雨を望む人

ぬく

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李准、白澤と出会う事

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彼方から、鳥の軽やかな鳴き声が聞こえる。

風が頬を撫でてゆき、潮の香りがふわりと鼻孔をくすぐった。

眼前に広がるのは、青くどこまでも大きな海。額から伝う汗を拭い、李准は遠くに見える水平線を眺めた。

「はぁ、随分と遠いところまで来たな……」

住み慣れた陽城の地よりも随分と暖かい東海の地を、李准は一人歩いて行く。

旅を始めてから、一体どれほどの時間が過ぎたのだろう。杖代わりに使っていた木の棒は随分とぼろぼろになり、白かった服は泥にまみれてすっかり茶色に染め上げられている。少なくとも皇帝に仕える官僚が野宿と釣りに慣れる程度には、相応の日付が過ぎていた。

急に日差しが眩しくなる。顔を手で覆いながら頭上を見上げると、天には球体が十個、円形になってまばゆい光を放っていた。

「十の太陽、か」

その怪現象が起こったのはこの旅が始まる三日前。

宮廷の武器庫で武器の整理をしていると、突然外が騒がしくなり、つられて出てみて驚いた。

一つの筈の太陽が十。

それが何を意味するのかは分からなかったが、凶兆に違いないという事は直感的に理解した。

それは皇帝も同じだったようで、側近の李准はすぐさまこの事態について調べるよう命じられた。

しかし文字でも口伝でも、太陽が増えたなどという話はどこにもない。

何も分からず仕舞いのまま、次の日もその次の日も十の太陽が空へ一直線に並んでいた。

そうして三日目を迎えた朝、突然皇帝から呼び出されてこう問いかけられたのだ。

「そなた、白澤という神獣を知っているか」

勿論その存在は知っていた。

遙か昔にかの偉大なる黄帝が出会ったという万物を知る白い獣で、一万千五百二十に及ぶ妖異のことを人に伝えたとされている。

その姿は災いを避けるといわれ、宮廷内にも白澤の姿を模した絵が飾られていた。

李准がそれを伝えると、皇帝はならばと頷きとんでもないことを言い出した。

神獣白澤を探して連れてこい、と。

「万物を知る神獣であればこの怪現象の果てに何が起こるのかも、その対処方法も知っているだろう。東海の方に隠れ住んでいるという噂も聞く。行ってきてはくれぬか」

皇帝の願いとは即ち命令。頷く以外の返答を知らない李准はすぐに旅の支度をし、その日のうちに陽城を離れたのである。

「しかしいつまでこの旅は続くのだろうか……」

李准は首を下に戻し、再び自分の歩む先に目を向ける。

本当は、あまり気が進まなかった。

生まれも陽城、育ちも陽城。

この世に生を受けて十五年、李准は一歩も陽城から出たことがなかった。

それに加えて代々宮廷仕えをしている家で育ったため、農民たちのように自給自足という術を知らない。

自分で食べ物を取ってくる経験などなかったし、勿論野宿なんてしたことがなかった。

そんな自分だったから、旅の途中で命を落とす可能性も十二分以上にあったのだが、運よくここまでやってこられたし、別の理由に比べればこちらは些細な問題だった。

「やはり白澤を見つけ出さないと終わらないのだろうか……」

宮廷の壁に描かれた、牙をむきだしにして唸り声を上げているかのような白い獣の姿を思いだし、李准は青い空に似合わない重苦しいため息をついた。

神獣、霊獣、瑞獣。

そういえば聞こえが良いが、要するに魑魅魍魎、つまりは精魅の類いなのだ。

ただ人の言葉で人の益になることを伝えたことから神の獣などといわれているだけで、よく分からない、そこらにいる獣ではない、特殊な能力を持つ、という点では悪鬼とそう変わらない。

そして李准はそういう精魅が大の苦手だったのだ。

「黄帝だから知識を与えたのかもしれないし、僕が行ったら頭から食われてしまうかもしれない……」

分からないとは恐ろしいものだ。

旅の仕方や食べ物の取り方などは、ある程度想像ができたし、その場にほかの人間がいる時には聞けばよかった。

けれども精魅相手ではそうもいかない。遠い昔の伝説上で名前や性質くらいは分かっていても、実際にどんなものであるのかは分からないのだ。そういうものを相手にする場合には例外なく悪い想像が過剰に膨らむ。

胸にまとわりつくその不安と恐怖は、日に日に増すばかりだった。

「できれば伝説通り、人間に害のない獣であれば良いのだが」

ぼそりとそう呟いたとき、ばさばさとすぐ後ろで鳥の羽ばたく音が聞こえた。

飛び立つような軽快な羽ばたきではなく、もがき苦しんでいるような音がしたので、気になった李准はくるりと後ろを振り返る。

そこにいたのは海のような蒼い羽を持つ鳥だった。

大きさは犬と同じくらいで長い首と足は鷺に似ている。その美しい翼には、ざっくりと深い傷が刻まれていた。

「けがをしたのか」

李准は鳥に駆け寄りその傍らにかがみ込む。

蒼い鳥は首を持ち上げ近づいてきた李准の手をつつこうとしたが、最早体力も残っていないらしく、二、三度抵抗した後に再び首を地面に横たえてしまった。

「これは、かなりひどいぞ……」

李准はすっぱりと切れた傷口を見て眉間に深いしわを刻む。

何か鋭利なもので切り裂かれたようなその傷からは、鳥がもがいて羽ばたく度にどくどくと赤黒い血が溢れ出ていた。

おそらくこの鳥は飛んでいる途中に何かに襲われたのだ。

鷹か、鷲か、それともほかの猛禽か。

いずれにせよその相手の持つ鋭い爪がこの鳥の翼を切り裂いた。

なんとか逃げてきたのはいいが途中で飛ぶ力を失ってしまい、この場に落ちてきてしまったのだろう。

辺りを見回すが青い空には生き物の影一つ見えず、李准はひとまず安心した。

しかしそうでなくても傷を早くなんとかしなければ、どのみちこの鳥は死んでしまう。

「けがは、止血と薬……」

李准は辺りを見回すが、ここは海辺で山は遠く、薬草が生えていそうな場所はどこにもなかった。

「どうしよう……」

ひとまず止血を、と李准は薬を諦めて、持っていた小刀で自分の服の裾を切り裂き始める。その時、前の方からこちらに近づいてくる一つの足音が聞こえた。

「どうしたんだい?」

軽い、春風のような声がした。

丁度服を切り裂き終わった李准が細長い布きれを右手につまんだまま顔を上げれば、そこには一人の青年が首をかしげて立っていた。

「あ……」

不思議な青年だった。

年齢はおそらく李准と同じか少し上だが、その瞳はそれ以上の長い年月を湛えているようにも見える。

茶色の髪は結い上げられて、布で覆って止めていた。

端正な顔立ちは女とも見紛うほどに美しく、そして何より目を引くのはその透き通るような白い肌。

陽城では見かける事のない美貌の彼に、李准は一瞬で心を奪われた。

しかし青年の手に一束の植物が握られているのを見てすぐに正気を取り戻す。その植物は傷によく効くといわれている薬草だったのだ。

「あの……。その薬草を分けてはくれませんか?」

李准は申し訳なさそうに、青年の顔を伺った。目の前の鳥も、力ない首を僅かに持ち上げ、懇願するような瞳を彼に向ける。

「……ああ。その鳥、けがをしているのかい。それは早く手当てをしてやらねば」

青年は鳥の前にかがみ込み、手に持った薬草の大きく丸い葉を千切り取る。

それを李准に渡すのではなく、青年自ら傷の手当てをし始めた。

どこからか取り出した白い布で鳥の翼に付いた血を拭い、その後少し揉んだ葉を傷口の上にそっと被せる。

その鮮やかな手さばきに、李准は一瞬たりとも手を出す隙もない。

「その布切れ、もらっていいか」
「あ、はい」

驚きと関心で呆けていた李准は慌てて右手につかんだいた布きれを渡した。

青年はそれを受け取ると、被せた葉を抑えるようにぐるぐるとその翼に巻いていく。

あっという間に手当は終わり、翼の傷はきれいに布で包まれた。

青年の手が離れると、鳥は確かめるように翼を震わせる。それから満足したようにくるくると喉の奥から声を出した。

「ひとまずはこれでいいだろう」

青年は額の汗を拭いつつ、鳥の翼を撫でながらそっと唇に笑みを乗せる。

その美しい微笑みに思わず胸を高鳴らせた李准は、すぐさまそれを否定するように首を振った。

相手は男性。間違ってもときめきを覚える相手ではない。

「ありがとうございます。助かりました」

一度平静を取り戻し、先程の動揺が伝わらないよう努めながら李准は改めて青年に礼を述べる。彼は首を横に振り、その微笑みを李准に向けた。

「君の鳥なのだろう? いくらこの鳥とはいってもしばらくは飛べないだろうから、抱えて連れて行くと良い」
「私の鳥では、ないのです。私は旅をしているので。歩いていると突然空から落ちてきて、どうしようかと思っておりまして。でも困りましたね。しばらくは飛べないのですか……」

飛べないのならこのまま放置していく訳にもいかない。

しかし李准は旅をしている身。一抱えもあるこの大きな鳥を抱えて歩くのはなかなか苦行だ。第一李准はそこまで力が強いわけでもないし、鳥を持ち上げる事もできるとは限らない。

どうしようかと李准が腕を組んで考えていると、顔をぽかんとさせていた青年が目を丸くしたまま口を開いた。

「この鳥、君の鳥ではないのかい?」

問われた李准は一度考えるのをやめ、青年の方を一瞥する。

彼はは何度も瞬きしながらこちらの答えを待っていた。

そんなに驚く事なのだろうか。確かにこの鳥は美しく、皇帝や身分の高い者たちに観賞用として飼われていてもおかしくはないが。

「ええ。私の鳥ではないですよ」

李准は首を傾げつつそう答える。すると青年は、突然大声で笑い始めたのだ。

「君の鳥じゃないのにこの鳥を助けたのかい? 空から落ちてきたから? ねえ、君、この鳥が何の鳥か知っているのかい?」
「知りませんけど……」

瞳に涙をためたまま腹を抱えてひいひい笑う青年を、李准は困惑した表情で見つめた。そこまで彼が笑う理由が全く見当も付かなかった。

そんな李准の視線に気が付いたのか青年は指で涙を拭いつつ、ごめんごめんと謝った。

「いや、分かったよ。これがなんなのか知らないから、君もそういう行動を取ったんだろう。でも、面白いね、君。うん、面白い」

青年は訝しげな表情の李准を見てうむうむ頷き、それから軽々と鳥をその腕に抱きかかえた。

「私の家はすぐ近くだからね。君が旅人なら、代わりに僕が連れて帰って状態がよくなるまで世話をするよ。普通の鳥じゃないし、ここに置いていっても大丈夫だと思うけど、君はそれじゃあ満足しないだろうからね」
「それは、ありがとうございます。……普通の鳥ではない、とはどういうことです?」

感謝の言葉を述べながらも、顔には疑問符を浮かべたまま。しかし青年は意味ありげに微笑むだけで、それ以上答える事はしなかった。

「じゃあ、私はこれで。君も気をつけて。機会があったらまたどこかで会おう」

青年は立ち上がり、そのまま呼び止める間もなく来た道を引き返して行ってしまった。その後ろ姿が見えなくなるまで、李准はじっと彼を見つめていた。

「本当に、不思議な人だった……」

突風のような出来事だった。それでいて暖かな笑顔だった。

告げられた言葉に謎は残るが、それも彼の存在故のものであるように感じる。

青年の表情、声、そして仕草。そのすべてが李准の胸に深く刻み混まれていた。

旅を初めてから老若男女問わず様々な人間に出会ったがこれほどまでに心惹かれる相手は初めてである。

もう一度、会えるだろうか。

それは純粋な興味だった。

あの青年の事をもっと知りたい。あの青年ともっと話をしてみたい。

そんな思いが胸の奥から湧き上がる。

「縁があれば、また……」

李准は青年が消えていった道を一瞥し、それから踵を返して再び自らの道を歩み始めた。
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