軽くなりましたか?」
しばらく安中は玲市を見つめた。視線を外すと、ケンちゃんに声をかける。
「俺も大根とコンニャク」
「はいよ。ビールは?」
「要らない」
皿を受け取ると、駐車場の奥へ行った。レンガ積みの植え込みの枠に座った。玲市は彼の前に立った。
「猿と女王はいなくなったみたいですよ」
「ああ。猿がスーツケース持って出て行ったって羽舞も言ってた」
橋周辺を走り回っていた彼女だ。目撃するタイミングもあっただろう。どうやって神社から橋へ向かったのか玲市は少し疑問だったが、もうどうでもいい事だ。
「警察へは?」
「お前と同じ考えだ。そうだろう?」
やっと少しだけ安中の目元が緩んだ。猿と女王をかばうのではない。井乃の静かな眠りを妨げない為だ。犯人と原因が分かったのが、安中や玲市に僅かな安寧を与えたのかもしれない。
屋台にもぱらぱらと客がやって来た。それぞれの場所で賑やかに過ごし始める。玲市と安中は口をつぐんだ。暗い川面が少しだけ見える。初日は供物が多いのだ。まだ花は川面を彩っていた。
安中がさっさとおでんを口に運んだ。
「もう行く」
翌日の中日は最終日に比べて多少は空くものの、やはり仕事がたてこんでいるのだろう。
酒の匂いをまとったハジメがやって来た。
「また密談? ちょっとお兄さん、俺の従兄をいじめないでくれる?」
はあ、と安中がため息をついた。
「会期中は神社にも屋台がたくさん出るから、穴じゃなくてそっちへ行け」
「まだ言うか、コイツ!」
手を伸ばす。座ったままの安中の髪をぐしゃぐしゃかき回した。
「あっ髪がない。カツラしてた?」
酔っ払いに論理はない。
見慣れた車が屋台の横に滑り込む。やっと羽舞が登場だ。客らと顔見知りらしくけたたましく挨拶を交わす。いきなりサイレンが鳴り響いたようだ。
「あっ先輩! かっこよくなったぁ! ねえうーちゃん頑張ったよ。うまくできたかな?」
安中の表情が柔らかくなった。
「ああ。助かった。俺はもう帰る。...御霊流しが終わったら、またゆっくり話そう」
そして羽舞のツインテールのリボンに触れた。細く長い指がピンクの布を撫でてそのまま髪を滑った。羽舞はその手を掴み、じっと安中を見上げた。
「絶対ね、絶対だからね。もっと褒めてね」
すかさずハジメが叫んだ。
「君らは! 仲良しさんか!」
急いで玲市がハジメの口を塞いだが遅かった。回りからヒューヒューと声が上がった。
安中はまた唇を引き結んでしまった。しかし皺の寄った眉間が当惑を見せている。玲市はそれに軽く頭を下げつつ、ハジメを川岸の方へ引っ張った。
「こっち来い」
だめだめ、とハジメは手を振った。屋台に戻ってケンちゃんからコップのお代わりを受け取った。それから腕を組んでいる玲市のそばに戻った。
「どこ行くの?」
「風に当たるか」
二人で川辺の石に座った。川から上がる風は冷たい。腫れあがった頬に心地よかった。
「もうしばらくこっちに居てもいいか? アパートとか目途が付くまででいいんだ」
口調は意外にも冷静だった。しかし突拍子もないお願いだ。玲市はハジメの顔をまじまじ見つめた。酔いの上の発言だろうが、真面目な表情だ。
「夏休みくらいはいてもらってもいいけど、アパートって?」
「うん。こっちで働こうかなって。卒業までは東京と行ったり来たりになるだろう? もう学校へはあんまり行かないけどさ。拠点があった方が楽だ」
「はあ?」
玲市にしては珍しい素っ頓狂な声が出てしまった。
「就職が決まってなかったっけ?」
「まだ内定だよ。断るから大丈夫」
「いやいやいや。よく考えようか。お前酔っぱらってるし」
「呑んでいない時に考えた。それに今も素面だし」
ふう、とため息が漏れる。きっと従弟にとってこの数日が物珍しい事ばかりだったのだろう。それで気分が浮かれている。東京に戻れば我に返るかもしれない。
「はいはい、分かった分かった」
「適当に言ってねえ?」
ハジメはまた酒を口に含んだ。じろりとにらむ視線にやはり酔いを感じる。玲市は思わず視線を逸らした。酒癖が悪いなコイツ、と思いながら。
「いるのは構わないけど...色々あるからあんまり世話はできないよ」
「けっ。こちとらガキじゃないんだ、自分の面倒くらい自分で見られるっての」
ハジメらしくない乱暴な口調だ。やはり酒が効いている。
玲市は黙って川面を見つめた。ハジメがこっちで暮らすなど、どこまで本気だか分からないのでまともに取り合う気が無かった。母が入退院を繰り返した今年、誰かと一緒に家で過ごすのは久しぶりのように感じる。煩わしさもあった。だが何かを頼めるというのが楽なのだと改めて感じたりもした。
しかし、母はもう家に戻る事はない。祖父はどうだろうか。笹舟に乗って流れて消えてしまうのはいつだろう。
「そうだね。僕は一人...一人でいい」
感傷的な言葉とは裏腹に、玲市の表情は表面に現れていない。ただ視線がゆらゆらと漂う笹舟を追うだけだった。突然ハジメの叫びが轟いた。
「玲市!」
びくっと肩が震えてしまった。ずっと愛称で呼ばれていた。本名でハジメから呼ばれるのはいつ以来だろう。
「な、なに」
ハジメは空のコップを近くの岩に置いた。
「お前は、お前自身はどこにいるんだ?」
「え? いやここに」
酔っ払いが極まったのか。いや、ハジメが感じていた従兄への違和感だ。ずっと感じていたのがやっと言葉になって溢れた。
「じゃなくてさ~。何て言えば伝わるんだ? お前さ~ゼロって仮面をずっとかぶってるだろう。嫌な事とか辛い事とかあっても全然こっちに伝わらねえ。ゼロ仮面で何を考えてんのか隠してんだ。名前だってさ~死んだ兄貴の名前でさ~本物のお前ってどこなんだよ」
言われなくても自覚はあった。敢えて感情に蓋をしたかもしれない。考えているよりも行動が必要だったから、エネルギーはそちらに向けた。でもハジメの言葉が全て正解ではない。
「酒が抜けたら話そうか」
「俺は酒が居るんだっての!」
解放してくれそうにない。仕方なく続けた。
「オバサンは名前が記号だってよく言うんだ。でも僕はそうは思わない。そこに何か想いがあるんだよ。他の人からはただの記号かもしれない。でもお互いにそれが通じていればいい。兄は両親に可愛がられてた。僕もそうだ」
愛した名前を、再び愛する対象が生まれたので名付けた。兄の代わりではない。弟も、また愛しい息子だ。
「ゼロって呼ばれるのも好きだよ。でも僕は『玲市』が嫌だと思った事はないんだ。一度もね」
それからハジメの方を向いた。
「ハジメの名前だって唯のイチじゃないだろう? 二三ちゃんも五六くんも、ただの数字じゃないかって言う人がいるかもしれない。でも家族でお互いにそこに込められたものが分かっていればいい。僕はそう思う」
「何をごちゃごちゃ言ってんだ。お前、呑みが足りないな」
話をさせておいてどこまで耳に届いたやら。ハジメが空のコップを玲市に差し出した。
「ほら、呑め」
「空っぽだ...」
「ナニ言ってる。こーゆー所で飲まないっておかしいだろ。せっかく勧めてるのに飲めないってのか、コラ」
「それって酔っ払い鉄板ネタじゃないか」
ハジメは俯いた。両ひざに肘を置き、がっくりと頭を垂れる。すすり泣きが漏れた。情緒が安定しないようだ。
「一人なんて淋しいじゃないか。なあ...」
突然がばっと身を起こした。そのまま玲市に抱き着いた。殴られた腹はまだ力が入れられない。煽りをくって二人はそのまま倒れた。玲市の背中に岩が当たる。腹も痛い。コップが転がった。
「ちょっと! やめろ」
玲市の静止はハジメの号泣にかき消された。岩に砕ける波の音よりも激しく、玲市に縋りついたままでハジメがすすり上げる。
「泣けよ~悲しかったら泣けよ~。おうちで一人なんて淋しいよ~」
涙とよだれが顔や胸に垂れてくる。もうあきらめた。手足の力を抜いた。暗い空にそれでも白い雲が浮かび、星が煌めく。
「一人じゃないよ。僕の為に泣いてくれるヤツがいる」
ぽんぽん、とハジメの肩を叩いた。
ピンク色が視界に入る。羽舞が河原を覗き込んだ。
「ナニをやってんのよ! 君らは! 仲良しさんなの?」
言葉のブーメランが返って来た。ハジメはまたがばりと跳ね上がった。コップを拾って酔っ払いと思えないほど軽やかにでこぼこの岩を駆け上がる。
「そうだ仲良しさんだ!」
いてて、と呻きながら玲市も起き上がった。べとべとになった顔を腕で拭った。
(つむじ風みたいだな)
あちらこちらへ自由に動き、空気をかき回す。彼がいるだけでがらりと雰囲気が変わる時もある。玲市は、おそらくこの地からもう離れられない。そんな自分が川なら、彼は自在に動く風だ。
川辺に笹舟が一つ迷いこんだ。黄色の菊と人形が乗っている。浅瀬でくるくると回り、流れて行けない。そっと押しやった。しばらくはとどまるかのようだったが、やがて大きな波に吸い込まれて本流にさらわれた。
(行け行け...)
魂のたどり着く先へ。
隣町の水死体はまだ身元が判明していない。また女王はどうなったのか。猿の色紙を思いだす。描かれた姫は目を閉じていた。口から吐き出すのは息か魂か、二度と目覚めない眠りについたのか。
(御霊流しにもう一つ花が必要かな)
それに添えられた文言は『キレイごと抜かすヤツが汚いマネしちゃいけないよ』。おそらく免許証の盗み見や銃とナイフの持ち出し及び御徳苑跡のトラップを指しているのだろう。
(トラバサミは安中さんがセットしたんだけどな)
二枚目は馬の背に乗る狐の絵だ。片足で立ち、バランスを取る為か大きく手足を広げている。まるで踊っているようだ。馬の背に狐を乗せたようだ、という慣用句がある。アンバランスで危なっかしいという例えだ。添えられた文言は『馬の背を乗りこなせ キツネ野郎!』。感嘆符が色紙の面積三分の一ほど占めている。物問橋の名称はかつて馬背橋だった。
(応援されているのかなあ)
住人を託された上での応援だと好意的に受け取る事にした。
(馬背キツネか)
人を騙して家路と違う方向へ誘導し、穴へ落とすという狐だ。玲市は女王だけではなく、ハジメを物問橋という場所に落としてしまったのか。
(そういえば爺さんの部屋に狐の面があったな。今度は僕がかけるか)
ゼロという仮面を脱ぎ、新たな顔になる。猿の次は狐がいる橋。悪くないかもしれない。
羽舞とハジメはまだ何か言い合っている。屋台の客も少しずつ増えてきた。
人々の騒めきと川のせせらぎ、遠くで響くレールのきしむ音。地上の全ての音が中空で混ざり合う。不揃いな音楽を天の闇が受け止めて抱きしめる。どこかで魚が跳ねた。飛び散る些細な飛沫さえ、世界を彩る祈りの形。
了
雨は未明にやんだ。空のほこりまで全て洗い流したような朝が来た。
玲市が車で出かけたまま帰って来ない。イベントの前日だし用事があるのかもしれない。定時の防災無線では、まだ水死体の身元は判明せず、引き続き捜査を進めているとの放送だった。車の事故などはなさそうだ。
放送が終わってすぐにハジメは物問橋に向かった。開門時間前なのに扉は開いている。それなのに住人は誰もいない。もちろん玲市もだ。観光協会横の広場では、遅れていたテントの設営がもう始まっていた。
橋の上でぼうっとしていると、電線を抱えた数人がやって来た。もう顔見知りの観光協会職員たちだ。
「おう兄ちゃん。手伝いか」
「はあ...まあ」
「協会行きな。やることを教えてくれるから」
彼らは空の部屋に入った。後を付いていく。部屋の境界の壁は天井までない。なのでそこに電線を渡して屋根に提灯をぶら下げるそうだ。やはり住人はいない。荷物は大部分を残したままのようだ。
(うーちゃんに何か聞いてみるか)
階段を降りかけた。すると体の大きな男性が現れた。黒いシャツながら人目で分かるほど泥だらけでびしょ濡れだ。ジーンズの裾にはドクダミの葉がへばりついている。髪はもしゃもしゃで無精ひげが伸び放題だ。彼はむくんだ目でハジメを見た。
「おう、イトコ」
「はあ? あ、その声。もしかして猿?」
素顔はどこにでもいるような壮年男性だ。
「どうしたんだよ? みんなどこ?」
「知らねえのか。ちっ、誰とも会いたくなかったぜ」
彼は足を引きずりながら階段を上がった。
「もう少し早く来たかったんだけどな。つい寝ちまった。バスの本数もありゃしねえ」
玲市の車は施錠済だ。使えなかった。
「ゼロがどこか知ってる? それにその泥...穴にでも落ちた?」
「うるせえ!」
猿はどん、とハジメの肩を突いた。協会の職員たちとは目も合わせない。ずんずんと自分の部屋に行く。開きっぱなしのスーツケースから一旦すべての荷物を放り出した。服が床に散らばる。びしょ濡れの服を脱ぎ捨てた。ハジメなどいないようにパンツまでその場で取り換える。それから改めて数枚だけ拾って入れ直した。
ぽかんと見ているハジメに、軽く舌打ちをした。奥の部屋に行くと色紙と筆ペンを出した。ささっとしたためる。それをハジメに押し付けた。
「これをキツネ野郎に渡しておけ」
「へ? キツネ? 誰」
物問橋はいつから動物園と化したのか。
「馬背キツネも知らねえのか。ゼロは化けてた、ヤツはキツネだ」
「えええ?」
猿はため息をついた。そして部屋を見渡す。窓からは白い朝の光がさしこみ、幾つもの筋になってきらめく。
「女王様は?」
ハジメには聞きたい事がたくさんあった。しかし猿は彼が言葉を続ける前に首を振った。
「港の女は港にしかいねえんだ。俺はその港を目指していくぜ。俺はもう猿じゃねえ。そうよのう。エースのジョニーさんとでも呼んでくれ」
「ふ~ん。どこかで聞いたような良い名前だな」
彼はもうハジメに背中を向けていた。スーツケースが床のくぼみにハマってよろめいた。
「でかいスーツケースだね」
「そりゃお前。人一人の人生を詰めるんだぜ。これから女王...じゃねえ。眠り姫を迎えに行くんだ。早くしないと人が...」
最後は独り言のようだった。後ろ手を振って彼は部屋を出た。
「え~何だよ?」
訳が分からない。職員が入って来た。
「ここの飾りつけするから。うわ~散らかってんな~」
彼は突っ立っているハジメにしっしっと手を振った。
「準備がたてこんでんだよ。設営頼むわ」
「へいへい」
彼は住人には興味が無さそうだ。急いで協会に向かった。いつもなら受付の近辺にいる羽舞の姿がない。
「あの~うーちゃんいますか?」
「外、外! あ、コレ頼みます!」
職員からチラシの束と、かぶるタイプのゼッケンを渡された。緑地に黒くSTAFFと染め抜きがある。
「広場と、テントの中と...もうラックは設置してあるはずだから補充しておいてね」
橋に顔を出したのは数日だ。だが手伝いをしたおかげですっかり顔は売れているらしい。
(まあいいか)
本来なら玲市の仕事なのだろう。手伝いに来ているのだから代わりに動くのはやぶさかではない。大人しくスタッフと化した。一人のスタッフとしてしばらく言われるがままに資材を運び、案内板を設置などしていた。制服の羽舞も見かけた。あちらこちらで走り回っている。ツインテールのリボンも健在だ。声を掛ける暇は無かった。
観光客も増えて来た。駐車場から遊歩道を歩いてやってくる。その中に明らかに不自然なグループがいる。まるで結界を張っているかのようにそこだけ人が避けていて空間ができている。朝の光にはとうてい似つかわしくない四人連れだ。
玲市はサイズの小さなシャツをまとい、ジーンズは泥だらけ。背中に公俊を背負ってよろよろ歩く。後ろに黒づくめの小柄な老女と風船をたくさん腰に括り付けた老人。右手にギプス。
気が付くなりハジメはそちらへ向かった。
「ゼロ! どうしたんだよ」
玲市の顔は青ざめて生気がない。目の下には真っ黒な隈ができているうえ、左頬には殴られた痕、いわゆる青タン。襟で隠れてはいるが、首にも赤い圧迫の痕が残っている。
「ハジメ...頼む。爺ちゃん代わって...」
言われるまでもない。公俊を歩道に下ろす。口がへの字に曲がっている。むすっとしたままハジメの背に移った。
「はあああ~。痛い...」
膝に両手を付き、がっくりと玲市が体を丸めた。そして腹を抑える。
「トイレ行くか?」
「そういうんじゃないんだ」
オバサンは先に歩き始めた。
「夜遅くまではしゃぎ過ぎだよ!」
「どうしたの? 何があったんだ?」
彼女も口を引き結んだ。じろりと玲市を振り返り、またずんずん歩き始める。爺さんはさっきからおとなしく着いては来るものの、左手でずっと風船を撫でながらぶつぶつ呟いている。
「僕は良かれと思って」
玲市の発言に、すかさずオバサンが反応した。
「アンタが良いと思っただけだろう? 結局は相手に自分の思い通りにしてもらおうって魂胆だよ!」
「...そうなのかなあ...」
御徳苑跡に人影がないのを確認したうえで、神社の開門早々に三人を連れて戻って来たのだ。
数日間、色々な準備に走り回って寝不足だ。隙を狙って夜中に橋に忍び込んだりもしている。さらに猿に殴られ蹴られ、首まで絞められた。体のあちこちが痛い。眠気と相まって玲市の体力と気力も限界だった。御霊流しの初日だ。客と職員の橋の出入りも増える。猿と女王が戻ろうが、すぐにどうこうはできないだろう。というか、もう何も考えたくない、考えられない。
住人ご一行は周囲の視線を浴びつつ、橋まで戻った。玲市は手すりにもたれながら背中を丸めて階段を上がった。腹筋を伸ばすと痛い。
「ハジメ...後は頼んだ。もう寝る」
「はあ?」
よろよろと玲市はその場を離れた。公俊の部屋は気まずい。レディは自分のベッドに男を寝かせてくれないだろう。となると猿の部屋しかない。公俊を背負ってどこか怒り顔のハジメを残して、猿と爺さんの部屋に入った。協会の関係者がいるがどうでもよかった。軽く会釈だけする。散らばっている中には泥だらけの服もあった。箪笥代わりのスーツケースがない。
(一度戻ったか)
そういえば駐車場には猿の車が無かった。
(神社からどうやって帰った? まさか歩きとか。女王は?)
神社から橋まで十キロほどある。バス便もあるのだがあまりの眠気でもう思考が停止寸前だった。
(ううぅ...こんな所で寝るとは...)
警察に突き出そうとしたのに返り討ちにあってしまった。そんな相手の寝床である。夢見が悪そうだがもう睡魔が全身に伸し掛かる。それなのに神経が興奮しているのかなかなか寝付けない。
猿の免許証は、ずっと以前に見ていた。貴重品の管理が意外と甘かったのだ。敢えて盗み見ずとも、口の開いた財布が転がっていた事さえある。覚えていたのは名前と記載住所の県名くらいだ。もちろん彼の正体を知っておくのは、公俊の安全を担保する上でも重要ではあった。だがプライバシーを詮索するつもりは毛頭ない。
女王はバッグを手元からなかなか離さなかった。外出には持参する。だが部屋にいる間の方が隙ありだった。そしてやたら重いカバンに銃とナイフを見つけたのだ。猿と話している間、部屋を訪れる玲市にはあまり関わろうとしなかったからだ。
(淑女のナイショを盗み見るなんて、紳士の風上にもおけない。まあキツネ呼ばわりされたしな。馬背キツネならそれくらいやるよ、きっと)
二人が夜に外出した際に玲市が橋に忍び込んだ晩だ。さすがに持ち歩かないだろうと踏んだら案の定だ。
もう二人はいない。戻っては来ないだろう。警察に届ける気持ちはもう無かった。あの凶器は物証になるとしても、女王が不在なのに井乃の事件を蒸し返すのは得策と思えない。井乃が関わった詐欺事件も故郷に晒される。
それでも。
もっと上手くできなかったのか。あれ以上に良い方法があったのでは。自問を繰り返す。何度も、何回も。
爺さんを連れて来たハジメが見たのは、猿のベッドで丸くなって眠っている玲市だった。まるで赤ん坊のようだ。ここに来て初めて、ハジメが見た無防備な姿だった。
ハジメは観光客にやたら声を掛けられる。スタッフゼッケンを付けているから当たり前だ。トイレの場所やらバスの発車時間やら迷子やら。完全に雑務係と化してボランティアに邁進する。ひっきりなしの声出しが、ハジメには楽しかった。気分が高揚するというのか、性に合っているのだろう。
「はいはいトイレは協会の建物か、駐車場ね」
数日ながらもすっかり物問橋周辺に詳しくなった。
「おう兄ちゃん!」
そんな中で笑顔で寄って来たのは車夫だった。
「すっかり板についてるな」
「従兄の代わりなんですが、祭りって感じがいいなぁ~」
車夫は休憩中だと言う。二人で協会の裏へ行った。彼は自動販売機でコーヒーを二つ買い、一つをハジメに寄越した。
「ほれ。頑張っているからな」
「ゴチです!」
冷たいコーヒーが喉を潤す。
「ところでちょっと聞きたいんですが」
ハジメにはずっと気になっていたのだ。
「どうして爺ちゃん以外の人も住んでいられるんです?」
「爺ちゃん? 二人いるぞ」
「公俊の方。俺の名前を言ってなかったっけ? 酒居一、酒が居るのが一番って。俺は孫だよ」
「ああ、屋台村でそんなの聞いたな。それでラーメン馬瀬の従弟か」
そうか、と車夫は目を細めた。太陽の眩さだけではなさそうだ。
「まあ物問橋は文化財とかじゃないってものあるけどな」
昭和の高度成長期に再現された復元物だ。公的お墨付きは何もない。
「婆さんは知らないが、もう一人の爺さんは馬瀬の出身らしいしな」
ハジメはうん、と頷いた。病院で『馬瀬』という苗字に反応していた。おそらく本名なのだろう。
「五人組とか講とか知ってるか?」
オバサンと名乗る相手に婆さんか、と思ったが黙っておこう。前者の単語は歴史の授業で習った気がする。地域の連帯責任を図る制度だ。一緒になって税金を納めるのではなかったか。
「五人組って江戸時代の話じゃなくて?」
「この辺じゃまだあるんだよ。少人数の親睦会とか互助会みたいな。組で道の普請をしたり、農作業の手伝いをしたり。ああ、メシも一緒に喰ったりしてな」
「コウは?」
元々は仏教の教えを講義する会合だ。しかし馬瀬では経済的な結合を意味する。少しずつ皆でお金を出し合って積み立てて、旅行や宴会に使う。天候不順で凶作なら収入の補填に当てる。相互扶助のシステムだ。雪国といっていいほど寒い地域で、長らく経済活動が停滞している馬瀬市だ。相互の助け合いが地域にしっかり根を下ろしている。
公俊以外の住人が居ついても、強引に追い出さないのはそうした助け合いの精神が生きているからだ。爺さんとオバサンは明らかに経済的に豊かではない。
「ちょこちょこ顔は入れ替わってる。それにキレイに使ってるしね。争いごとは苦手なお国柄だし。まあ酒居先生が居るかぎりは目をつぶってやろうかって所だね」
「そうかあ...爺ちゃんってば罪作りなのか役に立ってるのか分かんねえな」
「ラーメン屋が大変ってのは知ってる。あの子はよくやってるよ」
従弟の自分が知らなかった事をどこまで分かっているのだろう。それが顔に出ていたようだ。車夫は笑った。
「向こう三軒まで、冷蔵庫の中身まで知っている町だぞ」
「えぇ~! ツマミを借りに行ったりできる?」
冗談だ、とまた彼は笑った。それだけ地縁が強いのだ。それは悪い事ばかりではない。橋の住人が自活していける。
埃を全て洗い流したような空は青い。綿をちぎった雲が流れる。遊歩道に出ればあの馬瀬岳が見えるだろう。重厚な立たずまいの橋が流れを跨いで聳える。自分のルーツの風景に、確かにハジメは包まれている。物問川で自分は何を問うだろう。
車夫がじゃあな、と立ち去った。入れ替わるように羽舞が駆けて来た。
「あっ、イトコ! お疲れ! 夜、おでん屋に行くからね。ゼロちゃん連れて来て」
ポニーテールを揺らしてハジメの横を駆け抜けた。
(ちゃんと働いてんなあ)
真上から太陽が照らす。腕時計が正午を示す。
「あ」
配食はどうなっているのか。慌ててスタッフゼッケンを脱いだ。そして駐車場のバイクの元へ走った。
何だか男臭い。玲市は夢うつつだ。しかし薄い敷きパッドから猿の残り香を感じてしまう。あんまり気分は良くない。体があちこち痛いままだ。だいたい布団が薄すぎる。
「起きろ」
肩をゆすられた。
「痛い...」
思わず呻いた。目を開けた先に眉をひそめたハジメの顔があった。ペットボトルを手渡される。
「もう夜だぞ。大丈夫か?」
「うう」
唸りながら半身を起こす。室内が黄色の灯りで満ちている。外の壁に下がった提灯のおかげだ。一気に水をあおった。昨日の晩から何も食べていないし、汗まみれで気持ちが悪い。シャツのボタンを胸まではずした。首の圧迫痕が露わになる。ハジメの顔が歪んだ。それを見ないふりをして尋ねる。
「猿は?」
「一度戻ったよ。これ、お前にって頼まれた」
色紙が二枚だ。さっと目を通した玲市はちょっと眉をひそめた。すぐに傍らに押しやる。
「いつ来た? 女王様は?」
「朝。一人だったよ」
「何か言ってた?」
「う~ん。大した事は...。すぐ出かけたよ。スーツケースを空にしてた。港を目指すって」
「え...? 柏崎? 鯨波か?」
長いトンネルを抜けた向こうの海水浴場が頭に浮かんだ。
「さあ? 眠り姫と同伴らしい。女王様には振られたかな」
うう、とまた玲市は唸った。そっと頬に触れると熱を持っているようだ。女王は眠り姫になってしまったのか。床に散らばった猿の服を見ると、中身はほぼ出したようだ。何を詰める為か、空のスーツケースを持ち出したのだ。
「どうしたんだ? 殴られたか。その首、ヤバいな」
「猿と女王様をめぐって喧嘩した...負けた」
「何だそりゃ。それでどうしてやられた奴のベッドで寝る気になるんだか」
「いやその...」
もう何も言えない。口をもごもごさせるばかりだ。
「爺ちゃんズに昼と夜のご飯を運んだから」
「...お世話になります」
「その為に来たんだしな」
ハジメはまだ心配そうに玲市を見ている。殴られたのは頬だが、内出血が顔に広がり、左目の周囲が紫のアイラインを派手に塗ったように変色している。
何で住人揃っていなかったのか、玲市だけ殴られて戻ったのか。聞きたい事はたくさんある。しかし今ではないな、とハジメは判断した。少し時間を置いた方が彼も落ち着くに違いない。
「動けるか?」
「まあまあ」
「うーちゃんがおでん屋に来いってさ」
店名を聞かなくても玲市は頷く。
「分かった。ハジメも行く? 『ケンちゃん』って屋台」
場所は屋台村から少し離れた川沿いだ。神社からは下流になる。
「僕は一度戻るよ。シャワーしてから行く」
「......そうだな」
ちょっと返事に空いた間の意味は何か。ハジメの眉間に微妙な皺が寄っている。
「着替えろよ。爺ちゃんが怒っていたぞ」
「......服のネタをまだ引っ張るのか...。ハジメ、笑っていいんだからな!」
しかし従弟は逆に口角を下げた。視線を落とす。
「サイズの小さな服を借りるなんてなあ。有難いけど切ないよなあ」
鈴木さんの息子のTシャツを思い出す。玲市は大人の服だからまだマシだが。ハジメが何を思い出しているのが見当もつかない玲市も微妙な皺を眉間に浮かべた。ハジメが半笑いで言った。
「あ~爺ちゃん。絵描きさんな。コーヒーを代えてくれってさ」
オバサンの予言が当たったか。好物を苦手にさせてしまった。と一瞬思ったのだが。
「あのコーヒーを飲むとよく眠れるからそっちの方がいいって」
口に含んだ水を噴き出す所だった。無理に飲み込んだせいで激しくむせた。心配と問いかけがないまぜになったハジメの視線を感じるが、完全無視だ。
お互いに含むものを抱えたまま部屋を出た。橋がライトアップされていて明るい。ハジメが言った。
「ライトはタイマーで九時に切れるってさ」
「みたいだね」
それまでは橋が川を照らす。いつもは黒々とした夜の川も流れの模様がゆらゆらと白く輝く。それに乗って菊花を乗せた笹舟が揺れる。数はまだあまり多くないが、ろうそくを灯す舟もあった。
おでん屋の出店場所を正確に伝えた後、いったん二人は別れた。
民家も途切れて暗い畑が続く。国道の灯りに蛾が群れて光をにじませる。車のない駐車場が『ケンちゃん』の営業場所だ。道の反対側がなだらかな岩だらけの斜面で、そこを下ると河原に出られる。
夏でもケンちゃんはおでん一筋だ。赤い提灯にも羽虫が寄って来る。近くの地面から香取線香の薫りが漂うが、出汁の香りも負けていない。数段積みあがったビールのケースがテーブルだ。屋台に作り付けの三人ほど座れる席だけだ。それ以外は立ち飲みか、その辺に座りこんで飲み食いするスタイルだ。夜はまだ寒いくらい涼しい。玲市が到着した時には客はハジメ一人だった。
屋台の主ケンちゃんは口ひげを蓄えた小柄な男性だ。ほぼ白髪だがこの界隈では多分珍しいであろうアフロヘアに近いくるくるパーマだ。茶色のエプロン柄はクマちゃんだった。玲市を見かけると顔をくちゃくちゃにして手を振った。席にいたハジメも振り返る。頬が赤い。食べかけの大根が乗った皿の隣のコップの液体は。
「ハジメ。それ吟醸『馬瀬川』かな?」
「当たり! 屋台でおでん! 呑まないバカいる?」
いや運転が...と声を飲み込んだ。そうだそうだ、とケンちゃんも笑っている。
(代行頼むか)
約束の一週間は今日で終わりだ。玲市なりの怒涛の日々が過ぎ去った。ハジメは玲市の希望以上に動いてくれた。最終日くらい好きにしてもらうのも有りだろう。
座れ、とばかりに自分の横を叩いた。素直に座る。鍋の熱気が顔を包む。多少ふらふらする。夕べ頭を打ったかもしれない。軽い脳震盪でも起こしただろうか。
「今日のおすすめは?」
「時季じゃねえけど大根。味はしみてるよ」
「じゃあそれとコンニャクと...」
選んでいると上目使いのケンちゃんと目があった。
「どうしたのゼロちゃん。顔すごいよ」
「......ぶつけて...」
ハジメが叫ぶ。
「嘘つけぇ!」
「痛っ!」
ばん、とハジメの手が背中を打った。思わず体を丸めるが数回の追撃が来た。声も上ずっているし、もう何杯かお代わりしたようだ。
「ケンカだよ! 猿とキツネが殴り合ったってさあ」
「...やめてくれ...」
ケンちゃんが首をかしげる。
「へえ? ゼロちゃんでも手を出すケンカするの? 意外だなあ」
「...まあ...」
バイクが駐車場に滑り込んだ。黒いフルフェイスを脱ぐ。さらっと短い黒髪が揺れた。安中だった。
相変わらずあまり感情の出ない目で先客二人を見た。勝手に侵入した挙句、穴に落ちたハジメは少し肩を落として曖昧な笑みを浮かべた。それを無視して安中は玲市に近づいた。
「体調は?」
「何とか。夕方まで寝てました」
玲市も目をちょっと細めた。
「髪を切ったんだ...」
「空き時間があったんだ」
御霊流し初日だ。禰宜が暇なはずがない。玲市は少し寂しそうに微笑んだ。
「似合いますよ。少しは軽くなりましたか?」
しばらく安中は玲市を見つめた。視線を外すと、ケンちゃんに声をかける。
「俺も大根とコンニャク」
「はいよ。ビールは?」
「要らない」
皿を受け取ると、駐車場の奥へ行った。レンガ積みの植え込みの枠に座った。玲市は彼の前に立った。
「猿と女王はいなくなったみたいですよ」
「ああ。猿がスーツケース持って出て行ったって羽舞も言ってた」
橋周辺を走り回っていた彼女だ。目撃するタイミングもあっただろう。どうやって神社から橋へ向かったのか玲市は少し疑問だったが、もうどうでもいい事だ。
「警察へは?」
「お前と同じ考えだ。そうだろう?」
やっと少しだけ安中の目元が緩んだ。猿と女王をかばうのではない。井乃の静かな眠りを妨げない為だ。犯人と原因が分かったのが、安中や玲市に僅かな安寧を与えたのかもしれない。
屋台にもぱらぱらと客がやって来た。それぞれの場所で賑やかに過ごし始める。玲市と安中は口をつぐんだ。暗い川面が少しだけ見える。初日は供物が多いのだ。まだ花は川面を彩っていた。
安中がさっさとおでんを口に運んだ。
「もう行く」
翌日の中日は最終日に比べて多少は空くものの、やはり仕事がたてこんでいるのだろう。
酒の匂いをまとったハジメがやって来た。
「また密談? ちょっとお兄さん、俺の従兄をいじめないでくれる?」
はあ、と安中がため息をついた。
「会期中は神社にも屋台がたくさん出るから、穴じゃなくてそっちへ行け」
「まだ言うか、コイツ!」
手を伸ばす。座ったままの安中の髪をぐしゃぐしゃかき回した。
「あっ髪がない。カツラしてた?」
酔っ払いに論理はない。
見慣れた車が屋台の横に滑り込む。やっと羽舞が登場だ。客らと顔見知りらしくけたたましく挨拶を交わす。いきなりサイレンが鳴り響いたようだ。
「あっ先輩! かっこよくなったぁ! ねえうーちゃん頑張ったよ。うまくできたかな?」
安中の表情が柔らかくなった。
「ああ。助かった。俺はもう帰る。...御霊流しが終わったら、またゆっくり話そう」
そして羽舞のツインテールのリボンに触れた。細く長い指がピンクの布を撫でてそのまま髪を滑った。羽舞はその手を掴み、じっと安中を見上げた。
「絶対ね、絶対だからね。もっと褒めてね」
すかさずハジメが叫んだ。
「君らは! 仲良しさんか!」
急いで玲市がハジメの口を塞いだが遅かった。回りからヒューヒューと声が上がった。
安中はまた唇を引き結んでしまった。しかし皺の寄った眉間が当惑を見せている。玲市はそれに軽く頭を下げつつ、ハジメを川岸の方へ引っ張った。
「こっち来い」
だめだめ、とハジメは手を振った。屋台に戻ってケンちゃんからコップのお代わりを受け取った。それから腕を組んでいる玲市のそばに戻った。
「どこ行くの?」
「風に当たるか」
二人で川辺の石に座った。川から上がる風は冷たい。腫れあがった頬に心地よかった。
「もうしばらくこっちに居てもいいか? アパートとか目途が付くまででいいんだ」
口調は意外にも冷静だった。しかし突拍子もないお願いだ。玲市はハジメの顔をまじまじ見つめた。酔いの上の発言だろうが、真面目な表情だ。
「夏休みくらいはいてもらってもいいけど、アパートって?」
「うん。こっちで働こうかなって。卒業までは東京と行ったり来たりになるだろう? もう学校へはあんまり行かないけどさ。拠点があった方が楽だ」
「はあ?」
玲市にしては珍しい素っ頓狂な声が出てしまった。
「就職が決まってなかったっけ?」
「まだ内定だよ。断るから大丈夫」
「いやいやいや。よく考えようか。お前酔っぱらってるし」
「呑んでいない時に考えた。それに今も素面だし」
ふう、とため息が漏れる。きっと従弟にとってこの数日が物珍しい事ばかりだったのだろう。それで気分が浮かれている。東京に戻れば我に返るかもしれない。
「はいはい、分かった分かった」
「適当に言ってねえ?」
ハジメはまた酒を口に含んだ。じろりとにらむ視線にやはり酔いを感じる。玲市は思わず視線を逸らした。酒癖が悪いなコイツ、と思いながら。
「いるのは構わないけど...色々あるからあんまり世話はできないよ」
「けっ。こちとらガキじゃないんだ、自分の面倒くらい自分で見られるっての」
ハジメらしくない乱暴な口調だ。やはり酒が効いている。
玲市は黙って川面を見つめた。ハジメがこっちで暮らすなど、どこまで本気だか分からないのでまともに取り合う気が無かった。母が入退院を繰り返した今年、誰かと一緒に家で過ごすのは久しぶりのように感じる。煩わしさもあった。だが何かを頼めるというのが楽なのだと改めて感じたりもした。
しかし、母はもう家に戻る事はない。祖父はどうだろうか。笹舟に乗って流れて消えてしまうのはいつだろう。
「そうだね。僕は一人...一人でいい」
感傷的な言葉とは裏腹に、玲市の表情は表面に現れていない。ただ視線がゆらゆらと漂う笹舟を追うだけだった。突然ハジメの叫びが轟いた。
「玲市!」
びくっと肩が震えてしまった。ずっと愛称で呼ばれていた。本名でハジメから呼ばれるのはいつ以来だろう。
「な、なに」
ハジメは空のコップを近くの岩に置いた。
「お前は、お前自身はどこにいるんだ?」
「え? いやここに」
酔っ払いが極まったのか。いや、ハジメが感じていた従兄への違和感だ。ずっと感じていたのがやっと言葉になって溢れた。
「じゃなくてさ~。何て言えば伝わるんだ? お前さ~ゼロって仮面をずっとかぶってるだろう。嫌な事とか辛い事とかあっても全然こっちに伝わらねえ。ゼロ仮面で何を考えてんのか隠してんだ。名前だってさ~死んだ兄貴の名前でさ~本物のお前ってどこなんだよ」
言われなくても自覚はあった。敢えて感情に蓋をしたかもしれない。考えているよりも行動が必要だったから、エネルギーはそちらに向けた。でもハジメの言葉が全て正解ではない。
「酒が抜けたら話そうか」
「俺は酒が居るんだっての!」
解放してくれそうにない。仕方なく続けた。
「オバサンは名前が記号だってよく言うんだ。でも僕はそうは思わない。そこに何か想いがあるんだよ。他の人からはただの記号かもしれない。でもお互いにそれが通じていればいい。兄は両親に可愛がられてた。僕もそうだ」
愛した名前を、再び愛する対象が生まれたので名付けた。兄の代わりではない。弟も、また愛しい息子だ。
「ゼロって呼ばれるのも好きだよ。でも僕は『玲市』が嫌だと思った事はないんだ。一度もね」
それからハジメの方を向いた。
「ハジメの名前だって唯のイチじゃないだろう? 二三ちゃんも五六くんも、ただの数字じゃないかって言う人がいるかもしれない。でも家族でお互いにそこに込められたものが分かっていればいい。僕はそう思う」
「何をごちゃごちゃ言ってんだ。お前、呑みが足りないな」
話をさせておいてどこまで耳に届いたやら。ハジメが空のコップを玲市に差し出した。
「ほら、呑め」
「空っぽだ...」
「ナニ言ってる。こーゆー所で飲まないっておかしいだろ。せっかく勧めてるのに飲めないってのか、コラ」
「それって酔っ払い鉄板ネタじゃないか」
ハジメは俯いた。両ひざに肘を置き、がっくりと頭を垂れる。すすり泣きが漏れた。情緒が安定しないようだ。
「一人なんて淋しいじゃないか。なあ...」
突然がばっと身を起こした。そのまま玲市に抱き着いた。殴られた腹はまだ力が入れられない。煽りをくって二人はそのまま倒れた。玲市の背中に岩が当たる。腹も痛い。コップが転がった。
「ちょっと! やめろ」
玲市の静止はハジメの号泣にかき消された。岩に砕ける波の音よりも激しく、玲市に縋りついたままでハジメがすすり上げる。
「泣けよ~悲しかったら泣けよ~。おうちで一人なんて淋しいよ~」
涙とよだれが顔や胸に垂れてくる。もうあきらめた。手足の力を抜いた。暗い空にそれでも白い雲が浮かび、星が煌めく。
「一人じゃないよ。僕の為に泣いてくれるヤツがいる」
ぽんぽん、とハジメの肩を叩いた。
ピンク色が視界に入る。羽舞が河原を覗き込んだ。
「ナニをやってんのよ! 君らは! 仲良しさんなの?」
言葉のブーメランが返って来た。ハジメはまたがばりと跳ね上がった。コップを拾って酔っ払いと思えないほど軽やかにでこぼこの岩を駆け上がる。
「そうだ仲良しさんだ!」
いてて、と呻きながら玲市も起き上がった。べとべとになった顔を腕で拭った。
(つむじ風みたいだな)
あちらこちらへ自由に動き、空気をかき回す。彼がいるだけでがらりと雰囲気が変わる時もある。玲市は、おそらくこの地からもう離れられない。そんな自分が川なら、彼は自在に動く風だ。
川辺に笹舟が一つ迷いこんだ。黄色の菊と人形が乗っている。浅瀬でくるくると回り、流れて行けない。そっと押しやった。しばらくはとどまるかのようだったが、やがて大きな波に吸い込まれて本流にさらわれた。
(行け行け...)
魂のたどり着く先へ。
隣町の水死体はまだ身元が判明していない。また女王はどうなったのか。猿の色紙を思いだす。描かれた姫は目を閉じていた。口から吐き出すのは息か魂か、二度と目覚めない眠りについたのか。
(御霊流しにもう一つ花が必要かな)
それに添えられた文言は『キレイごと抜かすヤツが汚いマネしちゃいけないよ』。おそらく免許証の盗み見や銃とナイフの持ち出し及び御徳苑跡のトラップを指しているのだろう。
(トラバサミは安中さんがセットしたんだけどな)
二枚目は馬の背に乗る狐の絵だ。片足で立ち、バランスを取る為か大きく手足を広げている。まるで踊っているようだ。馬の背に狐を乗せたようだ、という慣用句がある。アンバランスで危なっかしいという例えだ。添えられた文言は『馬の背を乗りこなせ キツネ野郎!』。感嘆符が色紙の面積三分の一ほど占めている。物問橋の名称はかつて馬背橋だった。
(応援されているのかなあ)
住人を託された上での応援だと好意的に受け取る事にした。
(馬背キツネか)
人を騙して家路と違う方向へ誘導し、穴へ落とすという狐だ。玲市は女王だけではなく、ハジメを物問橋という場所に落としてしまったのか。
(そういえば爺さんの部屋に狐の面があったな。今度は僕がかけるか)
ゼロという仮面を脱ぎ、新たな顔になる。猿の次は狐がいる橋。悪くないかもしれない。
羽舞とハジメはまだ何か言い合っている。屋台の客も少しずつ増えてきた。
人々の騒めきと川のせせらぎ、遠くで響くレールのきしむ音。地上の全ての音が中空で混ざり合う。不揃いな音楽を天の闇が受け止めて抱きしめる。どこかで魚が跳ねた。飛び散る些細な飛沫さえ、世界を彩る祈りの形。
了
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