オメガのホストはベータとして生きる

宮路 明

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45)発情

 エレベーターで数階だけ降りた。清武に肩を持たれ、梓は言葉を交わすこともなく広い廊下を足を引きずるように進んでいた。

「ここだ。着替えが届いたら部屋に置いておく。俺たちは廊下で待ってるから」

 和司が廊下で待っている必要はないはずだった。
だが、ここは和司たちが借りた部屋。
何か問題が起きたときに、彼らの配慮があることを思うと、戻って大丈夫だと口にするべき言葉がどうしても出てこなかった。

「ありがとうございます」

 梓は部屋の鍵を開け、そっと中に足を踏み入れた。
ドアを静かに閉じると、暗闇の中でほんの一瞬、胸が苦しくなる。
だが、電気をつけると、広い部屋の全容が明らかになった。

 二つ並んだ大きなベッド。まるで、今夜ここで夫婦としての時間を過ごす二人のために準備されたかのようだ。
その隣に置かれているキャリーバッグが二つ。ひとつは中途半端に開かれていて、白いシャツやネクタイが無造作に突っ込まれている。
隣にきっちり閉じられた女性用のキャリーバッグ。まるで、和司が準備したものと、岼屋のものがそこにあるかのように並べられていた。

 梓はその光景を見つめながら、心の中で暗い気持ちが膨れ上がるのを感じていた。
ジャケットを脱ぎ、ソファに無造作に投げると、シャワールームを探して歩き始めた。

 部屋の奥にあったシャワールームは広大で、ひとり暮らしのワンルームアパートくらいの広さがあり、梓はその贅沢さに思わず目を見張った。
それが一瞬の慰めのように感じられたが、心の中の空虚感を一層強く感じさせただけだった。

梓は濡れた服を脱ぎ、シャワーを浴び始める。

 温かいお湯が身体を流れ、酒の匂いが次第に薄れていく。
あたたかさに包まれているうちに、体調が少し楽になったようにも感じた。
しかし、下腹部に重く鈍い痛みが走り、何かが違うと身体が警告を発していた。

「気持ち悪い……」

 吐き気が急に襲ってきた。
精神的な不安定さが、身体にどんどん影響を与えているのだろう。
梓は息を呑み、心の中で和司への想いを押し込めようと必死に抗った。だが、ふと浮かんでくるのは、和司の優しい声、温もり。どうしてもその記憶が消えない。

 いけない、そう自分に言い聞かせながらも、その想いに逆らえない自分が情けなくて、さらに胸が苦しくなった。急いでシャワールームを出ると、すぐに部屋を後にしたくなった。

 脱衣所に置かれた大きなバスタオルを手に取り、身体を拭きながら寝室へと向かう。
着替えはまだ届いていない様子だが、その代わりに視線が引き寄せられるのは、ソファに無造作に置かれた和司のジャケットだった。

 黒いジャケットだが、じんわりとワインの渋い香りとシミが滲み出ている。それでも、和司の甘い香りがそのジャケットにまとわりついて、梓の心を引き寄せる。
無意識のうちに、その香りに誘われるように手を伸ばした。

「和司さん……」

 その瞬間、胸の内に小さな欲望が生まれ、梓はその衝動に囚われてしまった。
ほんの一瞬、和司の香りに包まれたくなった。
その甘い香りに浸ることで、何かが楽になるような気がした。
それだけを求める自分が、ふと怖くなった。

 ぎゅっとジャケットを抱きしめ、和司の香りを深く味わう。
腹の奥で、キュンと甘い痺れが走り、心の中に一瞬、温かな痺れが広がった。

これ以上はダメだと分かっているはずなのに、梓はどうしても和司の香りを求めてしまう。
その瞬間、下腹部の痛みが一層強くなり、梓は思わず唇を噛み締めた。

「うっ……あっ……」

 ドクンッと、強く脈を打つ感覚。身体全体が熱を帯び、血液が沸騰するような感覚に包まれる。

 ―――この人が欲しい。

 この人の香りをもっと、もっと感じたかった。

 香りだけでなく、その熱も、すべてが欲しい。

 梓の中で、ずっと抑え込んでいた何かが、まるで裂けるように引きちぎれた感覚が走った。
その瞬間、全身に湧き上がる熱い衝動に抗うことができなくなり、ジャケットを強く抱きしめる手に力が込められた。

欲望が暴走し、梓はただその温もりに身を委ねるように、強く抱きしめた。




 ――――――



「兄貴は戻ってていいよ」
「この部屋は俺だけが使う部屋じゃないからな。私物もあるから一応な」
「信用されてねーの?」
「常識的な思考と、職業病だ。信用してないわけではない」

 久しぶりの兄弟との時間。
一人のオメガを巡って、少し距離が離れてしまったが、元から特別に強い絆があったわけではない。

「判子くらい押して来いよ」
「そんなに焦るものでもないだろう」
「俺が落ち着かない……」

 急な出来事で、婚姻届けは未完成のままだ。
あとは互いに判子を押して、スタッフが受け取るだけ。

 結婚式場の設備が整っているこのホテルでは、古い風習に対応するため、婚姻の儀にも準備がされている。
スタッフが受け取った婚姻届けを役場の夜間窓口に提出し、受付票を受け取る。
次の日、二人はその受付票を持参し、役場で受理された書類を受け取ることになる。

 受付票を見るまでは、清武は安心できない。
一秒でも早く、和司には籍を入れてほしい。
その想いが胸にひしひしと湧き上がる。

「大変お待たせしました。こちら先ほどのお客様の着替えでございます」

 ようやく、梓の着替えを持ってきたスタッフが姿を現した。
こういったホテルでは何があるか分からないため、礼服やスーツのレンタル、下着の販売も行われている。
数ある服の中から、成人男性にしては痩せすぎな梓のサイズを探すのに手間取ったのだろう。

「お部屋の中までお持ちしますね」

「あら、戻ってこないと思ったらここにいたのね」

 スタッフがドアノブに手をかけようとした瞬間、岼屋が現れた。
あまりにも戻りが遅いと心配になったのだろう。

「ああ、俺らの私物があるから一応な」
「それもそうね」

 岼屋は状況を理解し、納得した様子で頷いた。

 タイミングを失ったスタッフが、入室して良いのか迷っていたその時、
コンコンッと、和司が部屋の扉を叩く。

「村上くん。入っても大丈夫か?」

 返答はなかった。
まだシャワーを終えていないと判断した和司は、スタッフに向かって言った。

「すぐに分かるところに置いてくれないか」
「承知いたしました」

 和司の言葉に従って、スタッフは扉を開けて入室する。

「……っ」

 数歩部屋に入ったスタッフが、息苦しそうに飛び出してきた。

「すみませんっ、これ以上は……」

 スタッフの慌てた様子を見て、室内の違和感に気づいた岼屋。

 強く、深い甘い香り。
オメガ特有の、発情フェロモンの香りが部屋に満ちている。

「これってヒートじゃない?!」

 岼屋が手で口を覆いながら、スタッフを部屋から遠ざけようとする。
訓練を受けている岼屋や和司ならば耐えられる状況だが、あまりにも強烈なその香りは、この場にいるアルファにとっては毒でしかない。

「梓……梓やっと……」

 理性を失い始めた清武が、部屋の中へと足を進める。

パートナーになると決めている二人だからこそ、ここは任せよう。
そう岼屋は思っていた。

 スタッフはきっとベータだろう。
オメガのフェロモンを感じても、軽度の欲情で済んでいるのが証拠だ。
だが、ベータであっても、オメガのフェロモンを嗅ぎ続けることは危険だと知っている。

「ここは二人にしてあげて、私たちは会場に戻りま……」

 和司に声をかけたその時、岼屋は異変に気づく。
息遣いが荒く、苦しそうにうずくまる和司の姿を目にした。

「……まさか……カズ……」

 フェロモンの影響を受けているその姿に、岼屋はまさかと思った。
いつも冷静で理性的な和司が、こんなにも弱々しく、苦しそうにしている姿を見たことがなかったからだ。
その痛みを堪えようと必死に理性を保とうとする和司の姿に、岼屋はすぐに理解した。
これは、正常ではないと。

 公務員を目指すアルファは、オメガのフェロモンに耐える訓練を受けている。
特に警察官という職業は、香りに影響されないように厳しい訓練が施されているはずだ。

「カズ!大丈夫?!」

 苦しそうにうずくまる和司の姿に、岼屋は思わず声を上げる。

やはり、これはアルファの発情、ラットだ。

 運命の番が近づくと発症する現象。
性欲を超えた欲情ではなく、理性を保てないという状況。

 どんなに訓練を積んでも、抗えないフェロモン。
それが運命の番の香り。

 岼屋は理性を保とうと必死に苦しむ和司の背中を摩りながら、ただ見守るしかなかった。

 手が震える。
苦しむ和司を見ているだけで、胸が締め付けられるような痛みが走る。

 本当は分かっていた。
和司が自分に恋愛的な好意を抱いていないこと。

 告白された時も、親の世間体を気にして、仕方なく答えてくれたこと。
婚約指輪も、実は他の誰かに渡したいと思っていること。
その「誰か」が誰なのかも、全て分かっていたはずなのに、手放せなかった自分がいた。

 苦しむ和司に何もできない自分が、どれほど無力か。
岼屋は、そんな自分を憎み始めていた。

 清武と梓が番になれば、きっと全ては時間と共に落ち着くと信じていた。

「カズ……カズ……ごめんなさい」

 ぎゅっと抱き寄せ、少しでもその苦しみを軽減させようとするが、和司は耐えきれず、自分の理性を押し殺そうと必死になっている。

 理性的なアルファであっても、抗えない強烈な発情状態に苦しむ和司の姿は、いつもの冷静な和司とはまるで別人のようだ。
力いっぱい太ももを殴り、痛みで自分の中の熱を冷まそうとする和司の姿は、岼屋にとって見るに耐えない光景だった。

「ダメよカズ!そんなに力を込めたら、手も足もダメになるわ!」

 何度も太ももを殴る和司の手を掴むが、その力は女の岼屋には止められない。

「……カズ……」

 唇を強く噛み締めていた和司の口から、ポタポタと血が滴り落ちてきた。

岼屋は、初めて見る和司の苦しむ姿に心を痛め、ただ無力感に包まれていた。
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