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アフターストーリー
アフターストーリー「岼屋楓」
警察署の空気は、いつもと変わらないようで、少し違っていた。
岼屋はその微妙な変化を感じ取っていた。和司との婚約解消後、周囲の反応が一様に静かであるわけもなく、みんなが何かしらの意見を心の中で抱えているようだった。
「和司くん、婚約解消したんだって?」
「それでも彼は平気で仕事してるんだから、さすがだよな」
「でも、岼屋先輩のことを思うと、少し気の毒だよね……」
噂はどこからともなく広まり、岼屋の耳にも届いた。和司に運命の番が現れたことに納得し、仕方ないと思う者もいれば、岼屋があまりにも可哀想だと、怒りを抱いている者もいる。だが、その反応がいくら自分に向けられたとしても、岼屋は動じなかった。
署内での出来事が無駄に尾を引く中、和司はいつも通りに過ごしていた。あの婚約解消の後、あっけらかんとした態度を見せる和司を、岼屋は少し驚きながらも、どこか清々しさを感じていた。彼の中には、どうしようもない運命を受け入れている強さがあったからだ。そんな彼を見て、岼屋はある種の安心感を覚えた。
和司がアルファとしては珍しい「婿入り」を選んだという事実も、署内ではしばらくの間、話題に上った。
岼屋の心の中では、それほど重要なことだとは感じなかったが、周りの関心が集まる中で、どこか彼女自身が取り残されているような気持ちもあった。けれど、それでも気にしないようにしていた。
むしろ、周囲の話題に揺れることなく、自分の決断をしっかりと受け止めている和司の姿勢に、岼屋は尊敬の念を抱く。
岼屋は和司に対して、もう特別な感情を持っていないわけではなかった。
失恋した気持ちは完全に消えたわけではない。しかし、その思いが過去の出来事であり、もう岼屋の中で占める割合は小さくなっていた。
彼女はあの時の決断を、決して後悔していなかった。
何よりも、自分が前を向いて歩き出すために必要だった選択だったのだと、岼屋は今でも強く感じている。
あれから数ヶ月が経ち、噂話も次第に冷め始めた。
岼屋が新米警察官の佐野健一に初めて会ったのは、忙しい昼下がりの警察署内だった。
バタバタと慌ただしい足音と共にやって来た健一は、職場の空気にも物おじせず、真っ直ぐな目で岼屋を見つめる。
少し背が低めで、真っ黒な大きな瞳と人懐っこい笑顔が印象的な「わんこ系」そのもの。
二次性がベータの普通の青年。
「先輩!岼屋先輩ですよね!はじめまして、佐野健一です!これからよろしくお願いします!」
突拍子もなく明るい挨拶に、一瞬だけ周りが静まり返った。
岼屋はその場の空気に気まずさを覚えつつも、どこか健一の無邪気な笑顔には抗えないものを感じた。
「……ええお願いね、佐野くん」と控えめに返したが、健一はその言葉に一層嬉しそうに微笑んだ。
それからというもの、岼屋と健一は何かと一緒に行動することが増えた。
健一は見習いとしての実習期間中であり、岼屋が教育係の役割を担うことになったからだ。
最初は新人教育に消極的だった岼屋も、次第に健一の一生懸命な姿勢に心を動かされるようになっていく。
初めての取り調べ見学の日。
緊張でぎこちなくしている健一に岼屋がさりげなくアドバイスをすると、健一は目を輝かせて聞き入った。
「先輩、すごいですね!僕もいつか、先輩みたいに…」
その素直な感嘆に、岼屋は一瞬戸惑い、次にやってきたのは少し恥ずかしい気持ちだった。
先輩と慕われ、あれこれと世話を焼かれるのは久しぶりで、岼屋自身もそんな自分に驚いた。
ある日、夜遅くの勤務を終えた二人は、一緒に署を出て駅まで歩いていた。健一は一日中頑張った疲れも見せず、岼屋にあれこれと話しかけてくる。
「先輩!今度、一緒にご飯行きましょうよ!」
突然の提案に岼屋は思わず立ち止まった。健一は真っ直ぐに彼を見上げている。暗い街灯の下で、その大きな黒い瞳がキラキラと輝き、岼屋の胸に小さな火を灯したようだった。
「別に、嫌じゃないけど……?」
岼屋が少し戸惑いながら聞き返すと、健一はにこっと笑い、「先輩と話してると勉強になるし、なんだか安心できるんです」と素直な気持ちを伝えた。
その無邪気な言葉に、岼屋は胸がきゅっと締め付けられるような気がした。
彼にとっては、かつての恋愛が全て辛い別れに終わり、それ以来、恋愛に対して臆病になっていた。しかし、健一の純粋な好意が伝わるたびに、そんな過去の傷も癒されていくような感覚があった。
次の週末、二人は初めてプライベートで食事をすることになった。居酒屋で楽しそうに笑う健一に、岼屋も自然と笑みがこぼれる。酔いが少し回ったのか、健一がこんなことを呟いた。
「岼屋先輩って、他の人とは違うっていうか、なんか……すごく安心できるんですよね」
それは、健一が普段見せない真剣な表情だった。その言葉に、岼屋は思わず心を揺さぶられる。彼の言葉の裏にある特別な意味を感じ取りながら、思わず手にしていたグラスを握りしめる。
「……私も、佐野といると不思議と気が楽になるわ。仕事のこともそうだし…まぁ、色々と」
健一はそんな岼屋の言葉を聞いて、少し恥ずかしそうに笑った。
その夜、帰り道で岼屋がふと振り返ると、健一が少しだけ距離を詰めて歩いていた。
思わず「なに?」と聞くと、健一は「いや、先輩が先に帰ったら寂しいなって」と、顔を赤らめながら小さな声で呟いた。
その一言で、岼屋は彼に対する気持ちが恋愛感情へと変わっていることをようやく自覚する。
健一はただの後輩でもなく、岼屋の心を揺さぶる大切な存在になっていたのだ。
健一に気づかれないよう、岼屋はそっと微笑み、夜空を見上げた。
やがて二人は、気づけばそれぞれの心に特別な場所を占める存在となっていった。
付き合うというまでには、まだ発展はしていないし、まだまだ先の話になりそうだけれども……。
岼屋は、かつての失恋の傷が、健一との出会いによって少しずつ癒され、新しい一歩を踏み出す勇気を持てるようになっていた。
岼屋はその微妙な変化を感じ取っていた。和司との婚約解消後、周囲の反応が一様に静かであるわけもなく、みんなが何かしらの意見を心の中で抱えているようだった。
「和司くん、婚約解消したんだって?」
「それでも彼は平気で仕事してるんだから、さすがだよな」
「でも、岼屋先輩のことを思うと、少し気の毒だよね……」
噂はどこからともなく広まり、岼屋の耳にも届いた。和司に運命の番が現れたことに納得し、仕方ないと思う者もいれば、岼屋があまりにも可哀想だと、怒りを抱いている者もいる。だが、その反応がいくら自分に向けられたとしても、岼屋は動じなかった。
署内での出来事が無駄に尾を引く中、和司はいつも通りに過ごしていた。あの婚約解消の後、あっけらかんとした態度を見せる和司を、岼屋は少し驚きながらも、どこか清々しさを感じていた。彼の中には、どうしようもない運命を受け入れている強さがあったからだ。そんな彼を見て、岼屋はある種の安心感を覚えた。
和司がアルファとしては珍しい「婿入り」を選んだという事実も、署内ではしばらくの間、話題に上った。
岼屋の心の中では、それほど重要なことだとは感じなかったが、周りの関心が集まる中で、どこか彼女自身が取り残されているような気持ちもあった。けれど、それでも気にしないようにしていた。
むしろ、周囲の話題に揺れることなく、自分の決断をしっかりと受け止めている和司の姿勢に、岼屋は尊敬の念を抱く。
岼屋は和司に対して、もう特別な感情を持っていないわけではなかった。
失恋した気持ちは完全に消えたわけではない。しかし、その思いが過去の出来事であり、もう岼屋の中で占める割合は小さくなっていた。
彼女はあの時の決断を、決して後悔していなかった。
何よりも、自分が前を向いて歩き出すために必要だった選択だったのだと、岼屋は今でも強く感じている。
あれから数ヶ月が経ち、噂話も次第に冷め始めた。
岼屋が新米警察官の佐野健一に初めて会ったのは、忙しい昼下がりの警察署内だった。
バタバタと慌ただしい足音と共にやって来た健一は、職場の空気にも物おじせず、真っ直ぐな目で岼屋を見つめる。
少し背が低めで、真っ黒な大きな瞳と人懐っこい笑顔が印象的な「わんこ系」そのもの。
二次性がベータの普通の青年。
「先輩!岼屋先輩ですよね!はじめまして、佐野健一です!これからよろしくお願いします!」
突拍子もなく明るい挨拶に、一瞬だけ周りが静まり返った。
岼屋はその場の空気に気まずさを覚えつつも、どこか健一の無邪気な笑顔には抗えないものを感じた。
「……ええお願いね、佐野くん」と控えめに返したが、健一はその言葉に一層嬉しそうに微笑んだ。
それからというもの、岼屋と健一は何かと一緒に行動することが増えた。
健一は見習いとしての実習期間中であり、岼屋が教育係の役割を担うことになったからだ。
最初は新人教育に消極的だった岼屋も、次第に健一の一生懸命な姿勢に心を動かされるようになっていく。
初めての取り調べ見学の日。
緊張でぎこちなくしている健一に岼屋がさりげなくアドバイスをすると、健一は目を輝かせて聞き入った。
「先輩、すごいですね!僕もいつか、先輩みたいに…」
その素直な感嘆に、岼屋は一瞬戸惑い、次にやってきたのは少し恥ずかしい気持ちだった。
先輩と慕われ、あれこれと世話を焼かれるのは久しぶりで、岼屋自身もそんな自分に驚いた。
ある日、夜遅くの勤務を終えた二人は、一緒に署を出て駅まで歩いていた。健一は一日中頑張った疲れも見せず、岼屋にあれこれと話しかけてくる。
「先輩!今度、一緒にご飯行きましょうよ!」
突然の提案に岼屋は思わず立ち止まった。健一は真っ直ぐに彼を見上げている。暗い街灯の下で、その大きな黒い瞳がキラキラと輝き、岼屋の胸に小さな火を灯したようだった。
「別に、嫌じゃないけど……?」
岼屋が少し戸惑いながら聞き返すと、健一はにこっと笑い、「先輩と話してると勉強になるし、なんだか安心できるんです」と素直な気持ちを伝えた。
その無邪気な言葉に、岼屋は胸がきゅっと締め付けられるような気がした。
彼にとっては、かつての恋愛が全て辛い別れに終わり、それ以来、恋愛に対して臆病になっていた。しかし、健一の純粋な好意が伝わるたびに、そんな過去の傷も癒されていくような感覚があった。
次の週末、二人は初めてプライベートで食事をすることになった。居酒屋で楽しそうに笑う健一に、岼屋も自然と笑みがこぼれる。酔いが少し回ったのか、健一がこんなことを呟いた。
「岼屋先輩って、他の人とは違うっていうか、なんか……すごく安心できるんですよね」
それは、健一が普段見せない真剣な表情だった。その言葉に、岼屋は思わず心を揺さぶられる。彼の言葉の裏にある特別な意味を感じ取りながら、思わず手にしていたグラスを握りしめる。
「……私も、佐野といると不思議と気が楽になるわ。仕事のこともそうだし…まぁ、色々と」
健一はそんな岼屋の言葉を聞いて、少し恥ずかしそうに笑った。
その夜、帰り道で岼屋がふと振り返ると、健一が少しだけ距離を詰めて歩いていた。
思わず「なに?」と聞くと、健一は「いや、先輩が先に帰ったら寂しいなって」と、顔を赤らめながら小さな声で呟いた。
その一言で、岼屋は彼に対する気持ちが恋愛感情へと変わっていることをようやく自覚する。
健一はただの後輩でもなく、岼屋の心を揺さぶる大切な存在になっていたのだ。
健一に気づかれないよう、岼屋はそっと微笑み、夜空を見上げた。
やがて二人は、気づけばそれぞれの心に特別な場所を占める存在となっていった。
付き合うというまでには、まだ発展はしていないし、まだまだ先の話になりそうだけれども……。
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