オメガのホストはベータとして生きる

宮路 明

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7)嫌悪

 梓は退院してから数日ほど経つ。

 身体の調子はそれほど良くなく、ここ数日は仕事を休み、ずっとベッドの上で一日を過ごしている。
 テレビも昼間は面白いと思えるものがなく、無駄にゴシップを垂れ流す番組に飽きて、梓はテレビをつける気も起きない。
 本も読む気力が沸かないほどに、身体は気怠さをぶら下げていた。

 気分転換に近くのコンビニにでも足を向けようと、梓はやっとの思いでベッドから抜け出し、部屋着から外出用の衣服に着替える。
特に目的はないものの、いつまでもベッドの上で一日を過ごすわけにもいかず、外へと向かった。

 玄関を抜け、マンションの内廊下を通る。
いつも何気なく進んでいた内廊下も、今の梓の体調では遠く感じるほどの距離である。

 ようやくエレベーターの前に辿り着き、一階へ向かうべく逆三角のボタンを押す。
梓のいる階より上から、既に下へ向かっていたエレベーターの扉が開くのは早く、ものの数秒で到着したことに喜びを感じながら、開いた扉の先へと目を向けると、そこには見覚えのある姿が梓の目に飛び込んできた。

 入院初日以降、一度も姿を見せることのなかった和司だ。

 パキッとしたスーツを着こなし、針葉樹のように高くまっすぐ、そしてずっしりと堂々としたその姿に見惚れると同時に、梓は外出用の服に着替えたとはいえ、整えずにいる髪や服の着こなしに羞恥を抱く。

 扉が開いてからどのくらいの時間が経ったのだろう。
長くはないものの、短くもない開放に、和司は扉が閉まらないように開閉ボタンを押し始める。

「乗らないのか?」

 その言葉が合図になって、梓はハッと我に返ると、言葉を発する余裕もなく急いでエレベーターへと乗り込んだ。

「一階か?」

 和司の問いに、梓は静かに頷くことしかできない。

「同じだな」

 ふんわりと笑みを浮かべた和司の表情が目に入り、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるような感覚を覚える。

 平日の昼間に、どうして和司はここにいるのか。
今日は仕事が休みで、今から昼食でも買いに行くのだろうか。
そんな些細なことが気になった。

 なぜこんなに意識してしまうのか、いつもと違う姿を見られることにどうして緊張をしてしまうのか、梓には自分のことながら理解できずにいた。

「体調は少しは回復に向かっているのか?」
 
 場を和ませようとしているのか、和司は進んで梓に話しかける。

「あ……はい、おかげさまで……ご迷惑おかけしました」
「迷惑ではない、回復してきたのならよかった」

 梓は申し訳なさそうに俯くと、優しいトーンで和司が返す。

 優しい声が耳に入ると同時に、梓はエレベーター内の優しくも甘い香りに気が付いた。
和司のつけている香水であろう。
この香りは中学時代に探し求めていた、お気に入りの香りだ。

「あの……和司さん。その香り……どこの香水ですか?」

 どうしてもこの香りが欲しくて、思い切って和司に問うと、和司は困ったようにも見える表情で梓を見る。

「……香水は使っていない」

 その言葉に拍子抜けした表情を向け、ならこの香りは?という疑問を目で和司に送る。
チンッとエレベーターが目的の階に到着したと、少し古風な音で知らせてくれた。

「梓!」

 扉が開放したと同時に聞こえた声は、清武のものだった。

「ダメだろ寝てないと!」

 心底心配した表情と声質で、梓に近づき腰に手を回す。
大事なものを扱うかのように、そして手元から離れないようにと言わんばかりに、清武は梓を抱きしめる。
それを見ていた和司は、大きな溜息をつくと、公共で見せつけるなと軽く注意をして足早にその場を発つ。

 和司の背を見送りながら、あの香りは結局なんだったのか、柔軟剤だろうかなどと考えつつ、去ってしまう寂しさを梓は抱いた。

「昼飯買ってきたから、一緒に食べよう」

 清武はコンビニの弁当が入った袋を見せ、エレベーターに乗ったまま目的の階のボタンを押した。

 最近、清武は梓の部屋で生活している。
昼時になると、梓を心配して一度帰宅するのがここ数日の日課となっている。

 梓がオメガだと分かってから、一人で外出することを嫌がり、仕事も辞めるようにとここ数日言われ続けている。
ここまで過保護だったのかと、少し呆れ気味に思いながらも、まだ番ではないという不安を抱いているのを感じ、梓は理解しながらも困っていた。

 仕事は辞めたくはない。
仕事は嫌いではなかったし、何よりオメガという性ではまともな職など就けないのが現実なのだ。
専業主夫になってほしいという清武の説得を何度も耳にしたものの、今の現状の息苦しさで専業主婦などできる自信が梓にはなく、言葉を濁していた。

 今日こそ、言おう。仕事を続けると。
そう梓は心に決めていた。

「考えてくれたか?」

 買ってきてもらった温かい弁当をつついていると、清武が真剣な面持ちで梓に訪ねてくる。
それは、仕事をやめてくれるかどうか、という、一緒に過ごしてから毎日耳にする言葉だった。
毎日問われることの嫌気も助け舟を出し、梓は思い切って重たい口を開く。

「清武……ごめん、俺仕事は辞めれないし、そろそろ復帰したいんだ」

 その言葉を耳にして、清武は小さく溜息をついたが、仕方ないかという表情を見せる。

「そう言うと思ってはいたんだよ……。まあ、番になれば心配も減るからな……梓のやりたいことなら仕方ない」

 困ったような優しい笑顔で、清武は意外とすんなり梓の答えを受け入れる。

 “番になれば”
 梓がオメガだと分かってから、何度も耳にした言葉だが、その言葉に違和感を覚える。
自分と清武が番になるということに、現実味を感じることができないのだ。
心のどこかで引っかかるものがあった。

その時、何の気もなく清武の横顔を眺めていると、横を向いたその表情が優しい笑顔を見せていた。
ああ、こんな表情を向ける人を、こんな風に考えてしまうのはおかしいのだろうか。

心のどこかで引っかかる何かを取り払いたい気持ちを感じ取ったのか、清武は梓の頬を優しく撫でる。

「大丈夫だよ」

 清武はその一言を耳元で優しく囁き、ゆっくりと唇を耳から頬へ、そして唇へと滑らせる。
軽く触れただけの唇も、次第に深く奥へと探り探り重なる。
食事も途中のまま、二人の世界に入ろうと清武が誘う。

「……清武……ダメだよ、午後も仕事行くんだろ?」

「ちょっとだけ」

 共に生活をするようになってから、毎日のように唇を重ねている。
けれども、それ以上先に進むことはない。

「だめ」

少し強めに拒むものの、清武は困ったような面持ちで梓を見つめて、また唇を重ねる。
 最初は体調を気遣って先には進むことがなかったが、そろそろ限界がきているのだろう。
今日の清武は、なかなか手を止めようとはしなかった。

「梓、好きだよ」

 そう呟いて、何度も梓の唇を奪う。
体温が上昇した口内も熱を帯びる。
その熱を感じ取ることが、梓には不快で仕方なかった。
 目の前にいるのは幼い頃から好意を寄せていた人なのに、触れられて求められて嬉しいはずなのに、嫌悪に似た感情が沸々と梓を襲う。

「待っててばっ……」

 あまりない力を振り絞って、清武の胸をあるだけの力で押す。
だが、その力はただ清武との距離を少し離す程度の、小さく弱い力だった。

「梓……もう俺……」

 待てないと言わんばかりの清武の表情と詰まった言葉に胸を痛めながらも、今はそんな気分ではないと伝えることしか、梓にはできなかった。
 きっと、この暗い気持ちは、丸馬のことを思う罪悪感から来ているのではないか。
そう梓は思っていた。

「……もう少し待って……必ず受け入れるから」

 そう誓いを立て、清武の辛そうに見つめる顔を優しく撫でる。

「わかった」

 困ったような笑みを浮かべたその表情は、和司に似ている。
そう思うと、もっと触れたくて、わしゃわしゃと大型犬を撫でるように清武の髪を撫でた。

「梓、我慢できなくなるだろ」

 むすっとした表情を見せる清武。
その表情もまた愛おしさを感じ、梓はくすりと笑みをこぼし、冷め始めた弁当を二人でまた食べ始める。

 ふと時計を見れば、もうすぐ十三時を示そうとしていた。

「やべっ!もう出なきゃねぇや」

 慌ただしく立ち上がり、会社に行く準備を始める清武を見て、梓もゆっくりと立ち上がる。

「あーごめん、俺もう行くから。ちゃんと飯食って寝てるんだぞ?」

 まるで子供に言い聞かせる父親のようなセリフを吐き、清武は玄関へと向かおうとする。
行ってらっしゃいと言おうと口を開けた瞬間、清武は梓の唇を自身の唇で塞いだ。

「じゃあな」

 忘れ物を取りに来たかのような慌て様で口を塞がれ、呆気にとられた梓は、きょとんとただ佇んだ。

 バタンと玄関の扉が閉まる音。

先ほどまでの賑やかな空間は嘘のように、シンッと部屋は静まり返る。


「なんだろう……」

 大きな独り言を梓は吐いた。
嬉しいはずの清武との触れ合いの後は、なぜか嫌な気怠さが増す。
まだ身体が本調子ではないだけと、それを何度も言い聞かせながら、梓は広い部屋で一人残り、冷めた弁当をまたつつき始めるのだった。
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