馬の背の橋 物問川居座りの初夏 屋根付きの橋の住人は皆さんクセが強い

あべ舞野

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2日目 7月9日 橋に住む人々

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二日目 七月九日

 物問橋ものといばしの開門は季節によって違う。六月から九月までは朝八時半から夕方十八時までだ。ハジメは九時頃に橋についた。開門が朝早いのは、近隣の住民が利用するかららしい。観光客用駐車場から遊歩道をゆらゆら歩く。ボディバックとクーラーボックスを肩にかけたハジメを、犬を連れた女性が追い越して行く。広場にも人影がちらほら見える。観光場所であると同時に憩いの場でもあるようだ。
(あれは...ナイ)
 思い出しても冷や汗が出る。特製ペイントのヘルメットのせいだ。玲市から渡されたのは中華どんぶりのような模様だった。顔の縁取りには赤い図案化された『福』が羅列され、鳴門巻きがちぢれ麺を引きずって側頭部に流れている。
『他のメットは?』
『これしかないよ。母さんのデザイン』
 ペイントも玲子がこなしたそうだ。もうかぶるしかない。恥ずかしくてバイクに置いて来た。 
 もう梅雨は去ったのか空の青は染めたばかりのジーンズの色だ。刷毛で拭った白雲が夏の薫りだ。陽はまだ低いのに階段を上りきると汗ばむほどだった。ただ山国のおかげか皮膚にまとわりつく湿気がない。
 部屋と部屋の間にわずかな隙間がある。そこにちんまりと女性が座っていた。背もたれもない廉価であろう折り畳み椅子だ。暑くないのか黒のフードをかぶっている。長い黒の上着、スカートは靴まで隠している。ご丁寧に手袋も黒だ。背中を丸めて眠っている猫のようだ。隣に楽譜置きの黒い盤面に白い絵の具で「卜」と手書きしてある。
(と?)
 思わず足を停めた。女性のフードが動いた。犬に狆という種類がいるが、それに似ている。年老いてはいるが、年齢は定かではない。ちらっとクーラーボックスに目をやった。
「占いしてやるよ」
 しわがれた声ながら芯が通っている。やや下がっている瞼だが目は丸く大きい。
「あ、『うらない』ね」
 トは占そのものを示し、占いは結果を言う事を含めるという説がある。しかし手書きではカタカナのトと見分けるのは難しい。
「初回はただで見てやるよ。ほら手を出しな」
「いや~別に...」
「何を言ってんだい。素直に受け取るために差し出される物が『親切』なんだ。アンタ昨日もゼロと一緒に来てただろう」
「ああ...はあ。まあ」
 見かけた記憶はない。しかし彼女からは目撃されていたようだ。では玲市の知り合いか。それなら邪険に扱う事もない。彼はここでもゼロと呼ばれているようだ。
 その場でしゃがんで右手を突き出した。布越しでも感じる。指は小さく細い。そして手首に食い込む。
「えーと? そちらさんは?」
「占いのオバサンだよ」
「お名前...」
「名前なんてただの記号だよ。アタシは占いのオバサン。何度も聞くんじゃないよ。理解が遅いのかい?」
 彼女はごそごそと上着を探った。手にしたのは黒のマジックペンだ。迷う事なくハジメの手の平にかざす。手相の線を際立たせる為になぞるつもりか。テレビなどで見た事はある。しかしここには水道がないし、そこまでされたくない。あわてて腕を引いた。それでもオバサンはぎっちり力を込めて離さない。
「いやいや。そこまでのご親切は素直になりかねちゃう」
「人間、素直になるのが大事だよ。ふん。アンタは余計な事に首を突っ込んでは、ヘラヘラして逃げる相が出てるね。何とかなるさでやり逃げ可能だよ」
「は? いやいやいやいや、やり逃げって」
 やっと手を振りほどいた。握られた所が赤くなっている。
「アンタ、神秘十字があるね。ちょっと珍しい相だ」
 二本の線がクロスして十字に見える線だ。出て来る場所によっても意味合いが違うらしい。吉兆の予兆だったり警告だったりもするとも言われる。ハジメは改めて手を見た。確かにそのように見えるところがあるような、ないような。
「いい事があるんですか?」
「ああ。畳の上で死ねる」
 ずいぶんとざっくりした良い事だ。
「それって...どしゃ降りの産業廃棄物処理場の山のてっぺんに遺棄されていても畳は畳で...」
「意味が分からない事を言う子だよ」
 こっちのセリフだよ...と思うだけにしておく。彼女の言う通り厄介な事に、もはやうっかり足を踏み入れてしまった気がする。手が離れたら、もう彼女はフードを下げてしまった。また小さくなってじっとしている。初回は無料ならもう解放されたのか。
 クーラーボックスを抱えなおした。
 次の隙間だ。今度はお面の男がいる。地べたに直接腰を下ろしていた。彼の前には小さな風呂敷が広げられ、小さな木彫があった。背後には楽譜台がある。こちらに掲示されているのは色紙が数枚。『志集』とある。こちらにもつい足が停まった。墨があちこちかすれた勢いのある筆の文字がいびつに並ぶ。篆刻てんこくの色は朱。字ではなく可愛らしいイラストの猿だ。
『僕ってロマンが過ぎちゃうの だって空が好きなんだもん』
 自由律の和歌? 都都逸? 恐る恐る顔を上げた。すると猿の面とばっちり目が合ってしまった。
「あ、どうも」
 ハジメの挨拶を無視だ。じろじろと眺められる。どうせなら、とこちらもお面を観察した。かなりカリカチュアされている図柄だ。一番近いのは京劇の猿面だろう。あちらは布製だがこちらの材質は木のようだ。それをシンプルにして赤く塗った感じだ。額から顎の先まで覆う大きさだ。両脇と額の穴に紐を通して頭で留めているようだ。目と鼻と口に空間がある。黒いTシャツにジーンズ。どこにでも居そうな服装だ。全体的にがっちりしていて、ハジメより背が高そうだ。
「そちらさんは、お猿でいいんだっけ?」
 面が頷いた。やはりここでは名前は記号に過ぎないのか。
「お猿さんはロマン溢れてるんだね」
「猿でいい、ゼロの連れ。俺の心はいつも叫びを求めているのさ。他にもあるぞ」
 めくった次も力強い書体だ。
『甘えんぼさんは嫌いじゃないよ クリームソーダもね』
 どの辺りが彼の志なのか。端が黄ばんでいる色紙もある。
「これ、売り物なのかな?」
「おう。俺の言葉をぐっさり胸に刺した奴になら、売ってやらない事もない。俺はお安くないけどな」
「...そりゃ結構で...。こっちも作ったやつ?」
 十個に満たない木彫りの根付けだ。サイズはまちまちだが大きくても親指の半分ほどだ。波がしらを乗り越える鯨や身をくねらせる出目金、豆に乗る虫など種類はさまざまだ。木目があってなお、動き始めそうな細かい細工だ。
「いや。それは爺さんだ。この面も爺さんが彫った。篆刻も俺の生きざまをぶち込んでくれと頼んだぜ」
 改めて印面を見ると、小中校生向けのファンシー文具に似ている。何ともプリティだ。
「へえぇ」
 そう言えば二人いると玲市が言っていた。爺さんといえば。
「あ、やべ」
 食事を届けなくてはならない。挨拶もそこそこに祖父の部屋に向かった。
 昨日と状況はほぼ変わらない。祖父は椅子に座りっぱなしだ。あまりハジメにも興味を向けているようでもない。幸いバケツは空っぽだった。置いて帰ったクーラーボックスを交換で持ち上げれば、もうする事はない。
「コーヒー」
「は? ああ」
 昨日のように蓋をはずして渡す。公俊の目じりが下がった。
 会話は成り立つのか。念の為に尋ねてみる。
「オバサンと猿って名前を知っている?」
 ちら、と画家が目を上げる。
「無論。会ったか」
 おそらく『二人を知っているのか』という質問に受け取ったらしい。
「占いされたよ」
「信じる事は尊いぞ」
 ハジメの行く末は畳の上で決定か。
「猿は猿」
 本名は知らんのかい、と心の中で突っ込みを入れる。
(名前が記号ねえ...)
 自分の名前は数字の一。きょうだいの名前も同じ系統だ。それを思い浮かべて複雑な気持ちになる。親には親なりの想いがあって名付けたのだろう。ただの記号であるはずがない、と思いたい。
 会話がやはり途絶えた。水の音ばかり響く。続きの部屋との境は、隙間というには大きいふすま一枚ほどの空隙だ。
「えーと。あっち見ていい?」
 うんともすんともないので勝手にそこを抜ける。頭をちょっと下げて通れる高さだ。広さは同じだが、こちらにはかまどがあった。古民家でよくあるようないわゆる竃(へっつい)である。足元の穴に炭や薪を入れて火を興す。石造りのほぼ四角い上部には鍋やお釜を乗せる丸い穴。この部屋にも窓があるし、換気もできる。簡単な調理は可能だ。実際にかまどの部分には黒い燃えさしが転がる。水を入れた甕はない。しかしペットボトルが何本かある。時代劇に登場する台所と同じだ。江戸時代の長屋のトイレは共用で外風呂が主流だった。となれば。
(あとは風呂だけか。まあまあ住めるわけね)
 夏なら水辺で行水...って、ここは観光地だ。入浴も大問題な気もするが。
「じゃあ夕方。また来るから」
「大儀」
 視線が合わないままに部屋を出た。配食以外の時間は好きにしていいと言われている。手伝える事は本当にないのだろうか。さらに橋を進んだ。まだ土産物屋は開店前だ。
 最後の部屋の前についた。ここにも扉はない。垂れ下がったむしろが代わりだ。
「とんとん、お邪魔ぁ!」
 はい、と声がしたようだ。むしろが少し揺れた。皺だらけの手がむしろを上げた。殆ど髪のない頭がハジメの肩口あたりだ。残った白髪は短く刈られている。垂れた瞼からのぞく瞳はやや白く濁っていたが、見知らぬ来訪者へ向ける色は柔らかい。綿入れのベストを羽織っているのは暑くないのだろうか。
「爺さん?」
「そうだよ、私が爺さんと呼ばれている人だよ。どちらさんかな?」
「あ~ゼロって知ってる? 俺は」
「あれは良い子だね、優しいね」
「俺はゼロの」
「私たちの面倒までちゃんとしてくれるね、良い子だね」
「で、ゼロの」
「どちらさんかな?」
 言葉が詰まる。同じループにはまるのだろうか。
「......ツレです......ゼロのツレ...」
「ツレね。ああそう」
 まず『記号』を名乗るのが正解だったらしい。さっきの猿の反応といい、ハジメの呼び名はここではゼロのツレで決定だ。
「あっちで売ってる木彫を見て、すげえなって思ってさ。表敬訪問よろしく」
 少しだけ迷って通称で呼びかける。
「爺さんが作ったんだって?」
 彼の顔がさらにしわくちゃになった。
「そうだよ、私が彫ったんだよ。まだあるよ。見ていくかい?」
「ぜひぜひ」
 どの部屋も造りは同じだ。しかしこちらは生活の匂いがする。押し入れの中に家具を押し込めたように箪笥が二つ、ベッドが二つ。くしゃくしゃになったシャツや開いたままの雑誌が床に散らばる。これも箪笥替わりなのか、開いたままのスーツケースが横たわる。衣類が満載だ。
「猿もここに住んでるの?」
「そうそう」
 次の部屋は薄縁が敷いてある。脚が折り畳み式のローテーブルがある。昭和のホームドラマに出て来るような上面が緑色で黒い縁取りはあちこちが割れている。新聞紙の上にのみが数本並ぶ。丸や四角の大小各種だ。木製の持ち手は黒ずんでいた。木くずが散らばる。削りかけの作品もあった。
 同じようなテーブルがある。そちらには幾つかの面があった。能で使うような翁や女性の他に、ユーモラスなひょっとこや狐もある。
「猿のお面も爺さんが?」
「そうだね、私が彫ったよ。昔だけどね、面打ちもしたからね」
「今はやんないの?」
 爺さんの視線が下がった。
「材料がね。ああ、いいんだよ。流木がいっぱいあるからね。ただね、面を打てるとなるとね、木がね」
 能や狂言の面を作成するのは削るとか彫るではなく『打つ』という。ハジメはそれを知らないが、爺さんが技術を発揮できないのは分かった。
「まあ...でも爺さんすごいよ。俺、感動したもん。博物館で見るようなクオリティだし」
「そうかね、そう言ってくれるのはお世辞だね、でも嬉しいね」
「お世辞じゃないって。マジ」
 皺の中で目が筋になった。心なしか頬にも赤みが差している。彼はひょいっと机から一つを取った。翼を閉じて立つ鳥だ。それをハジメに差し出した。
「これはどうかな? ツレにあげるよ。持って行くといいよ」
「え~いや、金払いますよ」
 爺さんは背中を丸めた。伏せた顔の前で手のひらをひらひら振る。
「お代はね、もういただいたよ。言葉はね、気持ちの栄養になってね、私は心のご飯をご馳走様だよ」
 なんとなく猿の志集を思い出す。分かるような意味不明のような。少なくともハジメの言葉で爺さんの気分が良くなった。それは確かだ。
(それならっかぁ...)
 爺さんに礼を言って外に出た。根付をボディバッグに入れる。黄金の光線が目を射る。太陽が頭上にさしかかった。
(どうすっかな)
 家に戻ってもテレビを観るくらいしかない。ぼちぼちと駐車場へ戻った。まだ空きスペースはたくさんある。ふと見ると道路に観光の案内板が掲げられている。匠の邑までは五キロとあった。道順もさほど複雑ではない。天気も良い。クーラーボックスを後部座席に括り付けた。あのヘルメットをかぶってバイクにまたがった。
 道路はずっと川沿いだ。向こう岸は緩やかな里山が続く。軽自動車が楽に通れそうな遊歩道がずっと続く。それが途切れたところで匠の邑の案内板がまたあった。その通りに右折するとすぐに駐車場だ。ここにも観光案内所がある。古民家風だ。玄関脇のスペースに人力車が数台。時間が早いせいか客の姿はない。車夫は一人だ。腕組みをほどいて声をかけてきた。
「お兄さん、乗っていかない?」
 よく陽に焼けた肌に白いハチマキが映える。白い半そでの法被は裾に紺色の帯が染めてある。綿の赤いコットンパンツに足元はスニーカーだ。四十代くらいだろうか。ハジメの父よりは若そうだ。
「どこまで行けるの?」
 案内所の壁に観光案内図が貼ってある。車夫が振り返った。法被の背後にはやはり紺で『匠のむら』と染め抜いてあった。
「コースにもよるね。お試し体験十五分なら匠の邑を一周」
 他に物問橋の往復と、物問神社まで足を延ばすコースがあるらしい。暇な時間帯なのだろう。車夫はハジメに付き合い、観光名所の見どころとかも話してくれた。
「お好み次第でオーダーメイドもありだよ」
 値段も案内板に記載がある。それなりに良い価格だ。ハジメは首を振った。
「一人で乗るんじゃ寂しくて死にそう」
「俺がお話してあげるから」
「横に座ってもらったら、コレ走れないじゃん」
 車夫は苦笑した。乗らずとも人力車には興味がわいた。最近はあちこちの観光地にはあるが、これだけ近くで見るのは初めてだ。しげしげと眺めまわしていたら車夫が言った。
「それじゃあお兄さん、いっそ曳いてみる?」
 と人力車を示す。
「喜んで!」
 体力自慢というわけではないものの、アウトドア派のハジメだ。喜々として地面に置かれた持ち手を跨いだ。車輪は動かないように輪留めしてある。車夫に導かれてハンドルをまず握る。
「腰を落として。後ろに引っ張られるから気をつけてそーっと持ち上げる」
 車夫が手を添えてくれた。だが、やはり背後に重さを感じる。かなり力をこめてハンドルを持ち上げた。車体が傾く。後ろにのけぞってしまった。そこに定員二名の客だ。重量はかなりの物だろう。
「すげえー。重っ」
 またも車夫の力を借りて地面にハンドルを下した。
「引っ張り時が一瞬重いよ。車輪が回っちゃったらそれほどでもない」
「へえぇ~」
 景勝地を巡る仕事だ。緑の山々、川のせせらぎ、季節の彩。それらに包まれて見知らぬ人々とめぐる。一期一会ならではの楽しさや切なさもあるだろう。人見知りのないハジメには魅力的に感じた。顔に出ていたのだろう。車夫がハジメの肩を軽く突く。
「お兄さん、車夫になるか!」
「いいね」
 じんわり汗ばむのを心地よかった。静かな風が髪をなでる。父もこの空の下にいただろうか。顔も知らない自分の先祖達と同じ風景を見ている。不思議な感じがした。
 車夫に礼を言って、またメインストリートに戻った。
 その先に町が拓けていた。白い舗装の大通りをメインに、両側に案テーク民家風の建物が立ち並ぶ。ほぼ土産物屋か飲食店だ。それでも街路樹の柳の緑が空と歩道の白に映え、あちらこちらで風にそよぐのぼりが目を引く。
 地元名産の饅頭を買ってぶらぶら歩きを始めた。通りから幾つか横道もあるようだ。道幅が狭いくらいで同じような店が並ぶ。
 店と店の間に広場があった。人だかりと歓声だ。数人がしゃがんでいる。人々の背中越しに案内板を覗いた。水琴窟すいきんくつだ。
(或いは洞水門とうすいもんと呼ぶ。へえ~)
 ハジメには初耳の設備だ。日本庭園の水を使った装飾の一つだ。手水鉢とかつくばいのそばの地中に甕を伏せて埋める。上になる底の部分には穴を穿つ。つくばいから溢れた水が少しずつ落ちるように細工し、甕空洞に音を響かせる。排水機能を備えているのだが、その共鳴も琴の音として楽しむ仕掛けだ。近代ではすっかり廃れて実物はほぼ残っていない。昭和の終わり頃に再評価されたおかげで、各地で再現されて体験ができるようだ。
 匠の邑の物も再現されたデバイスだ。水を吐く竜の頭をいただく手水の下にすり鉢状に小石が敷き詰められている。中央に穴があり、そこに柄杓で水を注ぎ入れるのだ。これは観光客用だろう。
 一団が去ってから、ハジメもひしゃくを手に取った。がばっと水を汲み、ざばっと一気に流す。じゃばっ! 余韻に耳を澄ましてみるが...。
 いろいろとハジメのやり方が違うようだ。少なくとも琴の妙なる調べとは程遠い。男性用トイレで用を足した時を思い出した。
(これで合ってるのか?)
 首を傾げつつ案内板に目を戻した。かつて存在した御徳苑ごとくえんという庭園の水琴窟を元に再現されたそうだ。そこには複数のつくばいがあり、それぞれ違う音色を奏でるように調整されていたらしい。御徳苑の復元図も掲示されている。山水の庭がメインで、そこに水琴窟が設置されていたようだ。茶室や書院もあり、かなりの面積だ。地方の有力者の所有だったが現在はもうない。敷地は大部分が道路に、他は物問神社ものといじんじゃの一部になっている。
 腕時計を見た。昼にはまだ間がある。バイクなら神社まではそう遠くなさそうだ。匠の邑もどうせならゆっくり見たい。
(ちょっと見て来て昼メシこっちで喰うか)
 水琴窟の跡が少し残っているかな、と思ったのだ。特に琴の音に思い入れがあるわけでもなく、本当に暇つぶしのつもりだった。
 神社も国道沿いだった。そもそも山の多い地域だ。平地が少ない。昔ながらの建物は川沿いの平地になる。高くなりつつある陽を受けてひと際輝くこんもりした森が見える。そこが物問神社だ。ここにも駐車場があった。それなりに参拝者がいるのか潤沢な土地のせいか。橋付近のような大型バス用の区域まである。御霊流しの開催を伝える大きな看板があった。お盆と同日だ。敷地の案内図もある。あじさい苑とかサツキ苑だとか、複数の花園がある。他は森林で一周するとかなり時間がかかりそうだ。だが御徳苑跡の表示はない。
(んん~?)
 もしや神社の敷地外なのかと、また外に出た。壁沿いに進む。トタンの壁が木製に変わった。高さは二メートルほどだ。忍び返しの上から緑の枝が垂れている。何気なく手で壁をトントン叩きながら歩いた。ふと立ち止まる。ボルトで留めてある板を中心に、そこだけ半円の擦った跡があった。下の部分にはレールがある。板をつかむと、留めた部分に遊びがあるので少し持ち上がった。はずせないが、くるっと回る。一人が通れるほどの空間ができた。
(秘密基地みたい)
 膝を超える高さの雑草が行く手を遮る。しかし足元の草は踏みならされていた。靴二つ分ほどの幅だ。むっとする草いきれに加えてドブのような臭いがする。密生するドクダミのせいとばかりは言えなさそうだ。築山跡らしい土の盛り上がりもある。その先ではきちんと草が刈られている。そこから物問神社の参道らしい。となると、ここがどうやら御徳苑跡のようだが荒れ放題だ。
 後戻りするには、また草むらを踏まなくてはいけない。どうせならきれいな道を行く方がいい。神社の敷地へ向かった。踏み込む地面がふにゃふにゃと沈む。一瞬固い感触に当たった。軽い反発があり...。
 ばきっ。割れた。
「うわっ!」
 悲鳴と同時に体が浮いた。どん、と衝撃が腰に来た。ハジメはボディバッグごと穴に落ちていた。
「いてぇ...あれ...」
 何が起きたのかすぐには理解できない。割れた木の板の端っこと、穴の縁の雑草、そして青い空が見える。
「くっさ...」
 御徳苑跡に入り込んでからずっと感じていた臭いの元はここのようだ。息を吸うのが嫌だ。口をぱくぱくさせるが駄目だ。凶器と化した空気が呼吸器全体を突き刺す。苦い物が喉元までこみあげる。両足を踏ん張ると、そのままずぶずぶ沈む。さらに臭いが強くなる。穴の暗さに目が慣れてしまった。何かの毛束を踏んだ上に足首まで埋まっている。
「うわ、うわ」
 何とか片足を抜く。置いた先でぱき、と軽い音がした。毛の海から突き出しているのは骨...? 意図せず声が喉を駆け上がる。
「ぎゃああああっ!」
 穴の縁はハジメの肩口ほどだ。草まみれの地面に手をかけるが、ぼろぼろと崩れてしまう。ならば、と穴の壁に足をかけてみる。しかしここも同じだ。埋められているはずの壺はもはやない。
(で、出られない...? いやここ、畳の上じゃねえし!)
 オバサンの宣言が頭を駆け抜けた。不意に笑いがこみあげる。止めようがない。ハジメは明るい空を仰ぎ、大口で笑い転げた。頭が真っ白になるとはこういう状態なのだろう、と意識の片隅では妙に冷静な自分もいる。それがまた可笑しい。
 ひとしきり笑い転げたあと、意識に空白が訪れた。目を開いているのに何か見ている感覚がない。自分の呼吸が耳元で響くばかりだ。一言も形になる言葉もなかった。腹のあたりが軽く痙攣した。腐臭に耐え切れない。今度こそ口から吐しゃ物が垂れた。
「うぅ...」
 激しくせき込む。
「誰かいますか?」
 声がする。返事はすぐにできそうにない。無言のまま片手を挙げた。穴の上まで届いたようだ。
「ちょっと待って下さい! そっち行きますから!」
 ハジメにとってはかなりの時間が経過した。おそらく数分だろう。
「大丈夫ですか?」
 上から覗き込むのは作務衣さむえの若い男性だった。マスクを二重にかけていてもあまり効き目がないのか、眉をしかめている。ロープを垂らしてくれた。少し離れて足を踏ん張る。それを頼りにようやく穴から脱出だ。足元には木の板があった。玉砂利の道まで敷かれている。
 そこに上がると、体中から黒い汁がぽたぽた垂れた。
「うっ」
 男性は嫌悪感を隠さずに数歩下がった。
「...すびばせん...」
 口がうまく回らない。彼に促されて玉砂利の方へ進む。
「通行人から連絡がありまして。たまに入り込んで落ちる人がいるんですよね」
 だから救助用の道具も備えてあるのだろう。玉砂利と草地の間にはロープが張られている。その御徳苑側にプレハブ小屋があった。その壁に複数の木の板が立てかけられ、救助用なのか太い綱も下がっている。立ち入り禁止の札も立っていた。その横を通り抜け、ロープを跨いでようやく砂利道だ。
 ハジメは頭を下げるばかりだ。全身泥だらけでシャツは吐いたせいで酸っぱい臭いがする。靴は見るも無惨な状態だ。濃い茶色が染みて毛がいっぱい絡んでいる。
「どこか怪我は? 痛めてないですか?」
「...大丈夫...です...」
 敢えて言うなら鼻の粘膜が痛い。臭気と逆流した胃液のせいだ。
「とにかくこちらへ」
 通りすがりの参拝者がいかめしい顔で見る。
(俺でも見るわ)
 臭いわ汚いわ、とても清新な神社の境内とはそぐわない。真っ黒い足跡を残しながら、男性に誘導されるままに重い足を引きずった。社務所までやって来た。出入り口近くだ。御徳苑跡からそんなに遠くなくてハジメとしては良かった。裏手の駐車場に案内された。おそらく職員用だ。靴を洗うにはちょうど良い高さの蛇口がある。
「どうぞ。使っていいですよ」
「...ども...」
 まず口をゆすいで顔を洗った。はあ、と濁りのない空気を肺に満たす。
「穴の中に死骸っぽいのがありました...」
「狸ですかね。野犬とか落ちるみたいですよ。最近ではハクビシンも」
 骨は細くて小さかったので人間ってことは無いだろう。しかし落ちて打ち所が悪かったら...。塞いどけ! 心の中でだけ毒づく。
「どうした?」
 社務所の扉が開いた。ハジメが見上げる高さの男性が出て来る。宮司の服装だ。長い黒髪を後ろでまとめている。体は細く、色白だ。切れ長の瞳は黒曜石の色だ。それがじろりとハジメを見下ろす。暑さの中に不意に氷を首筋に当てられたような冷たさだ。男性だが『綺麗』という言葉が似あう。それでいて細身のせいか龍のような雰囲気もあった。
「また洞水門とうすいもんですよ、安中あんなかさん」
 彼は無言だ。頭のてっぺんからつま先までハジメを眺めまわす。作務衣の男性に声をかけた。
「立ち入り禁止の札は?」
「いつも通りでしたよ」
 ここで安中と呼ばれた彼はハジメに声をかけた。美貌とは似つかわしくない重い声だ。
「どこから入った?」
「あ、えっと」
 外からの扉はどこか秘密めいていた。咄嗟に口から出たのは嘘だった。
「ロープをちょっと...越えてしまって」
「なぜ」
 ハジメの言葉にかぶせるような問いだ。就職活動で体験した圧迫面接を思い出す。
「水琴窟が、その、ナニで」
「どこで水琴窟の事を?」
「匠の邑の案内板で」
 安中はふう、と軽くため息を吐いた。もうハジメに背中を向けた。必要以上の話をしたくなさそうだ。作務衣に言う。
「あそこの看板から文言を消してもらおう。あと所有者には俺から連絡しておく」
 彼はさっさと社務所に戻った。立ち入り禁止の場所なのに勝手に入ったのはハジメの落ち度だ。安中はそれなりの立場に見える。それなら不機嫌になって当たり前だ。ハジメはあらためて残った男性に頭を下げた。
「本当にすみません」
「まあ...怪我がなくてよかったですよ」
 ハジメは靴と靴下を脚からむしり取った。ジーパンはさすがに脱げない。ポケットのバイクのキーは少し湿った程度で済んだ。裾にも絡んでいる毛を洗い落す。ボディバッグを外して、思い切ってTシャツも脱いだ。暑い季節で本当に良かった。頭から水をかぶる。水浴施設以外の屋外で水浴びなんて初体験だ。頭をぶるぶると振ると犬の気分だ。
 作務衣の彼がいなくなっていた。社務所からすぐに出て来た。マスクははずしている。片手にはビニール袋を下げている。もう片手の腕に下げたシャツと黒いサンダルを差し出す。
「よろしければどうぞ」
「えっいやいや」
 一旦は断るものの、好意を無にできる格好ではない。オバサンの言う通り親切とはありがたく受け取る為に差し出されるのだと自分を納得させた。見るからにサイズが合わない水色のTシャツをかぶった。肩を通る時にびり、と聞こえたような。小さな熊の顔が全体にプリントされている。子供用らしい。サンダルはトイレでよく見かけるようなつま先が開いたシンプルなタイプだ。底が少し擦り切れているうえに埃で白っぽい。しかしとても助かる。
「洗って返します」
「いいえ、気にしないでください。ご自分のシャツと靴はお持ち帰りになりますか?」
 洗ってもタンパク質の腐敗の色は落ちるだろうか? そもそもアレを踏んだ感じが蘇りそうでもう触れるのも嫌だ。でも置いていくのも迷惑だろう。その逡巡を読まれたようだ。
「このビニールに入れて下さい。捨てておきますよ」
「あ、え~」
 迷っている間に、彼はさっさと汚れ物を袋に入れた。
「観光でいらしてるんですか?」
「はあ...親戚がこっちで」
 敢えて介護の手伝いだと告げる必要もない。
「あ、じゃあ御霊流しに合わせたんですね?」
 玲市にも確認された。この地方の一大行事らしい。
「まあ...はい」
 しかし取り合えずは服だ。ジーンズの替えは持って来ているが、一本では心もとない。それに獣毛を洗い落した時点で、もう一度履く気力は失せた。
 作務衣の彼に、近くで衣料品を買える店を尋ねた。バイクや車ならさほど遠くない場所にあるようだ。丁寧に礼を言ってその場を離れた。振り返ると、社務所の窓から室内が見える。大量の花が積まれていた。
 バイクにまたがるのも躊躇した。濡れた生地が尻にはりつくし、汚れがシートについてしまう。足元が不安定なのも心配だ。踏み込みが滑るし、せめてくるぶしまで覆いがないと転んだ時の怪我の度合いがまるで違う。
(安全運転、靴、ジーンズ、バイクの洗車...と)
 気を引き締めて神社を背にした。さらに山の方向に向かって二十分ほど走った。馬瀬岳は雲の白い帽子をかぶっている。川を挟んで道路と鉄道が併走し、間近に迫る里山との狭い平地が田畑になっている。稲は作付けしたばかりだろうか、尖った葉を中空へと伸ばす最中だ。
 教えてもらったのはスーパーの名前だった。道路沿いに看板があるので道順はわかりやすい。線路を越えて少し上がった場所にあった。広い駐車場をコの字に囲む形で幾つかの店が集まっている。東京ではあまり見かけない店名ばかりだ。スーパー、紳士服、おもちゃや雑貨、ゲームを扱う店が並ぶ。平日だがそろそろ昼になる。駐車場はそこそこ埋まっていた。
 スーツを扱う店ではなく、スーパーへ向かった。扉のガラスに映る自分に目が丸くなる。プリティなシャツは体にピタピタだし、ジーンズは濡れているうえ汚い。足元が素足なのは時節柄仕方ないにしろボディバックも水をかけたが泥は取り切れていない。
(だ、誰だ...俺か...肩ヤバい...)
 スーパーは衣料品や家庭用品も充実した品ぞろえだ。ここに来れば全て揃うのが売りなのだろう。ハジメは捨てた物の替えを揃えた。ボディバックも買い替えだ。中身は全て無事だった。爺さんからもらった鳥もだ。ついでに水の要らないシャンプーなる物も買った。
 食事をしてコーヒーなど一杯。そうするともはや何をするにも中途半端な時間になってしまった。観光地の施設は閉まるのが早いし、ゆっくり見られないだろう。
(意外と時間がないんだな)
 今日の出来事は、勝手に立ち入り禁止地区に入ったゆえの自業自得だ。だが一日二回の配食となると、遠出はできないし一か所に時間をかけられない。観光がメインで来たわけではないけれど、行動に制限がかかってしまう。親が入院しているとなると、玲市はさらに大変だっただろう。
 新しい靴は足になじまず落ち着かない。ちょっとかゆい頭を軽く掻いた手で鼻をこすった。
「っう...」
 先ほどトイレで石鹸を使って洗った。でもまだ抜け切れていない腐臭。髪か。髪だ。こちらはまだ水洗いだけだ。むしろちゃんと乾かさなかったせいで生乾き臭までしているかもしれない。もはや今日のこれからの予定は決まった。早々にバイクにまたがる。シートから心持ち尻を浮かせつつ玲市の家に戻った。
 駐車場に車がない。玲市は出かけているようだ。ハジメはまっすぐ二階に入った。すぐに風呂だ。タオルやせっけんも玲市が用意してくれているが、とりあえずは持参の分を使う。部屋着替わりのTシャツとハーフパンツの肌触りにほっとする。浴室横の洗濯機に、脱いだばかりの熊さんTシャツと昨日の着替えを放り込んだ。ジーンズはビニール袋に入れた上、ベランダに出した。視界にさえ入れたくない。風呂ついでにサンダルも洗った。
 髪をタオルで拭きながらリビングに行った。もはやソファが定位置だ。座ろうとして、ふと夕べと違う雰囲気に気が付いた。家具がないのが相変わらずなのだが、カンバスが梱包されている。
(イーゼルとかもないんだよな)
 とても画家の居場所とは思えない。半開きのクローゼットには、きちんと並んだカンバス。どちらかといえば無骨で土着の力強さを描いた公俊の画風とは違う。中間色のパステルカラーを多用して描線も茫洋としている。色合いはグレイを含み、可愛らしい色合いながら憂鬱さも感じさせる。フランスの画家ローランサンを思わせるというところか。
 クリアファイルに紙が数枚。絵の目録だ。作者は『酒居玲子』。画面のサインを確認した。筆記体のレイコと大きくSが伸びやかに踊る。結婚前の伯母の作品だろう。
 カンバスの束の後ろには、紐で縛られたスケッチブックが積みあがっている。表紙には年月と描いた場所のメモ書きがある。表紙の記名は『馬瀬玲市』だ。日付からするとゼロの高校時代だ。
 そっと紐をはずした。
(お邪魔しますよ)
 校舎の内外や、笑ったり走ったりする同級生の姿はもちろん、馬瀬岳など地元の風景が溢れている。安定したデッサン力に支えられた迷いのない線だ。リアルに描かれた細密画もあれば、前衛的に形を崩した素描もある。零れ出す自らの才能を余すところなく実験している様子だ。
(これ...伯母さんより巧い...。いや爺ちゃんと並ぶっつーか...。違う意味で爺ちゃんよりすげぇかも...)
 対象物を二次元に落とし込む技術が公俊よりも器用そうだ。ハジメにはもはや手放した才能だが、家族は絵を描く。良い物に触れる機会も多い。多少なりとも見る目があると自負はあった。
(あいつ...描いてないって...)
 丁寧に包まれた玲子の作品と、むしろ乱雑に積まれた玲市のスケッチブック。画材が一つもないアトリエ。
(画材は橋なのかな? 爺ちゃんいるし)
 洗濯機が鳴った。今日のうちに干せば、明日には返せるだろう。ハジメの思考はぷつんと千切れた。
「あ~もう時間か」
 午後の配食だ。髪は生乾きだが新品のボディバッグを背負って一階へ降りた。まだ玲市はいない。クーラーボックスは用意されている。人気がなく薄暗い室内に、ハジメの軽いため息が吸い込まれた。
 西の空はまだ明るい。しかしそこはかとなく黒さも感じる。天気が変わるのだろうか。橋の賑わいはひと段落した時間だ。扉代わりのむしろをめくった時、密やかな笑い声が聞こえた気がする。しかし絵描きさんは相変わらずだった。座りっぱなしでむしろ体に悪くないのか心配だ。夜は横になっているのだろうか。
「絵描きさん、ご飯。ちゃんと食べてる?」
「うむ。大儀」
 足元に置きっぱなしだったボトルは空のようだ。新しいのを渡す。
「蓋を開けておく?」
「大儀」
 やってくれって事だろう。ハジメは素直にその通りにした。それにしてもまだ一度も名前を呼ばれていない。公俊はさっそくコーヒーを口して目を細めた。
(色々と大丈夫なのかな?)
 東京に戻ったら、父に現状を伝えるのもいいかもしれない。玲市の負担が大きすぎるようだ。
「絵描きさん、少しは動いてる?」
「愚問。待っとるだけだ」
 これくらいはするぞ、と軽くその場で足踏みをしてみせる。座りっぱなしで血管が詰まってしまうエコノミー症候群が心配だったが、彼の言葉を信じるなら、訪問を待ってくれているようだ。昨日よりは会話のやり取りができる。少しはハジメと視線が絡むようにもなった。
 いけるかもしれない。
 昼間に購入した秘密兵器を取り出す。
「絵描きさん、シャンプーしようか?」
 え、と目が少し大きくなった。
「水が要らないんだよ。スプレーするだけ。昼間は暑いしさ、ちょっとはすっきりするよ。身だしなみだよ。おしゃれは大切!」
 ふむ、と公俊は頷いた。部屋の隅を指さす。
「まずそっちへやってもらおうか」
「へいよ」
 しゅ、と細かい霧が吹きだす。同時に涼しげなメントールの薫り。ふむ、とまた公俊が息を吐く。拒否の感触はない。
「こんな感じ。よろしいですかね?」
「苦しゅうない」
 初めて訪問した時から気になっていたのだ。よっしゃ、とばかりに頭頂部から全体に吹きかける。そこから装備してある抗菌シートでぐしゃぐしゃと拭いた。公俊の首がぐらぐら揺れる。それでも彼は黙ってさせるがままだ。
「お痒いところはございませんか?」
 定番の美容室シャンプーネタだ。祖父は大真面目に頷いた。
「背中の右側だな」
「はいよ」
 襟ぐりから手を突っ込んだ。右と言わず全面をこすった。拒否の動きがない。チャンスだ。そのまま首と腕など拭き清めた。次いでだ。ズボンの裾もめくった。膝ほどまでは拭けたが、それ以上はさすがに躊躇がある。一通り終わった後にはハジメの額に汗の筋が垂れていた。
「大儀」
 ホントだわ...と心の中で呟きながらも、ミッションを完了した満足感もあった。次回はタオルを持って来るのもありかもしれない。
「また来るよ」
 返事はない。しかし公俊の頭は確かに上下に揺れた。
(ずいぶん前進した感じ!)
 頬が緩む。
 太陽は山の稜線にかかりそうだ。橋の賑わいは収まり始める時間帯になった。かなたの西の空が何となく暗い。階段を下りている途中、はたと足を停めた。河原に綿入れのベストを着たままの爺さんがいる。腰をかがめてゆっくりゆっくり移動中だ。片手には数本の流木を抱えている。
「爺さん、手伝おうか?」
 近寄って声をかけた。彼にシャンプーは必要なのか。聞いた方がいいだろうか。彼はハジメを認めると顔がくしゃくしゃになった。
「ああ、ツレだね。まだ橋にいたんだね」
 枝は抱えたままだ。
「いやいや、また来たところで。もう帰るよ」
「それは忙しいね、でもそうしたいのならそうするのがいいだろうね」
「木彫の材料探し?」
「そうだよ、良い木があったら彫るよ。ほら、あの鳥がツレにあげた鳥。だよ」
 中州に白い鳥が羽を休めている。細長い首だ。ハジメにはあまり聞きなれない名前だった。
「え?」
「『え』じゃない鵜。あ~ウッの鵜だよ」
 マンボの合いの手か。爺さんは左右に揺れながらゆっくりゆっくり階段を上がって行った。
 観光協会付近に見覚えのある人影があった。長い黒髪を後ろに束ねたあの安中だ。白いシャツに明るい色のチノパンだ。仕事は終わったらしい。厳しめの口調を思い出して思わず背中を丸めた。背の高い壁に身を潜める。そんな必要はないのだが。
「あっ、イトコ! 隠れん?」
 羽舞だった。以前と同じ制服だ。ちゃらちゃら鳴るのは手にしたキーホルダーだ。数個の鍵が下がる。
「あぅ、いや、その。神社の人がいたような...」
「えっ安中さん? 知り合いなの?」
 ぶんぶん、と首を振った。
「今日、物問神社に行ってさ。ちょっと見かけた人と似てた」
 というか本人だろう。穴に落ちたのは内緒だ。
「そうなんだ~あの人目立つもんね! 背が高くて超カッコイイ! 学校の先輩なの」
 羽舞は階段を二段抜かしで駆け上がった。片手を唇に添えて大声を出す。
「閉門、閉門ですぅ~! 皆さん、終わりです~!」
 残っていた観光客がざわめく。それでもぞろぞろと階段を降り始めた。羽舞は彼らをにこやかに送りつつ、扉の前に居る事で早く帰るように圧をかけているかのようだ。
「どうして神社の人が来てんの?」
「匠の邑の案内板を直せってさぁ。何か勘違い? させるからって言うの。上の人と話をしてたから、うーちゃんよく分かんなぁい。アレ見て勘違いする方がおかしいぽん」
 ポンってなんだ。この女性って俺より年上のはずだよな、と思いつつハジメは話を案内板から逸らそうと試みた。
「うーちゃんの先輩って事はゼロの先輩?」
「そうだね。うーちゃんは伝統ある女子高に行ったけど、ゼロちゃんと安中さんは高校まで一緒だよん」
「うわ...まさかの同級生?」
 安中の方が年上に見えたのだが。
「ううん。安中さんが二コ上。でもみんな知り合いだね」
「そうかぁ...知り合い...」
 だとしたら不法侵入の上に救出という今日の粗相は、早々にばれるかもしれない。
「え~だってずっと地元だもん」
 ただでさえ少子化の現代だ。子供の数は少ない。通う学校もほぼ決まっているそうだ。地元に残っている若者は、ほぼ中学までは同じらしい。
 観光客はなかなか途切れない。地元の事はやはり地元の人に聞くのが手っ取り早いだろう。にっこりとしながらも橋に睨みをきかせる羽舞に尋ねた。
「今日、世話になった人にお礼を渡したいんだ。この辺なら何を用意すればいいかな? 消え物がいいかな」
「みそ団子!」
 即答だ。
「国道を南へ道なりね。駅前の成田屋さんのみそ団子が人気だよ。うーちゃんも大好き! 『みそ団子 みんな喜ぶうまい物』って馬瀬カルタにもあるの」
 また聞きなれない単語だ。馬瀬カルタとはご当地の名所や名物を詠みこんだいろはカルタだ。地元の小学生は必ず習うし、たいていの家に一組は置いてあるらしい。
「そらで言えるもんね。い、『いつも心に馬瀬岳を描く』。ろ、『労農ろうのう 名もなき在りし日の偉人』。は...」
「も、いいです」
「えっそ~お? 物問川もあるよ。『物を問う人か化物あやかし 物問川』」
 最後の観光客が軽く会釈して通り過ぎた。羽舞はハジメを促して階段側へ出た。
「なんで物問川っていうか知ってる? 小学校で習うんだ」
 かつては氾濫を繰り返す馬瀬川だ。洪水が起こるたびに川に様々な事を問いかける者たちが現れる。私の家は、愛しい人はどこなのか。それらを示すよすがでもいい、何か知らないか。手がかりを求めて人も幽霊も川岸を彷徨さまよう。物を問う川。それで江戸中期には呼称が物問川になった。
「そして俺は名物を問うってね」
「確かにー! イトコちゃんったら超うける!」
 扉は重そうだ。一生懸命押すのをハジメも手伝った。錠前に手をかけた。顔がハジメの正面から逸れる。がち、と鍵が回った。
「...牢屋みたいでしょ」
 迫る夕暮れのような声で彼女が言った。
「は?」
 ハジメはきょとんとした声を出した。
「いやいや。閉じ込めてるわけじゃなくない? 皆さん、ここに居たくて居るんだろ?」
 ふと見上げると、屋根の端っこに黒い金属の箱がある。豆粒のような緑のライトが光った。監視カメラだろう。しかし今どきは住宅街でさえ設置されている物だ。
「帰る場所があるなら帰ればいい!」
 濡れた布を壁にたたきつけるような勢いだった。だがいつもの笑顔をハジメに向ける。鍵の束をくるくる回した。
「さあ今日はおしま~い。イトコちゃんも帰ろうね~」
「あ、ついでにもう一つ聞いていい? この辺で夕飯を食べるのにいい場所ってある?」
 羽舞の手で、また金属音が鳴る。
「そうねえ。屋台村があるよ。和洋中とか何でもあるし、値段も手ごろね。観光の人でも入りやすいと思うな。飲んじゃっても代行さんが来てくれるよ。場所は...」
 案内をするのは『うーちゃん』ではなく観光協会職員の顔だ。ふ~ん、ちゃんと仕事するんだ...と思ったのが表情に出てしまったようだ。羽舞が唇を尖らせた。どん、と胸をどつかれる。
「ナニを笑ってんの?」
「いえいえ。ありがとう。明日でも行ってみるわ」
「うん。じゃあうーちゃん戻るね」
 西の彼方では、黒を含んだどこか淀んだ茜の雲が浮いている。そしてこれから夜の闇が空を覆うのだ。二段飛ばしで駆け降りる羽舞を見送り、ハジメは息を吐いた。胸の途中に何かひっかかりを感じる。
(まあ...みんなちょっとずつ普通じゃないよな...)
 今までの生活や常識と違う場所に居るのだ。きっとそのせいだ、と自分を納得させて橋を降りた。

 夕食は昨日と同じだ。何の愛想もない一階で、玲市の用意した惣菜を二人で食べる。
「ああ、ゼロ。そういえばゴミってどうすればいい?」
 今日どろどろになった諸々もろもろはまとめてビニール袋に突っ込んである。臭いはどうにもできそうにないので、できれば捨てて行きたい。
「可燃と不燃に分けておいてくれれば勝手に出すよ?」
「バッグってどっち?」
 玲市の手が一瞬止まった。
「不燃...でいいと思うよ?」
 なぜ、と聞かれないのもちょっと居心地が悪い。玲市の目が少し細くなっている。まるで面白がっているようだ。何か知っているのだろうか。
 店の電話が鳴った。玲市が腰を浮かせる。だがハジメの方が近かった。手で従兄を制した。部屋から店用のサンダルに履き替える。厨房内のちょっと黄ばんだ壁掛けの受話器を取り上げた。
「はい」
 と言いかけるのにかぶせて男の声がした。
「俺だ。今日、穴に落ちた奴がいる。塞いでおけ。出入り口もしっかり施錠しろ」
 そして切れてしまった。
(この声の感じ...安中さんか?)
 所有者に連絡すると言ったはず。それならば。
「誰?」
 布巾を手に、台所の玲市がこちらを見る。ハジメは部屋に戻った。
「名乗らなかった。一方的に喋ってガチャ切りだよ」
「出前の注文かな?」
 玲市の口元はうっすら笑っているようだ。でも目の奥に探る色を感じるのはハジメが気にしすぎだろうか。
「ラーメン一つ。じゃなくてさ。穴に落ちた人がいるからちゃんとしろって」
「ああ、御徳苑跡だね」
 あっさり玲市は頷いた。
「うちの...今は母さんの所有なんだよ」
 御徳苑跡は元は馬瀬家の地所だった。父市郎の死後、妻の玲子が相続した。御徳苑は全て国に寄贈して道路になるはずが、当時の適当な測量の為に一部残ってしまった。相続の際に計測しなおしたところ、物置のプレハブを含むあの草むらが御徳苑跡だと分かり、管理が馬瀬家に戻ったのだ。道路側の秘密めいた扉も、神社の門が閉まっていても中に入れるように作ってあるだけだ。
「神社が引き取るとは言ってるんだけど、条件面がなかなかね」 
 大人の事情がいろいろとあるようだ。
「一応立ち入り禁止にしていても入っちゃうんだよね。匠の邑に案内板があるせいかな? 水琴窟があるって書いてないのにね。あれを見て落ちに行く人ってちょっと...」
 いや、その『ちょっとの人』ですが! と、つい苦笑いになる。話を強引に変えた。
「そういえば、爺ちゃんの風呂ってどうしてんの? 今日は水の要らないシャンプーをしたよ。気休め程度だけどね」
「ううん、ありがとう。助かる」
 何だか会話が上手く回っていない気がする。玲市の言葉は常に表面だけを撫でて去る。そんな感じだ。
 それから他愛のない話を数分。他に二人でする事はない。玲市は明日の準備にとりかかるだろう。ハジメは二階に上がる。ずっと抱えている違和感は、まだ形にならない。
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