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10)不穏な足音2
「喧嘩しにきたんじゃないよ」
困った表情を浮かべ、丸馬が梓に言い放つ。
「確かにショックだけど、梓は大事な友達だから、応援したくて来たんだよ」
その言葉に、溢れ出す涙をどう誤魔化そうかと考えるよりも先に、「ごめんね」と素直に言葉が出てしまった。
「ごめん……ごめん丸馬……俺、ずっと清武が好きで……」
「うん、知ってた」
すべて分かっていたよ。その言葉を聞いた瞬間、申し訳ない気持ちがさらに増す。
「僕も梓の気持ちに気づきながら、清武を諦められなくて、意地悪してたから……ごめんね」
店内の薄暗い照明のおかげで、梓の涙は他の席からは見えづらい。彼は心の中で後悔を抱えながら、ぎゅっと手を握られ、再び涙が溢れ落ちる。
「今日はパッと飲みに来たよ!アフターにも付き合ってもらうからね!」
そう言われて、店が終わった後も丸馬と友達として時間を過ごした。
────そのはずだった。
「やあ。目が覚めた?」
自宅でもない、知らない空間で、丸馬の声が反響して耳に入る。目を開けると、視界はうっすらとぼやけていた。しかし、今いる場所がコンクリートで固められた部屋だと理解する。
薄暗く冷たい空気が流れるこの場所は、埃っぽく、少し湿気のあるカビ臭さが漂っていた。
知らない部屋だ。
ぼやけた思考の中でも、梓は今いる所が自分の知らない場所であると気づく。そして、鈍く重たい身体。自分が冷たい壁に倒れるように寝転がっていることに気づいた瞬間、梓はハッとした。
斎藤との一件を思い出し、飲みすぎて丸馬に迷惑をかけてしまったのではないか。その思いが、彼を一瞬で動かした。
ジャリンッ。
鉄がぶつかり合う耳障りな音が、部屋に響き渡る。手足にかかる重力とは異なる重さと違和感。恐る恐る視線を向けると、ギラリと光る鉄製の枷がつけられていた。
「なに……これ……」
理解できない状況と恐怖心で、唇が震え声も震える。よく見ると、恰好はスーツではなく、ワイシャツ一枚。下着すら身に着けていないことに気づく。周りに目を向けると、広いコンクリート張りの部屋で、天井には配管がむき出しになり、排気口と思われるものが一つだけある。
いくつもある照明器具の一つだけが、ジジジッと苦しそうな音を鳴らし、部屋を照らしている。窓は一つもなく、扉も一つしかないこの部屋は、倉庫か地下室だと推測できる。
家具もなく、小さなガラクタすら置かれていない、空っぽに思える部屋には、古びた赤いソファーだけが置かれている。そして、そのソファーに丸馬が深く腰をかけ、細い指で器用にスマートフォンを操作している。よく見ると、丸馬が操作しているスマートフォンは、彼のものとは異なり、梓のものに似ている。
「丸馬……?」
梓とは違い、しっかりと服を身にまとい、手足に枷のようなものもつけていない自由な手足。涼しい顔をしながらスマートフォンを操作している姿を見て、どういう状況なのかと恐る恐る丸馬の名前を呼ぶ。
「んー?」
スマートフォンから目を離さず、今の状況がおかしいと思っていない様子で軽く返事をする丸馬。もしかして、これは夢なのか、悪ふざけなのか。現状を理解できず、説明もされない状態で、梓は最悪な方向に考えが進まないように、前向きな解釈を始める。
酔いすぎて迷惑をかけて、介抱してくれている途中だったのかもしれない。
服が汚れて脱がせてくれただけかもしれない。
酔ったせいで暴れたのか、寝相が悪すぎたのか、それで手足を拘束されているのかもしれない。
「かもしれない」を、梓は心の中で何度も繰り返した。しかし、どの状況にも腑に落ちない部分があり、息苦しさを覚える。
「ちょっと待ってね。今から来るって言ってるから」
グルグルと頭を悩ませていると、丸馬がスマートフォンを操作し続けながら、冷めた声で梓に話しかける。誰かを呼んでいるかのような言葉に、もしかしたらここに二人が閉じ込められてしまっているのかもしれないと思う。
丸馬は助けを呼んでくれているのかもしれない。
そういう期待に思考を向け、希望を抱くが、それもまた疑問しか残らない考えだった。
「ねえ?丸馬、これなに?」
手足につけられた枷に繋がる鎖が、ジャラリと金属のぶつかり合う音を出す。その鎖は思ったより長く、天井から伸びた配管に絡まっている。ただし、自由に部屋を歩けるほどの長さではない。身の周りに関しては、なんとか自分で対処できる程度の不自由さだ。例えるなら、玄関先で鎖に繋がれた犬のような状態である。
「んー?拘束の枷だけど?」
手足に着けられた物の名称を、こちらを見もせず知っているかのように当たり前に言う姿に、梓は愕然とする。一番考えたくない、認めたくない事が彼の思考を埋め尽くす。そして同時に、現状を理解することに必死だったせいで忘れていた記憶が、うっすらと蘇る。
────────
丸馬とは、閉店まで共に酒を飲み、互いの気持ちを語った。何度も謝られたが、梓も何度も丸馬に謝っていたような酒の席。友達に戻り、過去を振り返らずに前を向き、親友として過ごすことを互いに誓った。これからも友達として一緒に笑って過ごせるという安堵を、梓は心の奥底から喜んでいた。
閉店後も丸馬に頼まれ、もう一件だけ付き合ってほしいと頼まれた。アフターはよくあることだったため、心配性の清武が迎えに来ないように、帰りが遅くなると連絡を入れた。
丸馬と一緒だということは伝えなかった。今はまだ気を遣わせてしまうと思った梓は、客とのアフターだと伝えた。しかし、電話越しに心配しすぎて不機嫌になっている清武の声が耳に入る。機嫌を直すためにあれこれと説明したが、なかなか受け入れてもらえなかった。それでも、早めに切り上げて終わりそうなときには必ず連絡を入れ、清武が迎えに来ることを条件に電話を切った。そして、丸馬の行きつけだという店へと二人で足を向けた。
狭く薄暗いビルの隙間を進む細い道を通り、人が一人通るのがやっとの道を進んでいた。丸馬はその道を知っていて、安心して連れてきたのだと言った。
「丸馬……よくこんな道知ってるね」
深く道を進むうちに、人で賑わう通りから離れ、光もあまり届かない場所に辿り着き、梓は不思議な気持ちになる。
「うん、ここら辺って、ホームレスがたまにいるから、よっぽどのことがないと気にかけないし。マップから消えた道だから、普通だったら誰も入らないんだよ……」
丸馬がクルリと振り向いて、笑顔を見せた瞬間、梓の胸元に刺さる裂けそうな痛みが走った。あまりの痛さに立っていられず、全身が痺れ、呼吸も上手くできないほどの苦しみで、梓はその場に倒れ込んでしまった。しかし、意識はうっすらと残っていて、金縛りにあったような状態だった。
「あーやっぱり、スタンガンって気絶するって嘘なんだね。電圧によるんだっけ?」
そう言い放ち、丸馬はスプレーのようなものを梓に向けて噴射した。
「一応持ってきてよかったよ。これでちゃんと寝ておいてね、運ぶまでに起きられても困るからさ」
わくわくしているような口調で丸馬は話を続けていたが、顔に向けられ放たれる粉っぽい空気とスプレーの発射音で、途中からうまく聞き取れなくなった。そのまま強い眠気に駆られ、梓は意識を失ってしまった。
────────
そんな大事なことを忘れていたことに悔しさを抱きつつ、信じたくないと蘇った記憶に抵抗する。開いた胸元に見える白っぽくなった皮膚が肉から浮いているような跡が目に入る。ジリッと痛むそれは、軽い火傷だと理解できた。その火傷の跡を見ることで、鮮明に蘇る記憶は、夢でも妄想でもないことを示していた。そして今、どうしてここにいるのか、梓は嫌でも理解してしまった。
拉致監禁。
この言葉が、直接的に当てはまるだろう。
「丸馬……どうして」
困惑しながら問う梓の言葉に、丸馬はピタリと手を止め、こちらに目を向けた。
「どうしてって?ムカつくから、ただそれだけだけど」
冷水に浸けた刃物のように冷たく鋭い目つきで梓を見下し、腹の底から憎悪を込めた低い声で丸馬は言葉を放った。いつもの可愛らしい表情や声は、まるで幻だったかのような恐ろしい雰囲気に、梓は恐怖で体を震わせる。
コンコンッ────。
刺さるような空気で満ちた部屋に、扉を叩く軽やかな音が響いた。
「はーい」
嬉しそうな返事をして、丸馬はソファーから立ち上がり、扉へと向かう。その声や動き方は、いつもの可愛らしい丸馬だ。清武が来たのかと思うような和やかな丸馬の態度に、梓は少しの希望を抱いて扉を見つめる。二人で何か悪戯を考えていて、これはちょっと度が過ぎたお遊びだと、そう言ってくれることを梓は願った。
「マップを見てきたけど、合ってたようでよかった」
扉が開いたと同時に聞こえてきたのは、知らない人の声だった。油の乗ったような、太くねっとりとした声質が耳に入って、悪寒が走る。
梓の目に映ったのは、会ったこともない男性。樽のような体つきに、肉が重力に負けて垂れ下がった顎。不摂生さが伝わる毛穴が詰まり汚れた頬と、酷くゴワついた髪。推定される年齢は、四十を越えたあたりだろうか。名前も知らない、男だった。
「あーよかった!来てくれて嬉しいです!迷わず分かりました?」
「うん、ちゃんと建物のどこかも連絡くれたからね」
知り合いなのか、丸馬は軽やかな声で話をしている。
「それで、どこにいるのかな?」
興奮しているような荒い息遣いで丸馬の肩に触れる男性に、丸馬はそっと男の手を払い、パッパッと音を立てて再度何もない肩を掃う。
「ほら、本人も待ってましたよ。準備もバッチリして」
セールスで商品を売り込むように、梓へと視線を向けさせるための振る舞いをする丸馬。
「わー、本当に梓ちゃんだ……梓ちゃん……君がこんなに淫乱だったなんて思わなかったよ僕は」
ご馳走を目の前に置かれた犬、とでも表現したら良いだろうか。男は抑えきれない興奮を露わにし、口いっぱいに溢れる唾液を口から零した。
どうして名前を知っているのか。不快な気分の更に奥の嫌悪感が、津波のように梓を襲う。
────────気持ちが悪い。
率直な言葉が、梓の脳に何度も繰り返される。
「存分に楽しんでくださいねー、僕、動画ちゃんと撮ってあげますよ」
「本当に、本当に梓ちゃんを俺のにしていいの?」
「もちろんですよ。梓も喜びますよ」
二人の会話に理解ができず、恐怖と混乱で吐き気すら覚える。
「梓ちゃん……ずっと見てたんだ……街を歩いている姿」
ハァハァと湿度の高い息を漏らしながら、ゆっくりと男は近づいてきた。
「梓ちゃんが、まさかあのサイトで相手を探していたなんて、知らなかったよ。こういうプレイが好きだったのも。恥ずかしくて言えなかったんだね、寂しかったよね。俺が満たしてあげるから……」
何を言っているのか。男の言葉は、どれを取っても梓には見覚えのないことばかりだ。
「オメガだったんだね?俺はベータだけど、君の望みは叶えてあげるよ」
梓の指の三本分はあるであろう人差し指を、梓のシルクのような白く肌理の細かい足にゆっくりとなぞり始めた。ゾッと、全身に拒絶感が走る。何を言い出したのかという不安と恐怖が、顔の血色を奪い、青ざめた唇を強張らせた。
「梓、君はこの人の子供を孕むんだよ」
丸馬が今まで見せたことのない、狂気に満ちた笑みを浮かべて梓に告げた。
その闇深い凶器のような笑みを目にして、逃げられない状況を理解すると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの戦慄が走った。
恐怖で声が出ない口に、知らぬ男の唇から生き物のように動く舌が触れた。
助けてという心の悲鳴も声として出せず、梓はジャリンッと取れない枷を必死で外そうともがき、逃げようとした。
だが、自分よりも遥かに大きな体と力で引き寄せられ、梓は絶望的な声を振り絞り、小さく悲鳴を喉から漏らした。
困った表情を浮かべ、丸馬が梓に言い放つ。
「確かにショックだけど、梓は大事な友達だから、応援したくて来たんだよ」
その言葉に、溢れ出す涙をどう誤魔化そうかと考えるよりも先に、「ごめんね」と素直に言葉が出てしまった。
「ごめん……ごめん丸馬……俺、ずっと清武が好きで……」
「うん、知ってた」
すべて分かっていたよ。その言葉を聞いた瞬間、申し訳ない気持ちがさらに増す。
「僕も梓の気持ちに気づきながら、清武を諦められなくて、意地悪してたから……ごめんね」
店内の薄暗い照明のおかげで、梓の涙は他の席からは見えづらい。彼は心の中で後悔を抱えながら、ぎゅっと手を握られ、再び涙が溢れ落ちる。
「今日はパッと飲みに来たよ!アフターにも付き合ってもらうからね!」
そう言われて、店が終わった後も丸馬と友達として時間を過ごした。
────そのはずだった。
「やあ。目が覚めた?」
自宅でもない、知らない空間で、丸馬の声が反響して耳に入る。目を開けると、視界はうっすらとぼやけていた。しかし、今いる場所がコンクリートで固められた部屋だと理解する。
薄暗く冷たい空気が流れるこの場所は、埃っぽく、少し湿気のあるカビ臭さが漂っていた。
知らない部屋だ。
ぼやけた思考の中でも、梓は今いる所が自分の知らない場所であると気づく。そして、鈍く重たい身体。自分が冷たい壁に倒れるように寝転がっていることに気づいた瞬間、梓はハッとした。
斎藤との一件を思い出し、飲みすぎて丸馬に迷惑をかけてしまったのではないか。その思いが、彼を一瞬で動かした。
ジャリンッ。
鉄がぶつかり合う耳障りな音が、部屋に響き渡る。手足にかかる重力とは異なる重さと違和感。恐る恐る視線を向けると、ギラリと光る鉄製の枷がつけられていた。
「なに……これ……」
理解できない状況と恐怖心で、唇が震え声も震える。よく見ると、恰好はスーツではなく、ワイシャツ一枚。下着すら身に着けていないことに気づく。周りに目を向けると、広いコンクリート張りの部屋で、天井には配管がむき出しになり、排気口と思われるものが一つだけある。
いくつもある照明器具の一つだけが、ジジジッと苦しそうな音を鳴らし、部屋を照らしている。窓は一つもなく、扉も一つしかないこの部屋は、倉庫か地下室だと推測できる。
家具もなく、小さなガラクタすら置かれていない、空っぽに思える部屋には、古びた赤いソファーだけが置かれている。そして、そのソファーに丸馬が深く腰をかけ、細い指で器用にスマートフォンを操作している。よく見ると、丸馬が操作しているスマートフォンは、彼のものとは異なり、梓のものに似ている。
「丸馬……?」
梓とは違い、しっかりと服を身にまとい、手足に枷のようなものもつけていない自由な手足。涼しい顔をしながらスマートフォンを操作している姿を見て、どういう状況なのかと恐る恐る丸馬の名前を呼ぶ。
「んー?」
スマートフォンから目を離さず、今の状況がおかしいと思っていない様子で軽く返事をする丸馬。もしかして、これは夢なのか、悪ふざけなのか。現状を理解できず、説明もされない状態で、梓は最悪な方向に考えが進まないように、前向きな解釈を始める。
酔いすぎて迷惑をかけて、介抱してくれている途中だったのかもしれない。
服が汚れて脱がせてくれただけかもしれない。
酔ったせいで暴れたのか、寝相が悪すぎたのか、それで手足を拘束されているのかもしれない。
「かもしれない」を、梓は心の中で何度も繰り返した。しかし、どの状況にも腑に落ちない部分があり、息苦しさを覚える。
「ちょっと待ってね。今から来るって言ってるから」
グルグルと頭を悩ませていると、丸馬がスマートフォンを操作し続けながら、冷めた声で梓に話しかける。誰かを呼んでいるかのような言葉に、もしかしたらここに二人が閉じ込められてしまっているのかもしれないと思う。
丸馬は助けを呼んでくれているのかもしれない。
そういう期待に思考を向け、希望を抱くが、それもまた疑問しか残らない考えだった。
「ねえ?丸馬、これなに?」
手足につけられた枷に繋がる鎖が、ジャラリと金属のぶつかり合う音を出す。その鎖は思ったより長く、天井から伸びた配管に絡まっている。ただし、自由に部屋を歩けるほどの長さではない。身の周りに関しては、なんとか自分で対処できる程度の不自由さだ。例えるなら、玄関先で鎖に繋がれた犬のような状態である。
「んー?拘束の枷だけど?」
手足に着けられた物の名称を、こちらを見もせず知っているかのように当たり前に言う姿に、梓は愕然とする。一番考えたくない、認めたくない事が彼の思考を埋め尽くす。そして同時に、現状を理解することに必死だったせいで忘れていた記憶が、うっすらと蘇る。
────────
丸馬とは、閉店まで共に酒を飲み、互いの気持ちを語った。何度も謝られたが、梓も何度も丸馬に謝っていたような酒の席。友達に戻り、過去を振り返らずに前を向き、親友として過ごすことを互いに誓った。これからも友達として一緒に笑って過ごせるという安堵を、梓は心の奥底から喜んでいた。
閉店後も丸馬に頼まれ、もう一件だけ付き合ってほしいと頼まれた。アフターはよくあることだったため、心配性の清武が迎えに来ないように、帰りが遅くなると連絡を入れた。
丸馬と一緒だということは伝えなかった。今はまだ気を遣わせてしまうと思った梓は、客とのアフターだと伝えた。しかし、電話越しに心配しすぎて不機嫌になっている清武の声が耳に入る。機嫌を直すためにあれこれと説明したが、なかなか受け入れてもらえなかった。それでも、早めに切り上げて終わりそうなときには必ず連絡を入れ、清武が迎えに来ることを条件に電話を切った。そして、丸馬の行きつけだという店へと二人で足を向けた。
狭く薄暗いビルの隙間を進む細い道を通り、人が一人通るのがやっとの道を進んでいた。丸馬はその道を知っていて、安心して連れてきたのだと言った。
「丸馬……よくこんな道知ってるね」
深く道を進むうちに、人で賑わう通りから離れ、光もあまり届かない場所に辿り着き、梓は不思議な気持ちになる。
「うん、ここら辺って、ホームレスがたまにいるから、よっぽどのことがないと気にかけないし。マップから消えた道だから、普通だったら誰も入らないんだよ……」
丸馬がクルリと振り向いて、笑顔を見せた瞬間、梓の胸元に刺さる裂けそうな痛みが走った。あまりの痛さに立っていられず、全身が痺れ、呼吸も上手くできないほどの苦しみで、梓はその場に倒れ込んでしまった。しかし、意識はうっすらと残っていて、金縛りにあったような状態だった。
「あーやっぱり、スタンガンって気絶するって嘘なんだね。電圧によるんだっけ?」
そう言い放ち、丸馬はスプレーのようなものを梓に向けて噴射した。
「一応持ってきてよかったよ。これでちゃんと寝ておいてね、運ぶまでに起きられても困るからさ」
わくわくしているような口調で丸馬は話を続けていたが、顔に向けられ放たれる粉っぽい空気とスプレーの発射音で、途中からうまく聞き取れなくなった。そのまま強い眠気に駆られ、梓は意識を失ってしまった。
────────
そんな大事なことを忘れていたことに悔しさを抱きつつ、信じたくないと蘇った記憶に抵抗する。開いた胸元に見える白っぽくなった皮膚が肉から浮いているような跡が目に入る。ジリッと痛むそれは、軽い火傷だと理解できた。その火傷の跡を見ることで、鮮明に蘇る記憶は、夢でも妄想でもないことを示していた。そして今、どうしてここにいるのか、梓は嫌でも理解してしまった。
拉致監禁。
この言葉が、直接的に当てはまるだろう。
「丸馬……どうして」
困惑しながら問う梓の言葉に、丸馬はピタリと手を止め、こちらに目を向けた。
「どうしてって?ムカつくから、ただそれだけだけど」
冷水に浸けた刃物のように冷たく鋭い目つきで梓を見下し、腹の底から憎悪を込めた低い声で丸馬は言葉を放った。いつもの可愛らしい表情や声は、まるで幻だったかのような恐ろしい雰囲気に、梓は恐怖で体を震わせる。
コンコンッ────。
刺さるような空気で満ちた部屋に、扉を叩く軽やかな音が響いた。
「はーい」
嬉しそうな返事をして、丸馬はソファーから立ち上がり、扉へと向かう。その声や動き方は、いつもの可愛らしい丸馬だ。清武が来たのかと思うような和やかな丸馬の態度に、梓は少しの希望を抱いて扉を見つめる。二人で何か悪戯を考えていて、これはちょっと度が過ぎたお遊びだと、そう言ってくれることを梓は願った。
「マップを見てきたけど、合ってたようでよかった」
扉が開いたと同時に聞こえてきたのは、知らない人の声だった。油の乗ったような、太くねっとりとした声質が耳に入って、悪寒が走る。
梓の目に映ったのは、会ったこともない男性。樽のような体つきに、肉が重力に負けて垂れ下がった顎。不摂生さが伝わる毛穴が詰まり汚れた頬と、酷くゴワついた髪。推定される年齢は、四十を越えたあたりだろうか。名前も知らない、男だった。
「あーよかった!来てくれて嬉しいです!迷わず分かりました?」
「うん、ちゃんと建物のどこかも連絡くれたからね」
知り合いなのか、丸馬は軽やかな声で話をしている。
「それで、どこにいるのかな?」
興奮しているような荒い息遣いで丸馬の肩に触れる男性に、丸馬はそっと男の手を払い、パッパッと音を立てて再度何もない肩を掃う。
「ほら、本人も待ってましたよ。準備もバッチリして」
セールスで商品を売り込むように、梓へと視線を向けさせるための振る舞いをする丸馬。
「わー、本当に梓ちゃんだ……梓ちゃん……君がこんなに淫乱だったなんて思わなかったよ僕は」
ご馳走を目の前に置かれた犬、とでも表現したら良いだろうか。男は抑えきれない興奮を露わにし、口いっぱいに溢れる唾液を口から零した。
どうして名前を知っているのか。不快な気分の更に奥の嫌悪感が、津波のように梓を襲う。
────────気持ちが悪い。
率直な言葉が、梓の脳に何度も繰り返される。
「存分に楽しんでくださいねー、僕、動画ちゃんと撮ってあげますよ」
「本当に、本当に梓ちゃんを俺のにしていいの?」
「もちろんですよ。梓も喜びますよ」
二人の会話に理解ができず、恐怖と混乱で吐き気すら覚える。
「梓ちゃん……ずっと見てたんだ……街を歩いている姿」
ハァハァと湿度の高い息を漏らしながら、ゆっくりと男は近づいてきた。
「梓ちゃんが、まさかあのサイトで相手を探していたなんて、知らなかったよ。こういうプレイが好きだったのも。恥ずかしくて言えなかったんだね、寂しかったよね。俺が満たしてあげるから……」
何を言っているのか。男の言葉は、どれを取っても梓には見覚えのないことばかりだ。
「オメガだったんだね?俺はベータだけど、君の望みは叶えてあげるよ」
梓の指の三本分はあるであろう人差し指を、梓のシルクのような白く肌理の細かい足にゆっくりとなぞり始めた。ゾッと、全身に拒絶感が走る。何を言い出したのかという不安と恐怖が、顔の血色を奪い、青ざめた唇を強張らせた。
「梓、君はこの人の子供を孕むんだよ」
丸馬が今まで見せたことのない、狂気に満ちた笑みを浮かべて梓に告げた。
その闇深い凶器のような笑みを目にして、逃げられない状況を理解すると、先ほどまでとは比べ物にならないほどの戦慄が走った。
恐怖で声が出ない口に、知らぬ男の唇から生き物のように動く舌が触れた。
助けてという心の悲鳴も声として出せず、梓はジャリンッと取れない枷を必死で外そうともがき、逃げようとした。
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