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ひとつ
ある朝
しおりを挟む夏のある日。
いつも通り7時前に起きて2階から1階のリビングへと向かう。
鼻に届くのは焼きたてのパンの香り。それと、かちゃかちゃと食器のぶつかる音。
リビングに入り奥に目をやれば、キッチンで動く母さんの後ろ姿が見えた。
薄ピンクのエプロンを翻し、パタパタと動く母さんは小柄で、黒く長い髪の毛はまとめられており、先日誕生日プレゼントで渡した赤いバレッタで留められていた。
くるり、と振り返る母さん。
にっこりと笑いおはようと挨拶し合う僕たち。いつも通り、変わらない。
母さんが振り返りながら、そういえばと話し始めた話題は僕には初耳であり、朝の起き抜けの頭には驚くべき内容であった。
だから母さんに言われた言葉を理解するまでに、僕はある程度時間がかかった、ように思う。
「母さん、もう一回言ってくれる?」
「あなたにおばあちゃんのおうちに行って欲しいと言ったのよ」
おばあちゃん、とは母方の祖母のことだろう。なぜなら僕には生まれてこのかた、おばあちゃんと呼ばれる存在はその人1人きりだから。父方の祖母は僕が生まれる前に他界していた。
「おばあちゃんって、カタリ街にいるんだっけ?」
「そうよ、前はよく遊びに行ってたじゃない。おばあちゃん、体調が良くないみたいでね。いろいろお世話が必要なのよ」
がちゃがちゃと音が鳴り響くキッチンで、母さんが忙しなく動いている。
カタリ街はここから2つほど山を越えた向こうにある、小さな小さな街だ。小さい頃、何度か行ったことがあるがこの頃は行く機会も少なくなっていた。
「それって僕でいいの。母さんとか父さんの方がいいんじゃない?」
「私たちが難しいからお願いしてるんでしょう。このお店があるから無理なのよ」
もう少しで店の開店時間だから急いでいるのだろう。母さんはサッとエプロンを外し、リビングに入ってきた。
この家の隣にあるパン屋が父さんと母さんが切り盛りするお店だ。
もう少しで7時になる。父さんは早々に店に行ってパンを焼き始めているし、母さんも開店準備のためもう行かなければならない時間だ。
「レン、お願いできる?」
ソファに座る僕の目の前に来た母さんは、僕の顔を覗き込む。その目は、僕が行くであろうことを疑っていない。断るなんて無理だ。
「わかったよ。
ばあちゃんの家に手伝いに行けばいいんだね。いつから行けばいいの?」
にっこりと、笑う母さん。
「明日からよ。お願いね」
いつも通りの朝の風景。
そのはずなのに、僕と母さんの間になんとも言えない空気が流れた。
理解し始めた頭が、また考えることをやめてしまったのは母さんには内緒だ。
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